自然と生命を考える
In Search of a New Philosophy of Nature and Life
2026年3月6日金曜日
第23回サイファイカフェSHE、無事に終わる
2026年3月4日水曜日
第13回ベルクソンカフェ無事に終わる
今夜は第13回目となるベルクソンカフェを開催した
お忙しいところお集まりいただいた皆様に改めて感謝したい
今回は、マルセル・コンシュの Vivre et philosopher(『生きることと哲学すること』)という2011年の著作を読み、特に唯物論について考えることをテーマに据えた
本書はルシル・ラヴェッジというコロンビア大学パリ分校の哲学者の質問に答える形でまとめられている
同様の質問に1991年(20年前)にも答えているが、基本的なところは変わっていないという
ただ、序文でも指摘されているように、唯物論に対する考え方は変わったようである
そこで論じられていることは、以下のようなことであった
ものことの起源に精神を置く観念論、有神論、唯心論には反対するという意味で唯物論の陣営に属するが、正真正銘の唯物論者ではないと断っている
その理由として、
1)「人間は自然(ギリシア人が言う無限で永遠ですべてを包摂するピュシスの意味における)の一部である」とは言えるが、「人間は物質の一部である」とは言えない
2)すべての人間にとって根本的で普遍的な自然の経験はあるが、物質の経験はない
3)唯物論者に物質とは何かと問うと、それに答えるのは科学であるという答えが返ってくるが、その時、哲学は「科学の侍女」(ancilla scientiae)になっている
4)唯物論者は自由意志を否定しがちであるが、何らかの判断をする場合、その原因が基準であるとすれば、真なるものを基準とした判断はどうなるのだろうか――真理は原因ではないのである
5)唯物論者にとっての道徳は、社会学的、歴史的説明に属する事実であり、道徳の基礎がしっかりしていないと、各人の道徳が持ち出されることになる――コンシュにとっての道徳は人権の道徳ただ一つで、これは何人も従わなければならない――これが崩れると、独自の道徳を持ち出すナチや人種差別主義者が出現する
6)物質という概念は現実/実在の全体を支えるにはあまりにも貧しいが、自然という概念はそれができる――すべてを生み出す無限の自然は存在するすべての第一原因であり、それは取りも直さず生命である
以上のようなことを指摘して唯物論に疑問を投げかけている
これらの点を中心に、唯物論をどのように捉えるのかという問題が他の見方との比較を通して議論されていた
詳細は、専用サイトで紹介したい
訪問していただければ幸いである
なお、春のシリーズ第2弾は、金曜日のサイファイカフェSHEで、クリルスキー博士の『免疫の科学論』を読む予定である
興味をお持ちの方の参加をお待ちしております
2026年3月1日日曜日
Mind in Life を読む(8)志向性
これは何かをしようとする時に目的を持つというような意味合いではない
もちろん、それも志向性の一部ではあるのだが、、
「志向性」とは、それ自身を超えて指し示すという意識特有の現象に対する言葉である
語源的には、「弓を弾く」あるいは「標的を狙う」という意味のラテン語 intendere に由来する
狭義には、対象に向かうものとしての志向性を指すが、広義には、世界に開かれていること、あるいは他者であること=他者性(alterity)を意味する
いずれの場合も、意識が自己に閉じていることを否定している
「対象に向かう」における対象とは、元々は我々の前にあるものという意味である
自身を超えたところにあるものを意識することが、狭義の志向性で、対象となるものは身の回りにあるものでも、過去の出来事でも、未来のことでも、あるいは存在しないものについてでもよい
日常に感じる感情や感覚、気分のようなものは対象に向かう志向性とはなりえない
ただ、その感情や気分が世界に開かれている場合には――例えば共感など――広義の志向性に入るものがある
現象学において、志向的経験は心的行為(mental acts)と記述される
その行為は内省など内的に閉じているものではない
また、主体と対象とが分れているのではなく、関係性の中にある
志向性は、相関関係にある(correlational)――主体の行為と対象とを一体として捉えられる――と言われる
フッサール(1859-1938)の現象学では、対象に当たるものをノエマ(noema)、対象に向かう心的行為をノエシス(noesis)と呼ぶ
ここで、現象学が言う志向性と、心の哲学が言う「心的表象」(mental representation)の関係を見ておきたい
心的表象とは、意味の性質(内容、真理の条件など)を伴う心的構造(概念、思想、映像など)のことで、通常、認知の対象ではなく、それによって認知したり、世界における何かを認識するものを指す
両者の違いは以下の点でも見られる
現象学における志向性の経験は、内容を持った状態ではなく、方向性を持つ行為であること
現象学における re-presentation は、今は存在していないものを心的に呼び覚ますという心的行為に限られること
このように、現象学においては、感覚による受容を示す presentation と re-presentation は明確に区別される
2026年2月25日水曜日
旧研究所メンバーとの会食を愉しむ
今日は旧研究所のメンバーとの会食に出かけた
初めて顔を合わせてから長い人でもう30年以上も経過しているという
その間に皆さんいろいろなことがあったようである
もう還暦だという方が2名おられた
当時のお姿からは想像できない
残念ながら、物理的な時の流れは止められない
しかし、拙著『生き方としての哲学:より深い幸福へ――アドー、コンシュ、バディウと考える』でも指摘したように、時間の捉え方が変わると時は流れなくなるのである
それはそのまま幸福へとつながるのではないかというアイディアがわたしの幸福論の一部を構成している
まだ現役で大学などで仕事をしている方の話を聞きながら、大学はもはや「真理の探究の場」ではないのではないかという考えが浮かんでいた
現場では「真理の探究」などと言う言葉も浮いて響いている可能性さえあるのではないか
それより前に厳しい現実をいかに乗り切るのかという課題に頭が使われているようである
そうだとすれば、束縛のない自由な環境で仕事ができる在野の研究者の方が「真理の探究」には向いているのではないか
そんな気もしてくる
いずれにせよ、皆さんお元気で活躍されているようで何よりである
またの機会を楽しみに待つことにしたい
ところで、今日はうっかりして1時間早く着いてしまったので、何年か振りに思い出横丁で下地を作ってから会場に向かうというおまけ付きであった
それもまたよし
間違いは創造の母であった
2026年2月22日日曜日
Philosophy as a Way of Life: Toward a Deeper Happiness 刊行のお知らせ
We live in an age saturated with information, speed, and easy answers—yet many of us feel that something essential is slipping away. Philosophy as a Way of Life invites readers to rediscover philosophy not as an abstract discipline, but as a practice rooted in how we live, think, and change. Through engaging reflections on Pierre Hadot, Marcel Conche, and Alain Badiou, Hidetaka Yakura introduces the idea of a “Third Layer of Consciousness”: a space beyond daily routines and professional roles, where thinking slows down and deeper insight becomes possible. At a time when artificial intelligence increasingly guides our choices and shapes our attention, this book offers a timely reminder of what cannot be automated: reflection, dialogue, and the capacity to be transformed by experience. Arguing that real happiness lies neither in comfort nor consumption, Yakura shows that a meaningful life emerges from fidelity to one’s “lived convictions”—and to the moments that quietly, yet decisively, change who we are.
2026年2月18日水曜日
リマインダー: 春のカフェ/フォーラムのお知らせ
2026年2月12日木曜日
Mind in Life を読む(7)構えとしての現象学
2026年2月11日水曜日
Mind in Life を読む(6)現象学的結びつき
今日から、本書を貫く現象学のテーマを概観する第2章「現象学的結びつき」に入る
現象学が重要になる理由として、以下の2つを挙げている
第1に、人間の心を理解しようとすれば、意識や主観性を問題にしなければならないが、現象学は生の経験を記述、分析、解釈することに根ざしていること
第2に、エナクティブ・アプローチでは、心の解析に生きたオーガニズムや身体が重要になるが、フッサール(1859-1938)やメルロー=ポンティ(1908-1961)の流れをくむ現象学は、生きた身体の哲学であること
これらの理由から、現象学が主観性や意識の研究を導き、成果の意義について哲学的フレームワークを提供する可能性があるとしている
本章の目的は2つある
第1は、フッサール現象学の中心概念、特に現象学的還元(経験の研究方法)と志向性について紹介すること
第2は、現象学の3つの相――静的(static)、遺伝的(genetic)、生成的現象学(generative)――を概観すること
(1)静的現象学とは、意識の構造を対象と対象に対する志向性を、時間的な生成過程を考慮に入れずに解析する
(2)遺伝的現象学は、志向性と対象との関係が時間経過とともにどのように現れるのかを解析する
例えば、ある経験が後にどのように動機づけするのかという視点から解析する
経験は「沈殿」する構造を持つが、その研究には生身の身体と時間意識が重要になる
(3)生成的現象学においては、経験の文化的、歴史的、間主観的成り立ちが重要になる
2026年2月8日日曜日
Mind in Life を読む(5)エナクティブアプローチ
Caminante, no hay camino,se hace camino al andar.
旅人よ、道などない
歩くことで道は作られるのだ
Wanderer, the road is your footsteps, nothing else;
you lay down a path in walking.
世界は最初から意味づけられているのではなく、行為によって意味のある世界が生じる
それが認知の本質だという主張である
「エナクティブ・アプローチ」という言葉は、ヴァレラ、トンプソン、ロッシュの1991年の著作 The Embodied Mind(『身体化された心』)の中で紹介されたものである
この言葉は、いくつかの考えを統合する狙いがある
第1は、生物には自律性があり、自らの認知領域を積極的に生成する
第2は、神経系はダイナミックな自律的システムで、計算理論のように情報を処理するのではなく、意味を生成する
第3は、認知とは、状況の中に置かれ、身体化された行動において発揮され、知覚と行動が繰り返す感覚運動パターンから立ち現れてくる。それは、内因的でダイナミックな神経活動パターンの形成を「修飾」させはするが、「決定」するものではない。
第4は、認知的存在の世界は、その脳によって内部的に表象される、事前に指定された外部の領域ではなく、その存在の自律的な行為と環境とのカプリングによってもたらされる関係性の領域である
第5は、経験は心の理解にとって中心的なもので、現象学的に注意深く研究する必要がある
本書のモチベーションは、エナクティブ・アプローチが自我や主観性を説明することにより、説明のギャップを埋めることができるのかというところにある
そのためには、生物学、神経科学、心理学、哲学、現象学などの知を統合しなければならないだろう
2026年2月6日金曜日
学友との恒例の会食
今日は学友の深津・池田両先生との会食があり、出かけた
恒例となって久しいが、一体いつからだったのか調べてみたところ、2012年が最初であることが分かった
わたしがフランスから一時帰国して神経心理学会で講演をした際、深津先生が聞きに来てくれたことが切っ掛けであった
それ以来、帰国の度に毎年2回ほど会食を続けてきたので、長い間ご厚誼を賜っていることになる
今日も他愛無い話から始まったが、中心は科学から哲学へと領域を超えて羽ばたいている(より正確には、彷徨っているか)魂についてではなかっただろうか
昨年のまとめでもこの場で触れたが、昨年は日本では無名のフランス人哲学者マルセル・コンシュ(1922-2022)の『形而上学』という本の翻訳をやっていた
その内容が日の目を見ることを願ってはいたが、何分わたし以外の日本人が話題にしているのを見たことがない
1冊しか売れない本を刊行する出版社があると想像する方がどうかしている
ところが、奇跡のようなことが起こり、理解を示してくれる出版社が見つかったのである
学術出版に打ち込んでいる知泉書館さんである
先日、知泉書館の社長と編集者の方と面談する機会があった
その中で、わたしの解釈によれば、領域を横断するような精神の動きに意義を認めておられる様子が伝わってきた
それが日本では稀であるというようなお話であった
精神的な活力が衰弱しているのではないかという観察が背後にあるのではないかと推察した
いずれにせよ、こちらが活を入れられるような面談となった
この話題を出したところ、そこから話が広がっていった
拙著『生き方としての哲学:より深い幸福へ』を精読していただいているようで、その中に出てきた「出来事」に当たる今回のような「出会い」が持つ意味へと展開
バディウ(1937-)によれば、それこそ真理への道であるという
どういう真理が現れるのか、わたし自身も興味を持っている
こういう流れで自然に話が続くほど、丁寧にお読みいただいている
嬉しくなる展開ではあった
というようなことでお開きになったが、何と来月もこの会合を持つことになった
これは異例の展開と言うべきだろう
次回はどんな話になるのか、楽しみにしながら待ちたいものである










