2023年12月31日日曜日

ヌミノーゼの要因1: 被造者感情





2023年最後の日となった

先日、この1年のプロジェを振り返ったばかりだが、精神的には気持ちよく過ごすことができた年と総括できるのではないだろうか

昨年の今頃は『免疫から哲学としての科学へ』のゲラ校正をやっていた

今年はと言えば、その英語版 Immunity: From Science to Philosophy の初稿を作成しているところである

これは1年前には想像もしていなかったことだ

同様に想定外であったのは、今年の年末にオットー(1869-1937)の『聖なるもの』を読んでいることだろう

1年という長い時間の間には、本当に何が起こるか分からない



さて、今年最後の本日は『聖なるもの』の第3章、ヌーメン的対象に引き起こされる感情の自己感情における反射としての「被造者感情」、を読みたい

何やらわかりにくいタイトルだが、噛み砕くとこういうことだろうか

本章では、神霊的な存在に触れることにより生まれる感情が、自分は被造者であるという感情として映し出されるが、その被造者感情について考えたい


(1)最初に、自分の中に宗教的な情動体験を持たない者には宗教研究は無理なので、これから先は読まないようにと言っている

その厳しい助言を無視して、もう少し読み進むことにしたい

もう一つの注意すべきは、宗教的情動体験の心の状態を分析する際、単なる道徳的な精神の高揚と共通するものではなく、それだけで成立しているものに細心の注意を向けることである

宗教的な経験がもたらす感情は、感謝、信頼、愛、確信、謙虚な服従、献身といったものだが、それらは宗教以外の領域にもあり、敬虔の要因のすべてを網羅しているわけではないからである


(2)敬虔の一要因として「依存」を捉えた人にシュライアマハー(1768-1834)がいる

ただ、この発見には2つの問題があるという

1つは、彼が言う依存には宗教以外の「自然的な」依存感情、例えば、自分の不足・無力感、自分を取り囲む状況に拘束されているといった感じなどに類似のものが含まれていることである

絶対的な依存の感情とこのような類似の感情とを区別はしているが、2つの依存感情の質的な区別、絶対的な依存感情そのものについては明確にされていない

この感情をオットーは「被造者感情」と呼んだのである

それは、全被造物の上に立つ「語り得ぬ」存在に対して、自らの虚無性の中に打ち沈み、そこに消え去ってしまう感情だという


(3)シュライアマハーの第2の誤りは、依存の感情を宗教感情自体の本来の内容として規定したところにある

その場合、宗教感情とは自分が依存しているという感情そのものになる

しかし、「被造者感情」とは主観内の付随要因に過ぎず、別の感情要因の投影にしか過ぎない

その感情要因こそがヌミノーゼである

被造者感情は、ヌミノーゼが引き起こす感情の後に引き起こされる

つまり、自分が感じる絶対依存の感情は、神的存在の「絶対卓越性および接近不可能性」を感じることが前提になっているのである







2023年12月29日金曜日

ルドルフ・オットーのヌミノーゼとは
















今日は、オットーの『聖なるもの』第2章「ヌミノーゼ」を読むことにしたい

聖なるもの(das Heilige)について検討するが、それは宗教の領域固有の評価である

それは合理的なものとは無縁で、概念的把握を寄せつけないので「語り得ぬもの」である

したがってそれは、完璧に善いという倫理的な用いられる哲学や神学での用法とは異なっている

「聖なる」という言葉には倫理的な意味も含まれているが、それは最初からあったものではない

この言葉に含まれる余剰部分(それは本来あった意味を指している)を抽出することが重要になる

それに対する適当な名前が必要になるだろう

聖なるものから倫理的要因を含めたすべての合理的要因を差し引いたものに対する呼び名である

オットーはそれに対して、ヌミノーゼという言葉を造った

これは「神霊」を意味するラテン語の numen から作った「神霊的・ヌーメン的」を意味するドイツ語の numinös という形容詞に由来する

この言葉は特殊固有なもので、根源的な基礎事実がすべてそうであるように、定義することができない

できることは、ただそれについて論じるだけだという

聞き手は、その話に刺激され、目覚めさせられるだけなのである





2023年12月28日木曜日

ルドルフ・オットーによる合理と非合理
































昨夜、ルドルフ・オットー(1867-1937)の Das Heilige(『聖なるもの』)の第1章を読む

タイトルは「合理と不合理」

以下に簡単にメモしておきたい


(1)キリスト教などの人格神を対象とする宗教の神概念とは、神的存在が、精神、理性、意思、決意、善意、権能、統合的本性、意識などの用語で把握、表現される

つまり、自分の中で不十分な形で自覚している人格的・理性的要素を神に当て嵌めて考えるのである(神の場合には、絶対的で完全なものだが)

これらの特徴はれっきとした概念であり、思惟の対象にすることも、分析的に考えることも、定義することもできる

それを合理的と呼ぶならば、そのような概念で表現される神の本質も合理的ということになる

信仰とは単なる感情とは異なるのである

ある宗教の卓越性を示す指標は、感覚を超えたものに関する「概念」と、それに裏打ちされた認識を持っていることである

この点に照らすと、キリスト教は他の宗教を凌駕している

まず注意すべきは、これらの用語で神性の本質がすべて言い尽くされてしまっていると思い込むことである

ここで対象としているものは、これらの用語では理解できないからである


(2)合理主義は「奇跡」を否定し、その反対派は肯定するという見方は表面的過ぎる

なぜなら、自然の因果関係が創造者によって打ち破られるのを奇跡だとする周知の奇跡論は合理的であり、合理主義者はそれを認めてきたからである

非合理主義者はこの問題に頓着しない

正統主義は、扱っている対象の非合理的側面を正当に評価して宗教体験の中に生かすことをせず、神観念を一方的に合理化してしまったのである


(3)この合理化の傾向は、宗教研究の末端に至るまで生きている

宗教体験にしかない固有なもの、最も原始的な形の体験にも見出される固有なものに目を閉じているのである

この事実については、宗教の擁護者や中立的な立場の人よりも、反対者の方が鋭く見抜いていることが多い

「神秘主義的ナンセンス」は「理性」とは何の関係もないことを知っているのも反対派の人たちである

いずれにせよ、宗教が合理的な言明に終始するものではないことに注意して、諸要因の関係を整理することで宗教の真の姿を解明することが重要になるだろう









2023年12月26日火曜日

2023年を振り返って


























今年が終わるにはもう少し時間が残っているが、このあたりで1年を振り返っておきたい

このブログを始めたのが今年2月であったことも記憶の彼方に沈んでいた

今年から年初にプロジェを考えて歩むというこれまでのやり方を改めた

このやり方は、何かに縛られているという拘束感や義務感などが全く生まれないという点で非常に良かった

来年もこのやり方で歩みたい


さて、今年は何をやってきたのだろうか

大きなことを中心に書き出してみたい

年初には想像してもいなかったことが展開した年であったことが見えてくる

そして、それらすべてが「今年のプロジェ」になっていることが分かる、という仕掛けである

このことには少なくとも8年前には気づいていた


(1)新しい免疫論の刊行とその英語版の刊行準備

最も大きかったのは、昨年から準備してきた『免疫から哲学としての科学へ』が3月中旬に刊行されたことだろう

この本は、これまでにない視点から免疫を捉え直し、科学と哲学の関係についても考察を加えたものである

手に取ってお楽しみいただければ幸いである

ネット上にはあまり感想を見かけなかったが、週刊読書人図書新聞には書評を掲載していただいた

両紙には感謝したい

一般の方には届きにくかった可能性はあるが、免疫学をやっている人には届いてほしいものである

つい最近、この本の英語版がラウトレッジRoutledge)から刊行されることになった

その準備を始めたところだが、この作業から新たな発見があることを願うばかりである



(2)カフェ/フォーラムの開催、そしてサイファイ研究所 ISHE の10周年

昨年秋に3年振りに再開したカフェ/フォーラムだが、今年も以下のようなテーマについて、春秋の2回開催することができた

春のカフェ/フォーラム

◉ 2023年2月25日(土) 第9回サイファイカフェSHE 札幌 
テーマ: アナクシマンドロスと科学的精神

◉ 2023年3月1日(水) 第7回ベルクソンカフェ 
テーマ: アラン・バディウの幸福論を読む(2)――幸福と反哲学――

◉ 2023年3月1日(水) 第9回カフェフィロPAWL
テーマ: アラン・バディウの幸福論を読む(2)――幸福と反哲学――

◉ 2023年3月4日(土) 第8回サイファイ・フォーラムFPSS
プログラム:
 1)矢倉英隆  シリーズ「科学と哲学」② ソクラテス以前の哲学者-2
 2)久永真市  遺伝子と個性
 3)市川 洋  「人間の基本的な在り方」と「科学の在り方」

◉ 2023年3月8日(金) 第16回サイファイカフェSHE
テーマ: アナクシマンドロスと科学的精神


秋のカフェ/フォーラム

◉ 2023年10月21日(土) 第10回サイファイカフェSHE 札幌 
テーマ:『免疫から哲学としての科学へ』で、免疫、科学、哲学を考える

◉ 2023年11月8日(水) 第8回ベルクソンカフェ 
テーマ:J・F・マッテイの『古代思想』を読む

◉ 2023年11月11日(土) 第9回サイファイ・フォーラムFPSS
プログラム:
 1)矢倉英隆  シリーズ「科学と哲学」③ ソクラテス以前の哲学者-3
 2)牟田由喜子  H・コリンズ『専門知を再考する』:専門知は市民社会にどのように有用なのか?
 3)木村俊範  日本のテクノロジーには哲学が無かったのか、置き忘れたのか?――一テクノロジストの疑問

◉ 2023年11月14日(火) 第10回カフェフィロPAWL
テーマ:プラトンの『饗宴』と神秘主義

◉ 2023年11月17日(金) 第17回サイファイカフェSHE
テーマ:『免疫から哲学としての科学へ』を合評する


すでに触れているが、今年はサイファイ研究所ISHEの10周年に当たった

さらにこの活動の原点に遡れば、最初のカフェが開かれたのが 2011年11月なので、今年は12周年になる

因みに、この会の第1回から第4回までは「科学から人間を考える試み」と呼んでいたが、そのことも忘れかけていた

今、その名前を言葉に出せば、懐かしい響きがする

歴史の中に現在を置くことで違う景色が見えてくることもある

その意味で、振り返りは大切である

2013年、ISHE の設立に合わせて「科学から人間を考える試み」は「サイファイ・カフェ SHE」に名を改め、そして先月、その表記を「サイファイカフェSHE」としたばかりである

今月に入り、当研究所の英語版がないことに気付き、大枠を作成した
これから内容を充実していく予定なので、折に触れてご覧いただければ幸いである


このように長きに亘って活動できたのも、偏に会の趣旨に賛同され参加された方がおられたからに他ならない

これまでに参加された皆様には、改めて感謝の意を表したい

今後もご理解、ご支援をいただければ幸いである



(3)カフェ/フォーラムやブログで取り上げた哲学者

濃淡はあるものの、今年は以下のような哲学者について触れた

タレス(c. 624-c. 546 BC)

アナクシマンドロス(c. 610 - 546 BC)

ピタゴラス(582 - 496 BC)

ヘラクレイトス(c. 540 - c. 480 BC)

パルメニデス(c. 515-c. 450 BC)

エンペドクレス(c. 490-c. 430 BC)

プラトン427 - 347 BC

シェリング(1775 - 1854)

出 隆(1892 - 1980)

ハイデガー(1889 - 1976)

田中美知太郎(1902 - 1985)

井筒俊彦(1914 - 1993)




(4)その他

上記以外の出来事として、以下のようなことがあった

5~6月に3年振りにパリを訪問する機会が巡ってきた

考えてみれば、わたしもコロナの影響を受けた一人と言えるだろう

おそらく影響を受けていない人はいないのではないかと想像しているが、、

今回の滞在では昔の感覚を取り戻すとともに、また訪問したいという気持ちが湧いてきた


それから、年末に向けてその程度が増してきたことに、時の流れが「揺蕩うように」感じられるようになっていることが挙げられる

さらに言えば、時の流れが消えている、あるいは時の流れが全く意識されない永遠の状態にいるということである

これは非常に重要な変化ではないかと考えている


このような時の流れの中で、新しいプロジェのシーズのようなものがいくつか浮かんできた

これらについては、これから身の回りに漂わせておいて、じっくり栄養を与えながら、それぞれの成長を見守っていきたい

その中のあるものは来年のこの日に「今年のプロジェ」になっているかもしれない

そうなるとすれば、これに優ることはないだろう












2023年12月25日月曜日

ウィトゲンシュタインとジョイスにつながる


































昨夜はウィトゲンシュタイン(1889-1951)の『哲学探究』を手に取った

読みはじめてすぐ、以下のような記述に出会った
他の人々が私の書物によって自分で考えずに済ませることを私は望まない。私が望むのは、それが可能だとして、人が自身で思考するよう私の書物が励ますことである。

これを読んだ時、この秋の『免疫から哲学としての科学へ』の合評会でわたしが発した言葉と重なっていることに気付く

わたしのメッセージは、この本の中に回答を求めるのではなく、この本で提起されている問題についてそれぞれが思考することを願っているというものであった

つまり、すべての解を教えてもらおうとする態度は哲学とは無縁であり、自らが立ち上がり考えることが哲学だを言いたかったのである


昨日の記事と繋がったと思いながら今朝テレビをつけると、3人の子供が次のような言葉を元気よく歌っているではないか

過去もなく 未来もない すべては永遠の今を過ぎゆくだけ

最後に、これがジェームズ・ジョイス(1882-1941)の言葉であることが紹介されていた

早速調べてみると、彼の言葉が出てきた

“There is not past, no future; everything flows in an eternal present.”

これは、最近身に沁みて感じるようになっている深い実感だったので驚いたのである

うまい具合に繋がるものだという思いとともに

同様のことは、トルストイ(1828-1910)も言っているらしいし、さらに言えば古代ギリシア人の考えの中にもあった

言ってみれば、人類に刻まれた一つの見方を示しているのだろう

実に、日の下に新しきものなし、なのか




 


2023年12月24日日曜日

吉本隆明の中のプラトン


























今朝、1月に見た渡辺京二(1930-2022)特集の再放送が流れていた

その時の記事が前ブログにあった
その放送では、自分が師と仰ぐ吉本隆明(1924-2012)の言葉を紹介していた

その要旨は次のようなものだったと思う
人は普遍を目指して昇った後は、大衆がいるところまで降りて「無知」の境地に至ることが大切だ
これはプラトンだとすぐに気付いた

過去を知るようになると、このようなことはよく起こる

それは、日の下に新しきものなし、という感覚を呼び覚ます


ところで、1月に見た時にはピュシス(自然)を想起したことは書かれているが、こちらの方には反応していなかった

この1年で少し見聞を広めたということだろう

秋のカフェフィロPAWLでこの問題を取り上げていたからである

このように時の流れを感じる瞬間もなかなか捨て難いものである










2023年12月23日土曜日

山本七平 Ⅹ 森本哲郎による聖書対談を読んで

























昨夜は、山本七平(1921-1991)と森本哲郎(1925-2014)が聖書と風土との関係について語り合っているのを読む

キリスト教は普遍を指し示しているので、基本的には風土という特殊を排除するところがあるという

普遍を唱えるマルクス主義や民主主義も風土性を問題にせず、どこへでも出かけて行く

ただ、キリスト教が生まれたのは砂漠であり、それが新約の時代になると農耕的になる

農耕的になったからこそ、ヨーロッパ世界に浸透できたのではないか

そうだとすると、キリスト教は風土の影響を受けていることになる

このような状況が、生活は農耕的だが、精神的には砂漠的な生き方をよしとしたという

イエスは40日間荒野で過ごし、回心したパウロも3年間アラビアで生活し、モーセに至っては40年間も砂漠を彷徨い歩いたとされる

砂漠には不浄なものを洗い流す何かがあり、聖地だとされたのである

砂漠にあるのは空と砂だけで、生活の変化は全くなく、永遠を感じるという

形あるものもなく、そこに形あるものが現れると、実に不思議な感覚が襲うという

創造主としての神が登場するのである

この永遠の感覚、際限のなさが、区切りをつけるという考えを生み出すという

例えば、終末論などのように


この話を聞きながら、わたしのフランス滞在のことを思い出していた

フランスの生活にはそれなりの変化はあったが、どこか永遠を感じながらの10年超であった

地面が揺れることのない生活が、この世界は永遠に続くのではないかという精神的な安定感をもたらしたようだ

また、そこは砂漠とは言い難いが、振り返ると精神的な鍛錬の場であったようにも見える

そして今、区切りがはっきりしない永遠の中に移行しつつあるように感じている









2023年12月22日金曜日

べルツによる日本の科学

































明治のお雇い外国人教師で医師のべルツ(Erwin von Bälz, 1849-1913)が東大在職25年を記念した祝賀会で行った挨拶を読む

これは彼の退職をも意味していたので、外国人が少なくなるこれからの日本の科学に向けて苦言を呈している

その基本は、日本ではしばしば、西洋科学の起源と本質について間違った見方がされているということであった


日本人は科学を、いつでもどこでも簡単に利用できる機械のようなものとして捉えているが、それは誤りである

西洋科学は機械ではなく、一定の気候と一定の大気が必要な有機体だからである

西洋の精神的大気は、この世界の探究に傾けた数千年に亘る幾多の傑出した人々の苦難と努力の結果なのである

日本人はこの30年ほどの間にその精神を日本に植え付けようとしたのだろうが、科学の樹を育てるのではなく、果実だけを受け取ろうとした

その精神を学ぼうとしなかったのである

これから外国人教師は少なくなるが、彼らと仕事以外で接触する機会を増やすことにより、その精神を知ることができるようになるだろう

精神をわが物とするのは容易ではなく、一生を費やさざるを得ないのである


このように、日本の大学の将来を思い、厳しい言葉を残している

その内容はこれまでも言われてきたことだが、それが真の意味で日本に根付いているかと問われれば、首を縦に振ることは難しいだろう















2023年12月21日木曜日

波多野精一による「無時間性」とは
































昨夜手にしたのは、波多野精一(1877–1950)の『時と永遠』(岩波書店、1943, 1974)であった

今年に入って次第に強く感じるようになっていることに、時の流れが消えるという感覚がある

ということもあり、「無時間性」の章を読んでみた


まず、「文化的生」という言葉が出てくる

これは「自然的生」と対比されているようだ

その詳細はそれ以前に出てくるのだと思うが、文化的生とは人間として一歩進んだ状態を表現しているのだと仮に解釈しておきたい

文化的生においては、活動を見棄て、観想に入る

そして、観想の時間的性質は、過去も未来もない単純な「今」で、ただ「ある」ということだけである

それは純粋の現在、純粋の存在だという

これこそが哲学が「永遠」と呼んできたものなのである

その思想はパルメニデス(c. 520-c. 450 BC)に現れているが、最初にこの言葉を使ったのはプラトン(427-347 BC)でないかという

移ろい行くこの世界、時間性の下にある世界とは異なり、生じることも滅びることもなく、純粋なる存在、形相の世界は永遠であり、不死である

その考えは、プロティノス(c. 205-270)、プロクロス(412-485)、アウグスティヌス(354-430)、ボエティウス(480-c. 524)、トマス・アクィナス(c. 1225-1274)などに引き継がれた

その後、新しい思想は現れていないと波多野は見ている

この「無時間性」は時間性の超越である

動くことも滅びることもない時間性からの解放によって、文化的生が成就されるという

まだ時間性の中にあり、時間の延長拡大を示す「無終極的時間」とは明らかに違うのである

ただ、これに続いて、そんなに簡単なものだろうかという疑問が出される

しかし、その先の議論にはなかなか付いて行けなかった

その他、気になったところをメモしておきたい

内在的形而上學は客觀的認識をさらにそれの原理へと、客觀的實在世界をさらにそれの根源の高次的實在者へと、還元しようとする。しかるにそのことは超越なしには不可能であり、超越は高次的客體によつてなされねばならぬ故、結局は内在的形而上學も超越的形而上學によつてのみ形而上學の資格を得るのである。


超時間的實在者――神――を觀ることによつて、觀想乃至直觀によるそれとの結合共同合一などによつて、人間的主體自らが超時間的永遠的神的と成るといふ思想は、古今の宗教及び哲學を通じて甚だ廣く行はれてゐる。純粹なる嚴密の意味における神祕主義はこの傾向の徹底したるものに外ならぬが、そこまで、即ち神と人との完全なる合一といふ點まで進まず、神祕主義的傾向乃至性格を有する程度に止まる諸思想においても、永遠性の問題に注意が向けられるとともに、單に客體ばかりでなく人間的主體の永遠性が説かれるが常である。 


認識は似たもの乃至同一なるものの共同乃至合一であるといふ思想が、文化主義觀念主義の世界史的代表者であるギリシア人の間において廣く行渡つてゐるは當然といふべきであらう。明白なる例外はアナクサゴラス(c. 500-c. 428 BC)ただ一人といつても言ひ過ぎではない。「地をもつて地を見水をもつて水を見る」云々とエムペドクレス(c. 490-c. 430 BC)は、甚だ素朴なる形においてではあるが、すでに明瞭にこの思想を言ひ表はした。アリストテレス(384-322 BC)に從へば、認識は主體と客體との合一によつて行はれる。現實的となつた認識は對象と同一である。認識せられるもの從つて――一切は認識せられるものである故――一切のものに成るといふのが理性の本質である。








2023年12月19日火曜日

幸福な生活とは

































昨夜はオスロ大学の哲学教授エミルソンさんの幸福についての論考を読んだ

幸福を定義することは難しいので、ここではごく一般的に語られている幸福の意味合いで使われているようだ


最初に、ストア派プロティノス(c. 205-270)が主張するように、幸福な生活は「今」にあるという説が紹介される

エピクロス派も同様の考えを持っていた

これに対して、アリストテレス(384-322 BC)のように、人生の全体を見渡して通時的に幸福を考えるという立場がある

その場合、計画や願望の成功/失敗という要素も幸福の評価に入ってくる

幸福は累積するという考えを採るので、長く幸福であれば、それだけ現在も幸福に感じるという構造になっている

過去における達成があれば、今も幸福であるということになるが、そうでない場合もあり得るだろう

今こそが幸福の所在地だとするプロティノスは、人生全体としての幸福という見方に異議を唱える

過去の幸福を今、味わうことができないからだ


この点については、わたしもフランスに渡って暫くしてから同様の考えに至っている

つまり、昔どれだけいい思い(幸福)を経験したとしても、その感覚を今再現できないことに気付いたからだ

それでは幸福になるにはどうすればよいのか

それは、過去の幸福は考慮に入れず、今を幸福な状態にすることである

この場合、過去を一切無視するということを言っているのではない

過去には膨大な情報が詰まっており、その中には現在を幸福に導くためのヒントが眠っているからである

その上で、この問題を考える際に最も重要になるのは、最初に注意を促した「何を幸福と言うのか」という問いに対する自分なりの回答を持つことだろう











2023年12月18日月曜日

カッシーラ―によるホッブスの認識論



















昨夜の成果

カッシーラ―の『国家の神話』の中に、ホッブズ(1588-1679)の認識論について触れたところがあった

ホッブズについて取り上げるのは、ほとんど初めてではないだろうか

以下に引用したい


その著『物体論(De corpore)』の第一章において、ホッブズは彼の一般的な認識論を述べている。認識とは第一原理、またはホッブズの表現によれば、《第一原因》の探究である。事物を理解せんがためには、その本性と本質を定義することから始めなければならない。ひとたび、この定義が見出されるなら、その様々な性質は厳密に演繹的な仕方で引き出すことができる。しかし、定義がその対象の個々の性質を示すだけで甘んじているかぎりは、十分なものではない。真の定義は《発生的》または《因果的》な定義でなければならない。それは事物が何であるかの問いに答えるだけでなく、なぜそうであるかの問いにも答えなければならない。かくすることによってのみ、真の洞察に到達しうる。


現在までに辿り着いたわたしの「認識論」あるいは「方法序説」は、2冊の近著に示した通りである

それは、「科学の形而上学化」(metaphysicalization of science: MOS)あるいは「科学の神学・形而上学化」(theologico-metaphysicalization of science: TMOS)という言葉で形容したものに集約されている

出発点はあくまでも自然の細部について科学が明らかにした内容にあるが、そこで終わっては真の認識には至らないという立場である

それらの個別の内容をできるだけ広く集めて、そこにある共通の要素を抽出する作業に入るだけではなく、さらに哲学的、時には神学的な要素も取り入れた省察を進めなければならない

そうすることにより、一つの現象の本質に迫ること、根源的な理解に至ることが可能になると考えたからである

つまり、根源的な理解に至らなければ、何かを認識したことにはならないという立場になる

ホッブスの立場も、認識とは「第一原因」の探究であるとしていることを考えると、わたしの認識論とそれほどかけ離れていないと理解した


こうしてみると、これまでに辿り着いた方法論については、それ自体として批判される側面はあるのだろうが、それなりの歴史的な支えはあると考えてもよさそうである

問題は、この認識論でこれからどのような展開ができるのかという点になるのだろう

新しい年に向けての大きな課題として考えていきたい







2023年12月17日日曜日

『免疫から哲学としての科学へ』、Routledge からの刊行決まる
















今年の3月に刊行した『免疫から哲学としての科学へ』がラウトレッジRoutledge)から刊行されることになった

日本語版の刊行当初から、英語圏の人がどのような反応を示すのかに興味が湧き、英語での出版を模索していた

そしてつい最近、それが具体化することが決まった

タイトルは Immunity: From Science to Philosophy 

ここに至るまでは、まさにThe Long and Winding Roadだった

年が明ける前に落ち着き先がはっきりしたのは幸いであった

これから編集作業が始まることになるが、どれだけかかるのかは分からない

大袈裟に言えば、日本からの文化発信にもなるので、そのつもりで事に当たりたい

ということで、この年末年始は1年前と同じことになりそうである

刊行された暁にはこの場でお知らせする予定である

こちらの方もよろしくお願いしたい







2023年12月15日金曜日

エルンスト・カッシーラーの声を聴く































今日は、エルンスト・カッシーラー(1874-1945)の言葉に耳を傾けてみたい

プラトンは、神秘的な脱我(エクスタンス)によって人間の魂が神との直接的な融合に達しうるということは認めない。最高の目的たる善のイデアの認識にいたることは、こうした方法では不可能である。それには周到な準備と徐々の規則正しい向上とが必要であり、一躍してその目的に到達すわけにはいかない。善のイデアを完璧な美しさにおいてみることは、人間精神が突如、恍惚状態になることによってできるものではない。

こうした諸々の《原因(aitiai)》や《第一原理》を求める強い衝動が、プラトンの根本的な革新であった。人間的にみても、実際的にみても、彼は急進的な人物だと言うことはできない。われわれは彼を保守的と呼びうるし、反動的だとして非難することさえできるかもしれない。しかし、それは決定的な問題ではない。彼の問題は精神的な革命であって、政治的革命ではなかった。

(プラトンは)《幸福》があらゆる人間の魂の最高の目的である、とするソクラテスの命題を受け容れた。他面において、かれはソクラテスとともに、《幸福の追求》が快楽の追求と同じでないことを主張した。・・・
神話的思惟においては、人間は善いダイモンか悪いダイモンに所有されているのであるが、プラトンの理論においては、人間が自分のダイモンを選ぶのである。この選択が彼の生活と彼の未来の運命を決定する。人間は超人的な、神的な、あるいは魔力的な力によって堅く握りしめられていることをやめる。彼は自らが全責任を負わなければならない自由な行動者なのである。「選ぶ者にこそ責任があり、神には責任がない」。プラトンにとって、幸福、エウダイモニアとは、内的自由、すなわち偶然的で外的な環境には依然しない自由を意味している。
エルンスト・カッシーラー『国家の神話

この本の中で、トゥキュディデス(c. 460-395 BC1)の言葉が引用されている

もしそれが過去についての正確な知識を求め、未来を解釈する一助にしようとする研究者によって有益なものと評価されるのであれば、私は満足しようと思う。私の歴史は、束の間の賞賛を博するためのものではなく、未来の財宝として書かれたのである。

2,000年以上もの間生き延びているのだから、これくらい言われても致し方ないだろう












2023年12月14日木曜日

オクタビオ・パスによるポエジー

































このところの一日の終わりは、気分に任せて本棚から適当な本を手に取り、立ったまま1時間ほど読んでから寝るようになっている

すぐに寝るよりは、精神的には落ち着くように感じられる

昨夜は、メキシコの詩人オクタビオ・パス(1914-1998)の『弓と竪琴』をパラパラとやった

以下、気になったところを書き出しておきたい

われわれが詩にポエジーの存在を問う時、しばしば、ポエジーと詩が勝手に混同されているのではなかろうか? すでにアリストテレスは、「韻律を除けば、ホメーロスとエムベドクレースのあいだに共通のものは何もない。それゆえ、前者を詩人と呼び、後者を生理学者と呼ぶのはしごく当然のことである」と言った。事実その通りなのであって、すべての詩が(正確にいえば、韻律法に基づいて作られたあらゆる作品が)ポエジーを持っているわけではない。

 

われわれが、その詩のことばを忘れてしまい、またその香気や意味などが消え失せてしまっていても、その瞬間の感動、まるで溢れ出る時間であり、時の連続という防波堤を破壊する高潮であったあの感動は、依然としてわれわれの内に生きいきとしているのである。なぜなら、詩は純粋な時間に近づく道であり、存在の始原の海への没入だからである。ポエジーとは時間であり、絶えず創造的であるリズムに他ならない。


偉大な画家であるとはすなわち、偉大な詩人——自分の用いる言語の限界を越える者——であることを意味する。


つまり、美はことばなくしては捕らえられないのである。事物とことばは同じ傷口から血を流す。あらゆる社会は、こうしたその基盤の危機を――とりわけ、ある種のことばの意味の危機を――経てきたのである。これは忘れがちなことであるが、帝国も国家も、他のあらゆる人間の所産と同様、ことばから成っている――それは言語的事象なのである。

 一体、ことばが悪くなるのか、事象が堕落するのかわれわれには分からないが、ことばが乱れ、その意味が不正確になる時、われわれの行為や仕事の意味も同様に不確かなものとなる。


 

 



 

 

2023年12月13日水曜日

科学・哲学・人生について語り合う




























昨夜は北大で免疫学を研究されていた笠原氏との会食があった

話題が科学だけでは面白くないのだが、科学を入り口に哲学、人生へと広がっていった

なかなかそこまで広がらないことが多いのだが、年齢の成せる業なのか

あるいは、科学の中に留まるのが立派な科学者だと考える研究者が多いからなのか

そこには、科学を取り巻く文化的な環境の貧しさがありそうなのだが


拙著『免疫から哲学としての科学』を最初から最後までしっかり読まれたとのことで、有難くそのコメントを聞いた

まず、あのような広範な領域について綿密で論理的な本としてまとめられたことに敬意を表したいとのことであった

第1章から第4章までは免疫という現象について詳細に調べられ、それらを一つの大局観の下に統合されているという評価であった

この部分は科学者には比較的評判が良い

ただ、免疫学といってもかなり細分化されているので、すべての免疫学者が反応する(できる)かはかなり怪しいと思っている

その上で、このような本は他にも書かれてよいはずだが、日本では出回っていないとのこと

これも前出の日本の文化的な環境のせいなのだろうか

その意味では存在価値はあるのではないかと思った


それに対して、第5章から始まる形而上学的な省察部分についてはよく理解できなかったとのこと

一つには、形而上学は科学と別にあるべきだというお考えをお持ちのようなので、それによる抵抗感があったのかもしれない

わたしが伝えたのは、ここに提示されているのはあくまでも一つの見方に過ぎないが、人間が持っている多様な思考様式をできるだけ取り入れた省察をすることが、自然を多面的に理解する上では欠かせないのではないかという考えであった

拙著には、現在の科学の領域を超えたこのような活動の全体を新しい科学としてはどうかという提案も含まれているが、この提案については賛同されているようであった


時間はあっという間に流れた

このような機会が再び巡ってくること期待したいものである










2023年12月12日火曜日

キケロの声を聴く

































今日はわたしの心にも響くキケロ(106-43 BC)の言葉に耳を傾けてみたい

キケロは対話篇『ホルテンシウス』の末尾で(観照的知を)讃えてつぎのように語る。

われわれが夜も昼も思考し、精神の鋭いまなざしである知性を研ぎ澄まし、いつか鈍くなることのないように用心し、つまりは哲学のうちに生きるならば、大きな希望がある。・・・われわれが永遠にして神的な魂をもつなら、魂がつねに自己固有の道に、つまり理性と探求への欲求のうちにあればあるほど、そして人間の悪徳や誤謬に引っ掛けられ巻き込まれることが少なければ少ないだけ魂にとって天への上昇と帰還はいっそう容易になるということを思いみるべきである。

アウグスティヌス『三位一体について』

 

人はたとえ真理の発見にまで到達することができなくとも、真理を探究する者は幸福であるという考えは私たちのキケロのものです。

彼が力を込めてつぎのように主張していたことを誰が知らないだろうか。すなわち人間によって認識されうるものはなにもなく、知者に残されていることはこの上ない細心の注意をもって為す真理の探究以外にはない。 

アウグスティヌス『アカデメイア派駁論』


知性をはたらかすことと観照することから生じる楽しさこそ唯一の、すべてにまさる、生きることから生じる楽しさであり、楽しく生きることと真の喜びを感じることは、したがって哲学する人たちにのみ、あるいはすべての人たちにまさって彼らに属する。

キケロ『哲学のすすめ』 













2023年12月11日月曜日

サイファイ研ISHEの英語サイトの骨格できる























前回の記事で触れたISHEの英語版の大枠ができた

これからゆっくりと内容を充実していきたい

お知り合いにも拡散していただければ幸いである

よろしくお願いいたします






2023年12月9日土曜日

サイファイ研究所ISHEのこれからを考える

































今月に入り、振り返りモードに入っていることについてはすでに触れた

師走に入っていることもあるが、ISHEが10周年を迎えたことも関係しているように思えてきた

これまでは前だけを向いてカフェ/フォーラムを進めてきたが、区切りを迎えて振り返る切っ掛けができたようだ

先日は外形的な数字について触れたが、このところISHE関連サイトの中身を読み直すようになっている

その過程で感じていることは、振り返りは発見をもたらすということと、この作業を真面目にやれば大仕事になるという予感である

それはこれからの課題として残しておきたい


今日思い付いたのは、ISHEサイトの英語版をまだ作っていなかったことである

その理由は、これまでは意識が内に向いていたためだと思われる

これからは外も意識しなければならないだろう

取り敢えず、年内には英語版のサイトを完成したいものである

それはさらに、各会の方向性の中にも外に向かうベクトルを組み込むようにしなければならないという考えを刺激する

これも来年に向けての課題としたい









2023年12月8日金曜日

エヴリン・フォックス・ケラーさん亡くなる















 Evelyn Fox Keller (1936-2023)   @ Van Leer Jerusalem Institute (June 9, 2009)



昨日、Nature誌でエヴリン・フォックス・ケラーさんが9月22日に亡くなっていたことを知る

享年87

Evelyn Fox Keller (1936–2023), philosopher who questioned gender roles in science

Mathematical biologist, philosopher and historian of science who challenged the vision of science as a masculine activity. 


フォックス・ケラーさんとは2009年にイスラエルで開催されたラマルクに関するシンポジウムでお会いしたことがある 

イスラエルでラマルクと進化を考える 医学のあゆみ 247 (11): 1193-1197, 2013

もう14年も前のことになることに、いつものように驚く

実は1983年に出たバーバラ・マクリントック(1902-1992)博士の伝記を興味深く読んだことがあったので、わたしにとってはその著者であった

Nature誌のObituaryによると、遺伝子の全体論的見方を提示した他、科学が男性的な活動であるとする定義(女性的とされる感情や主観性の排除)を批判し、よりダイナミックな客観性が求められると主張した

さらに、科学における概念や実践は、社会・文化的なコンテクストにおいて研究されなければならず、科学の発展のためには自然を理解するための概念を常に改定していくことが必要になるとした

そこにはわたしにとっても重要なメッセージが残されている


非常に人当たりが柔らかいという印象であったが、議論になると動じない厳しさが感じられた

このような訃報に接するたびに、人間は亡くなるのだという厳粛な事実に突き当たる

ご冥福をお祈りしたい




 


2023年12月7日木曜日

8年前の今日終えたスートゥナンスの意味















これまでこの日に浮かんだことがなかったことを思い出した

2015年の今日、パリの大学でスートゥナンス(博士論文の口頭審査会)が行われた

前月に起こったテロ事件のため大学は封鎖され、人がほとんどいない状態だった

もう8年も前になるのかと驚いている

今では懐かしい思い出である


そして、翌年には学位記が届いた

それから次第に気持ちの変化が起こってきて驚いたのである

それはこういうことだった

それまでは確信の持てない学生として研鑽の中にあったが、一つのコースを終えたということで、その領域の「専門家」として歩まなければならないという自覚のようなものが生まれてきたのである

ここで言う専門家は、その領域の中に一定の期間留まり、そこから何かを得ようと努力してきた人という意味である

つまり、そういう人はそんなにいないのだから、その領域について責任のようなものを自覚している人として歩まなければならないと考えるようになったのである

もちろん、その人間ができる範囲内でのことであるのは、どの領域でも変わらないのだが、、


当時わたしは、いつまでも学生を続けるつもりでいた

その状態が快適だったからである

しかし大学の方針が変わり、6年以上ドクターにはいられなくなった

わたしはそのまま学生生活を終えてもよいと考えていた

なぜなら、それまでに当初想像していた以上の収穫があったと思っていたからである

しかし指導教授(写真中央)は、スートゥナンスまでやり通すことが重要だと言って、論文をまとめることを強く勧めてくれた

その助言の意味が、今ようやく身に沁みて分かるようになっている

8年後に改めて感謝である






2023年12月6日水曜日

2005年からのブログ活動を振り返る

































12月に入り、振り返りモードである

これまでに書いたブログやサイファイ研ISHE関連サイトについて、暇に任せて調べてみた

ブログは2005年2月から始めているので、もう19年近い歴史がある

この間に立ち上げたブログとISHEサイトを合わせると、20を超えているのに驚いた

そして、すべてのサイトへのアクセスが450万PVを超えていることを知り、さらに驚いた

人目を引く派手な内容もなく、言ってみれば地味な記事ばかりであるサイトにこれだけのアクセスがあったということは、やはり驚きである

それより以前に、これだけの間、何かを書き続けてきたことについて一言あってもよさそうだが、それに対しては何も浮かんでこない

そのような内的欲求があったため、極ごく自然な行為だったのではないだろうか

その中にいるとそれを見ることができないということだろう



*ブログ活動最初の記事(2005年2月16日): 









2023年12月5日火曜日

カフェ/フォーラムのテーマの上に浮いている





今年もいくつかのプロジェが浮かび上がってきたが、これまではそのすべてに取り掛かろうという思いでいた

しかしよくよく考えると、それはなかなか大変なことであることに気付き、どうしようかと考えていた

今日、あるものは捨てなければならないことに思いが到り、その決断ができた

そのため、久し振りにスッキリした


軌を一にしたかのように、10月のコンサートの後に高校時代の同期生が集まり撮影した写真が届いた

モデルはもちろんだが、全体の色合いが何とも言えずよい

気分を解放する効果があり、今日にピッタリ合うのだ

またの機会が巡ってくることを願っている


ところで、来春のカフェ/フォーラムのテーマが徐々に見えてきた

最終決定には早いが、今はそれぞれの会のテーマの上に浮いているような、それらに囲まれているような、何ともいい気分である

各テーマは異なっているのだが、その間に繋がりのようなものが見えるようになっているからだろうか

それが雲のようにわたしを支えているというイメージだろうか

テーマが決まると、会が始まる直前までなかなか大変なのだが、、

来月下旬には最初の案内を出す予定なので、それまでさらに考えることにしたい







2023年12月1日金曜日

今年最後の月初めは

























今日も午前中には想像もできないような展開を見せた1日となった

最近は午前中をゆっくり過ごすようになっている

内的空間を広げてぼんやりしているだけである

長い無為の生活が、その空間を広げるのに有効であったのではないかと考えるようになっている

ぼんやりしていると、必ず何かが浮かび上がってくる

偶には具体的な生活に役に立つことも出てくるが、それを求めているわけではない



午後からはアトリエに場所を変え、カフェ/フォーラムのサイトを覗いていた

そうすると、来年のパリカフェの予定についての書き込みがあり、驚く

この夏に思い付いたことをすぐに書いていたようなのだが、すでに忘れていたからだ

そこには、どうなるかは分からないが、開催する方向で準備するような文章が並んでいた

わたしに相談してからにしてほしかったと言いたいところだが、、

しかしその文章のおかげで、準備だけはすることになりそうである

どう転ぶのかは全く予想もできないのだが、、



ということで、パリカフェをどうするのかを考えたり、全くの想定外だったが、長くなりそうなプロジェを思い付き、早速それを動かそうとしたりと、急き立てられるように過ごした

しかしこの間、時間は完全に消えていた

これを幸福な時間と言わずに何と言えばよいのだろうか











2023年11月30日木曜日

パスカルの生誕400年に『パンセ』を読む

































今年はパスカルの生誕400年だったようだ

わたしにとって哲学者パスカルは、近くに感じることのできる人に入るだろう

彼の言葉が比較的よく入ってくるからだ

久し振りに『パンセ』(前田陽一・由木康訳)を読んでみることにした


私は長いあいだ、抽象的な諸学問の研究に従事してきた。そして、それらについて、通じ合うことが少ないために、私はこの研究に嫌気がさした。私が人間の研究を始めた時には、これらの抽象的な学問が人間には適していないこと、またそれに深入りした私のほうが、それを知らない他の人たちよりも、よけいに自分の境遇から迷いだしていることを悟った。私は、他の人たちが抽象的な諸学問を少ししか知らないことを許した。しかし、私は、人間の研究についてなら、すくなくともたくさんの仲間は見いだせるだろう、またこれこそ人間に適した真の研究なのだと思った。私はまちがっていた。人間を研究する人は、幾何学を研究する人よりももっと少ないのだった。人間を研究することを知らないからこそ、人々は他のことを求めているのである。だが、それもまた、人間が知るべき学問ではなかったのではなかろうか。そして、人間にとっては、自分を知らないでいるほうが、幸福になるためにはいいというのだろうか。

 

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われわれは精神であるのと同程度に自動機械である。そしてそこから、説得が行われるための道具は、たんに論証だけではないということが起こるのである。証明されているものは、なんと少ないことだろう。証拠は精神しか納得させない。習慣がわれわれの最も有力で最も信じられている証拠となる。習慣は自動機械を傾けさせ、自動機械は精神を知らず知らずのうちに引きずっていく。明日はくるだろう、またわれわれは死ぬだろうということを、いったいだれが証明したであろう。それなのに、それ以上信じられていることがあるだろうか。したがって、習慣がわれわれにそのことを納得させたのである。




 


2023年11月29日水曜日

カフェ/フォーラムの名称変更について
































今日はお知らせになります


これまで、カフェ/フォーラムの名称に中点を入れたものがありました

例えば、「サイファイ・カフェSHE」という具合に

カフェの歴史も10年を超えましたので、中点がなくても通じるようになってきた感があります

ということで、これからは中点を省略することにいたしました

世の中はそのような流れのように見えますし、個人的にもスッキリするように思います

各サイトもそのように更新しました


今後ともよろしくお願いいたします








2023年11月26日日曜日

来春のカフェ/フォーラムのテーマを考える















今年のカフェ/フォーラムの活動を終えたせいか、これまでになく気分が落ち着いている

どこか年の瀬をすぐにでも迎えそうな感じである

その気分のまま、来春のカフェ/フォーラムに思いを馳せていた

これまでの会のテーマを参照にして考えを巡らせたものもある

継続性や過去との繋がりを重視し、考えを「深める」ことができるようにテーマをアレンジしたいものである

これからさらに検討を重ねる予定である


ところで、場所を変えた後には、これまで決まっているように見えた枠組みに微妙なズレが生じることがある

そういう時には新しい景色が見えるようになる

若干ではあるが、そのような変化が起こっているように感じている




Sergey Akhunov is an award-winning Russian composer. 

A graduate of the Kiev State Conservatory, Sergey started as an oboe player before moving on to other genres, including electronic music and rock 'n roll. He made a decisive break from this style of music in 2005 to exclusively concentrate on orchestral and chamber music.








2023年11月24日金曜日

饗宴としてのカフェ/フォーラム















今回の生き方としての哲学カフェPAWLでは、プラトンの重要な思想が書かれている『饗宴』を読んだ

その準備中に、半世紀ほど前にBBCが制作した『饗宴』の現代版ドラマに出くわした

そのタイトルが "The Drinking Party" となっていて、古代の Symposium が一気に現代に引きずり出されたように感じた

確かに、Symposiumとは「共に飲む」ことなので意味は同じなのだろうが、なぜかイメージが狂ったのである

いずれにせよ、社会で生活している時に嵌められている箍(たが)のようなものを緩めて語り合うというシンポジウムには大きな意味がありそうだ

心身に良い影響があるのではないだろうか

真剣に聞き、話していると、発見がある

そしてそのような発見は、生きる力を我々に与えてくれる

カフェ/フォーラムが発見に満ちた場となることができれば、そこは魂に命を注ぐところになる可能性がある

今年のカフェ/フォーラムを終え、浮かんできた感慨である








2023年11月22日水曜日

サイファイ研究所ISHE設立10周年にあたって

























今年でサイファイ研究所ISHEが10周年を迎えました

この機会に、現在の考えを以下のようにまとめてみました


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サイファイ研究所ISHE設立10周年にあたって


最初に、これまで当研究所の活動にご理解とご協力をいただきましたことに謝意を表したいと思います

誠にありがとうございました

その力に支えられることがなければ、ここまで活動を続けることはできませんでした

その意味で、この活動もまた、奇跡のようなものだったと考えております


サイファイ研究所ISHEは、科学と哲学の研究と普及、自然と人間存在の理解、そのことを通しての自らの変容をミッションとする場として2013年に設立されました

その源となる、哲学と歴史から科学を考える試みであるサイファイ・カフェSHEは、2011年11月に産声を上げました

その時から数えると、12年が経過したことになります

その後、サイファイ・カフェSHEは札幌でも始まり、さらに、生き方としての哲学カフェPAWL(Philosophy As a Way of Life)、フランス語を読んで哲学するカフェ(ベルクソン・カフェ)、科学者による科学者のための議論の場としてのサイファイ・フォーラムFPSS(Forum of Philosophy of Science for Scientists)が加わり、現在に至っています


この10年あまりの間に、多くの方の参加を得ていろいろなテーマについて議論してきました

これからその範囲をどんどん広げるというやり方もあると思いますが、我々の思考がいろいろなテーマの上を飛んでいくことになり、深まりを欠くようになるのではないかとも危惧しております

哲学は知識ではないと言われます

博識ということは決して誉め言葉にはならないのです

ということで、対象を大きく動かすことをせず、これまでに扱ってきた問題の中にあるテーマについて時間をかけて深掘りする(=ゆっくり、じっくり考える)という方向性もあるのではないかと考えるようになりました

今後はこのような方向性も取り入れながら歩むことにしたいと思います

これからもサイファイ研究所ISHEの活動にご理解とご協力のほどよろしくお願いいたします











2023年11月20日月曜日

来年のカフェ/フォーラムを考え、旧研究室メンバーと語り合う

























今日は来年のカフェ/フォーラムをどうするのかを考えていた

サイファイ研ISHEを始めて10年の年月が流れたことになる

この機会に少し振り返ってみたということである

一つには、これまでは次々と新しいテーマを選び議論してきたが、それを見直してはどうかという考えが浮かんだ

対象を大きく変えるのではなく、定まった対象の中にある興味深いテーマを深く掘り下げるという方向性である

会を進める方にとっては、その方が精神的に落ち着くような気がしてきたのである

ということで、次回のカフェ/フォーラムをこの視点から見直してみることにした



今夜は旧研究室メンバーとの会食があった

今年の夏にもこのような機会があったが、今日はさらに2名が加わり賑やかな会となった

こちらから見るとまだお若いと思うのだが、同じような感慨を抱くようになっている印象を持った

人生の時期とすれば、いい味の出るところに入ってきているのかもしれない

中には哲学に興味を持っている人もいて、話は盛り上がった

走るという行為は否応なしに自己との対話を促すところがあるようだ

都合が許せば、このような機会をまた持ちたいものである











2023年11月19日日曜日

秋のカフェ/フォーラム・東京シリーズを振り返って















昨日で最後のカフェSHEのまとめを書き終え、スッキリした

ここで秋のカフェ/フォーラムを振り返っておきたい

今回も、沼の底で暮らしている日常の中で想像していた姿とは全く違ったカフェ/フォーラムが現れてくれた

それぞれのテーマに興味を持つ方々の参加を得て、それぞれの会は全く異なる雰囲気を醸し出す

一人で読んだり考えたりしている時とは違うものがそこに漂うのである

それをしっかり感じ取り、非常に難しいのだが、できるだけ正確にまとめるという作業が主宰者には待っている

それが一通り終わって初めて、会が終わりを迎えるという感覚だろうか

特に今回、この点を明確に意識し始めたようである


このような会の特徴は、対話があるということになるだろう

プラトンを研究したハンス・ゲオルク・ガダマーは、理解することは対話することだとまで言っている

その上で完全な理解には達し得ないとしている

またプラトンは、対話において相手を真に理解しようとしたならば、普通の意識状態にいては駄目だというようなことも言っているようだ

プラトンの言うイデア界に至るような研ぎ澄まされ高められた意識状態が求められるということなのだろうか

もしそうであれば、対話というものの意味を真剣に考え直す必要があるかもしれない

そうすることによって、カフェ/フォーラムの質や深さに変化が出てくることが期待されるからだ

もちろん、意見が異なる者同士の対話がどんどん難しくなる現代においても考えを深めなければならない問題であることは論を俟たないのだが、

これからも考えていきたいテーマが増えたことになる


今、5年ほど前に書いた対話に関するエッセイを読み直しているところである

ハンス・ゲオルク・ガダマー、あるいは対話すること、理解すること(医学のあゆみ 265: 911-915, 2018)







2023年11月18日土曜日

秋の散策を愉しむ
































昨日で秋のカフェ/フォーラム・シリーズが終わったこともあり、今日は彷徨ってみたい気分

メガネの調整をしてもらった後、今日の写真のところから何も考えずに、原子になって歩き回った

久し振りのことで、何とも言えない精神状態の中にいた

ニューヨーク時代のように、体ごと街にぶつかっていくという感じはなくなっているが、快適であった

今は、地上を歩いているわたしを上の方から冷静に見下ろしているという感じだろうか

偶には必要になる心身の運動と言えるだろう

位置を確認すると浅草寺近くまで来ていたので、ついでに寄ることにした

大変な人出で、外国語が優勢だった

早々に引き上げ、カフェに落ち着いたところで、本日の記事をアップということになった












2023年11月17日金曜日

第17回サイファイ・カフェ SHEで、ある免疫論について語り合う























本日は、今年3月刊行の拙著『免疫から哲学としての科学へ』を題材とした合評会を開いた

免疫学を専門とする方の他、多様な分野からの参加があり、充実した、敢えて言えば、贅沢で豊穣なる会話が展開した

今日のところは、今思い出すコメントを少しだけ拾い上げるにとどめておきたい



最初に、免疫の歴史を書いている前半は、同時代で経験した内容なので非常によく入ってきたとの指摘があった

この部分だけでも若い研究者には読んでもらいたいとのことであった

後半は哲学的議論に移るが、科学者の哲学論という印象が拭えなかったのはやや不満だったようである

それに対して、全般的に内容が難しすぎるという指摘もあった


科学に対する態度については以下のようなコメントがあった

一方の極には還元主義一本やりで進むタイプで、それこそが科学者だという立場があり、もう一方には科学をそこに限定するのではなく、もう少し広い視野から論じるところまでを含めて科学としてもよいのではないかという立場がある

わたしは後者に属しているとの判定であったが、それには異論がないどころか、有難い評価であった

そのことに関連して、学会の中でも後者の立場から議論する場があってもよいのではないかと考えている方がおられた

実際にはそのような場は全くと言っていいほどないのだが、それは上の二極の分類で言えば前者の考えの持主が学会を動かしているからだろう

さらに、科学と神学や哲学との関係を重視するのか、両者を切り離すのかという歴史的判断がその国の科学のスタイルを決めているという指摘もあった

日本は後者の道を選んだように見えるが、これからどのような道を歩むべきなのだろうか


この他にも、科学、哲学、神学を巡る問題や、真理とは何を指しているのか、究極的な真理に辿り着くことはできるのかなど、かなり本質的な議論が続いた

詳細な内容については追って専用サイトに掲載することにしたい

改めて参加された皆様に感謝したい



























これで今秋のカフェ/フォーラム・シリーズが終わったことになる

来年は2月が札幌、東京シリーズは3月の開催を予定している

来春もよろしくお願いしたい









2023年11月15日水曜日

カフェ/フォーラムのまとめを書きながら感じていること
















このところ、暇な時間はカフェ/フォーラムのまとめを書いている

そこで観察していることを簡単に書いてみたい


一つは、これまでのように勢いに任せて書き終えるということをしていないことである

何か更なる発見はないかと、その過程をたっぷりと味わっているようなのである

もう一つは、そこで感じている時間である

極言すれば、時間が消えているのである

それは、このようなまとめに限らず、他のことを「考える」ために自分の中に入っている時も同じである

気がついて数時間経ったのかと思って調べると、まだ1時間などということが日常になっている

その中に入っている時には、無限にも見える空間の中にいるという感覚だろうか

これは幸福感にもつながるものではないかと考えるようになって久しい

何しろ永遠を手に入れているような錯覚に陥るのだから


そのことと関連するような気もするのだが、それが感知できない世界(the intelligible)で過ごす時間のように感じられることである

このところお付き合いが増えている古代ギリシア人の言葉で言えば、プラトンのイデアの世界であり、ヘラクレイトスで言えばロゴスの世界ということになるのかもしれない

同時に「意識を集中する」という行為の意味が、以前より明確になってきたように感じられる

それは至高のところに向かうための重要な方法になるという期待にも繋がるものである







2023年11月14日火曜日

第10回カフェフィロPAWL、無事終える
























本日は、第10回目になる「生き方としての哲学カフェ PAWL」を開いた

タイトルは「プラトンの『饗宴』と神秘主義」とした

具体的には、プラトンの中期対話篇『饗宴』(副題「エロスについて」)を読み、そこから見えてくるものの見方、知の在り方、ひいては人間の生き方に至る問題について議論するのが目的であった

参加予定の方が欠席となり、今日の会は研究対象同様、対話篇での開催となった



まず、前半で『饗宴』の内容を振り返り、後半ではそこにある発言が意味するところを考えるという順序で話題を提供した

前半では、エロスの種類が問題にされ、一種類ではなく、ウラニアとパンデモスに属する2つのものがあると指摘される

ウラニアのエロスとは、理性に恵まれた方を愛し、放埓とは無縁の愛で、パンデモスは低俗で、魂よりは肉体を、出来るだけ考えないものを愛する

そこから次第に、エロスが志向するものが広がってくる

一つのポイントは、アリストパネスのお話ではないだろうか

それによれば、人間の本来の姿は、男、女、それに男女(両性具有)であったが、神々を攻撃しようとしたため、ゼウスによって2つに切断される

エロスとは、本来の姿に戻るために分身を求める「完全性への欲求」に付けられた名前だったのである


この対話篇の肝は、ソクラテスがその昔、ディオティマという女性(プラトンの創作と言われる)から聞いた話を紹介するくだりだろう

そこで、プラトン哲学の中心的テーマが語られていると理解した

それによると、エロスはポロス(豊穣)とぺニア(欠乏)の間に生まれたので、両者の中間にある

困窮もしないが富むこともない、知に関しても叡智と無知の中間にいる者で、まさに愛智者(フィロソフォス)なのである

エロスが目指す究極のものは、イデア(形相)ということになる

そこに至る道として、「洞窟のアレゴリー」や「線分の比喩」、弁証法(ディアレクティケー)などが紹介された

このような方法論を示したことも、後に続く人にとっては助けになっているのではないだろうか

そして究極の形相界に至った時、そこから俯瞰する全存在界の雄大な光景こそ、プラトン哲学が齎すものだと井筒俊彦は言う

ディオティマは、そこに至った人間は不死になるというが、おそらく人間には及ばない境地なのだろう

ただ、その時の精神状態については現代人はあまり考えないのかもしれないが、興味をそそられるところである

精神の集中を続けて行くと、何か見えるものがあるのかもしれないという希望は捨てない方がよいだろう


今回のタイトルに入れた「神秘主義」という言葉だが、何気なく聞いていると、どこか怪しげな雰囲気も漂う

しかしここでは、神との一体化というよりは、絶対的・究極的な真理(プラトンで言えば、善のイデア)に接するという意味に解釈したい

あるいは、絶対的な真理に辿り着かないまでも、それを強く希求する心もそこに入れてもよいかもしれない

もちろん、絶対的などというのは神的なものしかないと考える人もいるのだろうが、、

最後に、プラトン哲学との関連で、わたしが考えてきたこととの対比についてお話した

あまりにも強い関連があるのに驚きながら話を進めていた

充実した対話となったのではないだろうか



会の詳細については、後ほど専用サイトに掲載する予定です

ご参照いただければ幸いです