2026年1月10日土曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(26)

































客観性、有効性、先行性などにおいて優位性を示す科学は、裁断と抽象という方法を用いなければならない

これは「知性」の作用によるが、科学はこの性質ゆえに哲学的直観にその優位性を明け渡すことになる

哲学的直観は、個別性、主観性を超えて自然の全体に広がる

なぜなら、意識は自己を外化することを止める時、自分自身に向き合うことになり、そうすることにより自分を超えた多くのものとの接触が始まるからだという

ベルクソン(1859-1941)はこう言っている
世界を満たしている物質と生命は我々の内でも同じである。すべての事物に働きかける諸力を、我々は自身の内に感じ、つくられるものとみずからつくるものとの内的本質がいかなるものであろうとも、我々は現にその諸力である。


こうして、主観性と客観性の道の他に、第三の道が現れる 

その道は、客観性の姿が内省によって間接化された時、すでにシェリング(1775-1854)がやったような形で開けているのである

これはどういう意味だろうか

外から観察して裁断する科学でも、内から主観的な世界を見るのでもなく、われわれの中にある世界を形成する力そのものを経験すること

客観的な世界をわれわれの生の経験として捉えなおすことが内省による間接化で、シェリングの「自然は目に見える精神である」という認識につながり、それが第三の道になるということなのだろうか


ベルクソンによれば、世界についての科学的研究は、文章についての文法的研究に相当しているという

バークリー(1685-1753)は科学者を「自然の文法家」と呼んでいるので、ベルクソンとの親近性がある

一方、哲学的直観についてベルクソンは、文学的霊感に譬えることができるとしている

哲学的行為は、単語と構文の複雑さを通して叙述の単純さを把握するのに似て、出来事と事物との縺れに与えられる包括的な意味の把握になる

ベルクソンにおいて、直観を科学によって運ばれる素材と結びつけるものとされる「精神的共感」に関しては、留保が必要である

直観はしばしば客観的認識の所与に反することがある

科学的断定に対して、直観は「不可能だ!」と囁く

そう言えるということは、ここで言われる自然の哲学が主観主義ではないという証左である

ここのところはどう理解すればよいのだろうか

ベルクソンの直観は、対象の内側に入り込み、対象が持つ言葉にできない生きた秩序と一体になる(対象の声を聴く)作業である

その上で、科学が出してくる断定に対してNONと言う

それは、個人的な好みや意見から出てくるのではなく、自然との直接的な接触を経験したという確かな手応えから生まれている

そのため主観主義とは言えないと結論することになるのだろうか


第三の道としての自然の哲学をこのように解釈すると、科学の形而上学化(MOS)と重なるところが多く、MOSをさらに深化させるためには直観という方法についてもう少し真剣に考察すべきではないかという思いが湧いてくる











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