「死の道」とは、生きながら感性的生を殺して、超感性的な生の原理を呼び覚ますことであった
しかし、「エロスの道」も「弁証法の道」も同様の要素を含んでいる
それではなぜ、「死の道」を独立の神秘道として認めるのであろうか
そこに極めて特色ある性格があるからである
「エロスの道」も「弁証法の道」も、究極の目的地(絶対超越的実在)は外であり上に向かってのものである
その道は、イデア界の秘奥にあるであろう遠き神を求めて、頭上の穹窿の彼方に上昇するというイメージであった
しかし、「死の道」はその反対だという
ここにおいて人は自己の外に向かうのではなく、自己の内に入るのである
心の眼を内部に向け、深く自己の底なき底に沈潜していく下降なのである
この霊魂の自己沈潜が霊魂の浄化であり、「死の実践」だったのである
「エロスの道」「弁証法の道」において、神は蒼穹の彼方、無限の距離を隔ててあるが、「死の道」においては自己に内在する無限に近い神となる
それではなぜ、自己の底に沈潜することにより神に逢着するのだろうか
それは霊魂がはじめから自己の内に神を宿しているからでなければならないという
それに気づかないのは、肉体的生にあるために心の眼が濁っているからである
プラトンはこの状況を「イデアの記憶」のミュトスとして表現した
イデアの世界は仄かな記憶となって霊魂の底に忘れられ潜んでいる
つまり、失われた記憶を甦生し(アナムネーシス)、これに溌溂とした活動を再び与えることこそが、「死の道」としての哲学ということになる
霊魂に超越的世界の記憶がなければ、感性界を唯一無二の世界と信じて疑わず、無常の風に吹かれるまま運命に流されるだけである
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今日のお話に関連して、興味深いことに気づいた
9月17日のポストで、次のような観察をしている
これまでは、天空にいて現象界を下に見ているように感じていた
しかし最近、普段は海底で暮らし、現象界に触れる時には底から浮き上がってくるような感じに変わっている
これをプラトンの「エロスの道と弁証法の道 VS. 死の道」という図式の中に入れると、どうなるだろうか
これまでは「エロスの道」「弁証法の道」にあり、蒼穹の彼方を目指して上昇を続けていた
先日紹介したわたしが想像した「絶対的真理への道」も上昇や飛躍が中心にあった
それが最近では海底に下降しているように感じている
なかなか上昇しているという感覚が生まれず、海底ゆえに暗い気分でいた
今日の一節を読みながら、現在わたしは「死の道」にいると考えてもよいのではないかと思った
もしそうだとすれば、プラトンの言う神秘道の表の側面(エロス・弁証法の道)から裏の「死の道」にフェーズが変わってきたと言えるかもしれない
これはわたしにとって大きな発見である
これが一体何を意味しているのか、これからも注視する必要がありそうだ