著者は、これまでの2回で哲学の案内は終わったと考えている
ただ、ついて来られない者を捨てきれない何か(愛、老婆心)があるようだ
これまで見たように、哲学は仮定の批判であり、無仮定的に考えることである
しかし、日常生活ではそのような検討は行われないどころか、それが行われた場合には嘲笑されたり、時に危険視されたりする
古来、哲学者は社会や国家などに受け入れられず、迫害されることもあった
眼前の利害に囚われ、実利実用のみを口にし、現状に縛られているかぎり哲学は育たず、真理は消える
哲学的精神は真理思慕である
古き一切から脱却し、自由独立なる者として真理に向かう心であり、全き新生でなければならない
そのためには、周りの状況に囚われることなく一人で立つ「真理の勇気」を必要とする
日本では欧州大戦以来、にわかに哲学が需要を増してきた
それは喜ばしいことだが、市場から乞われて顔を出す御用商人のような哲学は、寧ろ哲学の堕落である
哲学が通俗化する時、哲学は利用され乱用されて、その価値は暴落する
哲学が求めるものは他人の哲学説ではなく、自ら哲学する精神であった
社交上必要な教養としての哲学ではない筈だ
それは排斥しなければならない
哲学を文化的・政治的諸問題のために利用しようとする要求もある
また、終極の世界観、人生観を哲学に求める場合も見られる
しかしそれを得るには、自ら哲学する以外に方法はないのである
つまり、いろいろな動機から哲学の中に回答を求めようとするが、既存の哲学が直ちに解を与えることはなく、あくまでも自分の何ものかを捉えなければならない
ここで哲学に対する非難について見ておこう
第1に、哲学が難解であるということ
第2に、空理空論を弄び、概念的にのみ考えるもので、人生の真には触れず、実用にも適さないということ
そして第3に、哲学には異説が沢山あり、科学のように統一された説がないこと
まず、哲学が難解であるということだが、それが古いものを破棄し、新しい真なるものを生み出すものだとしたら、普通の人には異質な世界に入ったように感じるだろう
また、日常生活では概念的な言葉が使われることはほとんどないので、その理解に困難を覚えるのも理解できる
しかし、だからと言って、すべてを理解しやすい実用的なものに置換することには著者は反対だという
難解ゆえに非難するのではなく、その中に飛び込んで理解しようとしなければならない
抽象的・概念的なるものが空理空論の目印ではないのである
最後に、哲学には異説が多いという非難だが、これは事実であろう
しかし、哲学は真理そのものを示すというよりは真理への過程であり、個々の説は個々の哲学者が産み落とした生児である
どの哲学を選ぶかは、その人にかかっている
初学者に勧めたいのは、何らかの哲学的入門書を通読した後、偉大だと思われる哲学者の原著を繙くこと
そして、自らの腹を痛める苦しい哲学的努力を通して、スピノザの言う「高貴なもの」を体得することである
ここで序言は終わる
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