本日は、3-3-2「バークリーにおける自然の質的経験」を読みたい
バークリー(1685-1753)の説ほど科学的客観性のドグマを激しく攻撃するものはないだろう
ジョン・ロック(1632-1704)の概念に、存在するそのものが持つ客観的な性質(延長や運動など)を示す第一性質と、感覚が作用する主観的な性質である第二性質がある
この第一性質と第二性質を同一だとすれば、物理的世界の骨組みはすべて抽象的観念に還元されることになる
この場合、自然を分析・操作する上では何の問題も生じないが、自然の中に実在的な根拠がなくなる
バークリー自身、この立場が招くであろう批判を自覚していた
彼の『人知原理論』(1710)には、こう書かれてある
第一に、先の原理に従えば、自然の中に実在する実体的なすべてのものは世界から追放され、 その場に諸観念の架空の体系が建っている、と言って人は私に反論するであろう。存在するすべての事物は、ただ知性の中にだけ存在する。すなわち、それらはたんに想像的なものにすぎない。太陽や月や星は一体何になるのか? 家、河、山、木、石をどう考えるのか、それどころか、われわれ自身の身体そのものをどう考えたらよいのか?
先の原理は、諸事物が絶えず無化され、ついで再び創造されるということを含意していると反論するであろう。感官の対象は、人がそれを知覚するときにのみ存在する。それゆえ木は庭にあり、椅子はサロンにあるが、それは誰かがそれらを知覚するためにそこにいるときなのである。私は眼を閉じる、すると部屋の中のすべての家具は無に帰化する。それらを蘇らせるためには私が眼を開けるだけで十分である。
バークリーによれば、私が眼を閉じるとき、諸事物は引き続き存在することができるが、それは別の知性の内になければならない
これは、フッサール(1859-1938)の言う思考するモナドの「相互主観性」の立場から理解可能になるだろう
すなわち、他者を自分と同じように世界を経験する主体(モナド)として認め、わたしというモナドが知覚を止めても、他のモナドからなる共同体が世界を経験、維持していると考えるからである
バークリーは、「自然物は存在する」と言う
この自然物とは物理的な存在ではなく、神という至高の知性によって、一貫性のあるルール(自然法則)に従って提示される観念の集まりのことである
彼はこう言っている
あらゆる結果を直接に、命令一下、つまり意志の働きによって生み出すのが精神であれば、すべての技巧的なものは無用になる。観念に属する諸器官は、いかなる能力も活動性も所有しておらず、それらに割り当てられる結果と必然的に結びついてはいない。例えば、懐中時計の歯車装置を細工する時計工にそれが見られるのだが、そういうことはすべて、針を差し向け針に時を告げさせるのが至上の知性であると言ってしまえば空しくなる。空しい細工師は、なぜそれをも問題にしないのだろう。
ここで「観念に属する諸器官」と言っているのは、物理的なものではなく、経験から生まれた観念の集合のことで、それが機能したとしてもそこで現われるものとはつながっていない
彼はこうも言っている
諸観念の結合は、原因と結果の関係でなく、徴表や記号と意味された事物との関係だけを含意している。私が見る火は、近づけば被る苦痛の原因ではない。その火は、私にその苦痛を予告する徴表なのである。同じように私が聞く騒音は、これこれの運動の結果とか、周囲の諸物体の衝撃の結果ではない。それはそういうものの徴表なのである。
物理学者に対するバークリーの挑戦はここで終わる
意識が自然の質的・感覚的現前と交流すると、眼は世界に開かれる
思考はもはや空間を測ったり、質量や力に専念したりしなくなり、説明を要しない一連の意味作用全体を背負うことになる
自然はもはや感覚を生産する機械や動いている物体を収める容器ではなくなる
自然はそれが交流する精神に対して、本能的に利用するすべを知っている記号の読解のための手段をその都度与えながら、精神を教育する以外に運命を持っていないのである

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