わたしの中ではこういうことのようだ。これまでに存在した人間が考えてきた軌跡を辿り (おそらくこの過程が学ぶということになるのだろうか)、自分と響き合うものを持った人を捜し求める場にしようとしているようだ。自らの感覚器を研ぎ澄まし、相手が放つものを捉える作業を通して、わたしの中にすでに存在している思想を生き返らせ、新たに誘発される思考を追いながら、それに陰影を加え、少しでも自分らしいものを創出できないかということになる。今ぼんやりと自分の中にある考えをより確かなものとして見えるようにしたいという強い願望があるようだ。
何かの知識を持っている人は、自分の知っているその事柄について、ロゴスを与える(=説明する)ことができる
自分自身に対しても、他人に対しても、ロゴスを与えることのできない人は、それができないかぎりにおいて、その事柄を理解していないことになる
ヘラクレイトスも言っているように、ロゴスとは公共的なものである
誰にでも通じるものとしてのロゴスを媒介として語られる
ただ、ロゴスを以って語られたとしても、それが真実であるかどうかは分からない
真実性を確かめなければ、知識とはならない
ロゴス(理論)を自分で「直知的」(直観的)に確認しなければ、知識にはならないのである
語り尽くせぬものを媒介しなければならなくなる
ここで問題になるのは、すべての知においてロゴスと直知が結びついているのかという点である
両者が結びついていない場合には、学び知ることはできない
カントは、哲学の場合、ロゴスと直知は結びついていないと考えている
それ故、カントはこう結論する
ひとは決して哲学を――歴史学的にでなければ――学ぶことはできない。学ぶことができるのは、せいぜい哲学することだけである
田中はこうパラフレーズする
理論的体系としての哲学そのものは学ぶことができるけれども、哲学することは学ぶことができない
プラトンの手紙には、哲学の最も大切なところは、自分で見つけ出すよりほかに仕方ないということであり、話したり、書いたりすることにより、他に伝えることはできないという指摘がある
理論的な構造を学んでもその哲学を知ったことにはならないということだろうか
知るということがどういうことなのかは、プラトンの『テアイテトス』でも取り上げられて以来、大きな問題であり続けている
この点については以前エッセイに纏めたことがあるので、貼り付けておきたい
プラトンの『テアイテトス』、あるいは「真に知る」ということ(2021年3月13日)
(つづく)
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