2023年12月31日日曜日
ヌミノーゼの要因1: 被造者感情
2023年12月29日金曜日
ルドルフ・オットーのヌミノーゼとは
今日は、オットーの『聖なるもの』第2章「ヌミノーゼ」を読むことにしたい
聖なるもの(das Heilige)について検討するが、それは宗教の領域固有の評価である
それは合理的なものとは無縁で、概念的把握を寄せつけないので「語り得ぬもの」である
したがってそれは、完璧に善いという倫理的な用いられる哲学や神学での用法とは異なっている
「聖なる」という言葉には倫理的な意味も含まれているが、それは最初からあったものではない
この言葉に含まれる余剰部分(それは本来あった意味を指している)を抽出することが重要になる
それに対する適当な名前が必要になるだろう
聖なるものから倫理的要因を含めたすべての合理的要因を差し引いたものに対する呼び名である
オットーはそれに対して、ヌミノーゼという言葉を造った
これは「神霊」を意味するラテン語の numen から作った「神霊的・ヌーメン的」を意味するドイツ語の numinös という形容詞に由来する
この言葉は特殊固有なもので、根源的な基礎事実がすべてそうであるように、定義することができない
できることは、ただそれについて論じるだけだという
聞き手は、その話に刺激され、目覚めさせられるだけなのである
2023年12月28日木曜日
ルドルフ・オットーによる合理と非合理
2023年12月26日火曜日
2023年を振り返って
医学のあゆみ 251: 199-202, 2014
2023年12月25日月曜日
ウィトゲンシュタインとジョイスにつながる
他の人々が私の書物によって自分で考えずに済ませることを私は望まない。私が望むのは、それが可能だとして、人が自身で思考するよう私の書物が励ますことである。
これを読んだ時、この秋の『免疫から哲学としての科学へ』の合評会でわたしが発した言葉と重なっていることに気付く
わたしのメッセージは、この本の中に回答を求めるのではなく、この本で提起されている問題についてそれぞれが思考することを願っているというものであった
つまり、すべての解を教えてもらおうとする態度は哲学とは無縁であり、自らが立ち上がり考えることが哲学だを言いたかったのである
昨日の記事と繋がったと思いながら今朝テレビをつけると、3人の子供が次のような言葉を元気よく歌っているではないか
過去もなく 未来もない すべては永遠の今を過ぎゆくだけ
最後に、これがジェームズ・ジョイス(1882-1941)の言葉であることが紹介されていた
早速調べてみると、彼の言葉が出てきた
“There is not past, no future; everything flows in an eternal present.”
これは、最近身に沁みて感じるようになっている深い実感だったので驚いたのである
うまい具合に繋がるものだという思いとともに
同様のことは、トルストイ(1828-1910)も言っているらしいし、さらに言えば古代ギリシア人の考えの中にもあった
言ってみれば、人類に刻まれた一つの見方を示しているのだろう
実に、日の下に新しきものなし、なのか
2023年12月24日日曜日
吉本隆明の中のプラトン
渡辺京二さんと親鸞さん(2023.1.14)
人は普遍を目指して昇った後は、大衆がいるところまで降りて「無知」の境地に至ることが大切だ
2023年12月23日土曜日
山本七平 Ⅹ 森本哲郎による聖書対談を読んで
2023年12月22日金曜日
べルツによる日本の科学
2023年12月21日木曜日
波多野精一による「無時間性」とは
内在的形而上學は客觀的認識をさらにそれの原理へと、客觀的實在世界をさらにそれの根源の高次的實在者へと、還元しようとする。しかるにそのことは超越なしには不可能であり、超越は高次的客體によつてなされねばならぬ故、結局は内在的形而上學も超越的形而上學によつてのみ形而上學の資格を得るのである。
超時間的實在者――神――を觀ることによつて、觀想乃至直觀によるそれとの結合共同合一などによつて、人間的主體自らが超時間的永遠的神的と成るといふ思想は、古今の宗教及び哲學を通じて甚だ廣く行はれてゐる。純粹なる嚴密の意味における神祕主義はこの傾向の徹底したるものに外ならぬが、そこまで、即ち神と人との完全なる合一といふ點まで進まず、神祕主義的傾向乃至性格を有する程度に止まる諸思想においても、永遠性の問題に注意が向けられるとともに、單に客體ばかりでなく人間的主體の永遠性が説かれるが常である。
認識は似たもの乃至同一なるものの共同乃至合一であるといふ思想が、文化主義觀念主義の世界史的代表者であるギリシア人の間において廣く行渡つてゐるは當然といふべきであらう。明白なる例外はアナクサゴラス(c. 500-c. 428 BC)ただ一人といつても言ひ過ぎではない。「地をもつて地を見水をもつて水を見る」云々とエムペドクレス(c. 490-c. 430 BC)は、甚だ素朴なる形においてではあるが、すでに明瞭にこの思想を言ひ表はした。アリストテレス(384-322 BC)に從へば、認識は主體と客體との合一によつて行はれる。現實的となつた認識は對象と同一である。認識せられるもの從つて――一切は認識せられるものである故――一切のものに成るといふのが理性の本質である。
2023年12月19日火曜日
幸福な生活とは
2023年12月18日月曜日
カッシーラ―によるホッブスの認識論
昨夜の成果
カッシーラ―の『国家の神話』の中に、ホッブズ(1588-1679)の認識論について触れたところがあった
ホッブズについて取り上げるのは、ほとんど初めてではないだろうか
以下に引用したい
その著『物体論(De corpore)』の第一章において、ホッブズは彼の一般的な認識論を述べている。認識とは第一原理、またはホッブズの表現によれば、《第一原因》の探究である。事物を理解せんがためには、その本性と本質を定義することから始めなければならない。ひとたび、この定義が見出されるなら、その様々な性質は厳密に演繹的な仕方で引き出すことができる。しかし、定義がその対象の個々の性質を示すだけで甘んじているかぎりは、十分なものではない。真の定義は《発生的》または《因果的》な定義でなければならない。それは事物が何であるかの問いに答えるだけでなく、なぜそうであるかの問いにも答えなければならない。かくすることによってのみ、真の洞察に到達しうる。
現在までに辿り着いたわたしの「認識論」あるいは「方法序説」は、2冊の近著に示した通りである
それは、「科学の形而上学化」(metaphysicalization of science: MOS)あるいは「科学の神学・形而上学化」(theologico-metaphysicalization of science: TMOS)という言葉で形容したものに集約されている
出発点はあくまでも自然の細部について科学が明らかにした内容にあるが、そこで終わっては真の認識には至らないという立場である
それらの個別の内容をできるだけ広く集めて、そこにある共通の要素を抽出する作業に入るだけではなく、さらに哲学的、時には神学的な要素も取り入れた省察を進めなければならない
そうすることにより、一つの現象の本質に迫ること、根源的な理解に至ることが可能になると考えたからである
つまり、根源的な理解に至らなければ、何かを認識したことにはならないという立場になる
ホッブスの立場も、認識とは「第一原因」の探究であるとしていることを考えると、わたしの認識論とそれほどかけ離れていないと理解した
こうしてみると、これまでに辿り着いた方法論については、それ自体として批判される側面はあるのだろうが、それなりの歴史的な支えはあると考えてもよさそうである
問題は、この認識論でこれからどのような展開ができるのかという点になるのだろう
新しい年に向けての大きな課題として考えていきたい
2023年12月17日日曜日
『免疫から哲学としての科学へ』、Routledge からの刊行決まる
今年の3月に刊行した『免疫から哲学としての科学へ』がラウトレッジ(Routledge)から刊行されることになった
日本語版の刊行当初から、英語圏の人がどのような反応を示すのかに興味が湧き、英語での出版を模索していた
そしてつい最近、それが具体化することが決まった
タイトルは Immunity: From Science to Philosophy
ここに至るまでは、まさにThe Long and Winding Roadだった
年が明ける前に落ち着き先がはっきりしたのは幸いであった
これから編集作業が始まることになるが、どれだけかかるのかは分からない
大袈裟に言えば、日本からの文化発信にもなるので、そのつもりで事に当たりたい
ということで、この年末年始は1年前と同じことになりそうである
刊行された暁にはこの場でお知らせする予定である
こちらの方もよろしくお願いしたい
2023年12月15日金曜日
エルンスト・カッシーラーの声を聴く
プラトンは、神秘的な脱我(エクスタンス)によって人間の魂が神との直接的な融合に達しうるということは認めない。最高の目的たる善のイデアの認識にいたることは、こうした方法では不可能である。それには周到な準備と徐々の規則正しい向上とが必要であり、一躍してその目的に到達すわけにはいかない。善のイデアを完璧な美しさにおいてみることは、人間精神が突如、恍惚状態になることによってできるものではない。
こうした諸々の《原因(aitiai)》や《第一原理》を求める強い衝動が、プラトンの根本的な革新であった。人間的にみても、実際的にみても、彼は急進的な人物だと言うことはできない。われわれは彼を保守的と呼びうるし、反動的だとして非難することさえできるかもしれない。しかし、それは決定的な問題ではない。彼の問題は精神的な革命であって、政治的革命ではなかった。
(プラトンは)《幸福》があらゆる人間の魂の最高の目的である、とするソクラテスの命題を受け容れた。他面において、かれはソクラテスとともに、《幸福の追求》が快楽の追求と同じでないことを主張した。・・・
神話的思惟においては、人間は善いダイモンか悪いダイモンに所有されているのであるが、プラトンの理論においては、人間が自分のダイモンを選ぶのである。この選択が彼の生活と彼の未来の運命を決定する。人間は超人的な、神的な、あるいは魔力的な力によって堅く握りしめられていることをやめる。彼は自らが全責任を負わなければならない自由な行動者なのである。「選ぶ者にこそ責任があり、神には責任がない」。プラトンにとって、幸福、エウダイモニアとは、内的自由、すなわち偶然的で外的な環境には依然しない自由を意味している。
エルンスト・カッシーラー『国家の神話』
もしそれが過去についての正確な知識を求め、未来を解釈する一助にしようとする研究者によって有益なものと評価されるのであれば、私は満足しようと思う。私の歴史は、束の間の賞賛を博するためのものではなく、未来の財宝として書かれたのである。
2023年12月14日木曜日
オクタビオ・パスによるポエジー
われわれが詩にポエジーの存在を問う時、しばしば、ポエジーと詩が勝手に混同されているのではなかろうか? すでにアリストテレスは、「韻律を除けば、ホメーロスとエムベドクレースのあいだに共通のものは何もない。それゆえ、前者を詩人と呼び、後者を生理学者と呼ぶのはしごく当然のことである」と言った。事実その通りなのであって、すべての詩が(正確にいえば、韻律法に基づいて作られたあらゆる作品が)ポエジーを持っているわけではない。
われわれが、その詩のことばを忘れてしまい、またその香気や意味などが消え失せてしまっていても、その瞬間の感動、まるで溢れ出る時間であり、時の連続という防波堤を破壊する高潮であったあの感動は、依然としてわれわれの内に生きいきとしているのである。なぜなら、詩は純粋な時間に近づく道であり、存在の始原の海への没入だからである。ポエジーとは時間であり、絶えず創造的であるリズムに他ならない。
偉大な画家であるとはすなわち、偉大な詩人——自分の用いる言語の限界を越える者——であることを意味する。
つまり、美はことばなくしては捕らえられないのである。事物とことばは同じ傷口から血を流す。あらゆる社会は、こうしたその基盤の危機を――とりわけ、ある種のことばの意味の危機を――経てきたのである。これは忘れがちなことであるが、帝国も国家も、他のあらゆる人間の所産と同様、ことばから成っている――それは言語的事象なのである。
一体、ことばが悪くなるのか、事象が堕落するのかわれわれには分からないが、ことばが乱れ、その意味が不正確になる時、われわれの行為や仕事の意味も同様に不確かなものとなる。
2023年12月13日水曜日
科学・哲学・人生について語り合う
2023年12月12日火曜日
キケロの声を聴く
キケロは対話篇『ホルテンシウス』の末尾で(観照的知を)讃えてつぎのように語る。
われわれが夜も昼も思考し、精神の鋭いまなざしである知性を研ぎ澄まし、いつか鈍くなることのないように用心し、つまりは哲学のうちに生きるならば、大きな希望がある。・・・われわれが永遠にして神的な魂をもつなら、魂がつねに自己固有の道に、つまり理性と探求への欲求のうちにあればあるほど、そして人間の悪徳や誤謬に引っ掛けられ巻き込まれることが少なければ少ないだけ魂にとって天への上昇と帰還はいっそう容易になるということを思いみるべきである。
アウグスティヌス『三位一体について』
人はたとえ真理の発見にまで到達することができなくとも、真理を探究する者は幸福であるという考えは私たちのキケロのものです。
彼が力を込めてつぎのように主張していたことを誰が知らないだろうか。すなわち人間によって認識されうるものはなにもなく、知者に残されていることはこの上ない細心の注意をもって為す真理の探究以外にはない。
アウグスティヌス『アカデメイア派駁論』
知性をはたらかすことと観照することから生じる楽しさこそ唯一の、すべてにまさる、生きることから生じる楽しさであり、楽しく生きることと真の喜びを感じることは、したがって哲学する人たちにのみ、あるいはすべての人たちにまさって彼らに属する。
キケロ『哲学のすすめ』
2023年12月11日月曜日
サイファイ研ISHEの英語サイトの骨格できる
これからゆっくりと内容を充実していきたい
お知り合いにも拡散していただければ幸いである
よろしくお願いいたします
2023年12月9日土曜日
サイファイ研究所ISHEのこれからを考える
2023年12月8日金曜日
エヴリン・フォックス・ケラーさん亡くなる
Evelyn Fox Keller (1936-2023) @ Van Leer Jerusalem Institute (June 9, 2009)
昨日、Nature誌でエヴリン・フォックス・ケラーさんが9月22日に亡くなっていたことを知る
享年87
Evelyn Fox Keller (1936–2023), philosopher who questioned gender roles in science
Mathematical biologist, philosopher and historian of science who challenged the vision of science as a masculine activity.
フォックス・ケラーさんとは2009年にイスラエルで開催されたラマルクに関するシンポジウムでお会いしたことがある
イスラエルでラマルクと進化を考える 医学のあゆみ 247 (11): 1193-1197, 2013
もう14年も前のことになることに、いつものように驚く
実は1983年に出たバーバラ・マクリントック(1902-1992)博士の伝記を興味深く読んだことがあったので、わたしにとってはその著者であった
Nature誌のObituaryによると、遺伝子の全体論的見方を提示した他、科学が男性的な活動であるとする定義(女性的とされる感情や主観性の排除)を批判し、よりダイナミックな客観性が求められると主張した
さらに、科学における概念や実践は、社会・文化的なコンテクストにおいて研究されなければならず、科学の発展のためには自然を理解するための概念を常に改定していくことが必要になるとした
そこにはわたしにとっても重要なメッセージが残されている
非常に人当たりが柔らかいという印象であったが、議論になると動じない厳しさが感じられた
このような訃報に接するたびに、人間は亡くなるのだという厳粛な事実に突き当たる
ご冥福をお祈りしたい
2023年12月7日木曜日
8年前の今日終えたスートゥナンスの意味
これまでこの日に浮かんだことがなかったことを思い出した
2015年の今日、パリの大学でスートゥナンス(博士論文の口頭審査会)が行われた
前月に起こったテロ事件のため大学は封鎖され、人がほとんどいない状態だった
もう8年も前になるのかと驚いている
今では懐かしい思い出である
そして、翌年には学位記が届いた
それから次第に気持ちの変化が起こってきて驚いたのである
それはこういうことだった
それまでは確信の持てない学生として研鑽の中にあったが、一つのコースを終えたということで、その領域の「専門家」として歩まなければならないという自覚のようなものが生まれてきたのである
ここで言う専門家は、その領域の中に一定の期間留まり、そこから何かを得ようと努力してきた人という意味である
つまり、そういう人はそんなにいないのだから、その領域について責任のようなものを自覚している人として歩まなければならないと考えるようになったのである
もちろん、その人間ができる範囲内でのことであるのは、どの領域でも変わらないのだが、、
当時わたしは、いつまでも学生を続けるつもりでいた
その状態が快適だったからである
しかし大学の方針が変わり、6年以上ドクターにはいられなくなった
わたしはそのまま学生生活を終えてもよいと考えていた
なぜなら、それまでに当初想像していた以上の収穫があったと思っていたからである
しかし指導教授(写真中央)は、スートゥナンスまでやり通すことが重要だと言って、論文をまとめることを強く勧めてくれた
その助言の意味が、今ようやく身に沁みて分かるようになっている
8年後に改めて感謝である
2023年12月6日水曜日
2005年からのブログ活動を振り返る
2023年12月5日火曜日
カフェ/フォーラムのテーマの上に浮いている
しかしよくよく考えると、それはなかなか大変なことであることに気付き、どうしようかと考えていた
今日、あるものは捨てなければならないことに思いが到り、その決断ができた
そのため、久し振りにスッキリした
軌を一にしたかのように、10月のコンサートの後に高校時代の同期生が集まり撮影した写真が届いた
モデルはもちろんだが、全体の色合いが何とも言えずよい
気分を解放する効果があり、今日にピッタリ合うのだ
またの機会が巡ってくることを願っている
ところで、来春のカフェ/フォーラムのテーマが徐々に見えてきた
最終決定には早いが、今はそれぞれの会のテーマの上に浮いているような、それらに囲まれているような、何ともいい気分である
各テーマは異なっているのだが、その間に繋がりのようなものが見えるようになっているからだろうか
それが雲のようにわたしを支えているというイメージだろうか
テーマが決まると、会が始まる直前までなかなか大変なのだが、、
来月下旬には最初の案内を出す予定なので、それまでさらに考えることにしたい