2026年8月25日火曜日

10年前の今頃、パリからトゥールへ








2015年12月にスートゥナンスを終え、2016年の春に大学院博士課程を修了した

そしてその年の今頃、パリからトゥールへの引っ越し準備をしていた

その写真が出てきたので、ブログ記事とすることにした

実に懐かしい

その日、朝早く目が覚めた

朝焼けがまぶしかったのを思い出す







徐に、荷物の整理が始めた

写真を見ていると、9年間の塵が積もり、足の踏み場もなくなるほど乱れている部屋の様子が浮かんできた

今でもそこにいるような感覚になる


整理にかなりの労力を使ったので、終わった時にはホッとした

と同時に、パリでの時を共にしたアパルトマンと別れることになるためか、どこか物寂しさを感じたものである

キッチンの写真も出てきたので以下に貼り付けておきたい


















多くのものをもたらしてくれた時間と共にあった小さな空間である









2026年8月23日日曜日

変容を続ける庭



























快晴の下、紫煙をくゆらせながら庭を眺める

緑が深い

黄色い花の蜜を吸っているのか、蝶々が飛び回っている

なぜか心が和み、越し方のいろいろな出来事が蘇ってきた

庭には一切手を付けず、植物がどのように育っていくのかを眺めることにした

毎年変化を見せるそのさまを驚きながら楽しんでいる

ここ4-5年で大きく変わってきたのは、どこからか飛んできた松ぼっくりから松の木が育ってきていることだろうか

最初に気づいたのは5年ほど前

冬に鮮やかな緑が目に入った時であった

その時10センチくらいだったものが、今では2メートルを超える丈にまで育っている

さらにそこから種子が飛んだのだろう

至る所に小さな松が広がっている

いつものことながら、植物の持つ驚異の生命力に目を見張る

これからどういうことになるのか、楽しみにしているところである







































2026年8月20日木曜日

今年の後半に向けて何を想う

















1年の前半は8月お盆のあたりまでで、これから今年の後半が始まるという感じがしている

このような感覚は、ひょっとすると初めてではないだろうか

今年はプロジェがそのように動いていることと関係しているのかもしれない

残り4か月ほどしかないが、この間にどのようなことが起こるのか

それは分らない


そこで思い出すことがある

20年以上前、フランスに渡る前にフランス語学校に通ったことがある

大体、1学期3か月ほどだった

その程度の時間で一体どれだけのことを学ぶことができるのかと疑問に思った記憶がある

そして、フランスの大学院も前・後期それぞれ3か月くらいではなかっただろうか

この時も、僅かこの程度の時間で何を身につけることができるのか疑っていた

しかし、実際にその中に入ると、時間の流れが変わるのか、実に濃い経験をすることができた

外から見ている時間とは明らかに違ったのである


この経験から言えることは、これから僅か4か月ほどだが、その中には想像もできないものが詰まってくる可能性があるということだろう

主観的には途轍もなく長い時間になり得るということである

いつのころからか1日が非常に長くなった

それがさらに豊かなものになることを願いながら、今年の後半を迎えることにしたい











2026年8月17日月曜日

アトリエの書架を眺める






















久しぶりにアトリエに戻り、新鮮な目で書架を眺める

そこに収まっているものは2007年にフランスに渡ってから手に入れたもので、数年前に日本に戻ってきたものである

つまり、その間にわたしの受容体が、瞬間的にであれ、反応したものの総体がそこにある

向こうにいる時には、その全体の配置が頭に入っていたのだが、こちらに移した時に、整理することなく棚に入れたため、目的の本を探すのにも一苦労するようになった

同時に、この間、興味の持ち方が少しずつ変化しており、この書架に注意を払うことも少なくなっていた

ただ、向こうにいる時に芽生え、未だに解決されていない問題意識は依然としてわたしの中にある

こちらに戻ってからやっていることは、それを解きほぐし、具体的な形に彫刻することである

彫刻と言っても、今のイメージは、粘土を盛り重ねていく塑造の方に近い

最後になると、削り取る彫刻に近くなるのだろうが、

その過程で、これらの資料は大きな力になるはずである

なぜ、これらの本を手に入れたのかが後付けで分る瞬間が訪れるかもしれない

これから、そういう気持ちでこれらの塊と歩みたいものである











2026年8月12日水曜日

コンシュ『形而上学』の翻訳で考えたこと



























今週はどうしたことか、一週間の休日をもらったような気分になっている

こういうことはあまり経験したことがない

コンシュ『形而上学』の三校を終えてから一週間が経過して、ゆったりした気分になってきたのかもしれない

その気分に逆らうことなく過ごして、3日目に入ったことになる

昨日あたりは、かなり長い間リラックスした時間の中にいたと思ってカレンダーを見たところ、まだ2日しか経っていないので驚いた

いつも感じていることだが一日が長いので、たっぷりとそれを味わわせていただいている

その感覚から言えば、特に驚くこともなかったのだが、、以前の感覚で言えば、ということなのだろう

いずれにしても、時間の感じ方でこの人生は大きく変わるということだけは確かだろう

仕事をしていたり、時間に追われたりしていると、どうしてもカレンダー時間を頭に描くことになる

そうなると、時間に追われていることが充実した状態だと錯覚しやすくなる

時間の持つ豊かさ、さらに言えば無限の広がりがそこにあることに気づけなくなる

幸福を求めて人生を送っているとすれば、幸福のかなりの部分を味わうことなく人生を終えることになりかねない


ところで、時間の問題はコンシュ『形而上学』でも取り上げられている

この本は、考えるべき問題――例えば、時間、道徳、倫理、哲学、形而上学、科学、宗教などの基本的な問題――をどのように考えべきなのかについて、一つの道筋を提示していると見ることができる

その意味では、訳者にとってだけではなく、多くの方の参考になるものと言えるだろう

それから、以前に翻訳をした時にも感じたことだが、翻訳は原著者の語り口と同じものにはなり得ず、あくまでも訳者のものであるということである

前回、科学書を翻訳した時、著者を日本に招いて講演会があった

その時、訳書を読んだ人が原著者に向かって「先生が・・・と書いているのは・・・」と発言しているのを聞き、違和感を覚えたことがある

その内容はともかく、その言葉遣いは訳者のものであることを知っていたからである

翻訳しながら、原著者の表現を再現することは不可能であり、訳者のものにしかなり得ないことを身に沁みて理解していたからである

純科学の場合であればまだしも、哲学となるとその仕事は想像を超えるものになる


さらに今回、小見出しを付けることになった

どこに、どのような小見出しを入れるのかという組み合わせは、ほとんど無限にある

その選択によって本書が全く違うものになり得るということである

訳者はその中の一つを選んだことになる

小見出しを付けることにより、この書は二重三重に訳者のもの以外ではあり得なくなった

大変な選択をしたことに気づいた静かな休日である












2026年8月7日金曜日

久しぶりのユルスナ―ル
















本日は、ランドネがご趣味の友人とのデジュネとなった

まず、マルグリット・ユルスナール(1903–1987)の話が出てきて驚いた

ユルスナールと言えば、渡仏前に何度かわたしの前に現れたことがある

ハドリアヌス帝の回想』(Mémoires d'Hadrien)とそのCDを手に入れたり、ユルスナールに関するシンポジウムに参加したこともあった

  ユルスナールのシンポジウムへ(2005-02-26)

しかし、深く入ることなくフランスに渡り、新しい領域に飲み込まれていった

今回、ユルスナールが三島に興味を示し、その考えをまとめていたことを知った

  Mishima ou la Vision du vide (Gallimard, 1980)

  『三島あるいは空虚のヴィジョン』(河出書房新社、1982)

三島の中には空虚しかなかったということなのか

空虚ということは何もないということではないのか

もしそうであれば、コンシュであれば、考えるに値しないと言いそうでもあるのだが、

あるいは、入れ物はあるが中身がないということなのか

このあたりを知るには、読んでみるしかないのかもしれない

それはそうとして、久しぶりにアドリアンのCDでも聞いてみたい気分になった


ところで、コンシュの三校が終わった今週から、暫くの間お休みしていた新しいプロジェをゆっくりと再開したところだ

以前にも書いたかもしれないが、どこに辿り着くのかは全く見えていない

この、どこの港に着くのか分からない船旅をしているような気分は決して悪くない

その良さを知ったのは、フランスに渡って各期ごとにミニメモワールをまとめる作業の中でのことだった

それ以来、その感覚の捨て難さは常にわたしの中にある

コンシュによれば、芸術家が何かを創造するというのは、設計図をもとに進めるのではない

自分が作りたかったものが何だったかわかるのは、それが出来上がった時だと言っていた

まさにその感覚である







2026年8月6日木曜日

いろいろな瞑想生活を観る
















今朝、Youtubeを開くと、山道(The Mountain Path)というドキュメンタリーが出てきた

中国の山奥に暮らす僧の生活と話を撮った静かなものであった

瞑想生活の中にある人たちの姿を見て、その生活様式は違えどもその精神においてはわたしと変わらないような気がした

わたしもかれこれ20年近くになる、言ってみれば瞑想生活の中にあるからだ

今はやりの言葉で言えば、マインドフルネスである

あらゆる瞬間に自らの意識を自らの内に向けているのである


続いて、聖なる群島(The Holy Archipelago)が出てきたので見ることにした

そういう気分だったのだろう

山道における生活も小さな集団で行われていたが、こちらは教会という強固な制度の中での生活であった

2006年の12月に将来を模索するためパリを訪問した際に観たフィリップ・グレーニング(1959–)の Le Grand Silence(大いなる沈黙へ)を想起させるものであった

グレーニングの映画には語りや音楽は一切なかったが、精神においてはこのドキュメンタリーも同じ流れにあるのだろう

美しい映像も楽しんだ

2006年暮れのブログ記事が残っている(こちらから)

これを読み直すと、これからの生活がどのようなものになるのかということの大枠を掴んでいたようである

今振り返ると、細かいところに目を瞑るとすれば、驚くことは何もなかったと言ってよいだろう






2026年8月2日日曜日

コンシュ『形而上学』三校、見直し終える

















夏のカフェ/フォーラムのまとめを終えた今月21日から、コンシュ『形而上学』の三校の見直しを進めていた

本日、見直しと索引の作成を何とか終えることができた

かなり消耗するプロセスとなった

二校の見直しを終えた時には、「これで終わった」という感慨が浮かんできたが、それは全くの錯覚だった

かなり重要な修正から始まり、細かい調整まで残っていた

単に注意が行き届いていないこともあるが、その時の精神状態・気分によって判断基準が微妙に変わることがあるので厄介だ

こうしてみると、このプロセスに終わりはなさそうだが、今回、一応のケリを付けたことになる

今は、不備ができるだけ少ないことを願うばかりである










2026年7月30日木曜日

昔の研究仲間とビアパーティを楽しむ


































兎に角、酷い暑さが続いている

そんな中、ビアパーティのお誘いがあった

その昔所属していた研究所の皆さんとの会である

前回がすっかり昔のことのように感じられる

それは時の流れが速くなったというのではなく、先日も触れた日々が分厚くなり、向こう側が見え難くなっているという状態のせいに違いない

風邪で体調を崩して直前で欠席になった方もいたが、10年振りくらいの方もおられ、話は盛り上がった

と言いたいところだが、日々静寂の中で暮らす身にとっては、異常な騒音の中での会話になかなか入っていくことができなかった

話し声が搔き消される状態の中にいたからである

現代の仕事をしている人は、あの環境を何とも思わないのであろうか

お店は満員であった

次回があるとすれば、話し声の聞こえる場所でお会いしたいものである

いずれにせよ、皆様の更なるご活躍を願っている















2026年7月25日土曜日

仙台で旧交を温める

























今日は1年振りに雨に濡れる仙台を訪問

田村、小林両先生と旧交を温めた

このところコンシュ『形而上学』三校の見直しに当たっていたので、気分転換になったかもしれないし、そうでないかもしれない

田村氏とは1年振りだが、小林氏とは7年振りになる

田村氏は昨年奥様を亡くされ、その後どんな生活をされているのか気になっていたが、お元気そうで何よりであった

ただ、これから先の仕事をどのように組み立てるのかに頭を使われているようであった

おそらく多くの人が直面することではないかと思われるが、外的な拘束要因がなくなった時にどのような生活になるのかが不安要素として浮かび上がるのではないだろうか

わたしのようなプー太郎状態に耐えられるのかという問いにもつながるので、意見を聞かれる場面もあった

わたしから見れば理想的な状態が、必ずしもすべての方にとってそうであるとは限らないので、難しい問題ではある

小林氏にしても、仕事の終わりが近いとのことで、同様の問題を考え始めているご様子であった

いずれにせよ、人生に味が加わるのはこれからである

「生き方としての哲学」は貴重なスパイスになり得るとお伝えし、近いうちの再会を期して別れた