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2023年8月31日木曜日

出隆の「科学的立場における実在と真理」(1)















前回までのところを纏めれば、以下のようになるだろう

知識や経験が真理と呼ばれるためには、その基礎に命令的、理想指示的な当為が仮定されている

当為という論理的良心の要求が基礎に立つことで真の認識になるのであり、模写説のように真なるものが客観的に実在するのではないことになる

これを模写説に対して、構成主義の真理観と呼ぶことにする

そこで問題になるのは、当為とは何なのかということである

当為とは、何かを真なる知識とするための基礎的予想で、それぞれの真理はそれぞれの当為を仮定している

各学問領域における真理は、その領域における当為を仮定している

普通、真理は仮定などのないものと思うだろう

そして、真理は唯一絶対であると主張したいだろう

著者はこれを、存在という太古からの謎を解かんとする我々形而上学的動物に共通する要求だと見ている

それはそれぞれの立場や仮定の上の諸真理ではなく、立場以前の真実在、世界や人生における真相を捉えようとする努力に繋がる

現象的実在から本質的実在に向かうのである

この無仮定として求める真理は偽に対立する真理ではなく、真偽以前の真理(真実在)、さらに言えば、絶対的真理とされるものではないかと著者は言う

それは真偽を超越したものであり、我々の要求に基づいた真理という意味で、我々が構成したものである


ここで、実在という概念について考えてみよう

絶対的真理として求められる真実在は、一切の立場から離れ、真偽の区別も超越するものである

真偽の別がないとすれば、それは真の実在とは言えないだろう

以前にも触れたが、我々とは独立に在るものは実在し、それが確かめられない幽霊のようなものは実在しないと言われる

ただ、その個人の心理においては実在していると言えないだろうか

それは、美なるもの、聖なるものについても当て嵌まるのではないか

このような考え方を絶対的真理にも適用できないだろうか


さらに、構成とは何を意味するのだろうか

著者は、実在を模写するという考え方を捨て、我々の主観が採用する立場によって構成されるのが実在であると考えている

真実在と言われるものは立場以前の主客未剖の世界であり、我々が普通実在と言うものは我々が経験し認識した何かで、真実在とは異なっている

我々は客観界をそのまま認識・経験するのではなく、何ものかを客観界として認識・経験するのである

ある立場に立っているから現れるものであり、当為の要求によって現れたものである

それが構成されるという意味であり、新たに創造されたものと言ってもよいだろう

ただ、この主張は個人的な要素が前面に出ていると受け止められ、独我論ジョージ・バークリーの唯現象論などと誤解される可能性もある

ここではそうではないとだけ言っておこう






2023年8月30日水曜日

出隆の「真理について」(2)



















昨夜も免疫学者との会食があった

拙著『免疫から哲学としての科学へ』についての感想から話が始まった

日本人は広く統一的に見ることが余り得意ではないという認識をお持ちのようで、それはわたしのものとも重なる

いろいろなものを指標に、研究対象の特徴を特定したりすることには長けている

例えば、ある病気に関連する遺伝子を同定するというような種類の研究

しかし、やっていること、行われていることを支える芯のようなものに対する思索がないようなのだ

哲学的思考に弱いということになるのだろうか

これは科学に限らず、政治や社会を見ていて感じることの一つである

科学の研究者は特に若い時には狭い範囲に絞ってやることは悪くはない

逆に、余り広く考えすぎると研究を進められなくなる

しかしある程度の年になると、全体を統一的に知りたくなるのではないだろうか

そういう欲求に拙著はある程度答えられるのではないかという評価であった


ということで、本日も昨日の「真理について」のつづきに当たりたい

真理は、判断する側がそう考えなければならないと認めるものとするという主張だが、判断には理性的ではない要素が入ってくる

そこに誤謬があるかもしれない

万人が認めるからといって、それを真理とできるであろうか

このような事実的普遍妥当性に対して、すべての人が認めるべきものという意味の理想的普遍妥当性を唱える流れが現れた

それは Sollen(当為:当にかく為すべし=それ以外であってはいけない)の哲学で、Müssen(自然のままに然あること=Sein 以外ではあり得ない)の哲学に対するものである

真理とするには、そこに理想的な価値がなければならないと考えることだろうか

著者は次のような今に通じる例を出している

ある官吏が上司から「わたしのために偽証せよ、さもなくば首にする」と言われたとする。その官吏は家庭のことなどを考え、偽証するかもしれないし、世間はそれを仕方がないと言うかもしれない。しかし、それ以外の道はないのだろうか。もし彼が偽証するくらいなら乞食になってもよいと考える人であれば、別の道が生まれる。人間は食わざるを得ない必然性を持っている一方、内心の道徳命令を聞く動物でもある。

ミュッセンの意味での必然、それは外部から強制され束縛され運命付けられた被制約的状態で自然必然性と呼ぶ

これに対するゾレンの意味での内的命令により決められた必然は、自らの理想的要求が自らの現実に課す命令的拘束の状態で、理想的必然性と呼ぶ


多数の人が承認しているから真であるとするのは多数決主義になる

勝てば官軍にも通じる精神で、それで真偽を決めるわけにはいかない

予言者故郷に容れられずで、真理が少数者の中にあることも稀ではない

真理の基準として挙げた普遍妥当的という特徴は、万人が承認している事実という意味ではなく、理想的に万人が承認すべきことという意味ではければならない

地動説が真だと言うのは、大多数が認めているから真なのではなく、天文学的に忠実であろうとすれば、必ずこのように思惟し承認すべきであるという意味において真なのである

つまり、このように思惟すべしという論理的良心、すなわち当為が真理の基礎にあるのだ







2023年8月29日火曜日

出隆の「真理について」(1)



















昨日から大阪に来ている

昨夜は現役時代にお世話になった免疫学者との会食があった

拙著『免疫から哲学としての科学へ』はすでにお読みいただいているかと思ったが、スラスラとはいかないとのことでまだのようであった

ただ読了部分については、いろいろな問題点が指摘された

特に興味を惹かれたのは、アジュバントに関連した自然免疫の問題と免疫記憶という現象だったとのこと

アジュバントに関しては免疫学者の思考の枠外に置かれていたため、長くその意味は考慮されることがなかった

それを思考の枠内に入れて深く考察したのが、ジェーンウェイというアメリカの免疫学者であった

また、免疫記憶の実態は話をすればするほど見えなくなり、まだまだ謎が多いことが明らかになる

我々免疫学者は、教科書に書かれてあることを読み、それをそのまま受け入れ前提とするところがある

これは他の領域でも同じだろう

しかし、実際にはよく分かっていないことが稀ではない

その点を意識するためには、「それは本当な何なのか?」という根本に迫る哲学的問いを改めて出すことが重要になるだろう

拙著では、新たな枠組みを作った人の共通点として、免疫学のイニシエーションを受けていないことを挙げた

つまり、そのような前提から自由な人が新しい世界を開く可能性が高いということを強調したかったからである

拙著は、これまで免疫学をやって来た人が頭を整理したり、免疫学を大きな視点から見直す上で欠かせない本であるとの評価をいただいた

特に経験を積んだ専門家には一度手に取っていただきたい本である



さて本日も『哲学以前』のつづきで、「真理について」考える

一般的には、科学的知識だけが真理であり、客観的な実在を示すと考えられているようである

しかしこれまで見たように、宗教にも真理があり、科学が示す実在とは違う実在があるかもしれない

ここで、真理とか実在ということについて考え直すことにしたい


ある「もの・こと」がある立場に立てばAに見えるし、別の立場からはBにも見える

そのどちらかとも決められないということがある

これは真理が1つではないと言っているようでもある

これに対して、真理は1つであるという考え方もある

著者はこの違いをこう説明する

それぞれの立場に現れる世界、すなわち「現象」「表象」が前者で、立場のいかんにかかわらず我々の外に客観的に厳存するところのもの、すなわち「本質」「実体」と呼ばれるものが後者である

普通、真偽の区別は、心に現れるもの=表象と、外界に実際に存在するもの=実在とが一致する場合に真とし、違っていれば偽としている

これは模写説と呼ばれ、常識に植え付けられている見方だが、これをそのまま主張する学者はほとんどいないという

まず、表象が外界の実在をそのまま写しているとはとても言えない

歴史的知識や自然科学の記述なども対象をそのまま複写しているわけではない

模写説以外にも新実在論プラグマティズムによる真理観があるとしているが、ここでは詳説されていない

著者は模写説に対立するものの中で理性主義を取り上げている

模写説が経験的な実在を基準とするのに対して、これは判断する側の理性的思惟を重視する

すなわち、何人もこのように考えなければならないとされる場合に真理とするという立場である