2023年12月21日木曜日

波多野精一による「無時間性」とは
































昨夜手にしたのは、波多野精一(1877–1950)の『時と永遠』(岩波書店、1943, 1974)であった

今年に入って次第に強く感じるようになっていることに、時の流れが消えるという感覚がある

ということもあり、「無時間性」の章を読んでみた


まず、「文化的生」という言葉が出てくる

これは「自然的生」と対比されているようだ

その詳細はそれ以前に出てくるのだと思うが、文化的生とは人間として一歩進んだ状態を表現しているのだと仮に解釈しておきたい

文化的生においては、活動を見棄て、観想に入る

そして、観想の時間的性質は、過去も未来もない単純な「今」で、ただ「ある」ということだけである

それは純粋の現在、純粋の存在だという

これこそが哲学が「永遠」と呼んできたものなのである

その思想はパルメニデス(c. 520-c. 450 BC)に現れているが、最初にこの言葉を使ったのはプラトン(427-347 BC)でないかという

移ろい行くこの世界、時間性の下にある世界とは異なり、生じることも滅びることもなく、純粋なる存在、形相の世界は永遠であり、不死である

その考えは、プロティノス(c. 205-270)、プロクロス(412-485)、アウグスティヌス(354-430)、ボエティウス(480-c. 524)、トマス・アクィナス(c. 1225-1274)などに引き継がれた

その後、新しい思想は現れていないと波多野は見ている

この「無時間性」は時間性の超越である

動くことも滅びることもない時間性からの解放によって、文化的生が成就されるという

まだ時間性の中にあり、時間の延長拡大を示す「無終極的時間」とは明らかに違うのである

ただ、これに続いて、そんなに簡単なものだろうかという疑問が出される

しかし、その先の議論にはなかなか付いて行けなかった

その他、気になったところをメモしておきたい

内在的形而上學は客觀的認識をさらにそれの原理へと、客觀的實在世界をさらにそれの根源の高次的實在者へと、還元しようとする。しかるにそのことは超越なしには不可能であり、超越は高次的客體によつてなされねばならぬ故、結局は内在的形而上學も超越的形而上學によつてのみ形而上學の資格を得るのである。


超時間的實在者――神――を觀ることによつて、觀想乃至直觀によるそれとの結合共同合一などによつて、人間的主體自らが超時間的永遠的神的と成るといふ思想は、古今の宗教及び哲學を通じて甚だ廣く行はれてゐる。純粹なる嚴密の意味における神祕主義はこの傾向の徹底したるものに外ならぬが、そこまで、即ち神と人との完全なる合一といふ點まで進まず、神祕主義的傾向乃至性格を有する程度に止まる諸思想においても、永遠性の問題に注意が向けられるとともに、單に客體ばかりでなく人間的主體の永遠性が説かれるが常である。 


認識は似たもの乃至同一なるものの共同乃至合一であるといふ思想が、文化主義觀念主義の世界史的代表者であるギリシア人の間において廣く行渡つてゐるは當然といふべきであらう。明白なる例外はアナクサゴラス(c. 500-c. 428 BC)ただ一人といつても言ひ過ぎではない。「地をもつて地を見水をもつて水を見る」云々とエムペドクレス(c. 490-c. 430 BC)は、甚だ素朴なる形においてではあるが、すでに明瞭にこの思想を言ひ表はした。アリストテレス(384-322 BC)に從へば、認識は主體と客體との合一によつて行はれる。現實的となつた認識は對象と同一である。認識せられるもの從つて――一切は認識せられるものである故――一切のものに成るといふのが理性の本質である。








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