2026年4月24日金曜日

マルセル・コンシュ『形而上学』の初校見直し終える















このところ、マルセル・コンシュの『形而上学』の初校の見直しに当たっていた

想像以上に時間がかかったが、本日すべてを終えて知泉書館の編集者に送ったところである

何度も読み返していると、その都度理解が深まっていることが分かる

アドーが言う読み方をしていると、確かに著者の声が立ち上がってくる

それ以前にはなかった認識に至るのを体感するのは、やはり楽しくもあり、満ち足りたものをもたらしてくれる

いつものことだが、それでも行き届かないところがある

しばらく時間をおいて、再び見直すことになるだろう

取り敢えず、今抱えているいくつかの焦点をオーガナイズしながら、新しいテーマを探索する方向に進むことができそうである

束の間の解放感を感じている








2026年4月14日火曜日

海辺のカフェでひと休み





















昨日で春のカフェのまとめを終えたので、コンシュの翻訳の初校を見直す作業に戻ることができるようになった

まだ半分くらい残っているが、午後一段落したところで久しぶりに外に出た

先日、宣伝が目に入った海辺のカフェを覗いてみることにした

写真では再現出来ていないが、わたしの頭の中では、ポール・ヴァレリー(1871–1945)生誕の地、南仏セットの海辺のカフェにいて、ニースの海を眺めているような錯覚に陥った

セットからニースに飛んだのは、海の色がそっくりだったからだろうか

これからも忘れたころに行ってみたいものである




























2026年4月11日土曜日

第16回サイファイカフェSHE札幌、盛会のうちに終わる

























本日、春のサイファイカフェ/フォーラム最後になる第16回サイファイカフェSHE札幌が開催された

実は今回は、札幌の地でサイファカフェSHEが開かれてから丁度10年目に当たる記念すべき会であった

初回は2016年3月2日の開催だったので、アッという間の出来事であった

参加希望者がいなければ継続されていなかったことを思えば、この間に参加された皆様には感謝しかない

今日も8名の方が参加され、活発な議論が展開した

今回のテーマは、拙著『免疫から哲学としての科学へ』の最後の部分、免疫の形而上学を読むことであった

これまでの3回で科学が明らかにしたことを振り返ったが、今回はそれを基に著者が哲学の蓄積を基に再解釈した内容について検討するという趣旨であった

詳細は、近いうちに専用サイトにまとめる予定なので、訪問していただければ幸いである

それから、次回からの新企画として、参加者の中で話題提供を希望される方に発表していただくことにした

東京のサイファイフォーラムFPSSの札幌バージョンということもできるだろう

11年目に入るこの秋から、この新機軸がどのように展開していくのかを見守ることになる

SHE札幌の今後に、皆様のご理解とご協力をよろしくお願いしたい



































2026年4月6日月曜日

どちらも最終盤





















今週末に春のカフェ/フォーラムシリーズ最後になる第16回サイファイカフェSHE札幌が開催される

この1週間、何か新しい視点が得られないか考えることになる

それと並行しなければならないのがマルセル・コンシュによる『形而上学』の翻訳である

こちらもこの1~2週間が最終盤ということになりそうだ

どのようなことになるのかまだ見えていないが、納得のいくところまでやりたいものである



今日の瞑想を眠っていた別ブログにアップした

ご参考までに

  Mind Files for Philosophical Musings: わが生の形而上学化







2026年3月31日火曜日

超世俗的ということと形而上学の心
















昨日の話題にあった「超世俗的」ということに関連した考察が、その後の記事で展開されていた

わたしにとって重要なことが2つ語られているので、以下に貼り付けておきたい

 吉田秀和さんの姿勢と観察、あるいは中原中也(2017年11月1日)

1つは、空を仰ぎ、全世界を自分に呼び込むような姿勢で、その全体を捉えようとする心――これは形而上学の心と同じである

もう1つは、世の中で活躍している人たちとは違う別の世界があり、その世界を持っている人がいるということ――これはまさに「超世俗的」と重なっている

吉田秀和(1913–2012)さんは若いときにその世界を知りたいと思ったとある

この2つ、実は根のところでつながっている

再確認すべきことが、ひと昔前に記録されていたことになる







2026年3月30日月曜日

下村観山展でディオゲネスを観る

 













先日の学友との会食の後、これまでの記録を読み返してみた

そうしたところ、興味深いことが見つかった

プラトンによれば、そのものの本質は原初にあるという

真の原初ではないが、これから社会に出て歩み出す以前の学生時代は、一つの原初と捉えられないこともない

ひと昔前の会食で、友人の一人がわたしのことを「学生時代から『超世俗的』で、今も変わっていないからなぁ」というような形容をしていたという件があった

 学友といつもの談笑、あるいは目の前の鏡(2017年10月30日)

「超世俗的」という言葉はわたしの辞書になかったので、それまでそうとは意識されていなかったようである

今、改めて振り返ってみると、わたしの本質に近いところのものが学生時代にすでに表れていたと読み取ることもできる

「超世俗的」と言えば、わたしの心の師になっているシノペのディオゲネス(c. 412–323 BCE)の本質そのものとも言えるだろう

そう言えば、最初のエッセイ集の表紙も素晴らしいディオゲネスであった



















今、近代美術館で下村観山展が開かれている

下村観山(1873–1930)がディオゲネスを描いているという話を聞き、出かけることにした

会場はそれなりに混んでいた

多くのテーマがわたしの興味の外にあったので、それほど長居はしなかった

目的のディオゲネスの絵は2つあった

撮影が許されていたものが以下のディオゲネス






















撮影不可だったのが以下の絵になる




















©The Trustees of the British Museum


こちらは東洋の諦念のようなものを感じさせるのだが、、

外はすっかり春めいていた



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アパルトマンに戻り、最後に近代美術館を訪れたのはいつだったのか調べてみた

ぴったり13年前にフランス・ベーコン(1909–1992)を観に行ったのが最後であった

当時はフランスにいたので、春のカフェシリーズのために帰国した時期に当たる

 「目撃せよ。体感せよ。記憶せよ。」 フランシス・ベーコン展にて(2013年3月29日)









2026年3月25日水曜日

春の学友との会食


























つい先日顔を合わせたようでもあり、それはかなり前のことだったようにも感じるこの日、恒例の会食があった

小雨降る中でのことであった

そのためかどうかはわからないが、静かな出足となった

わたしのカフェ/フォーラムの活動に目を通したとのことで、長い間多様なテーマについて会を開いてきたことに驚いている様子であった

こちらはいわば惰性でやっているようなところもあるので気づかないが、外から急に覗いたときにはそういう感想になるのかもしれない

先日のブログでも触れたが、そう言われると、自分でもほんの少しではあるが驚くところもある

いずれにしても、参加希望される方がいる間は続けることになるだろう

このように外から見ている方がいることを知ると、気が抜けないという気持ちにもなってくる

また、いろいろなご意見を伺いたいものである


ところで、今日の会でも出ていたが、現在、マルセル・コンシュの『形而上学』の翻訳をやっている

春のカフェ/フォーラムシリーズのまとめが先週末に終わったので、今週から初校ゲラの校正を再開したところである

2つのことを並行して進めるのは苦手のようで、いつもこういうことになる

これからどのような展開を見せるのか

それは終わってみなければわからない

これもいつものことである


今日はいつもお世話になっているお店に、近著『生き方としての哲学:より深い幸福へ』を献本して帰ってきた










2026年3月23日月曜日

サイファイカフェ/フォーラム春の東京シリーズのまとめ



















1週間ほど前にサイファイカフェ/フォーラム東京シリーズが終わりました

このシリーズに参加された皆様に改めて感謝いたします

これらの会についてのまとめが終わりましたので、以下に貼り付けておきます

参照していただければ幸いです


第13回ベルクソンカフェ(2026年3月4日)

マルセル・コンシュの哲学(3)『生きることと哲学すること』を読む ①

第23回サイファイカフェSHE(2026年3月6日)

フィリップ・クリルスキー『免疫の科学論』を読む ①

第14回カフェフィロPAWL(2026年3月11日)

『生き方としての哲学:より深い幸福へ』を語り合う

第16回サイファイフォーラムFPSS(2026年3月14日)

(1) 矢倉英隆:シリーズ「科学と哲学」⑩ ポパーのプラトン批判 (2)

(2) 竹田扇:デカルトの医学論――機械論に基づいた⼈体の統⼀的理解

(3) 白石裕隆:「文(ふみ)以前」を“詩"索する、地質・文学・遺跡紀行――川端康成「東海道」を端緒として


春のシリーズ最後の企画は、以下の予定です

第16回サイファイカフェSHE 札幌

日時:2026年4月11日(土)

会場:札幌エルプラザ 特別会議室

テーマ:『免疫から哲学としての科学へ』を読む(4)免疫を形而上学化する

この本を読む最後の会となります

興味をお持ちの方の参加をお待ちしております


なお、夏のシリーズは以下の2つで、プログラムは決まり次第お知らせいたします

◉ 第17回サイファイフォーラムFPSS――2026年7月11日(土)

◉ 第24回サイファイカフェSHE――2026年7月18日(土)

こちらの会もよろしくお願いいたします







2026年3月20日金曜日

7年ぶりのお店でディネ

























本日は、パリでお世話になった方とのディネがあった

もう15年くらいのお付き合いになるのではないだろうか

場所はコロナ前に伺って以来なので、7年ぶりということになる

店長とはフランスに渡る前からのお付き合いになるので、もう20年以上は経過していると思われる

こういう数字を見ると以前は驚いたのだろうが、いまではすべてがつい最近という感じで格段の驚きはない

いずれにせよ、こういう出会いや関係がこれから味を出してくるのではないかと想像される

次は場所を変えて新たにお話を伺いたいものである













2026年3月17日火曜日

昨日の詩が呼び覚ますもの


























昨日、瞑想の途中に古いファイルを眺めている時、以下の詩が現れたので紹介した

    白雪の荒野をゆくかこれからは
       vais-je désormais 
        sur la terre sauvage
         de la neige blanche ?

これは、フランスでの生活を模索するため、2007年3月にパリを訪問した時のものである

12区のベルシー、ドメニルからモントゥロイユ、ヴァンセンヌ、サンマンデのあたりを歩き回った翌朝の5時から1時間足らずの間に一気に浮かんできた17の詩の中の一つであった

こういうことがあるのかと、当時の自分も驚いている

こういうことは、その後一度もなかった

当時、パリでのことは何も決まっていなかったので、期待と不安が背景にあったものと想像される


この詩を反芻していると、いろいろなことが想起される

「白雪の荒野」は極限の平原がイメージされており、純粋、原初、無限というような最近よく使うようになっている言葉の意味が含まれているように見える

その無限の可能性と危険性を目の前にして、不安と静かな覚悟の中、独り歩み出そうとしている作者の気持ちが伝わってくる

丁度19年前の緊張した心象風景が蘇ってくるようである

昨日目にしたファイルには以下のような五七五の詩もあり、そこに本質があるという原初を確認する時間となった


    人類の遺産と歩まんヴァンセンヌ
      avec le patrimoine spirituel
       je décide de marcher
         à Vincennes


      哲学と科学と神とパリセット
        la philosophie
          la science et Dieu
            à Paris VII


        哲学書前に昂ぶるリブレリー
          devant des livres philosophiques
            je m'exalte
             dans la librairie


          春の空住み遂せるかパリの町
            le ciel du printemps
             puis-je vivre
              pour toujours à Paris ?


            フランス語我を導き哲学へ
              la langue française
               me guide sur les chemins
                de la philosophie


              先人の形見に触れん秋(とき)近し
                le souvenir de nos ancêtres 
                 le temps de le toucher
                  est tout près