共通性を持つロゴスを介する部分は学ぶことができるが、それは知ではないということがあった
そして知に至るためには、各自が自ら悟る以外にないとされた
この2つの過程を学と知に分けてはどうかという
ロゴスを介する知の共有過程を学と呼ぶのである
ここで一つの疑問が現れる
全ての知はロゴスを介して学んだ学知なのか
そうではなく、生まれつき、あるいは慣習などを通して知っていることもあるのではないか
学ばなかったことを自ら発見して知ること(発見知)も可能ではないだろうか
ただ、そこで明らかになったことは、ロゴスを介して語ることができなければならない
ところで元々の問いは、哲学は学ぶことができるのか、であった
それに答えるためには、哲学が求める智とはどのようなものなのかを明らかにしなければならないだろう
一つの可能性として、上記の発見知――すなわち、学んだ知を乗り越えて、未だ学ばれないことを新しく知ること――を哲学の智と考えてはどうか
しかし、これは他の学問についても言えることだろう
科学の知によって我々は完全に満たされるだろうか
我々を全的に賢くすることができるだろうか
こう問うと、哲学は全一的な智を求めているが、科学は絶えず動揺している未完の状態にあるとも言える
あるいはまた、その内実が極めて哲学的な科学も存在することも事実である
ここでオーギュスト・コントの三段階の法則が出てくる
『哲学初歩』は2007年1月に手に入れただけで、読んでいなかったことが分かる
そうでなければ、フランスでコントの著作に触れて、何と残念なことを、と思うことはなかったはずだからである
田中は最終の実証的・科学的段階になることにより、何かを失っているのではないかという
それを、あらゆるものを根本から知ろうとするエロスの純真性に見ている
わたし自身は科学をやって来たので、科学をすることにより失うというよりは、科学の段階には何か欠けているものがあるという認識に至った
その結果、人間精神の第4段階として「科学の形而上学化」を想定したのだが、この段階を支えるものにエロスがあるとは言えるだろう
プラトンが言うように、原理的に不明である限り、我々は真に知っていることにはならない
田中はプラトンを引用して、次のように言う
直接に始原へ遡って、実際に畢竟の泥土の中に埋もれている精神の眼を徐々に引き出し、これを高みへ導き上げるために、これらの諸科学を転向の補助手段として用いるのが哲学である
田中によれば、哲学智が科学知と異なっているので、その存在を否認しようとする傾向があるという
哲学智は科学知と異なっていることは明らかなのだが、問題は知性の領域において科学以外のものを認めるかどうかでなければならないだろう
もちろん田中は、科学を超えた思考の冒険を試みなければならないとしている
「科学の形而上学化」の精神とも響き合う主張である
ただ、それを学ぶことはできないのである
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