2026年1月4日日曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(23)
































新しい年を迎え、年を越してしまったアンバシェを読み始めることにしたい

今日は 3-2-2「自然の哲学と観念論の精神の違い」のつづきから

自然の体系が同時にわれわれの精神の体系でもある」と考えたシェリング(1775-1854)の哲学を掘り下げるためには、2つの考え方を理解する必要があるという


1つは、すべての近代の哲学は観念論に捧げられていることである

彼はフィヒテ(1762-1814)を通してカント(1724-1804)の超越論的観念論へ、さらにカントを超えてデカルト(1596-1650)バークリー(1685-1753)の唯心論に結びつく

シェリングはこう言っている
認識者を存在から分離することはほとんど不可能であるから、この企てはむしろ不可避的に認識者自身以外のすべてのものに存在を拒むことになり・・・至る所認識者、精神的なものしか存在せず、精神的でないすべてのものは精神の表象の内にしか存在しないと断言することになる。・・・それはまた、デカルトのすぐ後でマルブランシュ(1638-1715)が、それからやや遅れて、神と物質的身体の表象が生み出すときの有限な精神との外には何も存在しないとしたバークリーが到達した結論である。

これをどのように解釈すればよいのだろうか

近代における、特にデカルト以降の認識論において、認識する主体と認識される客体が分けられるようになる

認識と存在が分離されることになるが、そこで確実なのは認識する側にあるとされる

しかし、そのような分離はできないとシェリングは考えているようである

認識主体は存在しており、認識される側の存在が怪しくなる

外界に存在するものは、精神の中に表象されるものとしてしか存在できなくなる

その結果、実際にマルブランシュは、我々が知覚するのはものそのものではなく、神のうちにある観念として認識すると考えた

またバークリーは、esse est percipi (存在するとは、知覚されることである)という有名な言葉にもあるように、存在するのは神と有限な精神とそこにおける表象だけで、物質的自然は存在しないと考えることになる

しかしシェリングは、この考えに満足していたわけではない


そこで、もう1つの考えを検討する必要が出てくる

彼は、認識主体に先行するものとして自然を見ており、アリストテレス(384-322 BC)の実在論に向かうのである

シェリングは、アリストテレス同様、全体と部分ができる組織化の場合には概念(一つにまとめる原理のようなもの)が存在すると考える

しかし、概念が自然の組織化と縁を切らないままそこに住みついていることをアリストテレスは見ていないとして批判する

これはどういうことだろうか

アリストテレスは、自然物において全体が部分に先行し、目的論的に組織化されているという概念構造は認めていた

しかし、その概念は知性による認識によって把握されるもので、自然が自ら生み出すものとは考えなかった

シェリングは、自然というものは自らが組織化し、概念へと向かう自己生成の特徴を捉えていた

換言すれば、自然が最初から概念を宿しているのではなく、自らが組織化によって概念になっていくと考えたのである

自然と精神とが結びついてくる

したがって、超越的存在から与えられた作品として考察するやいなや、自然の観念はことごとく破壊されることになる










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