哲学とは、最も広く深い意味において、根本的に知ることを求めるもので、それは知る側の生活にも根本的な影響を与えることになる
すなわち、哲学するとはそのようなことを希求することなのである
これから、その希求が何を意味しているのか、その元になっているものは何なのか
我々の生活とどのような関係があるのか、というような問題について考えることになる
「愛智」(ピロソピア)という言葉を最初に使ったのは、ピタゴラスだとされている
ピタゴラスを迎えて対談中の支配者が彼の学識の豊かさに驚き、「一番自信を持っている学術は何か」と尋ねた
それに対してピタゴラスは、「学術の心得は自分には一つもない。ただ私は愛智者なのだ」と答えたという
さらに、愛智者とそれ以外の人との違いを問われ、彼はこう答えたと伝えられている
この世に生活する人は、3つに類別される。1つは、人生という催し物である競技会に出て賞を得ようとする人たち。2つは、そこで商売をして金銭を儲けようとする人たち。そして第3には、そこで何がどのように行われているのかを見物するためにやってくる人たちがいる。
この世に生を受けた者にも、名誉や金銭の奴隷となる者がいる一方、ものの在り方を観ることに熱心な者も僅かながらいる
これが愛智者(ピロソポイ)なのだという
つまり、愛智者とは人生において選択される一つの生き方であることが見えてくる
愛智という問題は、最上の生活とは何なのか、何が幸福を齎すのか、我々はいかに生きるべきなのか、という問いをすでに含んでいたのである
しかし、その営みは日常生活に何の役にも立たないと言われたり、哲学者を風変わりな人間として揶揄することも行われてきた
この世で栄誉を得ることが最上で、哲学など男子一生の仕事にはなり得ないという考え方になるのだろう
哲学者の中には、哲学の存在を自明のこととし、狭い専門家うちの約束に従って、流行りの問題を手際よく処理するということに満足している人もいるという
しかし、なぜ世界と人生の真理を探ることに意味があるのか、哲学の存在理由は何なのかについて回答しなければならないだろう
ソクラテスもプラトンも、哲学は自分自身にとってだけではなく他の人にとっても絶対に必要であると信じていたようである
ソクラテスの哲学は知を愛求し、それによって精神をできるだけよいものにする努力であった
プラトンの哲学は政治の原理とすべきもので、それによって多くの人を幸福な生活に導くものであった
哲学者こそ、政治指導者にならなければならないという考えである
ここに、哲学に対する2つの対立する考え方――日常生活には役立たない VS. 個人や国家を不幸から救う――が現れた
ここで田中は、プラトンの『パイドン』を引き合いに出してくる
今から5年前になるが、この対話篇から広がった考えをエッセイに纏めたことがある
プラトンには、我々の感覚世界が根源的な智に至る過程を邪魔するという認識がある
哲学するためには、身体的な要素を極限まで削ぎ落し、精神だけにならなければならないのである
その究極の状態は何かと言えば、肉体の死である
つまり、死に至った時に人間は最高の認識を得ることが出来るのである
より柔らかく言えば、肉体が衰えるに従って認識の程度が上がってくることになる
そもそも哲学するためには、日常生活から離れたところに身を置かなければならないのである
その状態で、日常生活に直接役立つ成果を挙げることが出来るだろうか
寧ろその問いから離れ、哲学の使命は超越的な真善美に関わるものを積極的に希求することだと宣言することこそ、求められるのではないだろうか
(つづく)
0 件のコメント:
コメントを投稿