このところの一日の終わりは、気分に任せて本棚から適当な本を手に取り、立ったまま1時間ほど読んでから寝るようになっている
すぐに寝るよりは、精神的には落ち着くように感じられる
以下、気になったところを書き出しておきたい
われわれが詩にポエジーの存在を問う時、しばしば、ポエジーと詩が勝手に混同されているのではなかろうか? すでにアリストテレスは、「韻律を除けば、ホメーロスとエムベドクレースのあいだに共通のものは何もない。それゆえ、前者を詩人と呼び、後者を生理学者と呼ぶのはしごく当然のことである」と言った。事実その通りなのであって、すべての詩が(正確にいえば、韻律法に基づいて作られたあらゆる作品が)ポエジーを持っているわけではない。
われわれが、その詩のことばを忘れてしまい、またその香気や意味などが消え失せてしまっていても、その瞬間の感動、まるで溢れ出る時間であり、時の連続という防波堤を破壊する高潮であったあの感動は、依然としてわれわれの内に生きいきとしているのである。なぜなら、詩は純粋な時間に近づく道であり、存在の始原の海への没入だからである。ポエジーとは時間であり、絶えず創造的であるリズムに他ならない。
偉大な画家であるとはすなわち、偉大な詩人——自分の用いる言語の限界を越える者——であることを意味する。
つまり、美はことばなくしては捕らえられないのである。事物とことばは同じ傷口から血を流す。あらゆる社会は、こうしたその基盤の危機を――とりわけ、ある種のことばの意味の危機を――経てきたのである。これは忘れがちなことであるが、帝国も国家も、他のあらゆる人間の所産と同様、ことばから成っている――それは言語的事象なのである。
一体、ことばが悪くなるのか、事象が堕落するのかわれわれには分からないが、ことばが乱れ、その意味が不正確になる時、われわれの行為や仕事の意味も同様に不確かなものとなる。
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