佐賀徹雄「第17回FPSS雑感」
自然と生命を考える
In Search of a New Philosophy of Nature and Life
2026年9月2日水曜日
サイファイフォーラムFPSSについての感想届く
2026年9月1日火曜日
今年最後の4か月期始まる
2026年8月27日木曜日
マルセル・コンシュ『形而上学』の念校届く
2026年8月25日火曜日
10年前の今頃、パリからトゥールへ
2026年8月23日日曜日
変容を続ける庭
2026年8月20日木曜日
今年の後半に向けて何を想う
1年の前半は8月お盆のあたりまでで、これから今年の後半が始まるという感じがしている
このような感覚は、ひょっとすると初めてではないだろうか
今年はプロジェがそのように動いていることと関係しているのかもしれない
残り4か月ほどしかないが、この間にどのようなことが起こるのか
それは分らない
そこで思い出すことがある
20年以上前、フランスに渡る前にフランス語学校に通ったことがある
大体、1学期3か月ほどだった
その程度の時間で一体どれだけのことを学ぶことができるのかと疑問に思った記憶がある
そして、フランスの大学院も前・後期それぞれ3か月くらいではなかっただろうか
この時も、僅かこの程度の時間で何を身につけることができるのか疑っていた
しかし、実際にその中に入ると、時間の流れが変わるのか、実に濃い経験をすることができた
外から見ている時間とは明らかに違ったのである
この経験から言えることは、これから僅か4か月ほどだが、その中には想像もできないものが詰まってくる可能性があるということだろう
主観的には途轍もなく長い時間になり得るということである
いつのころからか1日が非常に長くなった
それがさらに豊かなものになることを願いながら、今年の後半を迎えることにしたい
2026年8月17日月曜日
アトリエの書架を眺める
2026年8月12日水曜日
コンシュ『形而上学』の翻訳で考えたこと
2026年8月7日金曜日
久しぶりのユルスナ―ル
本日は、ランドネがご趣味の友人とのデジュネとなった
まず、マルグリット・ユルスナール(1903–1987)の話が出てきて驚いた
ユルスナールと言えば、渡仏前に何度かわたしの前に現れたことがある
『ハドリアヌス帝の回想』(Mémoires d'Hadrien)とそのCDを手に入れたり、ユルスナールに関するシンポジウムに参加したこともあった
ユルスナールのシンポジウムへ(2005-02-26)
しかし、深く入ることなくフランスに渡り、新しい領域に飲み込まれていった
今回、ユルスナールが三島に興味を示し、その考えをまとめていたことを知った
Mishima ou la Vision du vide (Gallimard, 1980)
『三島あるいは空虚のヴィジョン』(河出書房新社、1982)
三島の中には空虚しかなかったということなのか
空虚ということは何もないということではないのか
もしそうであれば、コンシュであれば、考えるに値しないと言いそうでもあるのだが、
あるいは、入れ物はあるが中身がないということなのか
このあたりを知るには、読んでみるしかないのかもしれない
それはそうとして、久しぶりにアドリアンのCDでも聞いてみたい気分になった
ところで、コンシュの三校が終わった今週から、暫くの間お休みしていた新しいプロジェをゆっくりと再開したところだ
以前にも書いたかもしれないが、どこに辿り着くのかは全く見えていない
この、どこの港に着くのか分からない船旅をしているような気分は決して悪くない
その良さを知ったのは、フランスに渡って各期ごとにミニメモワールをまとめる作業の中でのことだった
それ以来、その感覚の捨て難さは常にわたしの中にある
コンシュによれば、芸術家が何かを創造するというのは、設計図をもとに進めるのではない
自分が作りたかったものが何だったかわかるのは、それが出来上がった時だと言っていた
まさにその感覚である
2026年8月6日木曜日
いろいろな瞑想生活を観る
今朝、Youtubeを開くと、山道(The Mountain Path)というドキュメンタリーが出てきた
中国の山奥に暮らす僧の生活と話を撮った静かなものであった
瞑想生活の中にある人たちの姿を見て、その生活様式は違えどもその精神においてはわたしと変わらないような気がした
わたしもかれこれ20年近くになる、言ってみれば瞑想生活の中にあるからだ
今はやりの言葉で言えば、マインドフルネスである
あらゆる瞬間に自らの意識を自らの内に向けているのである
続いて、聖なる群島(The Holy Archipelago)が出てきたので見ることにした
そういう気分だったのだろう
山道における生活も小さな集団で行われていたが、こちらは教会という強固な制度の中での生活であった
2006年の12月に将来を模索するためパリを訪問した際に観たフィリップ・グレーニング(1959–)の Le Grand Silence(大いなる沈黙へ)を想起させるものであった
グレーニングの映画には語りや音楽は一切なかったが、精神においてはこのドキュメンタリーも同じ流れにあるのだろう
美しい映像も楽しんだ
2006年暮れのブログ記事が残っている(こちらから)
これを読み直すと、これからの生活がどのようなものになるのかということの大枠を掴んでいたようである
今振り返ると、細かいところに目を瞑るとすれば、驚くことは何もなかったと言ってよいだろう












