よく言われることだが、愛智を希求する者は智を所有する者ではない
もし所有しているのであれば、それを求めはしないからである
愛智者は智者ではないが、無智の者でもない
無智の者とは、自分では十分な智を持っていると思っている人間なのでそれを求めようともしない
プラトンの『饗宴』によれば、エロス(愛)はポロスとぺニアを父母として生まれた
ポロスとは、才能も資産も十分で困窮することのないことを意味し、ぺニアは欠乏や貧困を示す名前である
エロスは愛(エロス)智の精神を具え、我々を智へと導く原動力(哲学の愛を体現している)とされる
ここで注意すべきは、エロスが齎す意欲を無制限に広げるのではなく、我々自身の知性の及ぶ範囲内に止めることである
エロスは智以外にも世俗的な金銭や名誉、あるいは不確かな思いなし(ドクサ)にも向かうからである
そこに注意することにより、誤謬を防ぐことができる
節制あるいは克己心が求められるのである
プラトンの『パイドロス』に以下のような言葉があるという
ひとり智を愛し求める哲人の精神のみが翼をもつ。なぜならば、彼の精神は、力のかぎりをつくして記憶をよび起しつつ、つねにかのもののところにーー神がそこに身をおくことによって神としての性格をもちうるところの、そのかのもののところにーー自分をおくのであるから。人間は実にこのように、想起のよすがとなる数々のものを正しく用いてこそ、つねに完全なる秘儀にあずかることになり、かくてただそういう人のみが、言葉のほんとうの意味において完全な人間となる。しかしそのような人は、ひとの世のあくせくとしたいとなみをはなれ、その心は神の世界の事物とともにあるから、多くの人たちから狂える者よと思われて非難される、だが神から霊感を受けているという事実のほうは、多くの人びとにはわからないのである。(藤沢令夫訳)
節制や思慮分別が重要だからと言って、それがエロスをかき消すようになるのは避けなければならない
分別くさく、人間のすることはもう分かってしまっているというような態度は愛智者とも哲学とも無縁である
我々は真善美に素朴で熱烈な愛を捧げなければならない
そうする時、我々の魂には翼が生え、彼方へと駆り立てるであろう
また、愛智のうちには、突進・飛翔と抑制・節制が同居していることも見えてきた
哲学という概念は決して安定してはいないのである
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