本日で 3-2-2「自然の哲学と観念論の精神の違い」を読み終えたい
これまで、シェリング(1775-1854)の自然の哲学が、観念論による自然(ある目的を持って作られた自然という意味か)に反対して自然の生産性(外からのプログラムのようなものに従って生み出すのではなく、自然自体がすべてを生み出すということか)を喚起することを見てきた
カント(1724-1804)は、時計のような人為的存在と並んで、自律的に組織化する能力を持った生物のような自然的存在があることは見ていた
そこから、アリストテレス(384-322 BC)の外部に設計者がいるとする人為的目的性に対して、自らを組織化する「自然の目的」と名づけたものが出てくる
しかしカントは、目的性の判断は「精神の目」にあるとした
つまり、目的がそこに在るというのは、それを見ている側の精神の作用によるもので、実際に自然の中に在るとは考えなかったのである
したがって、シェリングはカントを全面的には認めることはできなかった
客観の虜にならない反省が可能な者は、生み出された客観としての自然(所産的自然、natura naturata)から能動的な生み出す自然(能産的自然、natura naturans)を推論できなければならない
シェリングのフォルミュールによれば、「自然は目に見える精神であり、精神は目に見えない自然である」となる
シェリングの影響を受けていたと思われるエマーソン(1803-1882)は、「自然は思考の具現であり、世界は精神の沈殿である」という言葉を残している
自然は精神が沈殿したものである
何という表現だろうか
自然には精神の発露が見られるというシェリングの自然の哲学は、確かにカントの哲学を突き破ったことが分かる

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