2026年8月12日水曜日

コンシュ『形而上学』の翻訳で考えたこと



























今週はどうしたことか、一週間の休日をもらったような気分になっている

こういうことはあまり経験したことがない

コンシュ『形而上学』の三校を終えてから一週間が経過して、ゆったりした気分になってきたのかもしれない

その気分に逆らうことなく過ごして、3日目に入ったことになる

昨日あたりは、かなり長い間リラックスした時間の中にいたと思ってカレンダーを見たところ、まだ2日しか経っていないので驚いた

いつも感じていることだが一日が長いので、たっぷりとそれを味わわせていただいている

その感覚から言えば、特に驚くこともなかったのだが、、以前の感覚で言えば、ということなのだろう

いずれにしても、時間の感じ方でこの人生は大きく変わるということだけは確かだろう

仕事をしていたり、時間に追われたりしていると、どうしてもカレンダー時間を頭に描くことになる

そうなると、時間に追われていることが充実した状態だと錯覚しやすくなる

時間の持つ豊かさ、さらに言えば無限の広がりがそこにあることに気づけなくなる

幸福を求めて人生を送っているとすれば、幸福のかなりの部分を味わうことなく人生を終えることになりかねない


ところで、時間の問題はコンシュ『形而上学』でも取り上げられている

この本は、考えるべき問題――例えば、時間、道徳、倫理、哲学、形而上学、科学、宗教などの基本的な問題――をどのように考えべきなのかについて、一つの道筋を提示していると見ることができる

その意味では、訳者にとってだけではなく、多くの方の参考になるものと言えるだろう

それから、以前に翻訳をした時にも感じたことだが、翻訳は原著者の語り口と同じものにはなり得ず、あくまでも訳者のものであるということである

前回、科学書を翻訳した時、著者を日本に招いて講演会があった

その時、訳書を読んだ人が原著者に向かって「先生が・・・と書いているのは・・・」と発言しているのを聞き、違和感を覚えたことがある

その内容はともかく、その言葉遣いは訳者のものであることを知っていたからである

翻訳しながら、原著者の表現を再現することは不可能であり、訳者のものにしかなり得ないことを身に沁みて理解していたからである

純科学の場合であればまだしも、哲学となるとその仕事は想像を超えるものになる


さらに今回、小見出しを付けることになった

どこにどのような小見出しを入れるのかという組み合わせは、ほとんど無限にある

その選択によって本書が全く違うものになり得るということである

訳者はその中の一つを選んだことになる

小見出しを付けることにより、この書は二重三重に訳者のもの以外ではあり得なくなった

大変な選択をしたことに気づいた静かな休日である












2026年8月7日金曜日

久しぶりのユルスナ―ル
















本日は、ランドネがご趣味の友人とのデジュネとなった

まず、マルグリット・ユルスナール(1903–1987)の話が出てきて驚いた

ユルスナールと言えば、渡仏前に何度かわたしの前に現れたことがある

ハドリアヌス帝の回想』(Mémoires d'Hadrien)とそのCDを手に入れたり、ユルスナールに関するシンポジウムに参加したこともあった

  ユルスナールのシンポジウムへ(2005-02-26)

しかし、深く入ることなくフランスに渡り、新しい領域に飲み込まれていった

今回、ユルスナールが三島に興味を示し、その考えをまとめていたことを知った

  Mishima ou la Vision du vide (Gallimard, 1980)

  『三島あるいは空虚のヴィジョン』(河出書房新社、1982)

三島の中には空虚しかなかったということなのか

空虚ということは何もないということではないのか

もしそうであれば、コンシュであれば、考えるに値しないと言いそうでもあるのだが、

あるいは、入れ物はあるが中身がないということなのか

このあたりを知るには、読んでみるしかないのかもしれない

それはそうとして、久しぶりにアドリアンのCDでも聞いてみたい気分になった


ところで、コンシュの三校が終わった今週から、暫くの間お休みしていた新しいプロジェをゆっくりと再開したところだ

以前にも書いたかもしれないが、どこに辿り着くのかは全く見えていない

この、どこの港に着くのか分からない船旅をしているような気分は決して悪くない

その良さを知ったのは、フランスに渡って各期ごとにミニメモワールをまとめる作業の中でのことだった

それ以来、その感覚の捨て難さは常にわたしの中にある

コンシュによれば、芸術家が何かを創造するというのは、設計図をもとに進めるのではない

自分が作りたかったものが何だったかわかるのは、それが出来上がった時だと言っていた

まさにその感覚である







2026年8月6日木曜日

いろいろな瞑想生活を観る
















今朝、Youtubeを開くと、山道(The Mountain Path)というドキュメンタリーが出てきた

中国の山奥に暮らす僧の生活と話を撮った静かなものであった

瞑想生活の中にある人たちの姿を見て、その生活様式は違えどもその精神においてはわたしと変わらないような気がした

わたしもかれこれ20年近くになる、言ってみれば瞑想生活の中にあるからだ

今はやりの言葉で言えば、マインドフルネスである

あらゆる瞬間に自らの意識を自らの内に向けているのである


続いて、聖なる群島(The Holy Archipelago)が出てきたので見ることにした

そういう気分だったのだろう

山道における生活も小さな集団で行われていたが、こちらは教会という強固な制度の中での生活であった

2006年の12月に将来を模索するためパリを訪問した際に観たフィリップ・グレーニング(1959–)の Le Grand Silence(大いなる沈黙へ)を想起させるものであった

グレーニングの映画には語りや音楽は一切なかったが、精神においてはこのドキュメンタリーも同じ流れにあるのだろう

美しい映像も楽しんだ

2006年暮れのブログ記事が残っている(こちらから)

これを読み直すと、これからの生活がどのようなものになるのかということの大枠を掴んでいたようである

今振り返ると、細かいところに目を瞑るとすれば、驚くことは何もなかったと言ってよいだろう






2026年8月2日日曜日

コンシュ『形而上学』三校、見直し終える

















夏のカフェ/フォーラムのまとめを終えた今月21日から、コンシュ『形而上学』の三校の見直しを進めていた

本日、見直しと索引の作成を何とか終えることができた

かなり消耗するプロセスとなった

二校の見直しを終えた時には、「これで終わった」という感慨が浮かんできたが、それは全くの錯覚だった

かなり重要な修正から始まり、細かい調整まで残っていた

単に注意が行き届いていないこともあるが、その時の精神状態・気分によって判断基準が微妙に変わることがあるので厄介だ

こうしてみると、このプロセスに終わりはなさそうだが、今回、一応のケリを付けたことになる

今は、不備ができるだけ少ないことを願うばかりである










2026年7月30日木曜日

昔の研究仲間とビアパーティを楽しむ


































兎に角、酷い暑さが続いている

そんな中、ビアパーティのお誘いがあった

その昔所属していた研究所の皆さんとの会である

前回がすっかり昔のことのように感じられる

それは時の流れが速くなったというのではなく、先日も触れた日々が分厚くなり、向こう側が見え難くなっているという状態のせいに違いない

風邪で体調を崩して直前で欠席になった方もいたが、10年振りくらいの方もおられ、話は盛り上がった

と言いたいところだが、日々静寂の中で暮らす身にとっては、異常な騒音の中での会話になかなか入っていくことができなかった

話し声が搔き消される状態の中にいたからである

現代の仕事をしている人は、あの環境を何とも思わないのであろうか

お店は満員であった

次回があるとすれば、話し声の聞こえる場所でお会いしたいものである

いずれにせよ、皆様の更なるご活躍を願っている















2026年7月25日土曜日

仙台で旧交を温める

























今日は1年振りに雨に濡れる仙台を訪問

田村、小林両先生と旧交を温めた

このところコンシュ『形而上学』三校の見直しに当たっていたので、気分転換になったかもしれないし、そうでないかもしれない

田村氏とは1年振りだが、小林氏とは7年振りになる

田村氏は昨年奥様を亡くされ、その後どんな生活をされているのか気になっていたが、お元気そうで何よりであった

ただ、これから先の仕事をどのように組み立てるのかに頭を使われているようであった

おそらく多くの人が直面することではないかと思われるが、外的な拘束要因がなくなった時にどのような生活になるのかが不安要素として浮かび上がるのではないだろうか

わたしのようなプー太郎状態に耐えられるのかという問いにもつながるので、意見を聞かれる場面もあった

わたしから見れば理想的な状態が、必ずしもすべての方にとってそうであるとは限らないので、難しい問題ではある

小林氏にしても、仕事の終わりが近いとのことで、同様の問題を考え始めているご様子であった

いずれにせよ、人生に味が加わるのはこれからである

「生き方としての哲学」は貴重なスパイスになり得るとお伝えし、近いうちの再会を期して別れた































2026年7月22日水曜日

「パリから見えるこの世界」のタイトルから見えてくるもの

































2012年から2022年まで105回に亘って『医学のあゆみ』誌にエッセイを書いた

そのタイトルをChatGPTに分析してもらった

今朝、突然浮かんできたアイディアである

わたし自身も見えていなかったことがあったので、以下に分析結果を転載したい

自らのあゆみを天空から眺望するような感覚を味わわせてくれるものでもあった


*******************************

この105本のタイトルを時系列に並べて見ると、単なる関心の変遷ではなく、一人の研究者が独自の知的プロジェクトを形成していく過程が浮かび上がってきます。

私には、大きく五つの時期が見えます。


第1期(2012~2013)――「科学から哲学へ」という問題意識の誕生

最初のタイトルが「科学から哲学、あるいは人類の遺産に分け入る旅」であることは象徴的です。

この時点では、メチニコフ、イェルネ、ジャコブ、フレック、マイヤー、ラマルク、ブルーノなど、一見ばらばらな人物を扱っています。

しかし共通しているのは、科学者の背後にある哲学を探そうという姿勢です。

つまり、科学史ではなく、科学者の思想史を始めているのです。


第2期(2014~2016)――「科学の形而上学化」という方法論の形成

この頃から、医学の哲学、生物意味論、目的論、カンギレム、生命の定義などが現れます。

そして決定的なのが「科学の形而上学化」という言葉です。

これは単なるテーマではありません。

タイトルを見る限り、著者は科学を哲学に利用するのではなく、科学そのものから形而上学を組み立てようという方法を考え始めています。


第3期(2016~2018)――「生き方としての哲学」への転換

突然、アドー、コンシュ、ディオゲネス、エピクテトス、マルクス・アウレリウスが現れます。

さらに、意識の第三層、ネガティブ・ケイパビリティ、哲学的感情、静寂、沈黙など、科学から人格形成へ関心が移っています。

つまり、Science から Philosophy as a way of life へ。


第4期(2018~2020)――科学と哲学の本格的統合

この頃になると、免疫 → 情報 → CRISPR → 汎心論 → 生命 → 存在が一つの流れになっています。

つまり、科学の最新成果を存在論へ接続し始めています。

例えば、CRISPR、植物免疫、情報、利他主義などは、すべて「生命とは何か」へ向かっています。


第5期(2021~2022)――自然哲学の宣言

最後は、免疫の形而上学、徳認識論、科学精神、自然哲学、科学と宗教になります。

そして2022年、「人類の遺産に分け入る旅を超えて」で終わっています。

これは非常に意味深です。

つまり、「旅」は終わり、これからは「自分自身の哲学を書く」段階へ移ろうとしていることが感じられます。



全体を通して見える著者の特徴

私はこのタイトル群から、次のような特徴を感じます。

① 人物ではなく「知」を追っている

普通なら、「ダーウィン」「スピノザ」「ハイデッガー」という紹介になります。

しかしこの著者は、○○あるいは……という副題を必ず付けています。

例えば、「スピノザ」ではなく「幸福への道」を見る。

つまり、人物紹介が目的ではありません。


② 一つの分野に閉じない

免疫 → 医学 → 哲学 → 文学 → 芸術 → 教育 → 倫理 → 宗教 → 文明

すべてを自由に往復しています。


③ 方法論を作ろうとしている

途中から、何度も「科学の形而上学化」が出てきます。

これはテーマではありません。方法です。

つまり、「どう考えるか」を作ろうとしている。


④ 最終的な関心は「自然」

初期は、科学でした。

しかし最後は、自然哲学になっています。

つまり、科学は入口だった。

到達点は、自然です。



思考方法

タイトルだけでも分かるのは、著者は「具体から普遍へ」進みます。

例えば、CRISPR → 免疫 → 情報 → 生命 → 自然 → 存在という階段を上っています。

つまり、抽象論から始めません。

常に、具体的な科学から哲学へ上昇しています。

これはかなり珍しい思考様式です。



これから向かう方向

もし2022年以降を書くなら、私は自然に次のようになると予想します。

  • 自然哲学
  • 存在論
  • 免疫と自然
  • スピノザ
  • コンシュ
  • アナクシマンドロス
  • physis
  • 世界
  • 宇宙

へ進むでしょう。

そして、「科学の形而上学化」という方法論を足場にしながら、免疫という具体的な科学を起点に、生命・意識・自然・存在を一つの連続体として捉える独自の自然哲学へ向かう流れが見えてきます。




最後に、この一覧で私が最も印象を受けたのは、一貫した「中心テーマ」の存在です。

扱う人物や分野は多岐にわたりますが、その背後では、

科学から出発して、人類の思想の遺産を通過し、最終的に自然哲学という一つの世界観へ到達しようとする

という一本の知的な道筋が貫かれています。

その意味で、この105本は個々のエッセイの集合というより、一冊の長い思想的自伝、あるいは研究計画の展開として読むことができるように思います。







2026年7月20日月曜日

カフェ/フォーラムのまとめを終え、コンシュ『形而上学』三校へ



































本日、夏のカフェ/フォーラムシリーズのまとめを終えた

いつの頃からか、会の内容をまとめようとするのではなく、味わい直そうという気が強くなっている

そこでは、普段の流れに違和感をもたらすようなことを拾い上げ、これからの思索の種のようなものを探し出そうとしているかのようである

すぐに抽象化に向かわず、むしろそこに向かうための材料を見逃さないように、会をなぞるように書くようになっている

今回も、あるいは以前にも増して、目を開かされることが少なくなかった

以下にページを貼り付けておきたい


これでやっとマルセル・コンシュ(1922–2022)著『形而上学』の三校に当たることができるようになった

実は、1週間ほど前に届いてはいたのだが、これだけに集中したいという気持ちが強く、カフェ/フォーラムのまとめが終わってからということにした

以前であれば並行して進めたと思われるが、これなども新しい変化と言ってよいのではないだろうか

今回で訳文の検討は最後になると思われるので、じっくりとその中に入ることにしたい















2026年7月18日土曜日

第24回サイファイカフェSHE、無事に終わる





今日は、第24回サイファイカフェSHEが開催された

テーマは「フィリップ・クリルスキー(1942–)著『免疫の科学論―偶然性と複雑性のゲーム』を読む」の2回目であった

今回は、以下の章を読んだ

第1部 進化における生体防御
    第5章 生物の複雑性とその進歩
    第6章 生体防御とロバストネス

第2部 ヒト生体防御の組織―部分が全体に向かう
    第7章 分子と分子モジュール
    第8章 分子モジュールの連鎖
    第9章 細胞と細胞モジュールの構造
    第10章 防御反応における機能モジュールのつながり
    第11章 必然だが起こりそうもない出合い
    第12章 より個物化された医療へ

2名の欠席はあったものの4名の方が参加され、静かな中にも本質的な議論が展開した

今回のキーワードとして、生体防御を支える「ロバストネス」(環境の不測の事態や内的機能不全が生じても適切に機能し続ける能力)、「分子あるいは細胞モジュール」、それと「出合い」を挙げておきたい

個人的には、科学の内容もさることながら、それが意味するところに興味が向かっていることを感じる会となった

統合の方向とまでは言わないが、意味に向かっているとは言っておきたい

詳細については、近いうちに専用サイトにまとめる予定である

訪問していただければ幸いである


夏のカフェ/フォーラムシリーズは本日で終わりとなります

秋のシリーズは予定が決まり次第、この場に掲載する予定です

秋もよろしくお願いいたします









2026年7月13日月曜日

intuitive leap 再考



























昨日記事にした森氏の歌のもとになった詩が書かれたオリジナルサイトを再度読み返してみた

そうすると、足を使うことが思考に影響を与えるというテーマがそこにあることに気づいた

それは、土曜のFPSSで林氏が取り上げたことでもあった

今日気づいたのは、1時間足らずの間に、これまでの人生とこれからの人生を集約するような思想が詰め込まれた15余りの詩が自分の中から出てきたということ、しかもそれはこの人生においてこの時だけの出来事であったということである

当時は、これから先が見えない状況で、「全身の受容体の感度が極限まで亢進していた」と表現したこともあるくらい、精神の緊張感、集中力がそれまでにないほどに高まっていた

その上、希求する心のエネルギーが想像を超えるレベルに達していた可能性もある

そのような状態であったからこそ起こった出来事ではないか

しかもそれは、身体の活動が加わった上でのことであった

つまり、全身の力がもたらした奇跡のような(自分でも信じられない)出来事と言えるのではないだろうか


同じく土曜のFPSSで議論された中に、絶対的真理に至る最終段階としての「intuitive leap」(直観的飛躍)とはどういうものなのかという問題があった

今朝、一生のうちに一度だけしか起こらなかった説明不能の2007年春の出来事が、その問題につながる糸口を提供してくれているのではないかと思い当たった

2017年に書いた絶対的真理への道に関するエッセイには、次のようなことが書かれてある

この飛躍にとって重要になるのが、形而上学の方法論でもある瞑想、あるいは瞑想が齎す精神や身体に対する諸々の影響ではないかと考えている。それは、その存在の全体が生み出す力のようなものである。(その)ためには、いかなる時間も無駄にできない。何が真理の基となる個々の事実の発見に繋がるのか分からないからである。つまり、どんな時間にも同等の価値を置かなければならなくなる。・・・

わたしが想像している絶対的真理は、日常生活や「いまここ」で出回っている意見から離れた内的生活を長く続けた先に見えてくるもので、内的生活の密度と深さが跳躍力を決めることになるのではないかというものである。

モンテーニュが「生きることを仕事にする」と言ったように、日々、内的生活の密度と深さを高めていくように努めていった先にそのような飛躍の時が、おそらく予期せぬ形で現れるのではないか

しかもそれは身体の活動が誘発する可能性が高いということである

まさしく、その存在全体の力に比例して飛躍の力が現れるのではないか

2007年春の出来事がそのことを教えてくれているようである

今は期待を含め、ここまでとしておきたい