形而上学は他の科学では満足できない2点、すなわち、統一的な理解ができないことと原理には盲目であるということを解決できる可能性がある
問題は、科学にも原理的なものがあり、形而上学のそれはより普遍的であると言うのだが、それがどれだけ確実なのかという点である
その原理は、すべてを問題として、すべてを仮定的に考えて行くものなので、実は不安定なものなのである
そう言えば、ハイデガーも本質とは確定したものではなく、常に更新されるものであると指摘していた
デカルトは『知能を正しく導くための規則』という遺構の第1則で、次のように言っている
多くの人々が、人間の風習や植物の本性や、星座の運動や金属の変質や、その他これに似たような学問の対象になっているものを、この上なく勤勉に研究していながら、しかもそれにもかかわらず、ほとんど誰も良識(bona mens)あるいは全一的智(universalis sapientia)について、考える者がないのは、全く不思議なことだと、わたしには思われる。なぜなら、他のそれらすべてのものは、ただこの智に何らかの寄与をなすことによって、尊重されるのであって、それ自体で価値をもつものではないからである
あるいはまた、
すべての学問的知識は、どれほど違った事物に向けられても、いつも同じ一つのものであるところの、全人的智(humana sapientia)にほかならない
デカルトによれば、哲学智とは、特殊科学が研究するところを超えて求める一つの統一された智ということになり、田中もそれに同意しているようである
そして、哲学は少なくともその意欲(エロス)においては、超越性の彼方に神智を窺い知ろうとするものになるだろうという
人間の仕事としての哲学の限界を自覚しながらの
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語りが学術書にあるようなものではなく、自らの思索の過程を追うような文体になっているので好感を持った
また、これまでの経験からわたしの中で固まって来た哲学観、あるいはこれからの方向性などと多くの点で重なっていることが見えてきた
その意味では驚きはなく、これまでの道を確認するような過程となった
2007年の段階でこの本を読んでいたとしても、ピンとくることが少なかったのではないかと想像しながらの読みとなった
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