2026年9月23日水曜日

コンシュ『形而上学』の校正終える
















この連休を使って、コンシュ『形而上学』の校正をやり終えた

最終的には5回の見直しがあったことになる

毎回、それまでの読みが浅いことを痛感する時間であった

ここで、この間に頭に浮かんだことを整理しておきたい


最初は局所に注意が集中して、全体を掴みきれない状態にいた

同時に、表層を滑るように読んでいるところがあった

ただ、その時はこの状態に気づいておらず、今回それがよく見えてきたということである

2回目が終わった時には「やり終えた感がある」などという感想が浮かんでいたことからもそれが窺える

毎回意識がより深いところに降りていったような感じで、より細かい、より微妙なところに目が行くようになった

それは、全体の中でその部分を見るという視点ができていったこととも関係がありそうである

そういえば、コンシュの言葉に「「自然」という無限を背景に自分の世界を見る」というのがあったが、それと重なるところがある

全体が奥の方に控えていて、それとともに目の前の細かいところを見ているという感じだろうか

これは、人生を歩む上でも参考になりそうである


もう一つは、今回、原典にはない小見出しを付けたことと関係がある

これは訳者の解釈が全体に及ぶことを意味しており、僭越なことだという考えがあった

ただ、本書は日本に初めて紹介されるコンシュの著作になるので、道標のようなものとして付けた方がよいのではないかという考えに押される形になった

この作業をやりながら感じていたのは、コンシュ哲学の理解を深める上で非常に重要だったということである

一度訳したものについて、パラグラフごとにその全体を掴み直すような読み方を何度もすることになるからである

本来はそういう読み方をしなければならないのだろう

今回、そのことを明確に意識できたのは幸いであった



訳業が大変な労力を費やすということは、過去2度の経験から身に沁みている

そのため、もう翻訳には手を出さないとどこかで思っていたはずなのである

それにもかかわらず今回やろうと思ったのには、個人的な歴史が関係している

科学の後の道を模索していた2006年、彼の対談記事を偶然読んだことが最初の出会いであった

コンシュは、わたしに初めてフランス語で語り掛けてきたフランス人哲学者となったのである

同じ年に発見した人として、ピエール・アドー(1922–2010)がいる

当時、コンシュやアドーについて語る人はほとんど見かけなかったが、アドーは次第に訳されるようになっていった

しかしコンシュに関しては、今回のネット検索でも、話題にしているのは未だにわたしだけという状態である

出版関係のフランス人によれば、コンシュは日本でも紹介されるべき哲学者だと言う

このような状況もあり、浅学を省みず翻訳に乗り出すことにした

そして何よりも、読者のいそうにない著者の作品の刊行にご理解をいただいた知泉書館さんの存在がある

コンシュとの最初の出会いから20年目に当たる今年、彼の主著を紹介することができることに静かな充足感を覚えている

と同時に、「人生何が起こるかわからない」という古くからの知恵も浮かんでいる


これらのことは何を物語っているのだろうか

その昔やっていたように、未来に向けていろいろな計画を立てることにはあまり意味がなさそうだということである

科学の領域では(あるいはどんな仕事においても)、計画を立てるだけではなく、それがどのような結果になるのかを予想し、それぞれの場合の対処法を提示しなければならない

しかし今のやり方は、この時に集中して何かをやることが最も重要で、そこから何が生まれるのかは二の次になっている

何が出てくるのか分からないところに面白さがあるという考え方になって久しい

それが可能なのは、第三者からの報酬に縛られていない(=仕事ではない)からなのだろう

今回のように、何年も経ってから実現することもある

20年前には考えてもいないことではあったのだが、、

それはおそらく、その間の「今ここ」における営みの蓄積が作用した結果なのだろう

だから日々気が抜けないということになる


今回の本には多くのテーマがある

その一つに、この現実全体をどのように理解するのかの学である形而上学は、結果として生き方を示すことができるということがある

コンシュの形而上学に触れることにより、自らの生そのものに対する見方を変える契機が訪れるかもしれない

刊行の暁には手に取ってゆっくりお読みいただき、ご批判をいただければ幸いである

刊行は10月20日となっている









2026年9月19日土曜日

コンシュ哲学への誘い


































数日前にコンシュ『形而上学』の最終版が届いた

この週末から5連休のようなので、ゆっくり最後の読み直しを進めているところである

本の後付けによると、10月20日が刊行日となっている

実際の刊行とは必ずしも一致しないようだが、来月下旬までには出るものと理解した

秋のベルクソンカフェ(11月21日開催)では、早速その第1章「哲学者になる」の読書会をすることにした

日本語で議論するのでフランス語の知識は必須ではない

拙訳を参照していただければ幸いである

興味をお持ちの方の参加をお待ちしております











2026年9月15日火曜日

幸いな旅人ユリシーズ、そして『オデュッセイア』を確かめる



























先日の映画鑑賞の際、上映予定の映画が紹介されていた

その中に、わたしの記憶を刺激する言葉があった

「オデュッセイア」

オデュッセイア』は、ホメロス(8th century BCE)の手になるとされる

主人公オデュッセウス(Odysseus)のラテン語形ウリクセス(Ulixes)に由来する英語名がユリシーズ(Ulysses)となる

その名が明確にわたしの意識に上ったのは、16世紀フランスの詩人ジョアシャン・デュ・ベレー(Joachim du Bellay, c. 1522–1560)の詩の中だった

そのため、「ユリス」(Ulysse)と記憶に刻まれてしまった

 Heureux qui, comme Ulysse, a fait un beau voyage
(幸いなるかな、ユリスのように素晴らしい旅をした者は)

それは丁度、科学の後の道を模索していた時期に当たり、これから始めようとしている長い旅のイメージとも重なり、強い印象を残した

最初のブログに3つの記事がある


2つ目のブログに次の記事がある


そして、3つ目のブログに感動的な出会いが記された記事がある

 ニーチェのニース(2011年4月25日)


最後の記事にある「ユリスのように・・・」の詩が刻まれたニースの写真は、2017年から始まったベルクソンカフェ・サイトのフロントページを飾ることになった

このカフェに、フランス語でいろいろな世界を旅する場にしたいという願望を込めたのかもしれない

デュ・ベレーの詩の続きを読むと、長い旅に出たことだけではなく、そこで経験と知恵を身につけ、最後には慣れ親しんだ故郷に戻ることができた者こそ幸せなり、となっている

そこにはローマ滞在中のデュー・ベレー自身の望郷の心が込められている

今のわたしには、旅を始める前とは違った感慨が浮かんでいる



長い前置きとなった

ここで現代に蘇ったユリシーズを観に出かけた

クリストファー・ノーラン(1970–)監督の新作『オデュッセイア』である

こちらは旅の過程を迫力満点に描くという作品で、帰郷も激しいものがあった

日頃から音や動きの少ない環境にいるためか、音響も映像も過剰に感じられ、疲れるくらい
であった

そんな中、印象に残る言葉を探したのだが、求めるものは見つからなかった

デュ・ベレーの世界に留まっておくべきだったのかもしれない




















2026年9月12日土曜日

「生命と愛の芸術家」草間彌生


























今朝、テレビを付けると草間彌生(1929-2026.8.14)の追悼番組が流れていた

富士を版画にする過程を追ったところで、昔観たようにも思ったが最後まで観ることにした

草間彌生で思い出すのは、かなり前のことになるが、日本を代表する芸術家との対談をテレビで観た時のことである

訥々とした語りではあったが、この世界の認識の深さと鋭さに大きな違いがあることが見え、強い印象を残した

それ以前にも同じようなことを感じたことがある

大江健三郎(1935-2023)が、ある文筆家とテレビで対談している時のことであった


さて、今日の番組で彫師、摺師の技を見て、改めて感銘を受ける

草間は、自分の周りを水玉で満たしていくと自分が消えていくように感じることを「自己消滅」と言っているという

興味深く聞いた

これは、彫師も水玉を彫っている時に感じたという、「いま」に集中している時に時間が消え、宙に浮いているように感じるあの感覚にも近いように見えるのだが、

草間は最後には「生命と愛の芸術家」とでも言うべき境地に辿り着き、亡くなったのではないか

以前に観た時には浮かばなかったそんな感想が浮かんできた貴重な時間となった

最後まで観ることにして良かったと言えそうである












2026年9月10日木曜日

秋が静かに進んでいる



























昨日は、前日の異次元の体験があったせいか、この現実が新鮮に見える朝であった

少し前までは瘦せて見えたススキの穂が豊かになり、風に身を任せている

手前に目をやると、蝶とトンボが秋の舞いを見せてくれている

向こうの家から白熱電球の光が漏れているように見えたが、黄色になってきた葉であった

パリで見た室内からのオレンジ色の明かりが重なったのだろうか

何とも長閑な景色で、至福の時間と言ってもよさそうである


さて、今日はどんな一日になるのだろうか

いつもの通り、ひと日が終わるまで想像もできない










2026年9月8日火曜日

リドリー・スコットの「ラスト・サバイバー」を観る



























今日は午後から手持無沙汰になったので、近くで映画を観ることにした

こういうことは珍しい

コンシュが一段落したことと関係がありそうではあるのだが、、

調べたところ、リドリー・スコット(1937-)監督の「ラスト・サバイバー」(原題:The Dog Stars)というのがすぐ始まるようだったので、観ることにした

内容は想像していたものと全く違った

印象に残ったのは、大自然を俯瞰する映像と、その中を飛んでいる感覚を味わうことができたことだろうか

その間に起こっている出来事は surreal というか、今のわたしにはほとんど意味のないものに見えた

また、邦題には一工夫必要だったかもしれない

シネマを出ると、コンシュの翻訳について問い合わせが届いていて、現実に戻った










2026年9月6日日曜日

コンシュ『形而上学』の念校を終える















昨日から、コンシュ『形而上学』の索引の検討と本文の読み直しに当たっていた

先ほどその作業を終え、編集者の方に送った

最初に取り掛かったのが2024年の11月なので、2年が流れようとしている

結構長い時間かかったが、取り敢えずここまできたということになる

少しだけ解放された気分である


これから秋のカフェ/フォーラムシリーズが待っている

それから、新たなプロジェにも入ることができそうである

さて、どのようなことになりますか











2026年9月5日土曜日

コンシュの『形而上学』から改めて翻訳を考える



























昨日で、コンシュ『形而上学』の念校を一応読み終えた

それにしても、まだ手を加えるところが出てくるとは、驚くほかない

読むたびに、新しいところが気になってくる

毎回、認識が深まっているとは思いたいのだが、、、

今日から索引にも目を通しているところだが、そこからも新たな改善点が現れてくる

当初の認識がいかに浅いものであったのかということが分かる

思い返せば、最初に原著に当たった時に掴んだと思っていたことは、ほんの表層に留まっていたのだろう

著者の細かな思考の息遣いを感じ取るには、やはり翻訳をするしかないのだろうか

今は、全体的な整合性を見る段階に入っているが、そこまで来て初めて、著者が何を言いたかったのかがより鮮明に見えてくる

一人の人間の世界を理解しようとすると、途轍もない労力が求められるということなのだろう










2026年9月2日水曜日

サイファイフォーラムFPSSについての感想届く



























7月11日に第17回のサイファイフォーラムFPSSが開催された

この会についての感想がエッセイの形でSPNL(Science and Philosophy for Nature and Life)と名づけた交流の場に届いたので紹介したい

佐賀徹雄「第17回FPSS雑感

この中には今回のFPSSについての感想だけではなく、ISHEの活動を支える考え方、さらに現代の問題にも触れられているので、お読みいただければ幸いである

また、SPNLは3年前に立ち上げたが、これまで休眠状態であった

これを機に交流が盛んになることを願っている

皆様の参加を期待したい












2026年9月1日火曜日

今年最後の4か月期始まる


























1年を4か月単位で3期に分けて考えるとすれば、今年最後の期が始まることになる

こういう見方はフランスにはあったように思うが、日本ではあまり聞いたことがない

そんなことありませんよ、という場合にはお知らせ願いたい

今年の第3期はコンシュ『形而上学』の念校に向き合うところから始まった

先日も触れたように、時の流れが遅い(あるいは消えることがある)ので、1日が非常に長く感じられる

ここに秋のカフェ/フォーラム、そして新しいプロジェが入ってくることは間違いないだろう

他の何かが入ってくること、ありやなしや

この期がどのようなものになるのか、想像もできない

全くの白紙である

今はその時の流れの中に入るのを待つばかりである

おそらく、それでよいのだろう


今日は、ボストン時代の1曲を貼り付けておきたい

わたしの中では、半世紀前も全く古びていない