昨日はニューヨーク時代以来の友人とのディネがあった
すでに人生終盤の過ごし方全般について具体的に考えておられるようで、彼我の違いを感じた
その他、このところの日本の低迷を科学の現場でもひしひしと感じておられるようで、何が原因なのかが問題になった
それは複合的な原因によっていると思われるので、答えを出すのは大変だろう
現象的には、個人的な内的エネルギーの発露が見られないとか、例えば中国の研究者に比してハングリーさが見られないという
社会や政治を見ていると、問題を真正面から取り上げて説明し議論するということが見られないどころか、すべてを曖昧にしたり胡麻化したりする傾向が著しい
つまり、日本人が考えていないというか、その精神が活発に働いているようには見えない
その背後には、すべての前提を自明のものとして考えているところがあるのではないだろうか
そこを疑わなければ、思考は始まらない
さらに、政府の側に国民市民には知らしむべからずという精神が沁み込んでいるように見える
それではどうすればよいのかということになるが、即効性のあるものは思いつかなかった
根本のところでは、流されることなく、本質に迫る(形だけのものではない)思考や議論が求められるのだろうが、これはまさに哲学が求めるやり方になる
だとすれば、哲学的思考の欠如が原因の根本にあるということになり、それが多くの人に根づくことが解決に繋がるのかもしれない
どれだけの時間がかかるのか想像もできない
それとは別に、中国やロシアからの研究者の受け入れやいろいろなやり取りに関する調査が入るようになっているとのこと
さらに、彼らが母国に戻ってから不条理なことが起こり、生活に影響が出ることもあったようだ
国際政治が研究の現場にも影を落としていることを知った
さて本日も出隆のつづきで、「科学と科学批判としての哲学」の2回目になる
早速始めたい
17世紀に入るが、科学と哲学は未分化な状態で、哲学は一切の科学を総括する学を目指した
デカルト、ホッブス、スピノザ、ライプニッツなどの形而上学的体系がその成果である
さらに、人間内部の問題(人性)にも目が向くようになり、ロックやヒュームは知識の性質について解析するようになる
しかし彼らは、知識された内容、経験された内容と知識そのもの、経験することを混同し、後者を捉えることができなかった
「もの・こと」を対象化する科学的手法では、主観(認識する主体で起こること)を捉えることができない
彼らは懐疑主義に陥ったのである
知識・経験の本質を捉え、真理を真理たらしめる価値を見るのに適した立場を自覚したのはカントであった
哲学の任務は科学的認識の批判学であると彼は考えたのである
19世紀に入り、真の科学は明晰に意識された仮定の上に立ち、そこに入ってくる現象を記述・説明する学と規定されるようになる
哲学は科学の根本仮定、科学的立場を批判する位置を占めるのである
対象が平凡で分かりきったように見えるものの中に不明なものを発見すると、それまで自明だったものが実は仮定だったことに気づく
それを明らかにしようとするのが、批判精神であり、哲学することだという
この場合の科学批判とは、科学が求める普遍妥当的な真理にその価値があるのかを厳密に論理的に検証することだという
今日のこのお話、冒頭で指摘した日本の状況とも重なって見えてくる
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