昨夜も免疫学者との会食があった
拙著『免疫から哲学としての科学へ』についての感想から話が始まった
日本人は広く統一的に見ることが余り得意ではないという認識をお持ちのようで、それはわたしのものとも重なる
いろいろなものを指標に、研究対象の特徴を特定したりすることには長けている
例えば、ある病気に関連する遺伝子を同定するというような種類の研究
しかし、やっていること、行われていることを支える芯のようなものに対する思索がないようなのだ
哲学的思考に弱いということになるのだろうか
これは科学に限らず、政治や社会を見ていて感じることの一つである
科学の研究者は特に若い時には狭い範囲に絞ってやることは悪くはない
逆に、余り広く考えすぎると研究を進められなくなる
しかしある程度の年になると、全体を統一的に知りたくなるのではないだろうか
そういう欲求に拙著はある程度答えられるのではないかという評価であった
ということで、本日も昨日の「真理について」のつづきに当たりたい
真理は、判断する側がそう考えなければならないと認めるものとするという主張だが、判断には理性的ではない要素が入ってくる
そこに誤謬があるかもしれない
万人が認めるからといって、それを真理とできるであろうか
このような事実的普遍妥当性に対して、すべての人が認めるべきものという意味の理想的普遍妥当性を唱える流れが現れた
それは Sollen(当為:当にかく為すべし=それ以外であってはいけない)の哲学で、Müssen(自然のままに然あること=Sein 以外ではあり得ない)の哲学に対するものである
真理とするには、そこに理想的な価値がなければならないと考えることだろうか
著者は次のような今に通じる例を出している
ある官吏が上司から「わたしのために偽証せよ、さもなくば首にする」と言われたとする。その官吏は家庭のことなどを考え、偽証するかもしれないし、世間はそれを仕方がないと言うかもしれない。しかし、それ以外の道はないのだろうか。もし彼が偽証するくらいなら乞食になってもよいと考える人であれば、別の道が生まれる。人間は食わざるを得ない必然性を持っている一方、内心の道徳命令を聞く動物でもある。
ミュッセンの意味での必然、それは外部から強制され束縛され運命付けられた被制約的状態で自然必然性と呼ぶ
これに対するゾレンの意味での内的命令により決められた必然は、自らの理想的要求が自らの現実に課す命令的拘束の状態で、理想的必然性と呼ぶ
多数の人が承認しているから真であるとするのは多数決主義になる
勝てば官軍にも通じる精神で、それで真偽を決めるわけにはいかない
予言者故郷に容れられずで、真理が少数者の中にあることも稀ではない
真理の基準として挙げた普遍妥当的という特徴は、万人が承認している事実という意味ではなく、理想的に万人が承認すべきことという意味ではければならない
地動説が真だと言うのは、大多数が認めているから真なのではなく、天文学的に忠実であろうとすれば、必ずこのように思惟し承認すべきであるという意味において真なのである
つまり、このように思惟すべしという論理的良心、すなわち当為が真理の基礎にあるのだ
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