2024年5月6日月曜日

ゲラ校正の最終盤、重要なことに気づく



















拙著 Immunity の校正も最終段階に入って来た

やはり後半に入ると教科書的とは言えなくなる

そこが本書の特徴とも言えるだろう

その中に追加説明が必要な個所が見つかったのは幸いであった

自分の中で思い込みが強いと、すでに説明しているものと錯覚することがある

それが原稿の段階では気づけないのだが、ゲラになることによって見えるようになる

原稿の場合はまだ自分が書いたものというところがあるが、ゲラになると他人が書いたものとして見ることができるようになるだけでなく、視界が広がり見通しが良くなるからではないかと想像している

これまでに何度も経験していることを今回も経験することになった

残り僅かとなったが、最後まで注意深く読み進めたいものである








2024年5月5日日曜日

Immunity: From Science to Philosophy は更なる形而上学化の対象か


























拙著の英語版 Immunity を中頃まで読んだところだが、非常に丁寧に事実を追っているという印象が強い

自分ではその意図はなかったのだが、教科書的な本に見えてきた

少し前に「純専門書」という印象があると書いたことと繋がる感想である

どうして日本語を読んだ時にはそのように見えなかったのだろうか

分からない

自分の中で、免疫という現象を具体的な事実として押さえておきたいという気持ちが潜在的にあったのかもしれない

結果的にそうなったのだとすれば、この本に取り上げられている科学的事実の部分は、これからも新たな形而上学化(MOS)の対象になることを意味している

その視点から見れば、これからの歩みの土台になる本だとも言えるかもしれない

興味深い展開である

校正作業はもう少し残っている











2024年5月4日土曜日

ポール・オースターさん 亡くなる



















アメリカの作家ポール・オースター(1947年2月3日 - 2024年4月30日)さんがつい最近亡くなったことを知る

その昔、読んでいたことがある

検索したところ、最初のブログで3つほど引っ掛かって来た

Flaneur(2005.3.13)

Paul Auster 再び(2005.4.15)

わがタイプライターの物語(2006.3.28) 

 

もう20年ほど前の記事になる

この2年後にフランスに向かっているのだから、数字だけ見るとかなり前になる

しかし、だからといって時が経つのは早いという感覚はない

むしろ、じっくり味わいながら歩んできたという印象の方が強いからだろう


上の記事の中に、英語で感動したところを日本語で読んでもそれが伝わってこなかったという一節がある

同じことはフランス語でも経験している

この経験がもたらしたものは想像できないくらいのレベルに達しているのではないか

そんな気がしている






2024年5月3日金曜日

ゲラ校正、新しい本の制作過程か



















ゲラ校正の日々である

昨日も一か所立ち止まるところがあった

読んでいるうちに、日本語の本とは全く別物のような気がしてきた

これは翻訳本について一般的に言えることかもしれない

これまでフランス語の本を2冊訳しているが、それを見て、原本とは全く違うというのが偽らざる感想であった


今回のものを全体として眺めると、科学の純専門書という印象を受ける

本のサイズが変わるかもしれないので、もしそうなるとすれば、それだけでも大きな違いになる

視界が広がり、より高いところから眺めているような感じになりそうだ

まだ前半部分だが、今回改めてそこに詰まっている事実の多さに驚いた

すべてこれまでの科学者の努力の跡なのだが、著者がそれを拾い上げていることになる

とにかく膨大な領域なので、拾い上げる人によって内容が変わってくる筈である

専門家でない読者は、それぞれの事実に付いていくのが大変そうである

ただ、事実の繋がりには注意を払っているので、話の流れはスムーズになっていることを願っている

これは最初に感じたことだが、ページ数が少ないのは校正作業にも精神的に良い影響を与えているようだ

残りもゆっくり読むという方針で当たりたい







2024年5月2日木曜日

ゲラ校正、暫しの間思案する


























今朝も快晴で穏やかな一日の始まりである

昨日から5月に入っていた

昨年の今頃は、現在校正中の本の英語原稿を作り始めていた

それから夏の終わり頃までその作業は続いた

昨日は予定通り、本を読むようにして気になるところを探すというやり方で進めた

その途中に一か所引っ掛かるところがあり、暫しの間いろいろな資料を読み直すということがあった

最終的には解決策が見つかったのだが、全く違う体裁で目の前に現れるとそれまで気付かなかったことが見えてくることがある

このような経験は自らの認識を深めることに繋がるので、今日からの作業も無垢の目で当たりたいものである


今日の写真はトゥールのお気に入りの風景とした










2024年4月30日火曜日

ゲラ校正初日の感想















昨日のこと、5-6年前に作ったメガネのヒンジ部分のプラスチックがパリンといって折れてしまった

ほとんど力を加えていないので経年劣化なのか

早速メガネ屋さんに問い合わせたところ、同じ部品があるとのことでホッとした


さて、ゲラ校正だが、昨日は集中力が別のところに向かっていたので、プリントしたところで止めにした

ということで今日が初日なのだが、その感想を綴ってみたい

まず、日本語版は300ページ超だったが、英語版では160ページ程度と大幅に減っているのに驚いた

最初は、日本語の細かい言いまわしを簡潔にしたためなのかとも思ったが、それにしても違い過ぎる

暫くして(ということは、すぐにではなかったのだが)、プリントしたサイズが6x9インチになっていることに気づいた

最終的にそのまま反映されるのかどうかは分からないが、実際に手にしてみると、かなり大きな作りである

同時に、一面に文字が詰まっているという印象で厭になったが、逆に言うと、それだけの情報が目の前にあるのだから、より広い範囲を見渡せることになる

その意味では、全体を俯瞰した理解にも繋がるのではないかという気もしてきた

それと、他の人はどう感じるのか分からないが、英語で読んだ方が自分の考えがすんなり入ってくるような印象がある

また、ページ数が少ないということは、わたしのような読者には心理的によい効果を及ぼしそうである

いずれにしてもそれぞれ一長一短がありそうだ

今回はゆったりと本を読むような感覚で校正できればと考えている






2024年4月29日月曜日

Immunity: From Science to Philosophy のゲラ届く















今日も明るい日であった

季節と共に気分も春モードになっている

先日からある本を探しているのだが、まだ見つかっていない

カフェ/フォーラムに持って行ったものなので、戻すべきところは決まっていると思ったのだが、そうはなっていない

こういうことは稀ではなくなっているが、機会を改めて見直すと目の前にあったりする

今回はまだそういうことは起こっていない


ところで今日は気持ちが落ち着いていて、内的空間も広がっているように感じた

このような日は、これからに向けての道を思い描くのに向いていると思い、それを文章にすることにした

それが終わったところで読み直し、文字通り絵を描く予定であった

ところが、予想より早く拙著 Immunity のゲラが届き、上の計画は中断となった

今回の期限は2週間後となっている

最後なのでじっくり事に当たりたい






2024年4月28日日曜日

富岡鉄斎に乾杯!の朝



















今日の日美は、富岡鉄斎(1837-1924)であった

わたしもこうありたいと思わせてくれるような人生を送った先達の姿を見る思いであった

以前からそうは思っていたのだが、最近の感想は昔より少しは近づいているのではないかというものだ

もちろん、ほんの少しではあるのだが、、

座右銘は「万感の書を読み、万里の道を往く」だったそうだが、絵を描く(何をする)にも研究が大切だというようなことも言っていたようだ

年齢を重ねるほどに益々自由になっていったというその心に乾杯!という気分の日曜の朝である







2024年4月27日土曜日

積み重ねで閾値を超える?

































このところ、これからに向けてぼんやりと考えたり、本を読んだりしていた

その中にアリストテレス(384-322 BC)のものがあったが、その方法論に共通するところを見つけ、大いに刺激を受けた

最近の午前中の使い方は、何もせず、考えが自由に広がるようにしている

DMNが活性化するような状態ではないかと勝手に想像している

このような時に思いがけないことが浮かび上がってくるので、貴重な時間となっている

今朝は文章が繋がるように頭に浮かんできたので、観想を中断してメモすることに

こういう時のメモは手書きでやるが、今日はA4で4-5枚になった

前段の文章が浮かんできたところを譬えるとすれば、AIがスラスラと文章を打ち出すイメージと重なった

こういうことは以前にはなかったので、長年の目に見えない積み重ねが一つの閾値を超えるところに導いたのではないと、これも勝手に想像している

こういうことがいろいろな過程で表れてくるのではないかと期待されるが、どうだろうか











2024年4月23日火曜日

カント300歳、それから LinkedIn のこと


































昨日がカント(1724.4.22-1804.2.12)の300歳の誕生日だったようだ

その哲学に当たるのはこれからであるが、その人生を見てみたところ、後半生が充実している

知らなかったのだが、『純粋理性批判』を出したのが57歳で、『永遠平和のために』は71歳の時に刊行し、79歳で亡くなるまでコンスタントに仕事をしている

今で言えば、この年齢に20年は足さなければならないだろう

カントに肖ろうなどと考えると、大変なことになる



さて現実に戻って、先日から覗くようになったLinkedInでの本日の出来事について書いてみたい

拙著 Immunity の出版社Routledgeのサイトに行くと、自著のプロモーションのやり方について書いてあるところがある

その中に、LinkedInなどのSNSを効果的に使うようにとあったので、Xなどと併せてこれまで殆ど使っていなかったLinkedInも使うことにしたところだった

そこに拙著の宣伝を出したところ、早速香港の高校生からズームで話を聞きたいとのメッセージが入っていた

哲学に興味が湧き、特に科学との関係について知りたいとのことで、非常に積極的だ

その人次第だが、世界は狭くなっていることを実感させられる

一応、本を読んでからの方がその価値があるかどうか分かってよいのではないかと答えておいた

それからイランの研究者からは、最も重要な問いを3つ教えてほしいという難問が届いていた

日本人からは出てきそうにないような言葉が出てくるので刺戟的ではある

まだ数日の経験だが、ヘビーな内容が行き来するところのようである

これまで反射的に捨てていたLinkedInからのメールをすべて読むようになっている

変われば変わるものである












2024年4月22日月曜日

ゲーテのヘルダー評

































その人のことをあまり知らずにエッセイなどに名前を引用することがあった

振り返れば多くはドイツの文化人で、その後再会してより詳しく知ることになった

その中には、例えばフリードリヒ・シュライアマハー(1768-1834)やヨハン・ゴットフリート・ヘルダー(1744-1803)などがいる

ゲーテ(1749-1832)の自伝『詩と真実』を読んでいると、ヘルダーの魅力に惹かれる様子が書かれている

今やゲーテに比べると知名度は比べ物にならないが、当時はヘルダーが5歳年長で幅広い領域で活躍していた

ゲーテも指摘しているように、若い時の5歳違いは大した差であった

最初の出会いの印象を次のように語っている

彼は如才ないといった人ではなかったが、その態度にはなにかもの柔らかなところがあり、礼儀正しく上品な人であった。丸顔、秀でた額、いくらかずんぐりした鼻、少しめくれた、しかしきわめて個性的な感じのいい愛らしい口。黒い眉と漆黒の目。その一方はいつも炎症を起こして赤くなっていたが、目には光があった。彼はなにかと質問して、私のことや私の境遇を知ろうとした。そして私はますます強く彼の魅力にとらえられた。

ヘルダーはきわめて好ましい、魅力ある、才気豊かな人であったが、他面、ややもすれば不快な面をあらわにする人でもあった。このように人を惹き寄せたり撥ねつけたりすることは、誰もが生来もっているものであって、程度に差があり、それの現れる頻度に違いがあるに過ぎない。こうした性情を真に克服できる人は稀であり、多くは克服したようなふりをしているだけのことである。


そしてヘルダーが後年成し遂げたことを思い、この時彼の中にはどのような変化が起こっていたのかにゲーテは思いを馳せる

このような精神のうちに、いかなる動きがあったか、このような資性のうちに、いかなる醗酵があったのかは、到底とらえることも述べることもできるものではない。しかし、彼がのちに多年にわたってつとめ、成し遂げたことを考えてみるとき、彼のひそかな努力が非常なものであったことは、容易に察せられるのである。

 (山崎章甫訳)











2024年4月21日日曜日

T・S・エリオットの文化論から


















T・S・エリオット(1888-1965)の文化についての考察(深瀬基寛訳)を読んでいたら、いくつか目に付いたところがあったのでメモしておきたい

まず、エピグラフに「絶対権力は絶対的に腐敗する」で有名なジョン・アクトン(1834-1902)の、わたしの心とも響き合う次の言葉が出てきた

わたしは思う。われわれの研究はほとんど無目的というに近いものでなくてはならない。研究は数学とひとしく純潔の精神を以って追いかけられることを願う。ーーアクトン  

I think our studies ought to be all but purposeless. They want to be pursued with chastity like mathematics. — Acton


それからこういう一文もあった

最初の重要な主張は、いかなる文化も何等かの宗教を伴わずしては出現もしなかったし発展もしなかったということであります。

あるいは、70年以上経った今でも突き刺さる言葉も出てくる

われわれ自身の時代が衰頽の時代であるということ、また、文化の水準が五十年前よりは下がっているということを或る程度の自信を以て主張することができます。またこの衰頽の徴候が人間活動のあらゆる分野に見えていることを断言し得るのであります。文化の頽廃がさらに悪化しないという理由も考えられないし、文化を全然もたなくなるであろうと断言できる、相当長期間にわたる一つの時代を予見し得ないという理由もまたないのであります。

「カルチュア」を個人、集団・階級、もしくは社会全体の3つのレベルにおける発展として考え、次のように言っている

マシュー・アーノルド(1822-1888)は第一義的に、個人と個人の目指すべき「完成」とを問題にしています。・・・アーノルドの「カルチュア」なるものが近代の読者にとって何となく手薄い印象を伝えるゆえんは、その幾分は彼の描いてみせた風景に社会的背景の欠けていることに基づくのであります。

これは、先日のSHE札幌で取り上げたプラトン(427-347 BC)の向上道と向下道とも関連するのように感じた 

それから「文化人」についてのコメントもある

人々はいつもみずからを一芸に達するゆえを以て教養人と考えたがります。事実は彼らは他の諸々の技能に欠くるばかりでなく、彼らの欠くところの技能に目を塞いでいるのであります。いかなる種類の芸術家も、たとえきわめて偉大な芸術家にしても、ただその理由のみによって教養人であるということはできません、芸術家というものはその専業以外の芸術に対してしばしば無感覚であるばかりでなく、時にその起居動作は甚だ粗暴であり、知的能力において甚だ貧弱であります。文化に貢献する人間は、彼の貢献がいかに重要であるにもしろ、必ずしも「文化人」ではありません。

 



 


2024年4月19日金曜日

キェルケゴールの声を聴く































今日は、キェルケゴール(1813-1855)のアドバイスを聴いてみたい

ひとつの書物を書こうとする者が、自分の書こうとしている事柄に関していろいろと思い煩うということは、結構なことだと、私は思う。同じ事柄に関してこれまで書かれたものを、できるだけ知ろうと努めることも、悪くはない。その際もしも彼が、その事柄のこの乃至はあの部分を徹底的に申し分なく論じ尽くしているような人間に出会いでもすることがあったら、歓喜して然るべきであろう。・・・以上のことを、ひと知れず、そうして恋する者の熱情を傾けて、成し遂げたとすれば、もうそれ以上何も必要はない、早速自分の本を書かれたらよろしかろう、——鳥がその歌を歌うように。誰かがそれから利益をえ、それに喜びを見出すことでもあれば、ますます結構である。くよくよせずに遠慮なくそれを出版されて然るべきであろう、——ただし余輩によって一切が決着せしめられたとか、地上一切の世代はこの本によって祝福を与えられるであろうなどと勿体ぶられることは御無用である。それぞれの世代はそれぞれ自分の課題をもっているわけなのであるから、われこそは先行のものにとっても後続のものにとっても一切であらねばならぬなどと途方もない努力をされる必要はさらさらない。世代のなかのそれぞれの個人もまた、それぞれの日のように、それぞれ特別の苦労を担っている、だから各自自分自身のことを思い煩うだけでも精一ぱいなのである。なにも君主のような深憂の面持ちで全世界を抱擁される必要もなければ、本書とともに新紀元と新時代が画されねばならぬなどと意気込まれる必要もない。況んや最新流行の型にならって、空虚な勿体ぶった約束をされたり、広いさきを見透した自分のこの示唆にこそ将来性があるかのように装われたり、いかがわしい値打ちのものをこれは保証つきだと請合ったりされるようなことは、御無用であろう。広い肩幅をもっているからといって、誰でもがアトラスであるわけでもなければ、また世界を担ったせいでそういう肩を与えられたわけでもない。「主よ、主よ、」と呼ばわる誰もが、だからといって天国にはいるわけでもない。全世界のことはひき受けたと名のりでるところの誰もが、だからといって自己自身に対して責任をもちうるような信頼のおける人間だと限ったわけのものでもない。「ブラヴォ」を叫び「万歳」を口にする誰もが、だからといって自己自身と自己の歎賞の意味とを理解していると限ったわけのものでもないのである。

斎藤信治訳) 

 












2024年4月17日水曜日

「作るのではなく、生まれいづるのを待つ」再び




















月曜に拙著 Immunity の原稿校正が終わった

まだゲラ校正は残っているのだが、どこか一段落したような気持ちになった

ということで、昨日は縛りのない状態で考えを巡らせていた

これまでにいろいろなアイディアが生まれているが、重点を置いて考えていきたいことが浮かび上がってきた

その時々でピンとくるものを考えていくことになるのだろうが、当面の中心が見えてきたということになる

わたしのやり方は、こちらが積極的に働きかけて何かについて纏め上げるというのではない

あくまでも考えを重ねて行った先で、自然に生まれいづるのを待つというものである

そのため、昨日固まってきたものがいつ実を結ぶのかは分からない

あるいは、他のものの方が早く花を咲かせるかもしれない

あるいはまた、すべてが萎れてしまうかもしれない

それが面白いところだとも言えるだろう

以前に関連したテーマについて書いているので、以下に貼り付けておきたい


 作るのではなく、生まれいづるのを待つ、あるいはネガティブ・ケイパビリティ再び

 (医学のあゆみ 257: 1187-1191, 2016)








2024年4月15日月曜日

拙著 Immunity の編集作業で分業の実態を知る




長いトンネルから抜け出したところである

1週間という期限が付いていた Immunity: From Science to Philosophy の原稿校正が終わり、担当者に送ったところだ

いつものことだが、最初その中に入るのに時間がかかった

しかし、ゴールが見えてきたと思った昨日あたりから元気になり、今日はまずまずといったところだろうか

このような作業の時は一定の時間をそれにかけなければ終わらないので耐えるしかないのだが、それが難しい

どうしても終わらせようという気持が強くなるからだ

ここでのコツは、その場の景色を楽しむようにすることだろうか

すべては「いま・ここ」に行き着くのである

いずれにせよ、予定通り終わらせることができたのは幸いであった

ただ、今回もいろいろな問題を発見したので、まだ何かあるのではないかという懸念は残る

ゲラの段階で万全を期したいものである


今回の本を作る過程を見ていて、日本との違いが明らかになってきた

個人的な観察を書いてみたい

海外の出版社の場合、Book Proposal という形で原稿を広く募集している

そのため、世界中から送られてくる多数の提案書を読まなければならない

この段階でどれを出版するのかを決める編集者がいる

良さそうだと判断されると、外部の専門家の評価に回される

そこでも問題がなければ、別の編集者が本をどのような作りにするのかを検討する

出版社の様式に合わせた調整が行われ、表紙までがこの段階で決ることを今回知り、驚いた

日本の場合、最後のゲラ校正のあたりで決められていたからである

ここで様式が決まると第3段階のコピーエディティングに入るが、これは別会社が担当している

最初は原稿の校正があり、それが終わると最終的なゲラ作成に入る

この前段が今日終わったことになり、後段のゲラが届くのを待つ状態に入った

それが出来上がるのは、来月とのことであった


このように、向こうの出版社は3段階の編集作業が分業になっている

日本の場合は全過程を一人の編集者が担当するので大変そうである

その一方で、何かをこの手で作り上げるという充実感はより強くなるのではないかとも想像される

この違いはどこから来るのだろうか

単に扱う量が増えてくると分業にせざるを得ないということなのだろうか







2024年4月9日火曜日

サイファイカフェSHE札幌のまとめを終え、拙著 Immunity の校正が始まる















昨日はたっぷりと一日かけて、4月6日(土)に開催されたサイファイカフェSHE札幌のまとめを考えていた

最終的にはかなり長いものになったが、興味深い読み物になっていると思う

以下のページを覗いていただければ幸いである

 サイファイカフェ SHE 札幌: 11 見方・生き方(プラトン)


そして今朝目覚めると、8月に出る予定の拙著 Immunity: From Science to Philosophy の校正原稿が届いていた

予定通りの到着である

まだ詳しく見ていないのでどのようなことになるのかは分からない

ただ、1週間しか余裕はなさそうなので、これに集中するしかないだろう







2024年4月7日日曜日

春のカフェ/フォーラムシリーズが終わり、"J'observe donc je suis" へ

























昨日で、春のカフェ/フォーラムシリーズが終わり、一段落したところだ

かなり密度の濃い会が続いたような印象が強い

自分では気づかないが、これまでの年月が主宰者と同時に参加者にも影響を与えている可能性がある

これからも注意深く観察しながら現在地を確認し、新しい方向性も模索していきたいものである

これまでと変わらぬご理解とご支援をお願いいたしたい



ところで、今週あたりから免疫論の英語版 Immunity: From Science to Philosophy の校正が始まるのではないかと想像している

当分はそれを軸に回るものと思われる

初めての経験なので、こちらも注意深く観察していきたい

そう言えば、わたしの昔の devise は "J'observe donc je suis" (我観察す、故に我あり)であった












2024年4月6日土曜日

第11回サイファイカフェSHE札幌でプラトン哲学を振り返る





本日「プラトン哲学からものの見方、生き方を考える」をテーマに、第11回のサイファイカフェSHE札幌が開催された

参加者は4名であったが、内2名は初めての方であった

新しく参加された方が拙著を詳しく読まれていることに驚くと同時に、サイファイ研究所ISHEの活動についても理解されていることを知り、有難く思った

少しずつではあるが、同好の士が増えるのは喜ばしいことである


今日のプログラムは、ヘラクレイトス(c. 540-c.480 BC)の哲学を参照しながら対話篇『饗宴』と『パイドン』を読み、現象界の背後にある真の世界(プラトン流に言えばイデアの世界)を意識してものを観ることの意義と、そういう観方をすること自体が人間の生き方として意味を持ってくるという認識について語り合うというものであった

さらに、真なる世界に迫った後には、その世界を現象界に浸りきっている人たちに伝えることが重要になるという考え方についても議論した

最後に、我々はいかに生きるべきなのかという問題について、わたしの考えを提示した後に意見交換をした

新しい視点が加わり、豊かな時間となったのではないだろうか

それが会の終了後にも継続したことは言うまでもない

会の詳細については、近いうちにサイトに掲載する予定である

秋に予定されている次回も再び議論が広がることを願うばかりである






















2024年4月4日木曜日

ポパーによる「プラトンの呪縛」(29)政治綱領(11)
































ゴルギアス』におけるカリクレス(5th century BC)の発言を引用しておこう
法は多数の民衆が作るのだ。そして民衆をなすのは主として弱者である。民衆は法を作る・・・自分と自分たちの利益を守るために。そして民衆は、より強い者が、・・・つまり、自分たちよりも優勢な他の者たちが法を作ることを押さえ込むのだ・・・民衆は、ある者が隣人に優越しようとするならば、それを「不正」と名づける。かれらは自分たちが劣っていることを知っているから、言わせてもらうが、平等がえられるなら、それで大喜びなのだ。

ここには法の下での人間の平等、個人主義そして不正からの保護というリュコフロンの理論のすべての要素が見られる


国家』におけるグラウコンは次のように言っている

わたくしの主題は正義の起源でして、正義とは、本当はどんなものなのかということです。本性上、他人に不正を加えることが立派なのであり、自らが不正をこうむることが悪いことであると主張する人がいます。彼らは、不正をこうむったことで受けた害悪は、それを加えた者たちが得る利益よりもはるかに大きいと考えるのです。ですから当分、人間は互いに不正を加えあい、そこから当然のこととして不正をこうむることになるでしょう。彼らはそれら二つを十二分に味わうことでしょう。つまるところ、不正から身を守るほど、また他人に喜んで不正を加えられるほど十分に強くない者は、相互に契約を結び、お互いにもはや不正を加えることもこうむることもないようにすべきであり、それがためになることを見出すのです。このような次第で法が導入されたのです・・・そしてこれが、下の理論によれば、正義の本性であり起源なのです。

これは『ゴルギアス』におけるカリクレスの発言と酷似している


以下、ポパー(1902-1994)のまとめである

プラトンの正義論は、平等の理念や個人主義的で保護主義的な傾向を否認し、全体主義的な道徳論を展開することで部族の要求を回復しようとする意識的な試みであった

また、新しい人道主義的道徳にも影響を受けていたので、法の下での人間の平等理論に対しては議論することを避けた

彼は、国家の安定性を維持するためには階級的特権が必要であると主張したが、それが正義の本質なのである

つまり、正義とは、国家の力、健全性、安定性に役立つものであるという、現代の全体主義的定義(我が国、我が階級、我が党の力のためになるものが正義)と酷似した論証に依拠している

 これで「プラトンの呪縛」の上巻を読み終えたことになる










2024年4月3日水曜日

ポパーによる「プラトンの呪縛」(28)政治綱領(10)































本日、快晴

数日前、当面考えていくべきことがいくつかの塊になり、頭の中がスッキリした瞬間を経験した

そして本日、そこにはなかったことが面白そうに思えて来て、可能性があるのかどうかを検討することにした

その前に、日課となってしまったポパー(1902-1994)によるプラトン論をやっておきたい



保護主義的な国家論は、ソフィストのゴルギアス(483-376 BC)の弟子リュコフロンによって初めて唱えられた

彼は生まれついての特権を唱える理論を攻撃した

アリストテレス(384-322 BC)によれば、リュコフロンは法律を「人間が相互に正義を保証し合う」ための契約と考えた

また、法律には市民を善良にしたり邪悪にする力があるとは考えなかった

リュコフロンは、国家は市民を不正義の行為から保護するための道具であると見做した

ここには、社会契約の観点から国家の歴史的起源を語るヒストリシズムはなく、あるのは国家の目的だけである

プラトンはリュコフロン理論をよく知っており、最初は『ゴルギアス』においてカリクレス(5th century BC)が、後には『国家』においてグラウコンが同一の理論を説明している











2024年4月2日火曜日

ポパーによる「プラトンの呪縛」(27)政治綱領(9)
































さて、本日もポパー(1902-1994)によるプラトン論である

ここのところ、議論が少々しつこく感じられるようになって来た

同じことをこれでもかという調子で繰り返している


プラトン427-347 BC)によれば、善とは、道徳についての集団主義的な、部族に根を張った、全体主義的な理論である

これを国際関係で見れば、国家が強力であればその行為に不正はなく、自国民に対してあらゆる某直行為を成し得ることになるとポパーは言う

国家という大きな機械仕掛けの中において、その歯車は2つの方法で徳を示すことができる

第一は、歯車の大きさや形にあった課題に適合すること

第二は、歯車は正しい場所にいて、その場を保持すること

これらは自らの持ち場を固守するという徳である

そして、それが全体の秩序ある徳に適合するという普遍的な徳を、プラトンは正義と呼んだのである


ただプラトンは、機械仕掛けのように動く集団主義を主張するだけでは、読者の心に届かないと考えた

その理論を明確に述べるには、政治的「要求」あるいは政治的「提案」の言葉を使う必要がある

国家とは何か、その真の本性は何かというような本質主義的な問いに答えてはならない

あるいは国家はどのように成立したのか、政治的義務の根源は何かというようなヒストリシズム的問題も同様である

ここで問われるべきは、我々は国家に何を要求するのか、国家の法的義務として何を要求するのかということである

換言すれば、なぜ我々は国家なき無政府状態における生活よりも、秩序づけられた国家における生活を選ぶのか、である


この問いに対する人道主義者の答えは、国家に要求するのは自分に対するだけではなく、他の人々に対する保護であるとなるだろう

現状は、暴力ではなく、法に基づく道を通じて、妥協と決定を通じで変革されるべきであるという考えである

同時に、攻撃からの自己防衛を国家が支援してくれることを望むとしたら、必要限度を超えることなく平等に市民の自由を制限することを受け入れる用意がある

ポパーはこの国家観を保護主義を名づける

ここで言いたいことは、自由放任主義と呼ばれる厳格な非干渉政策を採用しないということだという

リベラリズムと国家による介入とは矛盾するものではなく、自由は国家による保証がなければ不可能である

これはあくまでも政治的な要請であり提案であって、国家の成立についての歴史的な主張でも国家の本来的な本性について語るものでもない


保護主義に対する批判も見られる

国家には、動物的生を全うする人たちを維持するため以上のものがあるという主張である

この批判者には二つの政治的要求がある

第一に、国家を崇拝の対象にしようとしていること

第二に、国家の役人は市民の自由を保護するよりは、市民の道徳的生活を規制するために権力を用いるべきだということ

これに対して、もしこれが実現したら個人の道徳的責任は破壊されることになる

さらに、国家の道徳は市民のものよりも水準が低くなるので、むしろ市民が国家の道徳を規制することの方が望ましいという反論が可能だという










2024年4月1日月曜日

ポパーによる「プラトンの呪縛」(26)政治綱領(8)































新しい月が始まった

昨日の就寝前、もう17年前になる2007年から始めたパリ生活のメモに手が伸びた

通称「パリメモ」で60冊を超える

これまで何度も読み直そうとした

そして、メモの内容をさらにメモするという「メタメモ」とでも言うべきものを作ろうとしたのである

しかし、途中で面倒くさくなったのか、いつも頓挫した

こういう経験があったので、昨日はただ読むだけにした

そのメモは、2008年秋のものだった

忘れていたこともあるが、それは記憶の中には残っていることをいつものように確認していた

人間の持つ驚異の記憶容量には圧倒されるばかりである

その中に、渡仏2年目にして将来に向けてのぼんやりとしたプランが書かれているのには驚いた

そしてその9年後には実現していたのであった

時の流れの中にいろいろなことを関係づけるのは面白いものである

これまで何度も挫折したこの試み、今回はひょっとすると続くのではないか

そんな感触を得た読みであった

それが真なる感触なのか、これまで通り見守るしかないのは言うまでもない



さて今日も、ポパー1902-1994)によるプラトン論である

これまで見てきたのは、人道主義に基づく倫理が平等の原理に基づく個人主義的な捉え方を要求することである

ところで、人道主義は国家をどう捉え、プラトン的国家論の持つ全体主義的理論は個人の倫理にどう適用されるのだろうか

まず、後者について検討したい

プラトンの考えには、次のような特徴があった

1)厳格なカースト制を緩めるならば、国家は没落せざるを得ないという社会学的な仮定

2)国家に害を及ぼすすべてのものは不正である

3)正義はその反対である

プラトンの関心は、それが国家にとって害になるか否かであり、害になるものは道徳的に腐敗し不正であるという考え方である

プラトンが承認するのは国家の利益であり、それを促進するものは善であり、徳であり、正義なのである

これは集団主義的、政治的な功利主義だとポパーは言う












2024年3月31日日曜日

ポパーによる「プラトンの呪縛」(25)政治綱領(7)
































昨日見たような個人主義と博愛主義が結びついた思想の中に、プラトン427-347 BC)は自分の敵を見たのである

ポパー(1902-1994)はその証拠を『法律』から2つだけ挙げる

プラトンはこう語っているという
女、子供、すべての家畜や財は共有される。至る所でそしてあらゆる仕方において、私的で個人的なもの一切を生活から殺ぎ落とすために、試みられないことは何もない。可能な限り、自然そのものから個人に財として分け与えられた才能でさえ、ある意味において万人の共有財とされる。我々の目、耳そして手が、あたかも個人の身体的部位としてではなく共同体の部位であるかのように、見、聞き、そして振る舞うだろう。全ての人間は、毀誉褒貶において一致するように、また同一事について同時に喜怒哀楽を覚えるように鍛えられる。そしてすべての法律は国家を最高度の統一にもたらすために完璧に整備される。

このような国家をプラトンは、「神的なもの」「模範」「範型」「原像」すなわち国家の形相とかイデアと呼ぶのである

もう一つの例は、軍事遠征と軍事教練を扱っているところである

彼は他の全体主義的な軍国主義者やスパルタ賛美者と同じように、軍事教練こそ最重要の要請であり、市民の全生涯を規定すべきものであるとする

そしてこう書いている

すべての内での第一原理は、男であれ女であれ、何人も、いついかなる時にも、指導者なしでいてはならないということである。心が、真面目さゆえにせよあるいはただ戯れにせよ、自分勝手に動くようになってはならない。戦時においてであれ、あるいは平和の最中においてであれ、指導者に眼差しを向け、忠実に従うべきである。そしてまたどんな些細な事柄においても、指導者の導きのもとにあるべきである。例えば、起床し、移動し、沐浴し、食事を取るのも・・・ただ命じられた時にのみすべきである。・・・統制なき状態は、すべての人間の生活からのみならず、人間に仕える動物すべてからも根本的にそして最後の痕跡に至るまで取り除かねばならない。


プラトンは、知覚対象物が生成流転する世界の多様性を憎むだけでなく、個人やその自由を憎んだ

彼は、個人主義とエゴイズムを同一視し、反個人主義と無私の精神は同一であると考えていた

このような同一視は反人道主義的なプロパガンダとして成功を収め、現代に及ぶまで倫理的考察を混乱させたとポパーは見ている

プラトンの倫理はキリスト以前に達成されたキリスト教に最も近いとものと持ち上げられ、キリスト教を全体主義的であると解釈する道を切り拓いたのである

事実、キリスト教にも異端審問という全体主義的な考えに支配された時代があったので、その再来には注意しなければならない


それでは、人々がプラトンには人道主義的な意図があったと語ったのはなぜなのか

その一つは、彼が自分の集団主義的な教えを語る時、「友人というものはその持ち物のすべてを共有する」というようなことを前置きとしたことである

このような無私で高潔な考えを前提とする議論が、最終的に反人道主義的な結論に至るとは誰が考えられるだろうか

もう一つは、プラトンの対話篇(特にソクラテスの影響下にあった時期)には実際に人道主義的な考えが多く含まれているということである

例えば『ゴルギアス』に見られる、不正をすることは、不正をこうむることよりも一層悪いというソクラテスの教えは、博愛主義的であり個人主義的でもあり、キリスト教の教えとも類似している

しかし、『国家』にはこうした個人主義との結びつきがなく、全面的に敵対する新しい正義論が展開されている

プラトンは言う
わたしは国家全体にとって至上のものを目指して立法する。・・・というのも、わたしは個人の願望をまさに価値の段階において低位のものと見るからである

集団としての全体に向けられていたプラトンにとっての正義とは、集団の健康、統一、安定性以外の何ものでもないのである

相互に争う個人の要求の調整や、個人の要求と国家の要求との調整には何の関心も持っていなかったというのが、ポパーの結論である 











2024年3月30日土曜日

ポパーによる「プラトンの呪縛」(24)政治綱領(6)
































平等と不平等に関係するのが、個人主義と集団主義の問題である

個人主義という言葉には、2つの意味合いがある

第1は集団主義に対立するものとして、第2は博愛主義に対立するものとして

第1の場合には他に同義語はないが、第2の意味では、エゴイズム、自己愛などがそれに当たるだろう


まず集団主義だが、プラトン427-347 BC)の場合、個人は国家や部族や人種などの全体に奉仕すべきだという意味であった

法律』ではこう言っている
部分は全体のために存在し、全体が部分のために存在するのではない。・・・君は全体のために作られたのであった、全体が君のために作られたのではない

自らの利害関心を公共の福祉に向けられないのなら、その者はエゴイストであるという含みがある

 しかし上で見たように、集団主義はエゴイズムと対立していないし、自己利益の追求と対立するわけではない

他方、個人主義者は他者のために犠牲を払う用意のある博愛主義者でもあり得るのだ

興味深いことにプラトンにおいては、博愛主義的な個人主義は存在し得ないのである 

プラトンにとって、集団主義に取って代わるのはエゴイズムなのである

彼は個人主義をエゴイズムと同一視し、そこに攻撃を加えたのである

プラトンはなぜ個人主義を攻撃しようとしたのだろうか


アリストテレス(384-322 BC)によれば、正義とは、プラトンが望んだような国家の健康とか調和ではなく、個人を取り扱う一定のやり方である

ペリクレス(c 495-429 BC)も「法律はすべての人に対し、その個人的な争いごとにおいては同等に正義を保証しなければならない」とし、さらに「我々は、隣人にあれこれ干渉するために呼び出されていいとは思わない。なぜなら彼は自分自身の道を行こうとしているのだから」と言っていた

ペリクレスは「我々は、冷遇された人たちを守ることを忘れてはならない・・・と教えられた」と述べ、個人主義と博愛主義の結合を強調した

そして、このような博愛主義と結びついた個人主義は、西洋文明の基礎となったのである

これはキリスト教の中心的教義でもあり、西洋文明に活気を与えてくれた倫理的教義の核心でもある

「君は、君の人格や他のすべての人の人格において、人間性をいつでも同時にたんなる手段としてではなく、目的として扱え」と言ったカント(1724-1804)の中心的教義でもある











2024年3月29日金曜日

ポパーによる「プラトンの呪縛」(23)政治綱領(5)
































一昨日のこと

寝る前にテレビをつけると、以前に見たことがあるノーラン・ライアン(1947- )のドキュメンタリーが流れていた

メジャーリーグでノーヒットノーラン7回の大投手である

その番組の最後で、ライアンが発した言葉が "I was born to be a pitcher." であった

彼の場合、野球のキャリアが終わった後は余生なのかもしれない

I was born to be ... の先に何かを加えることができる人は幸いなのか

わたしの場合かなり前から、それは人生の最後にならなければ分からないと考えるようになっている

つまり、それを知るために歩むのが人生だという認識に至っているということである




さて今日もポパー(1902-1994)によるプラトン論で、平等主義の検討から入るようである

平等主義とは、国家の市民を平等に取り扱うべしという要求だとする

出生、血縁、富が法の執行者に影響を与えてはならず、「生まれつきの(自然な)」特権は承認しないということである

平等主義は、プラトン(427-347 BC)の生まれる数年前にペリクレス(c. 495-429 BC)が演説し、トゥキュディデス(c. 460-395 BC)が以下のように伝えている
我々の法は、すべての市民に対し、その私的な揉め事においては平等な仕方で平等な権利を付与する。しかし卓越性の要求を見落としはしない。ある市民が卓越した行為をするならば、その者は優先的に公職に登用される。特権によってではなくして、彼の貢献に対する褒美としてである。彼の貧困がその障害となることはない。
このような考えは、ヘロドトス(c. 484-c. 425 BC)をはじめとする当時の知識人によって表現されていたという

プラトンの正義の原則は、当時出回っていた思想に対立するものであった

彼は生まれついての指導者には自然の特権があることを主張した

平等主義者は生まれつきという生物学的な平等性を基にした議論を展開した

しかし、人間には生まれつき不平等があるので、これが平等主義の弱点になる

この点をプラトンは突いたとポパーは考えている

「平等でないものを平等に扱うことは不平等を生み出さざるを得ない」というわけである

「ひとしいものには平等を、ひとしくないものには不平等を」というフォルミュールに至るのである


それでは、プラトンが言う生まれついての特権について、彼はどのような論証をしているのだろうか

これに対して、「自分自身の仕事を気にかける」とか「自らが属する階級とかカースト内における場所や労働を保持することが正義である」と言っている

要するに、自身に属するものを維持することが正義になるのである

それから最後の論証は、集団主義あるいはホーリズムの原理を持ち出し、個人の目的は国家の安全性を維持することにあるという原理と関係する

これについては後に議論するようだ










2024年3月27日水曜日

ポパーによる「プラトンの呪縛」(22)政治綱領(4)































本日は快晴

春が早足で近づいている

久し振りにシガーに手が伸びた

日常に戻って頭を空にして、考えが流れるままにしておいた

この時間が貴重である

このところ、午前中をこのようにのんびり過ごし、午後からアトリエに向かうことが日課になっている

そろそろ来週末にあるサイファイカフェSHEのための準備を始める時期だろうか

さて今日もポパー(1902- 1994)によるプラトン論を読むことにしたい



国家』は正義についての見解が本格的に探究されている

しかし、正義が法の下での平等である(イソノミア)という見解については言及さえしていない

プラトンはそれを見落としたのか、あるいは意図的に避けたのか

当時、平等説が広く行き渡っていたことを考えると、前者の可能性はあり得ない

すでに触れたように『ゴルギアス』では、人間の平等は擁護されていたのである

プラトンの知的誠実性が問題になるとポパーは言う


正義についての人道主義的理論は、以下の3つの提案をしている

1)平等な権利の原理(生まれつきの特権を排除する)

2)個人主義という原理

3)国家の使命や目的は、その市民の自由を保護することにあるという原理

これに対してプラトンは、正反対の原理を提示する

1)生まれついての特権の原理

2)ホーリズム、集団主義という原理

3)個人の使命や目的は、国家の安全性を維持し強化することにあるという原理

これら3点について、これから論じることになる








2024年3月26日火曜日

ポパーによる「プラトンの呪縛」(21)政治綱領(3)
































我々が普通に考える正義とは異なる考えを持っているプラトン427-347 BC)の方が正しいのではないか

そういう疑念も湧いてくる

しかしもしそうだとしたら、ポパー(1902-1994)は全身全霊で不正義に与すると宣言する

こういう見方もある

当時のギリシア人の正義とは、全体、例えば国家の健康ということに関連していたのではないか

我々の基準で、当時の伝統的な全体論的考えを批判するのは不公平ではないのか

しかしポパーは、これらの考えに同意しかねるという

なぜなら、『国家』以前の対話篇『ゴルギアス』に「正義とは平等である」という見方が人民によって採られており、それは「自然そのもの」だとも書いているからである

また、プラトンの弟子であるアリストテレス(384-322 BC)は、「すべての人間が正義とは一種の平等であると」見做してきたと語っているという

もしこのような見方が当時も一般的であったとするならば、プラトンは『国家』において新しい考え方を吹き込んだことになる

なぜそのようなことをしたのだろうか

法の下での人間の平等を目指した人たちに懐疑と混乱を広め、そのような運動を麻痺させるためか

ポパーによれば、プラトンは法の下での人間の平等を目指す運動は不倶戴天の敵であると考えていたという

これからその論証が始まるようだ









2024年3月24日日曜日

ポパーによる「プラトンの呪縛」(20)政治綱領(2)
































まず、プラトン427-347 BC)の正義についての考えを検討してみたい

我々が一般的に正義について思い浮かべるのは、次のようなことではないだろうか
1)社会生活において必要な自由の制限を平等に分かち合うこと
2)法の下での市民の平等な扱い
3)法そのものが、特定の市民や集団や階級を優遇あるいは冷遇しないこと
4)裁判が党派的ではないこと
5)市民に供される重荷のみならず利益に平等に関与すること

もしプラトンが正義をこのように考えていたのなら、全体主義的だとしたポパー1902-1994)自身は間違っていたと考える

しかし、そうではないと『国家』における「正しい」という言葉を分析して結論する

プラトンは『国家』の中で、「最善国家のためになるもの」が「正しい」のだと主張している

つまり、厳格な階級区分と階級支配を維持して、一切の変化を阻止することである

この視点からみれば、プラトンの政治綱領は全体主義と一致すると見てよいだろうとポパーは言う


国家共同体においては、各人は自分の本性に最も相応しい一つの仕事をすべきであるとする

大工は大工仕事に、靴屋は靴作りに専念すべきであり、労働者が戦士時階級に上昇しようとしたり、戦士が監視者階級に入り込もうとするのは、国家の没落を意味する

3階級間でのいかなる変更、交換も不正ということになる

プラトンの正義は、階級支配、階級的特権の原理と同じことなのである

すなわち、支配者のみが支配し、労働者は労働し、奴隷はその役を果たす時、国家には正義が訪れることになる

このように、プラトンの正義は我々が思い描くものと根本的に異なっているのである









2024年3月23日土曜日

ポパーによる「プラトンの呪縛」(19)政治綱領(1)






























プラトン427-347 BC)の社会学を知った後では、政治綱領を解明することは容易だとポパー1902-1994)は言う

静止と変化に関する彼のイデア論的理論により、以下のことを要求する

 どんな政治的変化も静止させよ

 変化、運動は悪であり、静止こそ神聖である

 国家を形相とイデアの正確なコピーとして建設するなら、変化は阻止できる

それをするためには、自然に帰れ、すなわち我々の先祖の国家、原始の国家へ帰り、家父長的部族社会に帰るのである

そこでは、賢い少数者が無知な多数者を支配する階級制が行われている

ここでポパーが根本的だと見ている要素を以下に挙げる

1)厳格な階級区分

2)国家の運命と支配階級の運命との一体視

3)支配階級は、戦争遂行のための徳性や軍事的技能の養成を独占する

4)支配階級の知的活動は検閲によって統制されねばならない

5)国家は自分自身を配慮し、経済的自給自足を目指すべきである

このような綱領は全体主義と呼んでもよいとポパーは言う

ただプラトンにはその他にも、善や美に対する燃え上がるような憧れ、知恵や真理に対する愛、哲学者が支配すべきという要求、自国の市民は有徳で幸せであることを望んだこと、国家は正義の上に築かれるべきだという要求などがある

このようなプラトンを理想化する視点を考慮に入れても、ポパーは全体主義に変わりはないと見る

これからこれらの点を具体的に検討していくようである










2024年3月22日金曜日

ポパーによる「プラトンの呪縛」(18)自然と協定(7)


















それでは、自然で完全だとされる最初の国家がどうして解体の芽を内在させることになったのか

自然で完全な国家には、そのような芽は生じない筈ではなかったのか

一切の作られたものは腐敗せざるを得ないと言うが、それが完全国家にはなぜ当て嵌まらないのかを説明してはいない

そこでプラトン(427-347 BC)が示唆したことは、最初の支配者が数学や弁証法に明るい哲学者であれば違ったということであった

しかし、実際には違ったというのだろう

さらに彼らは、監視者の種族に純潔性を維持するための優生学的な方策を知る必要があったというのである

高貴な血と労働者の卑しい血が混じるのを回避する方策である

しかし監視者はその知識を持っているわけではないので、血統保存が純粋になされることがなく、退化が始まるのである

彼らは知覚や経験に基礎を置いて考えるので、移ろいゆく信頼できるものではない

純粋に理性に基づき、数学的である学問が必要になるとプラトンは示唆する

しかし、高次の血統保存に関するカギを知らなかったため、腐敗は始まったのである

支配階級内部における分裂、人間本性(魂)の内部分裂が進行することになった

ヘラクレイトス(c. 540-c.480 BC)が言ったように、戦争、階級闘争が、あらゆる変化、人間の歴史の父であり、原動力なのである


プラトンの思想の根底には、形而上学的二元論があるという

論理においては、一般的なものと特殊的なもの

数学的思弁においては、一と多

認識論においては、純粋な思考に基礎を置く合理的な知と特定の経験に基礎を置く思い込み

存在論においては、根源的な変わらない真の実在的世界と多として変化を重ね人を欺く現象、すなわち、純粋な存在と生成、変化の対立

宇宙論においては、創造者と没落に委ねられた被造物

倫理においては、存続するものとしての善と没落して行くものとしての悪

政治においては、完全性と独立性を達し得る国家と、不完全であり依存せざるを得ない国家の統一のために抑圧されなければならない個人、人民の群との対立として表れている







2024年3月21日木曜日

ポパーによる「プラトンの呪縛」(17)自然と協定(6)































プラトン(427-347 BC)にとっての理想国家は、それ自体で十全で完全な個体である

それに対して市民は、個体ではあるが国家の不完全なコピーと見做された

国家が超有機体であるとされ、ここで生物学的、有機体的な国家論が西洋に導入されたとポパー(1902-1994)は見ている

拙著『免疫から哲学としての科学へ』でも取り上げたクロトンのアルクマイオン(5th century BC)の影響を受けたプラトンは、国家の生物学的理論の確立よりは人間個体を政治的に見ようとした

この傾向は個人は国家よりも低次であり、個人は国家の悪しきコピーであるとする考えとも一致する


プラトンは、統一された調和のとれた有機体的国家、つまりより原始的な社会形態を要求していたという

国家は小規模であるべきで、その成長は統一を妨げないという条件付きで認められる

つまり、統一された閉鎖性、国家の個体性をプラトンは強調する

しかし同時に、個人の多様性も強調する

人間の魂は、理性、力、欲望(動物的本能)の3つの部分に分けられる

これは国家における3つの階級――監視者(統治者)、戦士、労働者(ヘラクレイトスが言うところの「野獣の如くその胃袋を満たす者」)――に対応している

人間は見かけは一であるが実際は多であり、完全国家は逆に、見かけは多であるが現実には一である

このように国家や世界の統一と全体性が強調されており、ホーリズム(全体論)に通じるところがある

プラトンにとって、社会変革の中での変化に満ちた生活は現実的には見えず、失われた部族生活の統一に憧れているとポパーは見ている

安定的で永続する全体に奉仕することが個人にとっては「自然」なのである


プラトンは『法律』の中で、次のように書いている
法律には、共同体全体の福祉を実現させるという課題があり、一部には説得によって、また一部には強制によって、市民たちを一致結束させる。また法律は、市民各人を共同体の役に立つよき行為に参加させる。実際、国家に対する正しい心構えを持った人間を作り出すのは法律である。各人がほしいままに行為し生きて行けるようにするためにではなく、彼らすべてを共同体の結束のために利用する。
また、次のような政治的ホーリズムの古典的定式も見られる
君は全体のために生まれたのであって、全体が君のためにではない

プラトンは国家は人間個人、人間の魂になぞらえることができると見做した

そして、国家の病、すなわち国家の統一性の解体には、人間の魂、人間の本性の病が対応することになる 

国家の病は、特に支配階級に属する者たちの邪悪さ、道徳的腐敗から生じるのである









2024年3月20日水曜日

ポパーによる「プラトンの呪縛」(16)自然と協定(5)






























本性についてのプラトンのこのような考え方は、ヒストリシズム的方法論にさらに接近させるという

対象の真の本性(本質、自然)を探究することが学問には課せられるが、プラトンによれば、ものの本性とはその起源になる

社会科学や政治学の場合、社会や国家の起源を探究することが課題になり、歴史がヒストリシズムの方法論になる

プラトンの場合、社会の起源は協定、社会契約で、それは自然な取り決め、人間の社会的本性に基づく取り決めなのである

人間の社会的本性とは個人の不完全性から生じ、その程度は人それぞれであるとした

国家はそれ自体で自立しており、個人の不完全性をより高いものに統合し得ると考える

国家が腐敗し分裂していく萌芽は国家の内にあるのではなく、不完全性を持つ個人の内に育つという


プラトンは政治的権威が基礎を置く原理をいくつか挙げ、生物学版自然主義についてこう言っている
「強者が支配し、弱者は支配されるべきであるという原理」があり、これは「テーベの詩人ピンダロス(522/518-442/438 BC)がかつて述べたように」自然に即した原理である
さらに、それに協定主義を結合して、こう続けている
「賢者が指導し支配し、無知なる者はしたがうべきであるというより重要な原理である。・・・これは自然に合致するものである」
人間は一人ではやっていけないので、自分の利益を促進するために集まってくる

しかし人間は等しくないので、分業という経済原理が導入される

この生物学版自然主義の要素は最初は無邪気な仕方で導入されるが、最終的には支配者と被支配者の分業に辿り着くことが明らかになる


唯物論者によれば、炎とか水、大地とか空気などは元々から存在するとされる

しかしプラトンは、そうではなく、そうあるのは魂だけであるという

秩序や法は魂から来るのだから、同じように元々からあるに違いなく、より起源に近いことになる

これは精神版自然主義に当たり、保守的な実定主義とも親和性がある

一切が偉大な立法者の知恵に委ねられ、それはプラトンの自画像であるとポパー(1902-1994)は言う









2024年3月19日火曜日

ポパーによる「プラトンの呪縛」(15)自然と協定(4)






























久し振りにポパー(1902-1994)のプラトン(427-347 BC)論に戻ってみたい

3週間ぶりくらいだろうか

カフェ/フォーラムウィークのほとぼりを冷ますには丁度良さそうだ


まず、プラトンが使う「自然」(physis: ピュシス)という言葉にはいろいろな意味がある

一つは、存在するものという意味もある「本質」と一致する使い方だ

そのため今日でも、本質主義者は「本性」(Natur: 本質)という言葉を使うという

これはプラトンにとっては、「形相」とか「イデア」とほとんど同じ意味である

しかし、本質と形相・イデアとの間には次のような違いがあるとポパーは言う


知覚対象物の形相・イデアは、そのものの中にあるのではなく、先祖・始祖の中に分離されて存在している

その形相・イデアは、そのなかのあるもの(=本質)を後裔に当たる知覚対象物に引き渡すのだという

それはそのものに内在する本質になり、形相・イデアに属するものである

したがって、「自然な」ということは、元々割り当てられ、ものに具わっているものということになる

これに対して「人為的な」というのは、人間が外から強いたり、変更したり、付け加えたりしたものである

したがって、人為(技術や芸術)から生まれたものは、神的な形相・イデアの模倣にしか過ぎず、真実からは遠ざかるのである

つまり、自然と協定・人為との対立は、真と偽、真実に在るものと現象に過ぎないもの、本来的なものと二次的なもの、神の技から生まれたものと人間の技が作るものなどの対立に対応している

「自然」という言葉で言いたいのは、最初にそこに在ったもののことで、魂こそがそれであるとプラトンは考えている

身体よりも魂が形相・イデアに近いのである


プラトンが「ピュシス」という言葉を人間に使う時、人間の精神的諸能力、天分、生まれついての力量を表しており、かなりの程度魂に近い

プラトンは「種族」という言葉もよく使うようで、形相・イデアのあるものを始祖から受け継いだ同一の本性を持つ後裔のことを言うらしい

これを生物学の用語で言えば、「クローン」ということになるだろうか








2024年3月18日月曜日

シンフォニーとしてのカフェ/フォーラムウィーク、そして就寝前の読書





今朝、アトリエに向かう途中、今回のカフェ/フォーラムの全体が一つの交響曲のように見えてきた

聞こえてきたと言ってもよいだろう

経験した全体を見渡し、そこにあるアンジュレーションあるいはアーティキュレーションを観取し、味わうことができるようになって来たということだろうか

似たような感覚は文章を書く時にも感じるが、この場合には全体の流れの中にこちらの方から大小の抑揚をつけていくことになる

時には書きながら、オーケストラの指揮でもしているような気分になることもある

これまでカフェ/フォーラムウィーク全体の流れについて眺めるという視点が弱かったようなので、そのすべてに参加している者としては、これから新たな楽しみが増えたことになる



ところで、昨年12月のことだっただろうか

寝る前に本棚の前に立ち、その全体を眺めている時、一冊の本が目に入り、それをその場に立ったまま読んだことがあった

そして30分か1時間くらい、その中に入っていた

読んでいる言葉が、心の中で鮮明なイメージとして浮かび上がって来たからだろうか

そのイメージの解像度が他の状態で読んだ時と違うだけではなく、全く別の記憶領域にそれが貯えられているように感じたのである

この setup がわたしには合っていたのだろう

それ以来、これが習い性となったようで、少々疲れていてもこの体勢に入らなければ寝られなくなった

今回2週間のブランクでこの習性を忘れているかと思ったが、そんなことはなかった

これからどれだけ続くのかは分からないが、本当にちょっとした切っ掛けで良い習慣が身につくものだと驚いている

これは今年前半の嬉しい変容と言えるだろう






2024年3月17日日曜日

わたしにとっての非日常がもたらしてくれるもの

































昨日、怒涛の2週間のカフェ/フォーラムウィークを終えて帰宅した

特に今回は準備が最後まで待っていたため「怒涛の」と感じたのだろうか

あるいは、非常に密な会が重なり、最初に予想した通り、まさに異次元の世界にいたからなのだろうか

「異次元」で気づいたのだが、普通の人(この世界に入る前のわたしに当たる)が生活している次元がわたしにとっての非日常で、わたしの日常とは普通の人の非日常に当たるのかもしれない

いずれにせよ、非日常の大切さがよく分かる

今回の非日常の中で無意識下に感受していた(今は言葉になっていない)ものが、これから見えてくることがあるかもしれない

それを期待している


ところで、今回の滞在1週を過ぎた頃から花粉症が全開になった

帰宅して収まるかと思ったが、さらに進んでいるようである

こちらも時間の経過を待つしかないだろう

思い返せば23年前のこの季節、フランス語がわたしを襲った

その経緯は拙著『免疫学者のパリ心景』に詳しいので、参照していただければ幸いである

非日常と言ってもよい症状が、運命を変えるきっかけを与えてくれたのである

今回の症状は一体何をもたらしてくれるのだろうか

密かにそんな淡い期待を抱きながらの再びの日常である









2024年3月15日金曜日

恒例の会食で変容の数々を認識する























恒例になって久しい学友との会食に出かけた

まだお仕事をされている方たちなので、日程調整が必要であった

お話によると、お一方は今月で仕事を辞められるようなので、これからの調整は容易になるのではないだろうか

偶然にも、東京でのカフェ/フォーラムを締めくくるタイミングとなった


仕事をしている立場から見ると、わたしのようなプー太郎生活がどのようなものなのかに興味が湧くというのもよく理解できる

この疑問には、最近では落ち着いて答えることができるようになってきた

一つの認識に辿り着いたということだろう

何もしないで、考えをどこかに絞ることなく、ゆったり生活を続けて17年になる

その結果だと思うのだが、自分の内的精神世界が著しく拡大してきたように感じている

いろいろなアイディアをその空間に入れ、自分もその空間で遊びながら、それぞれのアイディアを深めたり、他に繋がりを求めたりできるようになってきた

思考する力がついてきたとは、こういう状態のことを言うのだろうか

分からない

あるいは、創造性にも繋がるというデフォルトモードネットワーク(DMN)が働いている状態に近いのではないだろうか

そうかもしれない


いずれにせよ、仕事から離れて、何かに追われることなく、自由な空間に身を置く生活を一定期間継続することが、このような状態になるための必要条件だと考えるようになっている

それからすべてが始まるという感覚である

これはわたしの中で真理になってきた

ただ、それを目指して歩んだわけではなく、振り返ればそうなっていたという偶然の成せる業だったのではあるのだが、

現在では、何か考えるべきテーマが現れた時、自らの内的空間を前にして、それを広げてその中に入り、抱えているテーマについていろいろな角度から眺める時間がかけがえのないもののように感じるようになっている

これは、わたしにとって驚きの変容なのである


先日のスピノザ(今回のPAWLはなかなか良い内容だったとの評をいただいた)によれば、自分の見出した真理を他の人と共有することが幸福に繋がるという

もしそうだとすると、カフェ/フォーラムの活動も、今日のような会食も、わたしを幸福にしていると言えるのかもしれない

このような認識に至ったこともまた、驚きの変容なのかもしれない