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2026年1月17日土曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(31)
































今朝、昨夜も話題に出ていたシューベルト(1797-1828)を流しながらシガーをやる

わずか31年しか生きていなかったことを改めて確認し、やはり驚嘆する


今日は、第3章、第4節「自然は数多くの種類の混合物からできた媒介的有機体である」に入りたい

これまで自然の哲学について考えてきたが、「所産的自然」と「能産的自然」との緊張関係が現れることになった

そして最後に残るのは、シェリング(1775-1854)が言うように、「能産的自然」しかないことを確認した

ベルクソン(1859-1941)に言わせれば、科学的知性の捏造と対立する組織化としての力として現れる自然の概念である

したがって、自然のこのような性格を正確に位置づけ、客観的で世俗的な体裁を超えて了解するやり方を探索することが残されている


早速、3-4-1「自然は、人間によって客観的に仕上げられた世界と、人間には近づきがたいところにある原理とのあいだに介在する有機体である」について検討したい

その出発点として、ヘーゲル(1770-1831)が言っていたように、自然の感覚による現前とその「概念」を混同しないようにすることがある

なぜなら、客観的な所与として現れる自然は素朴な意識にとってのものであり、包括的に考察される自然はそういうものではないからである

つまり、客観的で感覚的自然は、人間の明晰で総合的な了解に達するためにあるからである

人間が知覚するものは純然たる自然ではなく、「所産的自然」に当たるものである

それは人間が立法者と実験者という二重の役割を通して、自らがデミウルゴスとなって了解する自然である


そこで、人間による客観的で世俗的な外見を通してではなく、創造主の仕業を見るならばどうなるであろうか

ここに神学が入り込む余地がある

ニカイア信条(325年)によれば、「私たちは、見えるものも見えないものも含め、すべてのものの創造主である全能の父なる唯一の神を信じます」と公言している

問題は、その信仰によって達せられた実在や出来事は、科学に依存する可知性を表していないことである

ここで言う「可知性」(intelligibility)は、単に意味が理解できるということではなく、理性によって、構造・法則・因果として、主体から独立に、共有可能な形で理解できること、あるいはそのような理解構造になっていることを指している

信仰による理解はすべてが神に帰せられ、「神秘」に迷い込むところがあり、可知性が要求する構造を持っていない

自然神学啓示神学(一般的な神学)とは異なり、理性を用いて世界(自然)の原理に迫るが、カント(1724-1804)が言うように、デミウルゴスのような有効な組織者(職工)ではあるが創造者でないものしか発見できないだろう

さらに、実証的な分析が進めば進むほど、神学的な解釈は後退することになり、神という仮説は不要になるかもしれない

しかしその時こそ、能産的自然の経験が現れ、われわれの経験的な出来事の世界と、超越的原理が住まうところとの間に、包括的で構成的な自然の活動圏が入り込んでくるという














2026年1月6日火曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(24)
































 本日で 3-2-2「自然の哲学と観念論の精神の違い」を読み終えたい

これまで、シェリング(1775-1854)の自然の哲学が、観念論による自然(ある目的を持って作られた自然という意味か)に反対して自然の生産性(外からのプログラムのようなものに従って生み出すのではなく、自然自体がすべてを生み出すということか)を喚起することを見てきた

カント(1724-1804)は、時計のような人為的存在と並んで、自律的に組織化する能力を持った生物のような自然的存在があることは見ていた

そこから、アリストテレス(384-322 BC)の外部に設計者がいるとする人為的目的性に対して、自らを組織化する「自然の目的」と名づけたものが出てくる

しかしカントは、目的性の判断は「精神の目」にあるとした

つまり、目的がそこに在るというのは、それを見ている側の精神の作用によるもので、実際に自然の中に在るとは考えなかったのである

したがって、シェリングはカントを全面的には認めることはできなかった

客観の虜にならない反省が可能な者は、生み出された客観としての自然(所産的自然、natura naturata)から能動的な生み出す自然(能産的自然、natura naturans)を推論できなければならない

シェリングのフォルミュールによれば、「自然は目に見える精神であり、精神は目に見えない自然である」となる

シェリングの影響を受けていたと思われるエマーソン(1803-1882)は、「自然は思考の具現であり、世界は精神の沈殿である」という言葉を残している

自然は精神が沈殿したものである

何という表現だろうか

自然には精神の発露が見られるというシェリングの自然の哲学は、確かにカントの哲学を突き破ったことが分かる










2026年1月4日日曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(23)
































新しい年を迎え、年を越してしまったアンバシェを読み始めることにしたい

今日は 3-2-2「自然の哲学と観念論の精神の違い」のつづきから

自然の体系が同時にわれわれの精神の体系でもある」と考えたシェリング(1775-1854)の哲学を掘り下げるためには、2つの考え方を理解する必要があるという


1つは、すべての近代の哲学は観念論に捧げられていることである

彼はフィヒテ(1762-1814)を通してカント(1724-1804)の超越論的観念論へ、さらにカントを超えてデカルト(1596-1650)バークリー(1685-1753)の唯心論に結びつく

シェリングはこう言っている
認識者を存在から分離することはほとんど不可能であるから、この企てはむしろ不可避的に認識者自身以外のすべてのものに存在を拒むことになり・・・至る所認識者、精神的なものしか存在せず、精神的でないすべてのものは精神の表象の内にしか存在しないと断言することになる。・・・それはまた、デカルトのすぐ後でマルブランシュ(1638-1715)が、それからやや遅れて、神と物質的身体の表象が生み出すときの有限な精神との外には何も存在しないとしたバークリーが到達した結論である。

これをどのように解釈すればよいのだろうか

近代における、特にデカルト以降の認識論において、認識する主体と認識される客体が分けられるようになる

認識と存在が分離されることになるが、そこで確実なのは認識する側にあるとされる

しかし、そのような分離はできないとシェリングは考えているようである

認識主体は存在しており、認識される側の存在が怪しくなる

外界に存在するものは、精神の中に表象されるものとしてしか存在できなくなる

その結果、実際にマルブランシュは、我々が知覚するのはものそのものではなく、神のうちにある観念として認識すると考えた

またバークリーは、esse est percipi (存在するとは、知覚されることである)という有名な言葉にもあるように、存在するのは神と有限な精神とそこにおける表象だけで、物質的自然は存在しないと考えることになる

しかしシェリングは、この考えに満足していたわけではない


そこで、もう1つの考えを検討する必要が出てくる

彼は、認識主体に先行するものとして自然を見ており、アリストテレス(384-322 BC)の実在論に向かうのである

シェリングは、アリストテレス同様、全体と部分ができる組織化の場合には概念(一つにまとめる原理のようなもの)が存在すると考える

しかし、概念が自然の組織化と縁を切らないままそこに住みついていることをアリストテレスは見ていないとして批判する

これはどういうことだろうか

アリストテレスは、自然物において全体が部分に先行し、目的論的に組織化されているという概念構造は認めていた

しかし、その概念は知性による認識によって把握されるもので、自然が自ら生み出すものとは考えなかった

シェリングは、自然というものは自らが組織化し、概念へと向かう自己生成の特徴を捉えていた

換言すれば、自然が最初から概念を宿しているのではなく、自らが組織化によって概念になっていくと考えたのである

自然と精神とが結びついてくる

したがって、超越的存在から与えられた作品として考察するやいなや、自然の観念はことごとく破壊されることになる










2024年7月13日土曜日

第11回サイファイフォーラムFPSS、無事終わる















起きて時計を見ると1時を指している

今日もやってしまったか、と思って外を見ると真っ暗だったのでホッとした

昨日の一件がトラウマになっているようだ


こういう始まりだった本日、以下のプログラムで第11回サイファイフォーラムFPSSが開催された

(1)矢倉英隆: シリーズ「科学と哲学」⑤ ソクラテス以前の哲学者-5「デモクリトス」

(2)伊藤明子: 目的論と科学――カントの有機体論が開いた視座

(3)林 洋輔: 学問と「終極」の狭間をめぐる討議――体育哲学からの考察――

活発な意見交換が行われ、時間が不足するほどであった

詳細は、近いうちに専用サイトに掲載する予定なので、訪問していただければ幸いである

















闊達な議論は懇親会においても続いていたようである

その他、主宰者に向けて想定外のサジェスチョンをいくつかいただいた

これからいろいろと考えてみることにしたい

具体化したことがあれば、FPSSのサイトに掲載する予定である

こちらもよろしくお願いしたい


なお、次回の第12回サイファイフォーラムFPSSは、11月9日(土)に開催予定です

プログラムは決まり次第、この場と専用サイトに公表いたします

併せてよろしくお願いいたします







2024年6月12日水曜日

パリ18日目の雑感



















今日の午前中は、部屋と近くのカフェを往復しながら考えをまとめていた

朝の空気の中、カフェに座り考えを巡らすというのは、何ものにも代えがたい時間である


こちらに来てから、ヨーロッパの音楽をいろいろ聴くようになっている

先日も少し触れたが、こちらで彼らが演奏するのを聴く時、日本では感じられない何かを感じる

彼らにとっては身近だが、我々にとっては超えられない一線があるようなそんな領域にある芸術のような気がするのだ

この感覚は、年とともに深まってくるようである

逆に言うと、そういう認識の下で味わうというのも興味深いのではないだろうか


ところで先日、今回のパリ滞在はスローターダイクさんの講義を聴くために来たようなものだと書いた

この間、カンギレム関連のものにも反応することが少なくなかった

免疫論でその入り口に立ったからだろうか

カンギレムが若き日、リセの先生だったアランと共にオーギュスト・コントをしっかり読んでいたという

こういう繋がりが、興味を倍加する


また本日、カントを少し齧ってみた

余りにも偉大なものには近づくのを避ける性向があるためか、これまで敬遠してきた哲学者である

ところが、わたしの問題意識とも重なるところがあり、意外に面白いかも、と思わせてくれた

暫く様子を見ることにしたい







2024年4月23日火曜日

カント300歳、それから LinkedIn のこと


































昨日がカント(1724.4.22-1804.2.12)の300歳の誕生日だったようだ

その哲学に当たるのはこれからであるが、その人生を見てみたところ、後半生が充実している

知らなかったのだが、『純粋理性批判』を出したのが57歳で、『永遠平和のために』は71歳の時に刊行し、79歳で亡くなるまでコンスタントに仕事をしている

今で言えば、この年齢に20年は足さなければならないだろう

カントに肖ろうなどと考えると、大変なことになる



さて現実に戻って、先日から覗くようになったLinkedInでの本日の出来事について書いてみたい

拙著 Immunity の出版社Routledgeのサイトに行くと、自著のプロモーションのやり方について書いてあるところがある

その中に、LinkedInなどのSNSを効果的に使うようにとあったので、Xなどと併せてこれまで殆ど使っていなかったLinkedInも使うことにしたところだった

そこに拙著の宣伝を出したところ、早速香港の高校生からズームで話を聞きたいとのメッセージが入っていた

哲学に興味が湧き、特に科学との関係について知りたいとのことで、非常に積極的だ

その人次第だが、世界は狭くなっていることを実感させられる

一応、本を読んでからの方がその価値があるかどうか分かってよいのではないかと答えておいた

それからイランの研究者からは、最も重要な問いを3つ教えてほしいという難問が届いていた

日本人からは出てきそうにないような言葉が出てくるので刺戟的ではある

まだ数日の経験だが、ヘビーな内容が行き来するところのようである

これまで反射的に捨てていたLinkedInからのメールをすべて読むようになっている

変われば変わるものである












2024年3月30日土曜日

ポパーによる「プラトンの呪縛」(24)政治綱領(6)
































平等と不平等に関係するのが、個人主義と集団主義の問題である

個人主義という言葉には、2つの意味合いがある

第1は集団主義に対立するものとして、第2は博愛主義に対立するものとして

第1の場合には他に同義語はないが、第2の意味では、エゴイズム、自己愛などがそれに当たるだろう


まず集団主義だが、プラトン427-347 BC)の場合、個人は国家や部族や人種などの全体に奉仕すべきだという意味であった

法律』ではこう言っている
部分は全体のために存在し、全体が部分のために存在するのではない。・・・君は全体のために作られたのであった、全体が君のために作られたのではない

自らの利害関心を公共の福祉に向けられないのなら、その者はエゴイストであるという含みがある

 しかし上で見たように、集団主義はエゴイズムと対立していないし、自己利益の追求と対立するわけではない

他方、個人主義者は他者のために犠牲を払う用意のある博愛主義者でもあり得るのだ

興味深いことにプラトンにおいては、博愛主義的な個人主義は存在し得ないのである 

プラトンにとって、集団主義に取って代わるのはエゴイズムなのである

彼は個人主義をエゴイズムと同一視し、そこに攻撃を加えたのである

プラトンはなぜ個人主義を攻撃しようとしたのだろうか


アリストテレス(384-322 BC)によれば、正義とは、プラトンが望んだような国家の健康とか調和ではなく、個人を取り扱う一定のやり方である

ペリクレス(c 495-429 BC)も「法律はすべての人に対し、その個人的な争いごとにおいては同等に正義を保証しなければならない」とし、さらに「我々は、隣人にあれこれ干渉するために呼び出されていいとは思わない。なぜなら彼は自分自身の道を行こうとしているのだから」と言っていた

ペリクレスは「我々は、冷遇された人たちを守ることを忘れてはならない・・・と教えられた」と述べ、個人主義と博愛主義の結合を強調した

そして、このような博愛主義と結びついた個人主義は、西洋文明の基礎となったのである

これはキリスト教の中心的教義でもあり、西洋文明に活気を与えてくれた倫理的教義の核心でもある

「君は、君の人格や他のすべての人の人格において、人間性をいつでも同時にたんなる手段としてではなく、目的として扱え」と言ったカント(1724-1804)の中心的教義でもある











2024年2月29日木曜日

ポパーによる「プラトンの呪縛」(13)自然と協定(3)






























2)倫理的実定主義は、事実として存在している規範(法)に還元されなければならないと信じている

存在するものは善であり、力は正義なのである

この立場からすれば、個人が規範を判断できると考えるのは大きな間違いであり、個人は社会が提供する規準に従うだけである

保守的であり、権威主義的な立場なのである


3)心理学主義的あるいは精神版自然主義は、上記2つの考え方の結合であり、それぞれの一面性に対する反論から議論される

倫理的実定主義者は、規範が人間の心理学的側面並びに社会の本性の表現であることを見落としている

同様に生物学版自然主義者が考える我々の自然な目標、規範――例えば、健康、食べること、寝ること、繁殖――に限定されていないことを見落としている

人間はパンのみに生きるのではなく、より高い精神的な目標を目指している人もいるのである


この立場はプラトン(427-347 BC)によって初めて述べられた

それは、ソクラテス(c. 470-399 BC)の「精神は身体よりも重要である」という理論の影響下にある

この立場は前二者よりも我々の感情に訴えてくる

しかし、これも人道主義的態度とも権力賛美とも結合される

例えば、トマス・ペイン(1737-1809)やカント(1724-1804)は、あらゆる人間個人の「自然な権利」を承認するために用いた

他方、特にプラトンによって、「優れた者」「選ばれた者」「賢者」「生れついた指導者」などの特権を正当化するために利用された


これらの考え方は、規範を事実に還元しようとする傾向と、我々のみが我々の倫理的決定に対する責任を負うという考えを認めまいとする傾向を持っている

たとえどのような権威が問題になろうとも、その権威を承認するのは我々である

その責任から逃れることはできないのである









2023年8月23日水曜日

出隆の「科学と科学批判としての哲学」(2)




















昨日はニューヨーク時代以来の友人とのディネがあった

すでに人生終盤の過ごし方全般について具体的に考えておられるようで、彼我の違いを感じた

その他、このところの日本の低迷を科学の現場でもひしひしと感じておられるようで、何が原因なのかが問題になった

それは複合的な原因によっていると思われるので、答えを出すのは大変だろう

現象的には、個人的な内的エネルギーの発露が見られないとか、例えば中国の研究者に比してハングリーさが見られないという

社会や政治を見ていると、問題を真正面から取り上げて説明し議論するということが見られないどころか、すべてを曖昧にしたり胡麻化したりする傾向が著しい

つまり、日本人が考えていないというか、その精神が活発に働いているようには見えない

その背後には、すべての前提を自明のものとして考えているところがあるのではないだろうか

そこを疑わなければ、思考は始まらない

さらに、政府の側に国民市民には知らしむべからずという精神が沁み込んでいるように見える

それではどうすればよいのかということになるが、即効性のあるものは思いつかなかった

根本のところでは、流されることなく、本質に迫る(形だけのものではない)思考や議論が求められるのだろうが、これはまさに哲学が求めるやり方になる

だとすれば、哲学的思考の欠如が原因の根本にあるということになり、それが多くの人に根づくことが解決に繋がるのかもしれない

どれだけの時間がかかるのか想像もできない

それとは別に、中国やロシアからの研究者の受け入れやいろいろなやり取りに関する調査が入るようになっているとのこと

さらに、彼らが母国に戻ってから不条理なことが起こり、生活に影響が出ることもあったようだ

国際政治が研究の現場にも影を落としていることを知った



さて本日も出隆のつづきで、「科学と科学批判としての哲学」の2回目になる

早速始めたい


17世紀に入るが、科学と哲学は未分化な状態で、哲学は一切の科学を総括する学を目指した

デカルトホッブススピノザライプニッツなどの形而上学的体系がその成果である

さらに、人間内部の問題(人性)にも目が向くようになり、ロックヒュームは知識の性質について解析するようになる

しかし彼らは、知識された内容、経験された内容と知識そのもの、経験することを混同し、後者を捉えることができなかった

「もの・こと」を対象化する科学的手法では、主観(認識する主体で起こること)を捉えることができない

彼らは懐疑主義に陥ったのである

知識・経験の本質を捉え、真理を真理たらしめる価値を見るのに適した立場を自覚したのはカントであった

哲学の任務は科学的認識の批判学であると彼は考えたのである

19世紀に入り、真の科学は明晰に意識された仮定の上に立ち、そこに入ってくる現象を記述・説明する学と規定されるようになる

哲学は科学の根本仮定、科学的立場を批判する位置を占めるのである

対象が平凡で分かりきったように見えるものの中に不明なものを発見すると、それまで自明だったものが実は仮定だったことに気づく

それを明らかにしようとするのが、批判精神であり、哲学することだという

この場合の科学批判とは、科学が求める普遍妥当的な真理にその価値があるのかを厳密に論理的に検証することだという

今日のこのお話、冒頭で指摘した日本の状況とも重なって見えてくる







2023年8月18日金曜日

出隆の「そのままの事実すなわち純粋経験とこれを見る立場」

































今日も出隆著『哲学以前』の緒言に当たる「立場と世界」の「2.純粋経験とこれを見る立場」を読みたい

純粋経験とはどんなものか

それは見る我と見られる対象とが区別されていない主客未剖の状態で、主客合一・物我一如の境地だという

沈みゆく太陽を見ている我と太陽との境がなくなるような状態、あるいは何かに打ち込んでいる時に時間や場所が消えるように感じなどがそれに当たる

それは表現し得ない経験そのままの状態である

思惟された内容ではなく、思惟しているそのことこそが純なるこの状態である

夕日の景色を眺めて科学的・心理的に分析するようになると、主客が分裂し純粋経験の状態から離れる

知識となるものは、純粋経験について考え、判断し、意識した(客観化された)内容である

この主客が分裂した状態から、再び主客を統一しようとするが、それが意識するということだという

意識する方向は多方面に及び、統一を生み出そうとするが、それが学問の立場になるのではないか

学問とは純粋経験に根ざす純粋思惟が諸方面に及んだ時の意識、すなわち知識の体系だと言えるだろう



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いろいろな例やメタファーを出して説明されているが、少々くどいようにも感じる

そう思っていたら、最後にカントの「そんなにまで明瞭にしようとしなかったなら、いっそう多く明瞭であったろうに」との言葉が引用されていた

この分野に入って感じていることは、書かれてあることを自分で経験していなければ、分かったような気分にはならないということである

その意味では、哲学は時間がかかるとも言えるだろう

幸い、今回の純粋経験とそれについての思惟の関係はよく理解できるものであった











2023年8月8日火曜日

「哲学は学ぶことができるのか」(1)

































今日も田中美知太郎氏の『哲学初歩』にある哲学に対する考え方を見ていきたい

テーマは「哲学は学ぶことができるのか」

この点については、フランスに渡る前、自分なりに考えたことがあり、ブログ記事に残っている

 哲学を「学ぶ」とは(2007年4月19日)

その時の回答は以下のようなものであった

わたしの中ではこういうことのようだ。これまでに存在した人間が考えてきた軌跡を辿り (おそらくこの過程が学ぶということになるのだろうか)、自分と響き合うものを持った人を捜し求める場にしようとしているようだ。自らの感覚器を研ぎ澄まし、相手が放つものを捉える作業を通して、わたしの中にすでに存在している思想を生き返らせ、新たに誘発される思考を追いながら、それに陰影を加え、少しでも自分らしいものを創出できないかということになる。今ぼんやりと自分の中にある考えをより確かなものとして見えるようにしたいという強い願望があるようだ。

田中氏の見方を検討することにより、これがどのように変容してくるのか

興味が湧いてくる

それでは早速始めたい



この章の副題は、「学問的知識と哲学的智」となっている

アリストテレスも言ったように、知っていれば教えられる、すなわち、智者の条件は教えられることである

ただ、これまで見たように、哲学する愛智者は学び続けなければならない

常に智と無智の間にあり、哲学が求める智には到達できないからだ

ここで、哲学智は学ぶことができるのかという問いが現れ、学ぶことができないことを学ぶという矛盾した哲学像が浮かび上がる


知るということに関して、プラトンはこう言っている

何かの知識を持っている人は、自分の知っているその事柄について、ロゴスを与える(=説明する)ことができる

自分自身に対しても、他人に対しても、ロゴスを与えることのできない人は、それができないかぎりにおいて、その事柄を理解していないことになる


ヘラクレイトスも言っているように、ロゴスとは公共的なものである

誰にでも通じるものとしてのロゴスを媒介として語られる

ただ、ロゴスを以って語られたとしても、それが真実であるかどうかは分からない

真実性を確かめなければ、知識とはならない

ロゴス(理論)を自分で「直知的」(直観的)に確認しなければ、知識にはならないのである

語り尽くせぬものを媒介しなければならなくなる

ここで問題になるのは、すべての知においてロゴスと直知が結びついているのかという点である

両者が結びついていない場合には、学び知ることはできない

カントは、哲学の場合、ロゴスと直知は結びついていないと考えている

それ故、カントはこう結論する

ひとは決して哲学を――歴史学的にでなければ――学ぶことはできない。学ぶことができるのは、せいぜい哲学することだけである

田中はこうパラフレーズする

理論的体系としての哲学そのものは学ぶことができるけれども、哲学することは学ぶことができない

プラトンの手紙には、哲学の最も大切なところは、自分で見つけ出すよりほかに仕方ないということであり、話したり、書いたりすることにより、他に伝えることはできないという指摘がある 

理論的な構造を学んでもその哲学を知ったことにはならないということだろうか

知るということがどういうことなのかは、プラトンの『テアイテトス』でも取り上げられて以来、大きな問題であり続けている

この点については以前エッセイに纏めたことがあるので、貼り付けておきたい

 プラトンの『テアイテトス』、あるいは「真に知る」ということ(2021年3月13日)


(つづく)












2023年8月7日月曜日

田中美知太郎による「哲学と生活との関連」(2)
































実生活と哲学との関連について、道徳という点から考えてみたい

例えば、自分や自分の家族に不利になるからと言って、真実を語らないことに疚しさを感じないか

あるいは、酷い状態に置かれた人を見た時、その人を助けなければならないという内なる声は聞こえないか

そこでカントを出してきて、それらは絶対無条件の命令(定言命法)として現れると田中は言う

しかし、我々の生活が経験の世界だけに限られるとすれば、道徳を理解できないだろう

超越的な(カントの物自体、プラトンのイデアなどの)世界に馴染んでいなければならないのである

その意味では、哲学がカバーする世界が実生活においても生かされていることになる

哲学は超越的な世界に関わると言ったが、プラトンは「哲学は死の練習」であり、哲学者の故郷は「幸福者の離島」であるとした

パイドン』において魂の永遠を説いたプラトンだが、デカルトも『省察』において魂と肉体が別物であるとした

肉体は滅びるが、魂は不滅であるというところに繋がる

カントも形而上学の目的は、神、自由、不死だけであるとしている



哲学者は「幸福者の離島」に引きこもり、超越的な世界で何をしているのだろうか

アリストテレスによれば、幸福な神々がやっていること——すなわち、行為や制作することではなく、観ること(theoria)——が「徳に即しての現実的活動」で、幸福を齎すことになる

アリストテレスにとって、神々をまねぶ哲学者の生活が人間の最高の生活であったことが分かる

しかし、哲学者は離島に留まり自己充足的な生活をしているだけでよいのだろうか

プラトンは政治に関わり、国民の生活を向上させなければならないと言った

理論か実践か、観照か行動か、哲学か生活かという二者択一の乖離状態に置いたままでよいのかという問いが現れる

この問いに対して、田中は次のように言う
哲学は生活的なものから解放され、全く自由である立場を徹底させながら、その自由自足的な哲学を再び生活に結びつけるところに、哲学のもっと深い意味が見出されるのではないか

この考え方には共感するところがある

最初から哲学を社会の役に立つものにしようとするのではなく、あくまでも超越的な世界に一人で足を踏み入れ、その上で生活的な世界への関与が望まれた時にはそこに戻っていくという道筋が、自分のこれまでと重なるからかもしれない