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2026年2月6日金曜日

学友との恒例の会食
















今日は学友の深津・池田両先生との会食があり、出かけた

恒例となって久しいが、一体いつからだったのか調べてみたところ、2012年が最初であることが分かった

わたしがフランスから一時帰国して神経心理学会で講演をした際、深津先生が聞きに来てくれたことが切っ掛けであった

それ以来、帰国の度に毎年2回ほど会食を続けてきたので、長い間ご厚誼を賜っていることになる

今日も他愛無い話から始まったが、中心は科学から哲学へと領域を超えて羽ばたいている(より正確には、彷徨っているか)魂についてではなかっただろうか


昨年のまとめでもこの場で触れたが、昨年は日本では無名のフランス人哲学者マルセル・コンシュ(1922-2022)の『形而上学』という本の翻訳をやっていた

その内容が日の目を見ることを願ってはいたが、何分わたし以外の日本人が話題にしているのを見たことがない

1冊しか売れない本を刊行する出版社があると想像する方がどうかしている

ところが、奇跡のようなことが起こり、理解を示してくれる出版社が見つかったのである

学術出版に打ち込んでいる知泉書館さんである

先日、知泉書館の社長と編集者の方と面談する機会があった

その中で、わたしの解釈によれば、領域を横断するような精神の動きに意義を認めておられる様子が伝わってきた

それが日本では稀であるというようなお話であった

精神的な活力が衰弱しているのではないかという観察が背後にあるのではないかと推察した

いずれにせよ、こちらが活を入れられるような面談となった


この話題を出したところ、そこから話が広がっていった

拙著『生き方としての哲学:より深い幸福へ』を精読していただいているようで、その中に出てきた「出来事」に当たる今回のような「出会い」が持つ意味へと展開

バディウ(1937-)によれば、それこそ真理への道であるという

どういう真理が現れるのか、わたし自身も興味を持っている

こういう流れで自然に話が続くほど、丁寧にお読みいただいている

嬉しくなる展開ではあった

というようなことでお開きになったが、何と来月もこの会合を持つことになった

これは異例の展開と言うべきだろう

次回はどんな話になるのか、楽しみにしながら待ちたいものである








2025年8月15日金曜日

ベルクソンカフェを振り返る



























ウィンドウズ10のサポートが10月で終わるとのニュースがどこからともなく入ってきた

今使っているパソコンはかなり長い間使っているので、そろそろ替え時かもしれない

ところで、このパソコンいつ買ったのだろうか、と記憶を辿ってみると、丁度10年前になることが分かった

今では遥か彼方の記憶の一断片に過ぎなくなっているが、当時は半年くらい重い気持ちで過ごしていた

2015年1月のブリュッセルでそれまで使っていたパソコンを盗まれたのであった

その時の記録が残っている

  記憶のクラススイッチ、あるいは「出来事」から創造へ(医学のあゆみ 255: 787-791, 2015)

その年の12月にスートゥナンスがあったので、哲学の領域での博士になってから10年ということも意味している

ただ、自分の中ではそのような長さを持った時間としては捉えられていないようである

外からは10年という時間に見えるこの満ちた内的経験について解きほぐすことも、これからのプロジェになりそうである



ところで、このところベルクソンカフェの「これまで」を振り返っている

現在、最初に取り上げたピエール・アドー(1922-2010)についてまとめようとしているが、意外に大変である

どこまで踏み込むのかという問題が付いて回るからだ

今回のプロジェはベルクソンカフェの営みを紹介するものなので、そこで読んだものを中心にまとめるという方向性で固まりつつある

他の哲学者として、アラン・バディウ(1937-)とマルセル・コンシュ(1922-2022)が控えている

このお二方についても同じ考え方で向き合うことになるだろう

現段階でどのようなものになるのかは想像できない

ただ、小冊子ではあるが自分に照らして読み進むことができるようなものにしたいという気持ちではいる
















2023年4月27日木曜日

現代文明批判としての『免疫から哲学としての科学へ』と『免疫学者のパリ心景』

































新刊『免疫から哲学としての科学へ』の第1章では、アラン・バディウ(1937- )さんの言葉をエピグラフとした

免疫学の本にこの方が登場したのは初めてではないかと想像している

10年以上前にその言葉を聞いた時、頭の中がスッキリしたというか、自分がやろうとしていることが一つの枠組みの中にすっぽり収まったという感覚に陥った

それはこういう言葉であった

知識は継続する。しかし、もし哲学が知識でないとすれば、継続することはできない。哲学は常に始まるのだ。すべての哲学者はいつも「わたしは始める」といった。(初めに)過去の全体についての新しい解釈があるのだ。

哲学は知識ではないと言っている

それでは知識を提供するのは何なのか

それは科学と言ってよいだろう

そこでは想像に基づくものが排除される

科学は文明に属している

知識を介してどこへでも伝達される

この状態をよしとしているのが現代文明とも言えるだろう

当時のわたしの考えは、知識で止まっていては駄目だというもので、それは今でも変わっていないどころか、より明確な形でわたしの芯を形成するようになっている

その一つが「科学の形而上学化」だが、あくまでも科学が提示した知識をもとにするが、そこを超えなければならないという「わたしの方法序説」である

それは科学を文化にすることにも繋がる

文化にまでならなければ、人間の心には入ってこない

そのために必要なものは「思考・思惟」あるいは哲学的思索だが、現代ではそれが弱体化さらには欠落しているように見える

今回の本は、前作の『免疫学者のパリ心景』同様、この見方をベースにした試みである

その意味では、この二著には現代文明批判の側面があるとも言えるだろう











2023年3月3日金曜日

「出会い」再考
















今回のベルクソン・カフェにキーワードとして出てきた「出会い(rencontre)」

この言葉は2005年にブログを始めて以来、わたし自身のキーワードにもなっていたので、興味深くバディウさんの論を読んだ

出会いが齎す緊張を含んだ「選択」

それこそが真の幸福すなわち絶対へと我々を導くという

そういう認識が初めからあったわけではないが、目の前に現れる扉の向こうには何が見えるのかという好奇心が、先に進む後押しをしてくれていたようだ

その歩みが実は絶対的なるものへの道であるというバディウさんの見方は、わたしに力を与えてくれる

最初は「反哲学」に興味を持って選んだテクストであったが、振り返れば、わたしの歩みに理論的な根拠を与えるものであることが判明

これなども偶然が齎した「出会い」だったと言えるだろう

それを「出会い」と認めるためには、注意深い観察が必要になる

それまでの流れとの僅かなズレを感じ取らなければならないからだ

そして、それがどんなに些細なものであれ、絶対的なるもの=真の幸福に繋がる契機になるということも忘れないことだろう







2023年3月1日水曜日

第7回ベルクソン・カフェ+第9回カフェフィロPAWL、無事に終わる
























今日は第7回のベルクソン・カフェと第9回カフェフィロPAWLを合同で開催した

年度末のお忙しいところ、参加していただいた皆様に感謝したい

テーマはアラン・バディウ(1937- )による「幸福と反哲学」とした

これは『真の幸福の形而上学』Métaphysique du bonheur réel (PUF, 2015) の第2章に当たる

今回は日本語訳を配布して、日仏を対照させながら読み進んだ

第一に興味を持ったのは、哲学に対する反哲学とは何を言うのかということと、それがどのように幸福に関連してくるのかという問題であった


冒頭にある「反哲学者」の定義によると、自らの実存の出来事を概念的な構築と対峙させる哲学者である

彼らの言う真理とは、頭の中で構築されたものではなく、出会いや実際に体験したものでなければならない

キェルケゴール(1813-1855)は、真理は内部にあるもので、主観性そのものが真理の特徴であると言っている

反哲学で重要になるのは主体になることで、それは純粋な選択にかかっている

その選択は偶然の出会いにより促され、真の幸福、真の生活はその後に現れる

それは平凡な満足を乗り越えなければ達成されない

他の反哲学者として、パスカル(1623-1662)、ルソー(1712-1778)、ニーチェ(1844-1900)、ウィトゲンシュタイン(1889-1951)、ラカン(1901-1981)などを挙げている


反哲学に対する哲学は、概念的で、体系的で、科学的なものであり、バディウ氏は哲学者に属しているとしている

ただ、反哲学からの挑戦を真面目に受け止め、考えなければならないという

詳細は専用サイトに掲載する予定である