2024年4月27日土曜日

積み重ねで閾値を超える?

































このところ、これからに向けてぼんやりと考えたり、本を読んだりしていた

その中にアリストテレス(384-322 BC)のものがあったが、その方法論に共通するところを見つけ、大いに刺激を受けた

最近の午前中の使い方は、何もせず、考えが自由に広がるようにしている

DMNが活性化するような状態ではないかと勝手に想像している

このような時に思いがけないことが浮かび上がってくるので、貴重な時間となっている

今朝は文章が繋がるように頭に浮かんできたので、観想を中断してメモすることに

こういう時のメモは手書きでやるが、今日はA4で4-5枚になった

前段の文章が浮かんできたところを譬えるとすれば、AIがスラスラと文章を打ち出すイメージと重なった

こういうことは以前にはなかったので、長年の目に見えない積み重ねが一つの閾値を超えるところに導いたのではないと、これも勝手に想像している

こういうことがいろいろな過程で表れてくるのではないかと期待されるが、どうだろうか











2024年4月23日火曜日

カント300歳、それから LinkedIn のこと


































昨日がカント(1724.4.22-1804.2.12)の300歳の誕生日だったようだ

その哲学に当たるのはこれからであるが、その人生を見てみたところ、後半生が充実している

知らなかったのだが、『純粋理性批判』を出したのが57歳で、『永遠平和のために』は71歳の時に刊行し、79歳で亡くなるまでコンスタントに仕事をしている

今で言えば、この年齢に20年は足さなければならないだろう

カントに肖ろうなどと考えると、大変なことになる



さて現実に戻って、先日から覗くようになったLinkedInでの本日の出来事について書いてみたい

拙著 Immunity の出版社Routledgeのサイトに行くと、自著のプロモーションのやり方について書いてあるところがある

その中に、LinkedInなどのSNSを効果的に使うようにとあったので、Xなどと併せてこれまで殆ど使っていなかったLinkedInも使うことにしたところだった

そこに拙著の宣伝を出したところ、早速香港の高校生からズームで話を聞きたいとのメッセージが入っていた

哲学に興味が湧き、特に科学との関係について知りたいとのことで、非常に積極的だ

その人次第だが、世界は狭くなっていることを実感させられる

一応、本を読んでからの方がその価値があるかどうか分かってよいのではないかと答えておいた

それからイランの研究者からは、最も重要な問いを3つ教えてほしいという難問が届いていた

日本人からは出てきそうにないような言葉が出てくるので刺戟的ではある

まだ数日の経験だが、ヘビーな内容が行き来するところのようである

これまで反射的に捨てていたLinkedInからのメールをすべて読むようになっている

変われば変わるものである












2024年4月22日月曜日

ゲーテのヘルダー評

































その人のことをあまり知らずにエッセイなどに名前を引用することがあった

振り返れば多くはドイツの文化人で、その後再会してより詳しく知ることになった

その中には、例えばフリードリヒ・シュライアマハー(1768-1834)やヨハン・ゴットフリート・ヘルダー(1744-1803)などがいる

ゲーテ(1749-1832)の自伝『詩と真実』を読んでいると、ヘルダーの魅力に惹かれる様子が書かれている

今やゲーテに比べると知名度は比べ物にならないが、当時はヘルダーが5歳年長で幅広い領域で活躍していた

ゲーテも指摘しているように、若い時の5歳違いは大した差であった

最初の出会いの印象を次のように語っている

彼は如才ないといった人ではなかったが、その態度にはなにかもの柔らかなところがあり、礼儀正しく上品な人であった。丸顔、秀でた額、いくらかずんぐりした鼻、少しめくれた、しかしきわめて個性的な感じのいい愛らしい口。黒い眉と漆黒の目。その一方はいつも炎症を起こして赤くなっていたが、目には光があった。彼はなにかと質問して、私のことや私の境遇を知ろうとした。そして私はますます強く彼の魅力にとらえられた。

ヘルダーはきわめて好ましい、魅力ある、才気豊かな人であったが、他面、ややもすれば不快な面をあらわにする人でもあった。このように人を惹き寄せたり撥ねつけたりすることは、誰もが生来もっているものであって、程度に差があり、それの現れる頻度に違いがあるに過ぎない。こうした性情を真に克服できる人は稀であり、多くは克服したようなふりをしているだけのことである。


そしてヘルダーが後年成し遂げたことを思い、この時彼の中にはどのような変化が起こっていたのかにゲーテは思いを馳せる

このような精神のうちに、いかなる動きがあったか、このような資性のうちに、いかなる醗酵があったのかは、到底とらえることも述べることもできるものではない。しかし、彼がのちに多年にわたってつとめ、成し遂げたことを考えてみるとき、彼のひそかな努力が非常なものであったことは、容易に察せられるのである。

 (山崎章甫訳)











2024年4月21日日曜日

T・S・エリオットの文化論から


















T・S・エリオット(1888-1965)の文化についての考察(深瀬基寛訳)を読んでいたら、いくつか目に付いたところがあったのでメモしておきたい

まず、エピグラフに「絶対権力は絶対的に腐敗する」で有名なジョン・アクトン(1834-1902)の、わたしの心とも響き合う次の言葉が出てきた

わたしは思う。われわれの研究はほとんど無目的というに近いものでなくてはならない。研究は数学とひとしく純潔の精神を以って追いかけられることを願う。ーーアクトン  

I think our studies ought to be all but purposeless. They want to be pursued with chastity like mathematics. — Acton


それからこういう一文もあった

最初の重要な主張は、いかなる文化も何等かの宗教を伴わずしては出現もしなかったし発展もしなかったということであります。

あるいは、70年以上経った今でも突き刺さる言葉も出てくる

われわれ自身の時代が衰頽の時代であるということ、また、文化の水準が五十年前よりは下がっているということを或る程度の自信を以て主張することができます。またこの衰頽の徴候が人間活動のあらゆる分野に見えていることを断言し得るのであります。文化の頽廃がさらに悪化しないという理由も考えられないし、文化を全然もたなくなるであろうと断言できる、相当長期間にわたる一つの時代を予見し得ないという理由もまたないのであります。

「カルチュア」を個人、集団・階級、もしくは社会全体の3つのレベルにおける発展として考え、次のように言っている

マシュー・アーノルド(1822-1888)は第一義的に、個人と個人の目指すべき「完成」とを問題にしています。・・・アーノルドの「カルチュア」なるものが近代の読者にとって何となく手薄い印象を伝えるゆえんは、その幾分は彼の描いてみせた風景に社会的背景の欠けていることに基づくのであります。

これは、先日のSHE札幌で取り上げたプラトン(427-347 BC)の向上道と向下道とも関連するのように感じた 

それから「文化人」についてのコメントもある

人々はいつもみずからを一芸に達するゆえを以て教養人と考えたがります。事実は彼らは他の諸々の技能に欠くるばかりでなく、彼らの欠くところの技能に目を塞いでいるのであります。いかなる種類の芸術家も、たとえきわめて偉大な芸術家にしても、ただその理由のみによって教養人であるということはできません、芸術家というものはその専業以外の芸術に対してしばしば無感覚であるばかりでなく、時にその起居動作は甚だ粗暴であり、知的能力において甚だ貧弱であります。文化に貢献する人間は、彼の貢献がいかに重要であるにもしろ、必ずしも「文化人」ではありません。

 



 


2024年4月19日金曜日

キェルケゴールの声を聴く































今日は、キェルケゴール(1813-1855)のアドバイスを聴いてみたい

ひとつの書物を書こうとする者が、自分の書こうとしている事柄に関していろいろと思い煩うということは、結構なことだと、私は思う。同じ事柄に関してこれまで書かれたものを、できるだけ知ろうと努めることも、悪くはない。その際もしも彼が、その事柄のこの乃至はあの部分を徹底的に申し分なく論じ尽くしているような人間に出会いでもすることがあったら、歓喜して然るべきであろう。・・・以上のことを、ひと知れず、そうして恋する者の熱情を傾けて、成し遂げたとすれば、もうそれ以上何も必要はない、早速自分の本を書かれたらよろしかろう、——鳥がその歌を歌うように。誰かがそれから利益をえ、それに喜びを見出すことでもあれば、ますます結構である。くよくよせずに遠慮なくそれを出版されて然るべきであろう、——ただし余輩によって一切が決着せしめられたとか、地上一切の世代はこの本によって祝福を与えられるであろうなどと勿体ぶられることは御無用である。それぞれの世代はそれぞれ自分の課題をもっているわけなのであるから、われこそは先行のものにとっても後続のものにとっても一切であらねばならぬなどと途方もない努力をされる必要はさらさらない。世代のなかのそれぞれの個人もまた、それぞれの日のように、それぞれ特別の苦労を担っている、だから各自自分自身のことを思い煩うだけでも精一ぱいなのである。なにも君主のような深憂の面持ちで全世界を抱擁される必要もなければ、本書とともに新紀元と新時代が画されねばならぬなどと意気込まれる必要もない。況んや最新流行の型にならって、空虚な勿体ぶった約束をされたり、広いさきを見透した自分のこの示唆にこそ将来性があるかのように装われたり、いかがわしい値打ちのものをこれは保証つきだと請合ったりされるようなことは、御無用であろう。広い肩幅をもっているからといって、誰でもがアトラスであるわけでもなければ、また世界を担ったせいでそういう肩を与えられたわけでもない。「主よ、主よ、」と呼ばわる誰もが、だからといって天国にはいるわけでもない。全世界のことはひき受けたと名のりでるところの誰もが、だからといって自己自身に対して責任をもちうるような信頼のおける人間だと限ったわけのものでもない。「ブラヴォ」を叫び「万歳」を口にする誰もが、だからといって自己自身と自己の歎賞の意味とを理解していると限ったわけのものでもないのである。

斎藤信治訳) 

 












2024年4月17日水曜日

「作るのではなく、生まれいづるのを待つ」再び




















月曜に拙著 Immunity の原稿校正が終わった

まだゲラ校正は残っているのだが、どこか一段落したような気持ちになった

ということで、昨日は縛りのない状態で考えを巡らせていた

これまでにいろいろなアイディアが生まれているが、重点を置いて考えていきたいことが浮かび上がってきた

その時々でピンとくるものを考えていくことになるのだろうが、当面の中心が見えてきたということになる

わたしのやり方は、こちらが積極的に働きかけて何かについて纏め上げるというのではない

あくまでも考えを重ねて行った先で、自然に生まれいづるのを待つというものである

そのため、昨日固まってきたものがいつ実を結ぶのかは分からない

あるいは、他のものの方が早く花を咲かせるかもしれない

あるいはまた、すべてが萎れてしまうかもしれない

それが面白いところだとも言えるだろう

以前に関連したテーマについて書いているので、以下に貼り付けておきたい


 作るのではなく、生まれいづるのを待つ、あるいはネガティブ・ケイパビリティ再び

 (医学のあゆみ 257: 1187-1191, 2016)








2024年4月15日月曜日

拙著 Immunity の編集作業で分業の実態を知る




長いトンネルから抜け出したところである

1週間という期限が付いていた Immunity: From Science to Philosophy の原稿校正が終わり、担当者に送ったところだ

いつものことだが、最初その中に入るのに時間がかかった

しかし、ゴールが見えてきたと思った昨日あたりから元気になり、今日はまずまずといったところだろうか

このような作業の時は一定の時間をそれにかけなければ終わらないので耐えるしかないのだが、それが難しい

どうしても終わらせようという気持が強くなるからだ

ここでのコツは、その場の景色を楽しむようにすることだろうか

すべては「いま・ここ」に行き着くのである

いずれにせよ、予定通り終わらせることができたのは幸いであった

ただ、今回もいろいろな問題を発見したので、まだ何かあるのではないかという懸念は残る

ゲラの段階で万全を期したいものである


今回の本を作る過程を見ていて、日本との違いが明らかになってきた

個人的な観察を書いてみたい

海外の出版社の場合、Book Proposal という形で原稿を広く募集している

そのため、世界中から送られてくる多数の提案書を読まなければならない

この段階でどれを出版するのかを決める編集者がいる

良さそうだと判断されると、外部の専門家の評価に回される

そこでも問題がなければ、別の編集者が本をどのような作りにするのかを検討する

出版社の様式に合わせた調整が行われ、表紙までがこの段階で決ることを今回知り、驚いた

日本の場合、最後のゲラ校正のあたりで決められていたからである

ここで様式が決まると第3段階のコピーエディティングに入るが、これは別会社が担当している

最初は原稿の校正があり、それが終わると最終的なゲラ作成に入る

この前段が今日終わったことになり、後段のゲラが届くのを待つ状態に入った

それが出来上がるのは、来月とのことであった


このように、向こうの出版社は3段階の編集作業が分業になっている

日本の場合は全過程を一人の編集者が担当するので大変そうである

その一方で、何かをこの手で作り上げるという充実感はより強くなるのではないかとも想像される

この違いはどこから来るのだろうか

単に扱う量が増えてくると分業にせざるを得ないということなのだろうか







2024年4月9日火曜日

サイファイカフェSHE札幌のまとめを終え、拙著 Immunity の校正が始まる















昨日はたっぷりと一日かけて、4月6日(土)に開催されたサイファイカフェSHE札幌のまとめを考えていた

最終的にはかなり長いものになったが、興味深い読み物になっていると思う

以下のページを覗いていただければ幸いである

 サイファイカフェ SHE 札幌: 11 見方・生き方(プラトン)


そして今朝目覚めると、8月に出る予定の拙著 Immunity: From Science to Philosophy の校正原稿が届いていた

予定通りの到着である

まだ詳しく見ていないのでどのようなことになるのかは分からない

ただ、1週間しか余裕はなさそうなので、これに集中するしかないだろう







2024年4月7日日曜日

春のカフェ/フォーラムシリーズが終わり、"J'observe donc je suis" へ

























昨日で、春のカフェ/フォーラムシリーズが終わり、一段落したところだ

かなり密度の濃い会が続いたような印象が強い

自分では気づかないが、これまでの年月が主宰者と同時に参加者にも影響を与えている可能性がある

これからも注意深く観察しながら現在地を確認し、新しい方向性も模索していきたいものである

これまでと変わらぬご理解とご支援をお願いいたしたい



ところで、今週あたりから免疫論の英語版 Immunity: From Science to Philosophy の校正が始まるのではないかと想像している

当分はそれを軸に回るものと思われる

初めての経験なので、こちらも注意深く観察していきたい

そう言えば、わたしの昔の devise は "J'observe donc je suis" (我観察す、故に我あり)であった












2024年4月6日土曜日

第11回サイファイカフェSHE札幌でプラトン哲学を振り返る





本日「プラトン哲学からものの見方、生き方を考える」をテーマに、第11回のサイファイカフェSHE札幌が開催された

参加者は4名であったが、内2名は初めての方であった

新しく参加された方が拙著を詳しく読まれていることに驚くと同時に、サイファイ研究所ISHEの活動についても理解されていることを知り、有難く思った

少しずつではあるが、同好の士が増えるのは喜ばしいことである


今日のプログラムは、ヘラクレイトス(c. 540-c.480 BC)の哲学を参照しながら対話篇『饗宴』と『パイドン』を読み、現象界の背後にある真の世界(プラトン流に言えばイデアの世界)を意識してものを観ることの意義と、そういう観方をすること自体が人間の生き方として意味を持ってくるという認識について語り合うというものであった

さらに、真なる世界に迫った後には、その世界を現象界に浸りきっている人たちに伝えることが重要になるという考え方についても議論した

最後に、我々はいかに生きるべきなのかという問題について、わたしの考えを提示した後に意見交換をした

新しい視点が加わり、豊かな時間となったのではないだろうか

それが会の終了後にも継続したことは言うまでもない

会の詳細については、近いうちにサイトに掲載する予定である

秋に予定されている次回も再び議論が広がることを願うばかりである