昨夜の成果
カッシーラ―の『国家の神話』の中に、ホッブズ(1588-1679)の認識論について触れたところがあった
ホッブズについて取り上げるのは、ほとんど初めてではないだろうか
以下に引用したい
その著『物体論(De corpore)』の第一章において、ホッブズは彼の一般的な認識論を述べている。認識とは第一原理、またはホッブズの表現によれば、《第一原因》の探究である。事物を理解せんがためには、その本性と本質を定義することから始めなければならない。ひとたび、この定義が見出されるなら、その様々な性質は厳密に演繹的な仕方で引き出すことができる。しかし、定義がその対象の個々の性質を示すだけで甘んじているかぎりは、十分なものではない。真の定義は《発生的》または《因果的》な定義でなければならない。それは事物が何であるかの問いに答えるだけでなく、なぜそうであるかの問いにも答えなければならない。かくすることによってのみ、真の洞察に到達しうる。
現在までに辿り着いたわたしの「認識論」あるいは「方法序説」は、2冊の近著に示した通りである
それは、「科学の形而上学化」(metaphysicalization of science: MOS)あるいは「科学の神学・形而上学化」(theologico-metaphysicalization of science: TMOS)という言葉で形容したものに集約されている
出発点はあくまでも自然の細部について科学が明らかにした内容にあるが、そこで終わっては真の認識には至らないという立場である
それらの個別の内容をできるだけ広く集めて、そこにある共通の要素を抽出する作業に入るだけではなく、さらに哲学的、時には神学的な要素も取り入れた省察を進めなければならない
そうすることにより、一つの現象の本質に迫ること、根源的な理解に至ることが可能になると考えたからである
つまり、根源的な理解に至らなければ、何かを認識したことにはならないという立場になる
ホッブスの立場も、認識とは「第一原因」の探究であるとしていることを考えると、わたしの認識論とそれほどかけ離れていないと理解した
こうしてみると、これまでに辿り着いた方法論については、それ自体として批判される側面はあるのだろうが、それなりの歴史的な支えはあると考えてもよさそうである
問題は、この認識論でこれからどのような展開ができるのかという点になるのだろう
新しい年に向けての大きな課題として考えていきたい
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