先週のカフェフィロPAWLで、次のような質問が出ていたことを思い出した
それは、毎回異なるテーマを取り上げてカフェ/フォーラムを何年も続けているが、いろいろな資料を読んだりしなければならないので大変ではないか、一体どうしているのかというようなことではなかったかと思う
時期はっきりしないが、わたし自身もこれだけの量をこなしてきたことに、ぼんやりとではあるが不思議な感覚を覚えることはあった
そう思ったのは、仕事をしている時の状態を思い起こしてみて、たとえその時、仕事がなかったとしてもおそらくできなかったのではないかと想像されたからである
そこで、いろいろなことを思い出しては再構成する、わたしが言うところの「瞑想」をしたところ、思い当たることがあったので以下に記録しておきたい
一つは、2007年からもう少しで20年になろうかという間続けてきた無為の生活が関係しているのではないかということである
この間、自分の内を空にして、積極的に外に向かって働きかける(これは仕事をしている時にやっていた)のではなく、体から力を抜き、完全な受け身の状態にして外から入ってくるものや自らの内を観察し、それを只管受け入れることを続けてきた
言葉を換えれば、自らを受容体に変容させることを「積極的に」行っていたのである
わたしのフォルミュールの一つになっている "J'observe donc je suis"(我観察す、ゆえに我あり)は、このことを表していたことになるのだろう
そうすることにより、理由は分らないが、いわゆる「内的空間」が拡大し、どんなものでも受け入れるだけの耐性と(「懐」とでも言うべき)スペースが確保されていった可能性はありそうである
もう一つは、近著『生き方としての哲学:より深い幸福へ アドー、コンシュ、バディウと考える』でも触れているが、その過程で時間の捉え方が変化し、それが時とともに定着していった可能性である
具体的には、過去・現在・未来を「いまここ」に抱えながら生きているという感覚である
これはどういうことかと言えば、2007年から始まった全的観想生活の中で、「いまここ」への集中が高まり徹底されるようになってきたことと、過去の出来事が過ぎ去っていかず、そのあたり一面に広がるような捉え方になったため、その全体とともに歩んでいるという感覚が生まれていることである
その結果、どういうことが起こるかと言えば、いわゆる過去・現在・未来のすべてが現在という一点にあるので、時が流れなくなったのである
過去はその辺りに散らばっているので現在として捉えられ、現在において惹起される未来への想像も「いまここ」にある
この状態は、時が流れない「永遠」であり、茫漠たる平原を前に立っているイメージなので「無限」にもつながっている
「無限」を前にしているイメージは、フランスに渡る前の期待と不安が入り混じった心象風景を表現した以下の俳句(とは言えないのだろうが)ともつながっているようで、自分でも驚いているところである
白雪の荒野をゆくかこれからは
vais-je désormais
sur la terre sauvage
de la neige blanche ?
このように、「永遠」と「無限」の中に在るということが、想像を超える精神的な余裕を与えるようになっているのではないだろうか
それが過去の自分から見ると考えられないような展開を見せている根源的な理由ではないかと想像するようになっている
もしもこれが事実ならば、気づくのに20年はかかる全的観想生活の驚くべき効果ということになるのだが、、。

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