2023年最後の日となった
先日、この1年のプロジェを振り返ったばかりだが、精神的には気持ちよく過ごすことができた年と総括できるのではないだろうか
昨年の今頃は『免疫から哲学としての科学へ』のゲラ校正をやっていた
今年はと言えば、その英語版 Immunity: From Science to Philosophy の初稿を作成しているところである
これは1年前には想像もしていなかったことだ
1年という長い時間の間には、本当に何が起こるか分からない
何やらわかりにくいタイトルだが、噛み砕くとこういうことだろうか
本章では、神霊的な存在に触れることにより生まれる感情が、自分は被造者であるという感情として映し出されるが、その被造者感情について考えたい
(1)最初に、自分の中に宗教的な情動体験を持たない者には宗教研究は無理なので、これから先は読まないようにと言っている
その厳しい助言を無視して、もう少し読み進むことにしたい
もう一つの注意すべきは、宗教的情動体験の心の状態を分析する際、単なる道徳的な精神の高揚と共通するものではなく、それだけで成立しているものに細心の注意を向けることである
宗教的な経験がもたらす感情は、感謝、信頼、愛、確信、謙虚な服従、献身といったものだが、それらは宗教以外の領域にもあり、敬虔の要因のすべてを網羅しているわけではないからである
(2)敬虔の一要因として「依存」を捉えた人にシュライアマハー(1768-1834)がいる
ただ、この発見には2つの問題があるという
1つは、彼が言う依存には宗教以外の「自然的な」依存感情、例えば、自分の不足・無力感、自分を取り囲む状況に拘束されているといった感じなどに類似のものが含まれていることである
絶対的な依存の感情とこのような類似の感情とを区別はしているが、2つの依存感情の質的な区別、絶対的な依存感情そのものについては明確にされていない
この感情をオットーは「被造者感情」と呼んだのである
それは、全被造物の上に立つ「語り得ぬ」存在に対して、自らの虚無性の中に打ち沈み、そこに消え去ってしまう感情だという
(3)シュライアマハーの第2の誤りは、依存の感情を宗教感情自体の本来の内容として規定したところにある
その場合、宗教感情とは自分が依存しているという感情そのものになる
しかし、「被造者感情」とは主観内の付随要因に過ぎず、別の感情要因の投影にしか過ぎない
その感情要因こそがヌミノーゼである
被造者感情は、ヌミノーゼが引き起こす感情の後に引き起こされる
つまり、自分が感じる絶対依存の感情は、神的存在の「絶対卓越性および接近不可能性」を感じることが前提になっているのである