自然と生命を考える
In Search of a New Philosophy of Nature and Life
2026年3月25日水曜日
春の学友との会食
2026年3月23日月曜日
サイファイカフェ/フォーラム春の東京シリーズのまとめ
1週間ほど前にサイファイカフェ/フォーラム東京シリーズが終わりました
このシリーズに参加された皆様に改めて感謝いたします
これらの会についてのまとめが終わりましたので、以下に貼り付けておきます
参照していただければ幸いです
マルセル・コンシュの哲学(3)『生きることと哲学すること』を読む ①
フィリップ・クリルスキー『免疫の科学論』を読む ①
『生き方としての哲学:より深い幸福へ』を語り合う
◉ 第16回サイファイフォーラムFPSS(2026年3月14日)
(1) 矢倉英隆:シリーズ「科学と哲学」⑩ ポパーのプラトン批判 (2)
(2) 竹田扇:デカルトの医学論――機械論に基づいた⼈体の統⼀的理解
(3) 白石裕隆:「文(ふみ)以前」を“詩"索する、地質・文学・遺跡紀行――川端康成「東海道」を端緒として
春のシリーズ最後の企画は、以下の予定です
日時:2026年4月11日(土)
会場:札幌エルプラザ 特別会議室
テーマ:『免疫から哲学としての科学へ』を読む(4)免疫を形而上学化する
この本を読む最後の会となります
興味をお持ちの方の参加をお待ちしております
なお、夏のシリーズは以下の2つで、プログラムは決まり次第お知らせいたします
◉ 第17回サイファイフォーラムFPSS――2026年7月11日(土)
◉ 第24回サイファイカフェSHE――2026年7月18日(土)
こちらの会もよろしくお願いいたします
2026年3月20日金曜日
7年ぶりのお店でディネ
2026年3月17日火曜日
昨日の詩が呼び覚ますもの
2026年3月16日月曜日
全的観想生活の驚くべき効果か?
2026年3月14日土曜日
第16回サイファイフォーラムFPSS、盛会のうちに終わる
2026年3月11日水曜日
第14回カフェフィロPAWL、無事に終わる
2026年3月6日金曜日
第23回サイファイカフェSHE、無事に終わる
2026年3月4日水曜日
第13回ベルクソンカフェ無事に終わる
今夜は第13回目となるベルクソンカフェを開催した
お忙しいところお集まりいただいた皆様に改めて感謝したい
今回は、マルセル・コンシュの Vivre et philosopher(『生きることと哲学すること』)という2011年の著作を読み、特に唯物論について考えることをテーマに据えた
本書はルシル・ラヴェッジというコロンビア大学パリ分校の哲学者の質問に答える形でまとめられている
同様の質問に1991年(20年前)にも答えているが、基本的なところは変わっていないという
ただ、序文でも指摘されているように、唯物論に対する考え方は変わったようである
そこで論じられていることは、以下のようなことであった
ものことの起源に精神を置く観念論、有神論、唯心論には反対するという意味で唯物論の陣営に属するが、正真正銘の唯物論者ではないと断っている
その理由として、
1)「人間は自然(ギリシア人が言う無限で永遠ですべてを包摂するピュシスの意味における)の一部である」とは言えるが、「人間は物質の一部である」とは言えない
2)すべての人間にとって根本的で普遍的な自然の経験はあるが、物質の経験はない
3)唯物論者に物質とは何かと問うと、それに答えるのは科学であるという答えが返ってくるが、その時、哲学は「科学の侍女」(ancilla scientiae)になっている
4)唯物論者は自由意志を否定しがちであるが、何らかの判断をする場合、その原因が基準であるとすれば、真なるものを基準とした判断はどうなるのだろうか――真理は原因ではないのである
5)唯物論者にとっての道徳は、社会学的、歴史的説明に属する事実であり、道徳の基礎がしっかりしていないと、各人の道徳が持ち出されることになる――コンシュにとっての道徳は人権の道徳ただ一つで、これは何人も従わなければならない――これが崩れると、独自の道徳を持ち出すナチや人種差別主義者が出現する
6)物質という概念は現実/実在の全体を支えるにはあまりにも貧しいが、自然という概念はそれができる――すべてを生み出す無限の自然は存在するすべての第一原因であり、それは取りも直さず生命である
以上のようなことを指摘して唯物論に疑問を投げかけている
これらの点を中心に、唯物論をどのように捉えるのかという問題が他の見方との比較を通して議論されていた
詳細は、専用サイトで紹介したい
訪問していただければ幸いである
なお、春のシリーズ第2弾は、金曜日のサイファイカフェSHEで、クリルスキー博士の『免疫の科学論』を読む予定である
興味をお持ちの方の参加をお待ちしております
2026年3月1日日曜日
Mind in Life を読む(8)志向性
これは何かをしようとする時に目的を持つというような意味合いではない
もちろん、それも志向性の一部ではあるのだが、、
「志向性」とは、それ自身を超えて指し示すという意識特有の現象に対する言葉である
語源的には、「弓を弾く」あるいは「標的を狙う」という意味のラテン語 intendere に由来する
狭義には、対象に向かうものとしての志向性を指すが、広義には、世界に開かれていること、あるいは他者であること=他者性(alterity)を意味する
いずれの場合も、意識が自己に閉じていることを否定している
「対象に向かう」における対象とは、元々は我々の前にあるものという意味である
自身を超えたところにあるものを意識することが、狭義の志向性で、対象となるものは身の回りにあるものでも、過去の出来事でも、未来のことでも、あるいは存在しないものについてでもよい
日常に感じる感情や感覚、気分のようなものは対象に向かう志向性とはなりえない
ただ、その感情や気分が世界に開かれている場合には――例えば共感など――広義の志向性に入るものがある
現象学において、志向的経験は心的行為(mental acts)と記述される
その行為は内省など内的に閉じているものではない
また、主体と対象とが分れているのではなく、関係性の中にある
志向性は、相関関係にある(correlational)――主体の行為と対象とを一体として捉えられる――と言われる
フッサール(1859-1938)の現象学では、対象に当たるものをノエマ(noema)、対象に向かう心的行為をノエシス(noesis)と呼ぶ
ここで、現象学が言う志向性と、心の哲学が言う「心的表象」(mental representation)の関係を見ておきたい
心的表象とは、意味の性質(内容、真理の条件など)を伴う心的構造(概念、思想、映像など)のことで、通常、認知の対象ではなく、それによって認知したり、世界における何かを認識するものを指す
両者の違いは以下の点でも見られる
現象学における志向性の経験は、内容を持った状態ではなく、方向性を持つ行為であること
現象学における re-presentation は、今は存在していないものを心的に呼び覚ますという心的行為に限られること
このように、現象学においては、感覚による受容を示す presentation と re-presentation は明確に区別される











