2026年2月4日水曜日

なぜ我々は自分たちのためにならない嘘を好むのか

 

Jean-François Revel (1924-2006)



最近漏れ聞こえてくる政治状況を見ながら、記憶の底にあった言葉が浮かび上がってきた

それが、今日のタイトルである

フランスに向かう前に立ち上げた最初のブログに書いた記事の中の言葉である

もう20年前のことになる

この観察をしたのは、アカデミー・フランセーズ会員で作家のジャン=フランソワ・ルヴェルさん

彼はこの疑問に向き合ってきて、その回答をまとめているようだが、わたしはまだ目を通していない

しかし、歴史を振り返れば、この疑問が浮かんでくるのはよくわかる

どうしてそのことが見えないの? 

という問いも成り立つが、もうそんなことはどうでもよくなっている可能性がある

威勢のいい方、何か面白そうな方に進んでみたくなるのが人間なのだ

とでも言いたいかのようである

以下に20年前の記事の関連部分を引用したい

こんなことも書いていたのか、という思いである


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フランスに揺られながら Dans le hamac de France

2006-04-07

私のもっとも深いところにある確信は、人の運命は情報の正確さ、誤りによって決まるというもの。それはこれまで教師、エッセイスト、編集者 (雑誌 L'Express の責任者を 1966-1981年の15年間勤める) の経験から培われ、確固たるものになった。

ただ、なぜ人は (個人、団体、政府すべてのレベルで) もっとも手に入りやすい真実ではなく、しばしば彼らのためにならない誤りや嘘を好むのか、という問題に常に直面した。この問題は "La connaissance inutile" 「無益な知識」 で論じている。

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[私語]
マスコミを見ていつも感じていることは、どうしてこうもふわふわした情報と議論に終始しているのだろうか、ということ。問題の在り処を示すような番組をほとんど見たことがない。そして何か過ちがあると、これから気をつけなければ、反省して出直さなければならないとその場をしのぎ、また同じことを繰り返す。ルヴェルさんの認識に立つとよく理解できる。要するに、人間とは真実など欲していないのだ、正しい判断であろうとなかろうとどうでもいいと思っている生き物なのだ、ということになる。人の求めるところに依存するマスコミにあっては、当然の内容ということになる。
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2026年2月3日火曜日

Mind in Life を読む(3)
































今日は、認知主義(cognitivism)とは何をいうのかについて、トンプソンの説明を聞いてみることにしたい

認知科学は、行動主義心理学に抗するものとして、1950年代に始まった

その中心には心のコンピュータモデルが据えられ、認知を情報処理過程とするものである

行動主義がインプットとアウトプットだけで判断するのに対して、認知主義はそこで抜けていた内的状態の重要性を説いた

そしてコンピュータ同様、心的プロセスは脳における表象の操作によって行われていると考えたのである

外から入ってきた感覚刺激が表象に変換され、それを操作することによってインプットに対する解決策をアウトプットするという説明をする

これは心の哲学の機能主義と結びついており、何でできているか(ハードウェア)ではなく、何をしているのか(ソフトウェア)が心には重要だと考える

そのため、認知は脳だけが担うというところから離れることになる

コンピュータモデルに当てはまるものがあれば、それは認知ということになる

例えば、身体に拡張された「身体化された認知」(embodied cognition)、環境へも拡張された「拡張された認知」(extended cognition)、さらに文化的遺産にも依存する「文化的認知」(cultural cognition)などへと展開している

そこでは認知が意識(主観的現象)とは切断されることになる

説明のギャップ」は埋まらないままで、新たにコンピュータの心と人間の心との関係を問う「心心問題」まで生まれることになったという

今日の流れは、わたしの免疫論とも通底しており、参考になるところ大である

今後の議論から目が離せなくなってきた














2026年1月30日金曜日

第3層の欠如を憂う


























昨日は、俳句がご趣味の友人とのデジュネとなった

最後に聞こえてきたのは、如何ともしがたい今の政治状況に対する何と言えばよいのか、苛立ちとも嘆息ともつかぬものであった

わたしの日常には地上の様子はほどんど入ってこないのだが、それでも漏れ聞こえてはきている

意識の第2層を去り第3層に住みついて長い身から言えることは、第3層に対する認識の欠如がその根底にあるということだろう

それは一義的には個人レベルでのことだが、当然のことながら社会のレベルに反映されることになる

その認識を深めるためにも、カフェ/フォーラムの活動の重要性は増してくるように感じた

新しいエティックの確立が求められているということである


一夜明けた今朝は完璧な快晴

久しぶりにその空を味わいながらの紫煙のとき

ほんの少しだけパリを思い出しながらの瞑想となった

同時に、先日思いついたベルクソンカフェについての本の英訳の息抜きにもなったようだ









2026年1月28日水曜日

Mind in Life を読む(2)
































第1部は「エナクティブ・アプローチ」となっていて、以下の4つの章に分けられている

第1章 認知科学と人間の経験

第2章 現象学的結びつき

第3章 自律と創発

第4章 行動の構造


まず、第1章から始めたい

認知科学の歴史は非常に浅く、こちらも若い免疫学が1世紀以上前に始まったとすれば、それより半世紀から1世紀遅れの学問である

この言葉を耳にするようになったのは20世紀後半のことになるが、心についての学問はプラトンやアリストテレスにまで遡ることができる

この点も、免疫現象がペロポネソス戦争(431-404 BCE)の時に観察されていることと似ていると言えるだろう

認知科学は、心理学、神経科学、言語学、コンピュータサイエンス、AI、哲学などが統合されたプログラムで、認知の原理やメカニズムを解明することを目的としている

しかし、認知科学は認知を研究してはいるが、感情や愛情、動機付けや意識などの主観的な領域についての理解を深めるところには至っていない

その理由を探るため、著者は1950年代からの認知科学の歴史を振り返る

そこで明らかになるのは、3つのアプローチだという

第1は認知主義(cognitivism)で、著者によれば、心をコンピュータとして捉えるもので、1950年代から70年代に優勢だったもの

第2はコネクショニズム(connectionism)で、心をニューラルネットワークとして捉えるもので、80年代に認知主義に挑戦を始めた

第3は身体化された動態論(embodied dynamicism)で、心は身体が環境と相互作用し続ける絶え間ないプロセスの中にのみ存在するという考えで、90年代から出始めた

これからそれぞれの流れを詳しく見ていくようである









2026年1月22日木曜日

Mind in Life を読む(1)
































これから折に触れて、Evan Thompson(1962-)の Mind in Life(Harvard UP, 2007)を読むことにしたい

著者のエヴァン・トンプソンは、認知科学現象学心の哲学がご専門のブリティッシュコロンビア大学哲学教授で、仏教に関する著作もあるようだ

本書の副題は、「生物学、現象学、および心の科学」となっている

序を読むと、生命と心との連続性がテーマだという

生命の在るところには心があり、心の構築の特徴は生命のそれと重なる

その特徴とは自己組織化で、生命においてはすでに認知を含意している

そこから心的生命は身体的生命であり、世界に属している

心的生命の起源は脳にあるだけでなく、身体や環境に広がっている

本書において、生物学、現象学、心理学、神経科学の成果を用いて、生命と心――特に、経験や主観性という現象学的な側面――の関係に調和をもたらそうとしている

それは、意識や主観的経験と、脳や身体との関係がどうなっているのかという説明のギャップと言われる問題に向き合うためである

ただし、この問題に対する概念的な分析をしたり、意識に関する新規の理論やモデルを提唱したり、意識と自然を統合するような形而上学的推論をするものではない

むしろ、そのために必要になる経験の構造について、より豊かな現象学的説明をしたり、それに対する科学的説明をすることであり、現象学が心理学、神経科学、生物学と交渉を持つことである

つまり、経験の現象学的解析を、生命と心の科学的解析との相互に啓発し合う関係に導くことが本書の目的になる



本書の意図を読むと、拙著『免疫から哲学としての科学へ』の「免疫は心的要素を包摂する」という主張と響きあうところがある

ここで心と言われているところを免疫に置き換えれば、それがよく分る

ただ、疑問符が付く話も出てきそうな予感がする

いずれにせよ、どのような議論が展開するのか、興味をもって見守りたい











2026年1月21日水曜日

思考の澱を沈め、凪を待つ






今朝はゆっくりと音楽を流しながら 自由に考えが羽ばたくのを待つ


音が全くない中での深い瞑想とは違うが 何か新しいものが出てきそうな予感もする


いつもの錯覚だろうか











2026年1月20日火曜日

春のカフェ/フォーラムのご案内


























春のカフェ/フォーラムの予定が決まりましたのでお知らせいたします

皆様の参加をお待ちしております

本年もよろしくお願いいたします



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◉ 第13回ベルクソンカフェ
2026年3月4日(水)18:00~20:30 恵比寿カルフール B会議室
マルセル・コンシュの哲学(3)『生きることと哲学することを読む ①
サイト


◉ 第23回サイファイカフェSHE
2026年3月6日(金)18:00~20:30 恵比寿カルフール B会議室
フィリップ・クリルスキー『免疫の科学論』を読む ①
サイト


◉ 第14回カフェフィロPAWL
2026年3月11日(水)18:00~20:30 恵比寿カルフール B会議室
生き方としての哲学:より深い幸福へ――アドー、コンシュ、バディウと考える』を語り合う
サイト


◉ 第16回サイファイフォーラムFPSS
2026年3月14日(土)13:00~17:00 日仏会館 509会議室
(1) 矢倉英隆:シリーズ「科学と哲学」⑩ ポパーのプラトン批判 (2)
(2) 竹田 扇:デカルトの医学論――機械論に基づいた⼈体の統⼀的理解
(3) 白石裕隆:「文(ふみ)以前」を“詩"索する、地質・文学・遺跡紀行――川端康成「東海道」を端緒として
サイト


◉ 第16回サイファイカフェSHE 札幌
2026年4月11日(土)14:30~17:00 会場未定
免疫から哲学としての科学へ』を読む(4)免疫を形而上学化する











2026年1月19日月曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(33)
































『自然の哲学』も遂に最後まで辿り着いた

結論「自然の二つの顔」を読むことにしたい

本書では、「自然哲学」という科学のやり方を取るものと、「自然の哲学」というそこから距離を置く立場があり、それに合わせて自然には二通りの顔が付与されることになった

アリストテレス(384-322 BC)においては、この両方の内容を判別することができる

しかし、「自然哲学」と「自然の哲学」の関係が明瞭にされたのは、「所産的自然」と「能産的自然」の区別が提示された時である

以下に簡単にまとめておきたい

(1)所産的自然ということによって、ある時は直接的に感覚的生の知覚を通して、またある時は間接的に科学の観察と仮説と説明を通して、「自然哲学」の客観的世界全体を理解しなければならない

近代人が科学によって自然を支配、所有しようとする時、そこで問題になっているのは所産的自然である

ダーウィン(1809-1882)が、「自然選択」が関わる法則の下に見ている自然も客観的な考え方である

(2)能産的自然が介入するのはこの時で、「自然の哲学」の下での経験の内に現われる

例えば、アリストテレスの「ピュシス」、バークリー(1685-1753)の「言語」、シェリング(1775-1854)の「生産性」、ヘーゲル(1770-1831)の「解決されない矛盾」、ベルクソン(1859-1941)の「飛躍」と「持続」などの質的現象性の形を取っている

能産的自然の経験は、思考にとって「意識」と「身体」と「物質」とが常に一つの全体を成して現われるという意味で、主客の分裂を超えた進路の入口である

自然的であるとは、この3つの領域が同時に占有され、混合され、踏破される時にわれわれが関与するものである

(3)所産的自然の空間化された客観的な面と対立するのは主観的領域ではなく、われわれが生きるたびに構成され分解される自然的混合物の経験である

所産的自然において、時間と空間は客観的な存在としてあるが、能産的経験に変わる時、時間と空間は独立した状態を失う

それゆえ、自然のあらゆる経験には、二つの顔が確かに存在する

一つは空間と分子とアトムの表象により、専門的規則に従って獲得する自然化されるもの(所産的自然)であり、もう一つは組み合わさり重なり合う無限の混合物が、全く別の形の知性と支配により自然化するもの(能産的自然)である

「自然の哲学」は、すべてが関連している宇宙のために、複合物の質的で具体的な論理を展開するように促されるのである


(了)










2026年1月18日日曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(32)


































本日は、3-4-2「自然の有機体はたがいに組み合わさり重なり合った精神と身体と物質との混合物でできている」を読みたい

これまでの分析から、自然の哲学は、すべては空間と運動とアトムに関わるという客観的な理解の仕方と著しい対照をなす理解の仕方を目指すものであることが見えてきた

すなわち、自然は様々な種類の混合物から質的に発生したものであるという直観が優勢になる

これはベルクソン(1859-1941)が多大な貢献をした見方である

ベルクソン哲学は、数学と物理学から着想を得た量的論理学の支配下で、質的で直観的な思考の復興に取り掛かったのである

より具体的には、科学が諸要素に分解して解析する傾向があるのに対し、諸要素が断絶することなく相互につながるという見方で置換しようとした

これは「持続」に通じる考え方で、科学がこの世界を細切れの静止画として見るのに対し、音色を変えるメローディーとして捉えようとしたと形容される内容である

前の要素が次の要素に浸透するように全体として変化していく世界である

フッサール(1859-1938)の分析とも響きあう考え方である

彼は、現在には過去や未来が浸透し合っていると考え、次のような要素を提案している

 原印象(Urimpression): 今まさに知覚している経験
 
 把持(Retention) : 今この瞬間、過ぎ去ったばかりの過去を記憶としてではなく、今の一部として保持している
 
 予持 (Protention): 同時に、次に来る瞬間を無意識に先取りしている

これは、近著『生き方としての哲学:より深い幸福へ』の中でも触れている「現在」の捉え方(p.45-46、p.113-115)と非常に近く、よく理解できる


ベルクソンは『創造的進化』(1907年)において、「混合物」の質的論理と「モデル」の機械的論理の対照を、生命と宇宙発生の問題に適用した

物質と記憶』(1896年)は、心理学に対してこのやり方を適用したものである












2026年1月17日土曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(31)
































今朝、昨夜も話題に出ていたシューベルト(1797-1828)を流しながらシガーをやる

わずか31年しか生きていなかったことを改めて確認し、やはり驚嘆する


今日は、第3章、第4節「自然は数多くの種類の混合物からできた媒介的有機体である」に入りたい

これまで自然の哲学について考えてきたが、「所産的自然」と「能産的自然」との緊張関係が現れることになった

そして最後に残るのは、シェリング(1775-1854)が言うように、「能産的自然」しかないことを確認した

ベルクソン(1859-1941)に言わせれば、科学的知性の捏造と対立する組織化としての力として現れる自然の概念である

したがって、自然のこのような性格を正確に位置づけ、客観的で世俗的な体裁を超えて了解するやり方を探索することが残されている


早速、3-4-1「自然は、人間によって客観的に仕上げられた世界と、人間には近づきがたいところにある原理とのあいだに介在する有機体である」について検討したい

その出発点として、ヘーゲル(1770-1831)が言っていたように、自然の感覚による現前とその「概念」を混同しないようにすることがある

なぜなら、客観的な所与として現れる自然は素朴な意識にとってのものであり、包括的に考察される自然はそういうものではないからである

つまり、客観的で感覚的自然は、人間の明晰で総合的な了解に達するためにあるからである

人間が知覚するものは純然たる自然ではなく、「所産的自然」に当たるものである

それは人間が立法者と実験者という二重の役割を通して、自らがデミウルゴスとなって了解する自然である


そこで、人間による客観的で世俗的な外見を通してではなく、創造主の仕業を見るならばどうなるであろうか

ここに神学が入り込む余地がある

ニカイア信条(325年)によれば、「私たちは、見えるものも見えないものも含め、すべてのものの創造主である全能の父なる唯一の神を信じます」と公言している

問題は、その信仰によって達せられた実在や出来事は、科学に依存する可知性を表していないことである

ここで言う「可知性」(intelligibility)は、単に意味が理解できるということではなく、理性によって、構造・法則・因果として、主体から独立に、共有可能な形で理解できること、あるいはそのような理解構造になっていることを指している

信仰による理解はすべてが神に帰せられ、「神秘」に迷い込むところがあり、可知性が要求する構造を持っていない

自然神学啓示神学(一般的な神学)とは異なり、理性を用いて世界(自然)の原理に迫るが、カント(1724-1804)が言うように、デミウルゴスのような有効な組織者(職工)ではあるが創造者でないものしか発見できないだろう

さらに、実証的な分析が進めば進むほど、神学的な解釈は後退することになり、神という仮説は不要になるかもしれない

しかしその時こそ、能産的自然の経験が現れ、われわれの経験的な出来事の世界と、超越的原理が住まうところとの間に、包括的で構成的な自然の活動圏が入り込んでくるという