この連休を使って、コンシュ『形而上学』の校正をやり終えた
最終的には5回の見直しがあったことになる
毎回、それまでの読みが浅いことを痛感する時間であった
ここで、この間に頭に浮かんだことを整理しておきたい
最初は局所に注意が集中して、全体を掴みきれない状態にいた
同時に、表層を滑るように読んでいるところがあった
ただ、その時はこの状態に気づいておらず、今回それがよく見えてきたということである
2回目が終わった時には「やり終えた感がある」などという感想が浮かんでいたことからもそれが窺える
毎回意識がより深いところに降りていったような感じで、より細かい、より微妙なところに目が行くようになった
それは、全体の中でその部分を見るという視点ができていったこととも関係がありそうである
そういえば、コンシュの言葉に「「自然」という無限を背景に自分の世界を見る」というのがあったが、それと重なるところがある
全体が奥の方に控えていて、それとともに目の前の細かいところを見ているという感じだろうか
これは、人生を歩む上でも参考になりそうである
もう一つは、今回、原典にはない小見出しを付けたことと関係がある
これは訳者の解釈が全体に及ぶことを意味しており、僭越なことだという考えがあった
ただ、本書は日本に初めて紹介されるコンシュの著作になるので、道標のようなものとして付けた方がよいのではないかという考えに押される形になった
この作業をやりながら感じていたのは、コンシュ哲学の理解を深める上で非常に重要だったということである
一度訳したものについて、パラグラフごとにその全体を掴み直すような読み方を何度もすることになるからである
本来はそういう読み方をしなければならないのだろう
今回、そのことを明確に意識できたのは幸いであった
訳業が大変な労力を費やすということは、過去2度の経験から身に沁みている
そのため、もう翻訳には手を出さないとどこかで思っていたはずなのである
それにもかかわらず今回やろうと思ったのには、個人的な歴史が関係している
科学の後の道を模索していた2006年、彼の対談記事を偶然読んだことが最初の出会いであった
コンシュは、わたしに初めてフランス語で語り掛けてきたフランス人哲学者となったのである
同じ年に発見した人として、ピエール・アドー(1922–2010)がいる
当時、コンシュやアドーについて語る人はほとんど見かけなかったが、アドーは次第に訳されるようになっていった
しかしコンシュに関しては、今回のネット検索でも、話題にしているのは未だにわたしだけという状態である
出版関係のフランス人によれば、コンシュは日本でも紹介されるべき哲学者だと言う
このような状況もあり、浅学を省みず翻訳に乗り出すことにした
そして何よりも、読者のいそうにない著者の作品の刊行にご理解をいただいた知泉書館さんの存在がある
コンシュとの最初の出会いから20年目に当たる今年、彼の主著を紹介することができることに静かな充足感を覚えている
と同時に、「人生何が起こるかわからない」という古くからの知恵も浮かんでいる
これらのことは何を物語っているのだろうか
その昔やっていたように、未来に向けていろいろな計画を立てることにはあまり意味がなさそうだということである
科学の領域では(あるいはどんな仕事においても)、計画を立てるだけではなく、それがどのような結果になるのかを予想し、それぞれの場合の対処法を提示しなければならない
しかし今のやり方は、この時に集中して何かをやることが最も重要で、そこから何が生まれるのかは二の次になっている
何が出てくるのか分からないところに面白さがあるという考え方になって久しい
それが可能なのは、第三者からの報酬に縛られていない(=仕事ではない)からなのだろう
今回のように、何年も経ってから実現することもある
20年前には考えてもいないことではあったのだが、、
それはおそらく、その間の「今ここ」における営みの蓄積が作用した結果なのだろう
だから日々気が抜けないということになる
今回の本には多くのテーマがある
その一つに、この現実全体をどのように理解するのかの学である形而上学は、結果として生き方を示すことができるということがある
コンシュの形而上学に触れることにより、自らの生そのものに対する見方を変える契機が訪れるかもしれない
刊行の暁には手に取ってゆっくりお読みいただき、ご批判をいただければ幸いである
刊行は10月20日となっている









