2025年7月12日土曜日

第14回サイファイフォーラムFPSS、盛会のうちに終わる












このところの猛暑に比べると、比較的凌ぎやすい一日であった

本日は、14回目になるサイファイフォーラムFPSSが日仏会館で開催された

プログラムは、以下の通りであった

(1)矢倉英隆: シリーズ「科学と哲学」⑧ プラトンと医学

(2)武田克彦: 神経心理学の方法

(3)市川 洋: 社会の中の科学と科学コミュニケーション

要旨は、こちらから


欠席者が3名で、参加されたのは9名(若手が2名、内1名は初参加)であった

若い血(知)が注入されると、やはり会は活性化するように感じた

これからも新しい参加があることを願っている

議論はゆったりとしたペースで進んだが、問題点については触れることができたのではないだろうか

落ち着いてからまとめをする予定である

FPSSのサイトを訪問いただければ幸いである























2025年7月11日金曜日

第1回サイファイ対話 CoELP のお知らせ




























サイファイ研究所ISHEでは新しい活動として「サイファイ対話 CoELP」を始めることにいたしました

この会は「哲学者との生命倫理対話」(Conversations on Ethics of Life with Philosophers)の名が示すように、人間の生を取り巻く倫理的な問題について哲学者、倫理学者の方々と議論するものです


第1回の会合を以下の要領で開催する予定です

 日時: 2025年12月6日(土)14:00~17:00

 会場: 決まり次第お知らせいたします

 テーマ: 生命倫理の問題を考える――いのちの終わりの倫理

 講師: 中澤栄輔先生(東京大学大学院医学系研究科・医療倫理学分野)


会の詳細は、こちらをご覧ください

会の趣旨にご理解をいただき、積極的に参加していただければ幸いです

よろしくお願いいたします




 







2025年7月10日木曜日

高村光太郎の「パリ」


























わたしにとっての2番目のブログになる「パリから観る」に高村光太郎(1883-1956)の詩があった

以下に転載したい



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 パリ


私はパリで大人になった。

はじめて異性に触れたのもパリ。

はじめて魂の解放を得たのもパリ。

パリは珍しくもないような顔をして

人類のどんな種族をもうけ入れる。

思考のどんな系譜をも拒まない。

美のどんな異質をも枯らさない。

良も不良も新も旧も低いも高いも、

凡そ人間の範疇にあるものは同居させ、

必然な事物の自浄作用にあとはまかせる。

パリの魅力は人をつかむ。

人はパリで息がつける。

近代はパリで起こり、

美はパリで醇熟し萌芽し、

頭脳の新細胞はパリで生れる。

フランスがフランスを超えて存在する

この底無しの世界の都の一隅にいて、

私は時に国籍を忘れた。

故郷は遠く小さくけちくさく、

うるさい田舎のようだった。

私はパリではじめて彫刻を悟り、

詩の真実に開眼され、

そこの庶民の一人一人に

文化のいわれをみてとった。

悲しい思いで是非もなく、

比べようもなく落差を感じた。

日本の事物国柄の一切を

なつかしみながら否定した。


(「暗愚小伝」 より)










2025年7月9日水曜日

第21回サイファイカフェSHEで免疫を考え直す














今日は第21回のサイファイカフェSHEを開催し、拙著『免疫から哲学としての科学へ』を読みながら、免疫というものについて考えた

お忙しい中、また猛暑の中、お集まりいただいた皆様には改めて感謝したい

お陰様で、充実した議論ができたのではないだろうか


今日具体的にやったことは、前回積み残した第2章の最後の節「オーガニズムとは」から始めて、第3章「オーガニズムレベルの免疫システム」、さらに第4章の生物界における免疫システムを概観するところまでを読んだ

第4章の残りの3節は時間切れで、次回に回すことになった

今日の全体を通しての印象は、免疫なる機能が生物界に広く存在していること、その意味では生命の分布と重なること、また免疫機能は生体全体で担われていること、免疫内のサブシステムとしてこれまで考えられていた自然免疫と獲得免疫の境界もぼやけてきたことなど、視野を全体に広げることが迫られているということであった

免疫システムの捉え方も言葉の使い方も考え直さなければならない時期に来ているように見える

詳細については、近いうちに専用サイトにまとめる予定である

そちらを参照していただければ幸いである


なお、最終回の読書会は11月14日(金)の開催予定で、免疫の形而上学について議論することになっている

皆様の参加をお待ちしております

























2025年7月8日火曜日

カーネル・サンダースさんの顔とショパンの顔




























今日は午後から明日の拙著の読書会(第21回サイファイカフェSHE)の準備のために街に出た

おそらくアメリカ時代以来初めてになるのではないかと思われる店に、なぜか入ってみる気になった

何気なく前を見ている時、カーネル・サンダースさんの顔が浮き上がってきた

すでに知っているので改めてみる必要もないだろうと思っていた

しかし、これまでじっくり見たことがなかったことに気づいたのである

それからかなり長い間サンダースさんと対面しているうちに、この記事のための写真を撮っていた

不思議なこともあるものだ

ただ、このようなことはわれわれの日常に溢れているはずである

知ったつもりになっていることを、実は何も知らなかったということが、

わたしの関心領域にもこのようなことが山のように溜まっている


顔について同様の経験を以前にもしていたことを思い出した

フランスに渡って3年目の2010年正月、ショパンの写真をじっくり見ているうちにショパンだとは思えなくなったのである

その時初めて、ショパンの顔はこうだったのかと気づいたと言ってもよいだろう

その記録が残っていた

 ショパンの顔を初めて見る(2010年1月9日)









2025年7月7日月曜日

旧研究所のメンバーとの会食を楽しむ


























今日は昔の職場になる東京都の研究所の皆さんとの会食があった

すでに二昔になろうかという前に辞めたところでのつながりだが、まだ続いているのは不思議と言えば不思議である

皆さんはよく会われているようだが、わたしは1年振りになる

皆さんお元気そうで何よりだ



次々に出る多彩な食事を肴に会話を楽しんだ

その中に、わたしは日頃どんな生活をしているのかという質問があった

これまでも触れているように、何をするでもなしにブラブラしているのが基本である

皆さん仕事に追われているので、それは一体どういう生活なのかと思われたかもしれない

致し方ないだろう

所謂、日常生活、職業生活とは別の次元にいるのが、わたしのような者の生きている空間になる

ある意味で、それは必須条件と言ってもよいだろう



座っていることが多いので、少し体を動かした方がよいのではないかと思い始めていた

そんな時に、適当な場所や散策によさそうなところを教えていただいた

これからの参考にしたいものである



猛暑の中、お忙しいところ足を運んでくれた皆さんに感謝したい

これからのご活躍を願っている









2025年7月5日土曜日

田村、島両氏と的崎、渡邉両氏を仙台で偲ぶ















今日は仙台まで足を延ばした

その昔、同じ領域で研究していた田村眞理氏と島礼氏にお会いし、お話を伺うためである

昨年は都合がつかなかったので、2年振りということになる

今回は、昨年と今年相次いで亡くなった我々よりも若い世代の研究者、渡邉利雄、的崎尚両氏を偲ぶという目的もあった


まず田村、島のお二方とも現実世界と真正面から向き合っておられる

先日も書いた通り、ぶらぶら生活している者から見れば、それだけで敬意を表するに値する

これからどれだけ続けられるのだろうか

注目して見守りたい

仙台が以前にも増して近く感じられるようになったので、仙台訪問の機会を増やしてもよいのではないかというアイディアが酔いの中で浮かんできた

声に出してみたところ、それほど抵抗がないような印象を持ったので(あくまでも主観的判断ではあるのだが、)具体化に向けて検討する方向で進めることにした


ところで、上で「その昔」と言ったが、考えてみると科学研究を止めたのがもう二昔も前になろうとしている

ということは、仕事をしていた時期と同じ時間がもうすぐ流れ去ることを意味している

そんなに長い間無為の生活をしていたとは、驚くばかりである

あるいは、仕事をしていた時期が短かったということなのだろうか

フランスに渡った時を境に前と後ができたわけだが、その前・後で何がどのように変わったのか

これからも考えていきたい興味深いテーマである



 

 







2025年6月30日月曜日

アメリカ時代からの友人と会食

























相変わらずの異常に暑い空気の中、ボストン時代からお付き合いいただいている葛西氏と会食するために出かけた

その場所にはNew Yorkという名前が付いていた

前回お会いしたのはコロナ以前だったので、少なくとも5-6年振りということになるのではないだろうか

お元気そうで何よりだ

まだ研究を続けられているとのことで、もう20年近くぶらぶらしている身から見れば頭が下がる思いだ

半世紀の間、on & offで接触があるので、アメリカつながりの皆さんのその後を追うのも興味深い

人生は流れている

同じような環境にいたはずなのだが、知らなかったことが出てくる

欠けているピースが埋まるような瞬間があった


今回気づいたのだが、いつも静かな環境にいるせいか、人の話し声が耳に触ることがあった

これまではそういう経験はなかったように思うのだが、、、

またの機会にお話を伺いたいものである









2025年6月27日金曜日

イラン音楽で身を鎮める





今年も半分が経過しようとしている

年とともに時の流れが速く感じられるようになると言われるが、一瞬一瞬には実に多くのものが詰まっている

そう感じられるようになっているのは、もう20年になろうかという観想生活のお陰ではないだろうか

そこでは時間を味わい尽くすという精神が息づいている



それにしても暑い日が続いている

今日は午前中から外出

何かをやろうとするのだが、気分が乗ってこない

昼過ぎには引き上げることに

夏バテに入っているのかもしれない

体を鎮めるために、流れてきたイラン音楽に身を任せることにした















2025年6月22日日曜日

日と仏は理解し合えるのか


























今日も暑かったが、外に出てコンシュの『形而上学』について見直していた

きっちり読んで、批判的に見るというようなやり方ではなく、暑さの中、もやーっとした中から浮かび上がる像を観察するというやり方で


どれだけ一般化できるのか分からないが、フランス人の思考を日本人が理解することはあるのだろうか、という考えが浮かぶことがある

以前に(もう7年も前になるが)、クリルスキーさんの『免疫の科学論』を訳したことがある

その時にも感じたのだが、そこに描かれた免疫の像を掴もうとするのだが、砂が指の間から落ちるように逃げていくのである

わたしの中にある思考スタイルと違うからなのだろうか、という感想を持ったことを思い出す

今回のコンシュさんの形而上学の場合も、日本人が言う「分かりやすさ」を感じることはなかった

もちろん、対象に対する知識が少ないということもあるのだろうが、それ以上に、対象に向かう思考のやり方に違いがあるような気がしているのだが、



このように思考そのものに違いがある場合、それを理解するには、おそらく時間をかけて馴染むしか方法はないのかもしれない

忙しく生活に追われている現代人にとって、それは可能なのだろうか

もし昔のような生活を今もしていたとするならば、このようなことは視界にも入っていなかったであろう