2026年6月21日日曜日

マルセル・コンシュ『形而上学』の二校を終える



























フランス語の翻訳を始めたのは今から10年ほど前になる

著者から依頼された免疫学に関する本であった

この本は2年後の2018年にみすず書房から刊行された

その流れで、翌年には微生物学の翻訳も出した

この過程で翻訳についていろいろ考えた

その記録は翻訳ブログとして残っている


その昔、「外国語の本は翻訳した後でなければ理解できない」というような話をどこかで読んだ記憶がある

当時はピンと来なかったが、この間それがよくわかるようになった

そして、翻訳という作業が途轍もない労力を要することも身に染みた

ということもあり、翻訳はもうやらないとどこかで思っていた節がある

それではなぜ、日本では無名の、しかも分野違いと言ってもよい本の翻訳を始めたのか

いろいろな理由が考えられる

一つには、2006年にフランス語で初めて語りかけてきた哲学者の著作だったこと

二つには、科学とは対極にあると思い、哲学に入る前から気になっていた形而上学について理解を深めたいという願望もあった

三つには、最初に出会ったときから、世の中の喧騒には目もくれず、静かに、深く、厳密に考えている姿に感じるものがあったことが挙げられる

そこに、今日の世界に必要なものがあると直観したのだろう


今回の過程を振り返れば、2024年11月から翻訳に着手したが、このような哲学者を受け入れる素地が日本にあるのか、はなはだ疑問であった

昨年1年は出版社を探すことに費やされた

予想通り、前向きに考えてくれるところは皆無であった

しかし、今年に入り、考えましょうと言ってくれる出版社が現れた

知泉書館さんである

1月に面談してから動き始め、二校に至っているというのが現在地である


今回の本は日本で初めて紹介されるコンシュの著作になる

そのため、以下のような工夫をした

読み進む上で参考になると考え、原典にはない道標を加えることにした

具体的には、本文には小見出しを付け、対談が収められた補遺には議論されるテーマを冒頭に掲げた

原典では茫漠とした平原を行くような印象があったのだが、ある範囲に意識を集中しながら読み進むことができるようになったのではないだろうか

改めて読み返してみると、原典とは全く違う本になったように見える

読むたびに印象が変わるので、これからもじっくり読み返したい本になりそうである


先ほど、二校の最後の読みを終え、編集者に送ったところである

今回は初校では感じなかった「終わった」という感覚を持つことができた

読みながら、長い翻訳の過程で迷い、悩み、考えてきたことが、どこからともなく浮かんできて驚いた

それは、2年弱のこの旅を懐かしく味わい直すような無意識の感覚と言ってもよいものであった














2026年6月16日火曜日

7年振りの会食























(左から)葛西先生、奥村先生、(一人置いて)垣生先生





今日は、久し振りに順天堂の奥村先生、垣生先生、葛西先生との会食が実現した

葛西氏とは昨年もお会いしているので1年振りだが、このお三方が揃うのはコロナ前の2019年以来になるので、7年振りということになる


プー太郎状態のわたしとは違い、皆様お仕事をされているので、貴重なお時間を割いていただいたことになる

改めて感謝したい

皆様お元気そうで何よりであった


上の写真には写っていないが、形而上学に興味をお持ちの方がおられ、わたしの話も浮くことがなかったのは幸いであった

というようなこともあり、今日はよく飲みというか、飲まされというか、必要以上に話していたのではないかと危惧している

そんな中聞こえてきたのは、日米で研究生活を共にした人たちがどんどん姿を消しているという厳粛な事実であった

今翻訳中のマルセル・コンシュ(1922-2022)の哲学に親しんでいれば、それはこの世界を認識し、生きる際の基本になることではあるのだが、、

すべては(人類もこの地球も)滅びる運命にあることを認識した上で、それでもなお最善を尽くすべく努める知恵をコンシュは「悲劇的な知恵」と呼んでいる

これはわれわれを励ましてくれる知恵と言ってよいのではないだろうか

それから、人生のこの時期になると、これまで読む気にもならなかった哲学的な話にも食指が伸びるというような声も聞こえてきた

わたしの試みについてもご理解をいただいているように感じた

たっぷり3時間、味わい深い会食だったのではないだろうか

前回は台風が近づいていたようだが、今回は地震というおまけが付いていた

またの機会が巡ってくることを願いたいものである









2026年6月14日日曜日

一日の過ごし方



























普段はアパルトマンに留まることなく街中を歩き回り、その時に最良だと感じる場所に落ち着いて何かをするというのが日課になっている

これはパリにいる時に体得したやり方で、当時は「パリの街を書斎にしている」と言っていた

振り返れば、20年近くも続いたことになる

5~10キロの荷物を背負い歩くのだから、いずれ腰にでも来るのではないかと思っているが、いまだ止めようと思ったことはない

ところが、この週末は外に出ることもなく、自由な姿勢で、やりたい時にやりたいことをやるということになっている

計画したわけではなく、そうなっただけなのだが、、

普段これができないのは、アパルトマンにいるとその気にならないからである

これからは、その気になることがあれば、このやり方も面白いかもしれない

ここでのポイントは、「その気」をじっくり観察して見極めることである

長い瞑想的生活がその目を養ってくれているように感じる

この週末のプチ発見であった










2026年6月12日金曜日

この世の縛りの中に生かされている人間



























今日は俳人の友人とのデジュネがあった

明るい午前中だったが、午後から急に激しい雨になり、雷も聞こえてきた

オープンカフェの奥の方だったので、影響はなかった

店員さんも客のいろいろな注文にこたえてくれ、気持ちよく過ごすことができた


スペイン料理を食しながらの話は、いつものように今の時期に考えておくべきことが多かっただろうか

それにしても、この世界に生きるということが、如何に大変なのかということを思い知らされる

それはあらゆることに縛られているということに由来するのだろう

街に出てカフェなどに落ち着くと聞こえてくる話は、ほとんどそのことに尽きている

能天気に、雲上の生活などと決め込んで久しいが、両者のストレスの量には想像を超えるものがありそうだ

ただ、今日もコンシュの形而上学の世界で苦闘していることを考えれば、異なる質のストレスの中に生きているということになるのだろうか

人間である以上、逃れることができないその縛りから解放されるのは、あの世に旅立つ時なのかもしれない

旅立つと言えば、旅行の話も出ていたが、面白そうな場所がいくつか浮かんでいた


店を出る頃には雨も上がり、夏の日差しが戻っていた




samedi 13 juin 2026

俳句を送っていただいたので、以下に貼り付けておきたい

ゆっくりとパエリヤスコール過ぎるまで









2026年6月6日土曜日

もう少しで20年目に入る観想生活



























前記事に列記されている昔のブログを読み返してみた

少し前まではまだ臨場感があったのだが、今回はそれが少しだけ遠のきつつあるように感じた

そこに書かれてある考えは、当時は確かに強いインパクトを与えていたことは分る

それはあたかも、真っ白なキャンバスに鮮烈な色遣いのフォルムが現れるような感じであった

しかし、それが現在の生活や考えに影響を与えるかと問われれば、NON ! となるだろう

なぜなら、それらはすでに自分の中に沈殿し、あるいはいろいろなところに刻み込まれているからではないだろうか

その意味では、自分の考えになっているものを確認しているに過ぎないことになる


60冊超のパリメモを読み返すというプロジェ(Mind Files for Philosophical Musings)を始めたことがある

しかし、それは知らない間に続かなくなり、やり直しても同じであった

不思議に思っていたが、その理由もこのあたりにあるのかもしれない

今は別の具体的なテーマに精神が集中するようになっているので、致し方ないのだろう

フランスでの観想生活を始めてから、もう少しで20年目に入ることになる

一つの大きな転換点を意味しているような気もしてきた










2026年6月3日水曜日

エドガール・モランさん、104歳で亡くなる


































エドガール・モランさんが、5月29日に104歳で亡くなっていたことを知る

2007年にフランスに渡る数年前からわたしの前に現われたので、20年以上の付き合いになる

これまでのブログから、モランさんの名前が出てくる記事を列記してみたい

2008-06-24 Patrick de Wilde 写真展

2008-09-23 エドガール・モランさんと再会する " Mon chemin " d'Edgar Morin

2008-10-01 ミシェル・オンフレ 「旅の理論」 "Théorie du voyage" de Michel Onfray

2009-03-15 自身の真実

2010-04-26 ボリス・シリュルニク / エドガール・モラン対談を読む Boris Cyrulnik vs Edgar Morin 

2011-10-23 ステファン・エッセルさんもエドガール・モランさんも最後は 「詩的に生きること」 Vivre, c'est vivre poétiquement 

2012-12-26 久し振りのエドガール・モランさん

2013-01-23 ハインツ・ヴィスマンさんによる文明と文化

2013-02-27 ステファン・エッセルさん亡くなる

2021-03-02 わたしの受容体に反応した人たち



4つのブログに30の記事が見つかり、驚いた

最近はご無沙汰していたので、これほど多く書いていたとは気づかなかった

フランス文化に触れるようになった当初からのお付き合いになるので、大きな影響を受けていたはずである

今では意識されなくなっているが、彼の言葉がわたしの中に刻印され、生きる力を与えてくれていたものと思われる

その意味で、文化は計り知れない力を持っていると言えるだろう










2026年5月29日金曜日

「一」を確認した後、『形而上学』の再校が届く



























本日は、雲を眺めることから一日を始めた

久しぶりのことだ

暫くすると、「一」と「多」という古代からの問題が空に現われているのを見て、早速カメラを取りに

幸い間に合った

少し後には、跡形もなく消えていた


午後からコンシュの『形而上学』を1か月振りに見直しておこうかと思っていたところ、知泉書館から再校が届いた

何と言うタイミングだろうか

こういうことが偶に起こる

ということで、暫くはその見直しに当たることになりそうである










2026年5月27日水曜日

「ゴルディアスの結び目」とは

























Jean-Simon Berthélemy (1743–1811)  Alexandre coupe le noeud gordien



Gordian Knot という言葉に出会った

ゴルディアスの結び目」と訳される

"cut the Gordian Knot" として使われることが多いという

これは、誰も解くことができなかった難題を、誰も思いつかなかった大胆な方法で一瞬にして解決することを意味する

この言葉は以下のような伝説がもとになっているようである


紀元前4世紀、アジア(現在のトルコ・アナトリア地方)にあったフリギア王国の首都ゴルディオンの神殿に、一台の牛車が奉納されていた

この牛車の車軸と横木はミズキの若枝の皮で作られた非常に頑丈な紐で、複雑に結びつけられていた

結び目は内側に隠されており、どこが紐の端なのかすら分からない

そして、「この結び目を解いた者こそが、全アジアの王になるであろう」との神託が伝わっていた

多くの英雄や賢者たちがこの結び目を解くことに挑戦したが、成功することはなかった

そこに現れたのが、アレクサンドロス大王(356–323 BCE)

彼も牛車の前に立ったが、紐を解くことができず、こう言ったという

「解き方など、どうでもよい。要するに、結び目が解ければよいのだろう」

そう言って腰の剣を抜き、複雑な結び目を一刀両断にした

そして神託通り、アレクサンドロスはアジアの覇者となった


このエピソードはいろいろな意味に解釈できそうである

結果として紐は切れたが、元々の問いに答えたと言えるかどうか

卵を立たせるために、下の部分を潰して立てたという話を思い出させる

現代であれば、深い理解よりも手っ取り早い解決という意味で使われていることもありそうだ

この話をテーマにした絵画もいろいろある

今日のものは、ジャン=シモン・ベルテレミーの作になる












2026年5月26日火曜日

快活な老年





今日のYoutubeには、この映像が紛れ込んでいた

1929(昭和4)年に撮影されたもので、快活なご老人の姿が映っている

まず、当時から矍鑠とした百寿者がいたということに驚いた

中に103歳の男性が出てきて、最後に立ち上がる時、まだシガーをやっているのかと思い嬉しくなったが、見直したところ杖の先であった

いずれにしても19世紀に生きていた人たちの生の姿に触れ、時を越えて生きる力がこちらにも伝わってきたように感じた

嬉しい遭遇であった








2026年5月25日月曜日

老年の美学を考える



























今日は何を思ったか、久しぶりのジャンルのお店に向かった

しかし、本日閉店であった

なぜ確かめてから出なかったのかとも思ったが、後の祭り

周辺の書店数軒を覗くことにした

その中の1軒で、筒井康隆(1934–)の『老人の美学』に手が伸びた

冒頭に人生の時間割について書かれた部分があったからだ

自分の考えは、『生き方としての哲学:より深い幸福へ』の中で触れているが(「人生」考でも再度取り上げている)、それとは違う見方であった

こればかりは人それぞれになるのだろう

全体的に現世の要素が色濃く出ていて、一般読者には受け入れやすい内容になっているのではないかと思った

雑談のようなものなので帰りの電車で読了したが、特に新しいことは出て来なかった

これを読みながら、ひょっとすると、自分は老年の過ごし方のエキスパートになりつつあるのではないかという感想が浮かんできた


振り返れば、還暦に際して、独立して仕事をしていた期間(ほぼ20年)と同じくらいの時間がこれから与えられるとすれば、それなりのことができるのではないかと考えていた記憶がある

その期間の終わりは近づいている

その時、どのような感想を持つのであろうか


老いは突然現れるので何とも言えないが、世に言われている人生百年時代ということになると想像を超える長さである

それをどう生きるのかということは、仕事をどうするのかを考えてきた以上に創造性が求められる重要な問題になりそうである