2026年1月17日土曜日
ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(31)
2026年1月6日火曜日
ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(24)
2026年1月4日日曜日
ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(23)
認識者を存在から分離することはほとんど不可能であるから、この企てはむしろ不可避的に認識者自身以外のすべてのものに存在を拒むことになり・・・至る所認識者、精神的なものしか存在せず、精神的でないすべてのものは精神の表象の内にしか存在しないと断言することになる。・・・それはまた、デカルトのすぐ後でマルブランシュ(1638-1715)が、それからやや遅れて、神と物質的身体の表象が生み出すときの有限な精神との外には何も存在しないとしたバークリーが到達した結論である。
これをどのように解釈すればよいのだろうか
近代における、特にデカルト以降の認識論において、認識する主体と認識される客体が分けられるようになる
認識と存在が分離されることになるが、そこで確実なのは認識する側にあるとされる
しかし、そのような分離はできないとシェリングは考えているようである
認識主体は存在しており、認識される側の存在が怪しくなる
外界に存在するものは、精神の中に表象されるものとしてしか存在できなくなる
その結果、実際にマルブランシュは、我々が知覚するのはものそのものではなく、神のうちにある観念として認識すると考えた
またバークリーは、esse est percipi (存在するとは、知覚されることである)という有名な言葉にもあるように、存在するのは神と有限な精神とそこにおける表象だけで、物質的自然は存在しないと考えることになる
しかしシェリングは、この考えに満足していたわけではない
そこで、もう1つの考えを検討する必要が出てくる
彼は、認識主体に先行するものとして自然を見ており、アリストテレス(384-322 BC)の実在論に向かうのである
シェリングは、アリストテレス同様、全体と部分ができる組織化の場合には概念(一つにまとめる原理のようなもの)が存在すると考える
しかし、概念が自然の組織化と縁を切らないままそこに住みついていることをアリストテレスは見ていないとして批判する
これはどういうことだろうか
アリストテレスは、自然物において全体が部分に先行し、目的論的に組織化されているという概念構造は認めていた
しかし、その概念は知性による認識によって把握されるもので、自然が自ら生み出すものとは考えなかった
シェリングは、自然というものは自らが組織化し、概念へと向かう自己生成の特徴を捉えていた
換言すれば、自然が最初から概念を宿しているのではなく、自らが組織化によって概念になっていくと考えたのである
自然と精神とが結びついてくる
したがって、超越的存在から与えられた作品として考察するやいなや、自然の観念はことごとく破壊されることになる
2024年7月13日土曜日
第11回サイファイフォーラムFPSS、無事終わる
起きて時計を見ると1時を指している
今日もやってしまったか、と思って外を見ると真っ暗だったのでホッとした
昨日の一件がトラウマになっているようだ
こういう始まりだった本日、以下のプログラムで第11回サイファイフォーラムFPSSが開催された
(1)矢倉英隆: シリーズ「科学と哲学」⑤ ソクラテス以前の哲学者-5「デモクリトス」
(2)伊藤明子: 目的論と科学――カントの有機体論が開いた視座
(3)林 洋輔: 学問と「終極」の狭間をめぐる討議――体育哲学からの考察――
活発な意見交換が行われ、時間が不足するほどであった
詳細は、近いうちに専用サイトに掲載する予定なので、訪問していただければ幸いである
闊達な議論は懇親会においても続いていたようである
その他、主宰者に向けて想定外のサジェスチョンをいくつかいただいた
これからいろいろと考えてみることにしたい
具体化したことがあれば、FPSSのサイトに掲載する予定である
こちらもよろしくお願いしたい
なお、次回の第12回サイファイフォーラムFPSSは、11月9日(土)に開催予定です
プログラムは決まり次第、この場と専用サイトに公表いたします
併せてよろしくお願いいたします
2024年6月12日水曜日
パリ18日目の雑感
今日の午前中は、部屋と近くのカフェを往復しながら考えをまとめていた
朝の空気の中、カフェに座り考えを巡らすというのは、何ものにも代えがたい時間である
こちらに来てから、ヨーロッパの音楽をいろいろ聴くようになっている
先日も少し触れたが、こちらで彼らが演奏するのを聴く時、日本では感じられない何かを感じる
彼らにとっては身近だが、我々にとっては超えられない一線があるようなそんな領域にある芸術のような気がするのだ
この感覚は、年とともに深まってくるようである
逆に言うと、そういう認識の下で味わうというのも興味深いのではないだろうか
ところで先日、今回のパリ滞在はスローターダイクさんの講義を聴くために来たようなものだと書いた
この間、カンギレム関連のものにも反応することが少なくなかった
免疫論でその入り口に立ったからだろうか
カンギレムが若き日、リセの先生だったアランと共にオーギュスト・コントをしっかり読んでいたという
こういう繋がりが、興味を倍加する
また本日、カントを少し齧ってみた
余りにも偉大なものには近づくのを避ける性向があるためか、これまで敬遠してきた哲学者である
ところが、わたしの問題意識とも重なるところがあり、意外に面白いかも、と思わせてくれた
暫く様子を見ることにしたい
2024年4月23日火曜日
カント300歳、それから LinkedIn のこと
2024年3月30日土曜日
ポパーによる「プラトンの呪縛」(24)政治綱領(6)
部分は全体のために存在し、全体が部分のために存在するのではない。・・・君は全体のために作られたのであった、全体が君のために作られたのではない
自らの利害関心を公共の福祉に向けられないのなら、その者はエゴイストであるという含みがある
しかし上で見たように、集団主義はエゴイズムと対立していないし、自己利益の追求と対立するわけではない
他方、個人主義者は他者のために犠牲を払う用意のある博愛主義者でもあり得るのだ
興味深いことにプラトンにおいては、博愛主義的な個人主義は存在し得ないのである
2024年2月29日木曜日
ポパーによる「プラトンの呪縛」(13)自然と協定(3)
2023年8月23日水曜日
出隆の「科学と科学批判としての哲学」(2)
昨日はニューヨーク時代以来の友人とのディネがあった
すでに人生終盤の過ごし方全般について具体的に考えておられるようで、彼我の違いを感じた
その他、このところの日本の低迷を科学の現場でもひしひしと感じておられるようで、何が原因なのかが問題になった
それは複合的な原因によっていると思われるので、答えを出すのは大変だろう
現象的には、個人的な内的エネルギーの発露が見られないとか、例えば中国の研究者に比してハングリーさが見られないという
社会や政治を見ていると、問題を真正面から取り上げて説明し議論するということが見られないどころか、すべてを曖昧にしたり胡麻化したりする傾向が著しい
つまり、日本人が考えていないというか、その精神が活発に働いているようには見えない
その背後には、すべての前提を自明のものとして考えているところがあるのではないだろうか
そこを疑わなければ、思考は始まらない
さらに、政府の側に国民市民には知らしむべからずという精神が沁み込んでいるように見える
それではどうすればよいのかということになるが、即効性のあるものは思いつかなかった
根本のところでは、流されることなく、本質に迫る(形だけのものではない)思考や議論が求められるのだろうが、これはまさに哲学が求めるやり方になる
だとすれば、哲学的思考の欠如が原因の根本にあるということになり、それが多くの人に根づくことが解決に繋がるのかもしれない
どれだけの時間がかかるのか想像もできない
それとは別に、中国やロシアからの研究者の受け入れやいろいろなやり取りに関する調査が入るようになっているとのこと
さらに、彼らが母国に戻ってから不条理なことが起こり、生活に影響が出ることもあったようだ
国際政治が研究の現場にも影を落としていることを知った
さて本日も出隆のつづきで、「科学と科学批判としての哲学」の2回目になる
早速始めたい
17世紀に入るが、科学と哲学は未分化な状態で、哲学は一切の科学を総括する学を目指した
デカルト、ホッブス、スピノザ、ライプニッツなどの形而上学的体系がその成果である
さらに、人間内部の問題(人性)にも目が向くようになり、ロックやヒュームは知識の性質について解析するようになる
しかし彼らは、知識された内容、経験された内容と知識そのもの、経験することを混同し、後者を捉えることができなかった
「もの・こと」を対象化する科学的手法では、主観(認識する主体で起こること)を捉えることができない
彼らは懐疑主義に陥ったのである
知識・経験の本質を捉え、真理を真理たらしめる価値を見るのに適した立場を自覚したのはカントであった
哲学の任務は科学的認識の批判学であると彼は考えたのである
19世紀に入り、真の科学は明晰に意識された仮定の上に立ち、そこに入ってくる現象を記述・説明する学と規定されるようになる
哲学は科学の根本仮定、科学的立場を批判する位置を占めるのである
対象が平凡で分かりきったように見えるものの中に不明なものを発見すると、それまで自明だったものが実は仮定だったことに気づく
それを明らかにしようとするのが、批判精神であり、哲学することだという
この場合の科学批判とは、科学が求める普遍妥当的な真理にその価値があるのかを厳密に論理的に検証することだという
今日のこのお話、冒頭で指摘した日本の状況とも重なって見えてくる
2023年8月18日金曜日
出隆の「そのままの事実すなわち純粋経験とこれを見る立場」
2023年8月8日火曜日
「哲学は学ぶことができるのか」(1)
わたしの中ではこういうことのようだ。これまでに存在した人間が考えてきた軌跡を辿り (おそらくこの過程が学ぶということになるのだろうか)、自分と響き合うものを持った人を捜し求める場にしようとしているようだ。自らの感覚器を研ぎ澄まし、相手が放つものを捉える作業を通して、わたしの中にすでに存在している思想を生き返らせ、新たに誘発される思考を追いながら、それに陰影を加え、少しでも自分らしいものを創出できないかということになる。今ぼんやりと自分の中にある考えをより確かなものとして見えるようにしたいという強い願望があるようだ。
何かの知識を持っている人は、自分の知っているその事柄について、ロゴスを与える(=説明する)ことができる
自分自身に対しても、他人に対しても、ロゴスを与えることのできない人は、それができないかぎりにおいて、その事柄を理解していないことになる
ヘラクレイトスも言っているように、ロゴスとは公共的なものである
誰にでも通じるものとしてのロゴスを媒介として語られる
ただ、ロゴスを以って語られたとしても、それが真実であるかどうかは分からない
真実性を確かめなければ、知識とはならない
ロゴス(理論)を自分で「直知的」(直観的)に確認しなければ、知識にはならないのである
語り尽くせぬものを媒介しなければならなくなる
ここで問題になるのは、すべての知においてロゴスと直知が結びついているのかという点である
両者が結びついていない場合には、学び知ることはできない
カントは、哲学の場合、ロゴスと直知は結びついていないと考えている
それ故、カントはこう結論する
ひとは決して哲学を――歴史学的にでなければ――学ぶことはできない。学ぶことができるのは、せいぜい哲学することだけである
田中はこうパラフレーズする
理論的体系としての哲学そのものは学ぶことができるけれども、哲学することは学ぶことができない
プラトンの手紙には、哲学の最も大切なところは、自分で見つけ出すよりほかに仕方ないということであり、話したり、書いたりすることにより、他に伝えることはできないという指摘がある
理論的な構造を学んでもその哲学を知ったことにはならないということだろうか
知るということがどういうことなのかは、プラトンの『テアイテトス』でも取り上げられて以来、大きな問題であり続けている
この点については以前エッセイに纏めたことがあるので、貼り付けておきたい
プラトンの『テアイテトス』、あるいは「真に知る」ということ(2021年3月13日)
(つづく)
2023年8月7日月曜日
田中美知太郎による「哲学と生活との関連」(2)
哲学は生活的なものから解放され、全く自由である立場を徹底させながら、その自由自足的な哲学を再び生活に結びつけるところに、哲学のもっと深い意味が見出されるのではないか












