2023年9月30日土曜日

井筒俊彦のプラトン(3)「洞窟の比喩」











今日は「洞窟の比喩」の項を読むことにしたい

井筒によれば、純正なる神秘主義が起こるところ、必ず向上道と向下道、観想面と実践面とが同時に強調されるという

洋の東西を問わず、である

プラトンにおいても例外でないことは見てきたが、ここで「洞窟の比喩」によって神秘道の全体を鳥瞰することにしたい

有名なお話なので、詳しい説明は必要ないだろう

上図のように、洞窟の突き当たった下には、囚人が生まれながらに拘束された状態でいる

彼らは後ろを振り向くこともできず、後ろにある火によって壁に映し出される影絵を眺めるだけである

それが彼らの全世界であり、真実の世界である

これが感性的世界に生き、そこで満足している日常的人間の状態で、無知の境遇とされる

この第一段階の後、第二段階に入る

囚人は解き放たれ上に向かうが、そこで目にしたものが真実だと伝えられても壁に映っていた像の方がはるかに実在的だと思う

第二段階が失敗に終わった後、さらに困難な洞窟の外に出て太陽の下の世界を眺めさせる第三段階が待っている

囚人の眼は徐々に光に慣れ、地上のものを識別できるようになる

さらに太陽を見るようになり、すべての原因が太陽にあったことを認知する

それが幸福感を齎すことになり、洞窟にいる仲間を憐れむ気持ちさえ浮かぶようになる

ここまでが、感性界からイデア界に上昇する過程を描いていることになる

その切っ掛けとなる全人間的方向転換は、鎖に繋がれ前しか見ることができなかった人間が後を見てそちらに歩いて行けるようになる過程として表現されている

そしてプラトンによれば、超越的存在者を証得すべき超越的能力とそのための器官(霊魂の眼)が人間には具わっているという

イデア界に到達した人は、その状態で悠々自適したいと願うのは当然である

しかし彼はそこに留まることは許されず、俗界へ下降させられなければならない

洞窟の奥に降り、そこで超越的生命の中心として働かなければならない

彼には同胞に奉仕すべき神聖なる義務が残されているのである

往きて還ることによりプラトン的哲人の人格は完成するが、それ以後の西洋神秘主義はその精神を裏切ったという


以前に、このことについて触れていたことを思い出した

井筒俊彦によるプラトンの神秘主義と「科学の形而上学化」(2023.4.8)






 


2023年9月29日金曜日

井筒俊彦のプラトン(2)



















前回、プラトンのイデアリズムを見てきたが、それは思想的立場ではなく厳粛な体験であることが分かった

そのためには全人的方向転換を要するのである

つまり、人間霊魂を可視的な感性界から不可視的な叡智界に向かって強制的に転換させ、生成流動の相対界から徐々に引き離し、遂に絶対的普遍者(善のイデア)の光まばゆき秘境にまで先導すること

それを唯一至高の目標とする人間形成の向上道であり、神秘道である

これが全人的転換の方法であった

その秘境に至った神秘家だけが、絶対的真理を生き生きと躍動する具体性のままに目撃し、真正な哲学者の資格を持つのである

超越的世界の強烈な光を避けようとする人間の心を、その光に向けようとするプラトン的教育(パイデイア)の情熱的性格がそこにあるという

パイドン』で説かれた「死(タナトス)の途」、『饗宴』の主題である「愛(エロス)の途」、『国家』における「弁証法(ディアレクティケー)の途」の三者は、同一の究極目的に向かって霊魂の転換を促す霊性開顕の神秘道なのである

プラトン以前にも神秘主義的体験は存在していたが、このような方法論的に自覚されたものはなかった

ソクラテス以前の哲人たちは、それぞれが究極の真理を捕捉したとして他を冷笑する智的傲慢、独善主義に陥ったと井筒は見ている

自分ひとりの魂が救われても、他のすべての人の魂が救われなければ神秘家の仕事は終わらない

プラトンは後進のために超越への道を示すという、神秘道の組織化を行った最初で最大の人間だったと言えるだろう

さらに、感性界から超越界へ昇り行く向上道で終わるのではなく、超越道を昇り終えた後は反転して現象界へ下り、万人のために奉仕することでプラトンの神秘道は完結する

つまり、「善のイデア」への途は神秘主義の前半にしか過ぎず、後半には現象界に超越的生命の灯を点火し、そこにイデアを齎す仕事が残っている

忘我法悦境における一者観想こそが神秘主義の本質であるとされるが、観想の重要性は認めた上で、そこから離れ実践に向かわなければならないのである

このような特徴を持つ神秘家としての側面がプラトンにはあると井筒は考えている








2023年9月28日木曜日

井筒俊彦のプラトン(1)




















ここ数日、井筒俊彦の『神秘哲学』にあるプラトンについて読んでいた

著者30代半ばの作のためか、熱いものが迸り出ている感がある

それを冷ますには、ある程度の時間が必要であった

ということで、これから印象に残ったところを書き出しておきたい


常識的な人間にすれば、感性界の多彩な生命に満ちた世界に比べ、超越的イデアの世界は灰一色の抽象的な世界である

人間精神によって作り出された生気なき枯物にしか見えない

目の前にいる実際に触れることができる個々の人間ではなく、人間それ自体というような普遍的なものなど幻影に過ぎないのである

人間の認識能力(自然的認識力)はそもそも、個物の世界を見る時にのみ焦点が定まるようになっている

したがって、主体は地上に留まっているのに客体が抽象性を増して上空に昇っていくと、最早認識できなくなる

それを認識できるようになるためには、普遍性に合わせたレンズを整えなければならない

それができるようになると、対象が普遍的になればなるほど抽象的になるのではなく、寧ろより具体的になるという

そこで目にするのは「有の究極」なのだが、人間の自然的認識にとっては「無の極限」なのである

この「有の究極」こそ、ソクラテス以前の哲人が「一者」「存在」「神」と呼んだものであり、プラトンが「善のイデア」と呼ぶ絶対的存在者なのである

ここに見られるように、有として存在しているのだが認識できないものを有たらしめることこそ、プラトンの神秘道の根本使命だという

日常的人間にとっては感性的領域においてのみ成立する認識を徐々に存在の全領域に広げ、最終的には至高の存在領域に至るのがプラトン的体験なのである

そこから全存在界を俯瞰する雄大なる光景こそ、プラトン哲学が齎すものなのである

プラトン哲学=イデアリズム(イデア論)として一つの思想的立場を記憶に留めるだけでは、プラトン哲学を理解したことにはならないということだろう

自らがプラトンが言う道を歩まなければならないのである








2023年9月25日月曜日

マルセル・コンシュの自然と井筒俊彦のプラトン















秋らしくなり、週が明けたこともあり、気分は静まり返っている

今日はマルセル・コンシュ自然に関する本井筒俊彦の『神秘哲学』にあるプラトンの項を読むことにした

コンシュの方はフランス語なのでゆっくり読んでいきたい

井筒の方は使われない言葉が使われている上、咀嚼するのが大変な内容である

そもそもプラトンが哲学者に要求するところは常人には捉えられない類のもののようなので、まだその主張は霞の中である

それでも井筒が分析するプラトンが考えた哲学なるものに通じるものを自分も求めているのではないかと感じるところはあった

もう少し読み進むことにしたい






2023年9月24日日曜日

ダラダラとした一日、そして秋のカフェ/フォーラムの準備















本日は気持ちの良い快晴の秋の日であった

ということで、時にウトウトしながら終日ダラダラと過ごした

古書店を巡り買い物をするYoutubeを流していたが、結構面白かった

こういう番組を見ていると、自分がいかに本を読んでいないのかが分かる

このようなダラダラとした一日も悪くない

夜アトリエに向かうと、日中ダラダラとしていたせいか、精神が冴えわたっているように感じる

おそらく、気のせいだとは思うのだが、、


そろそろ秋のカフェ/フォーラムに向けて準備を再開しなければならないだろう

いつも感じることだが、いずれのテーマもどこまでも深掘りできるのだが、そのための時間が限られているというジレンマである

最近の姿勢は、会では話題提供に止まるかもしれないが、会が終わった後もそのテーマを抱え続けるというところに落ち着いている

今回の準備がどのようなものになるのか今は分からない

ただ、これからに繋がる問題が浮かび上がってくることを期待するばかりである








2023年9月23日土曜日

ハイデガーによる思考とは(5)
















今日は『思考とは何か』の第3講に当たりたい

我々が思考とは何か、思考が要求するものは何かを学ぼうとする時、思考について考える省察の中で迷ってはいないだろうか

しかしその道行には、思考自体に由来する光が注いでいるのである

思考とは、最も思考を誘発するものについて回答する時に行われることである

思考を誘発する時代において最も思考を誘発することとは、我々はまだ考えていないということである

思考を誘発するという場合、我々はネガティブで虚無的な現象を思い浮かべ、その核心には思考の欠如があると想定する

一世代前にはそれは「西欧の没落」であり、今日であれば「中心の喪失」である

世界では荒廃が広がっている

これは破壊よりずっと悪い

なぜなら、破壊は今あるものを一掃するだけだが、荒廃は将来の建設も成長も阻害するからである

土地の荒廃は、すべての人に均一の幸福を組織的に確立するものと手を取り合うことになる

「荒地が拡大する」ということは、ニーチェがすでに言っている

「我々の思考を誘発する時代において最も思考を誘発することは、我々がまだ考えていない」ということを、もう少し詳しく見てみたい

ここでは、我々が全く考えないとか、最早考えていないとは言っていない

我々は思考に向かっていてその道に入ってはいるが、まだ実践されていないということである

最も思考を誘発すものとは何なのか

それはおそらく人間にとって最も格調高いものであり、最も危険なものかもしれない

それは悲観的なもので楽観的なものでもないだろう

それは最も思考すべきものを我々に与えるもの、その中に思考に値し、記憶に残る最大の豊かさを有するものではないか








2023年9月21日木曜日

重なる不具合

























昨日、わたしが管理している各種サイトでリンクを貼っていたデータが全く見られなくなっていることを発見

代わりに、何やら聞いたことのない会社のサイトが現れるのである

15年ほど前にブログを作成した時、そこにデータ保存機能があったのでリンクを貼るデータを保存していた

その会社が買収でもされたのだろうか

いずれにせよ、これから別のストレージにデータを入れ、リンクを貼り直す作業をしなければならなくなった

昨日、少しだけ新しいリンクにしたが、真面目にやれば結構な仕事量になるので少々気が重い

こういう時には重なるものである


プリンターが言うことを聞かなくなったのである

昨日1時間超、製造元とやり取りしたが埒が明かず、今日も1時間超、確認と調整をやってもらったが動くようにはならず

結論から言うと、プリンターが認識されていないというところに落ち着いた

そう言われてみれば、ひと月ほど前にセキュリティを上げるプログラムをインストールしたことが蘇ってきた

その会社に相談してみてはということになり、早速連絡先を探してみたが、日本に営業所はない

相談はチャットで受け付けるとのことで始めたのはいいが、結局2時間超縛られることになった

最初はこちらにいろいろな確認を頼んでいたが、途中からリモート・セッションが始まり、相手の手が自分のPCの中に入ってくる状態となった

気持ち悪いものである

パリでも同じような経験をしたことを思い出したので検索すると、10年前の記事が出てきた

  パリの断章: 遠くからパソコンに手を突っ込まれる(2013年10月31日)


やはりセキュリティのプログラムをオフにするとプリンターは動くようになったので、犯人はそのプログラムだった

そしてその原因は、プリンターなどの近くのデバイスへのアクセスも禁じる設定になっていたことである

この修正をしてもらい、元通りに戻ってくれた

指令を出してすぐに聞こえるプリンターの音が美しく聞こえたのは初めてである

ということで、地上に降りると疲れることが多いことを改めて確認

そして、デジタルデバイドという言葉を思い出した







2023年9月20日水曜日

『免疫から哲学としての科学へ』合評会のお知らせ




この3月に刊行された拙著『免疫から哲学としての科学へ』の合評会を以下の要領で開催いたします

専門家の方だけではなく、免疫についての基礎知識がない方も歓迎いたします

奮ってご参加いただければ幸いです

よろしくお願いいたします



◉ 第10回サイファイ・カフェSHE 札幌

2023年10月21日(土)15:00~17:30

京王プレリアホテル札幌 会議室

サイト


◉ 第17回サイファイ・カフェSHE

2023年11月17日(金)18:00~20:30

恵比寿カルフール B会議室

サイト







2023年9月19日火曜日

ハイデガーによる思考とは(4)
































昨日の夜、ピーター・キングズリー(Peter Kingsley, 1953- )というイギリスの哲学者を紹介するYoutubeを発見

この方の専門がソクラテス以前の哲学者、特にエンペドクレスパルメニデスだということで注目した

全くの偶然だが、エンペドクレスは前回のフォーラムFPSSで取り上げ、パルメニデスは秋のFPSSで触れる予定である

キングズリーによれば、これらの哲学者はロゴスなどを持ち込む理性的な思考をしたと考えられているが、そこには神秘主義的な要素があるという

ロゴスに至るには、死者の世界(ハデス)、静寂の世界への旅から戻ってくることが不可欠であったと考えている

論理的な世界と神秘主義的な世界との間には通路があったという考えである

現代では2つは分離され、日常生活は物質主義的になり、後者は忘れられているか、あるいは排除されている

始原に戻る必要があるのではないかと言いたいようである

また、瞑想の重要性についても指摘している




さて今日もハイデガーである

わたしも何度か引用している一節を紹介して、第1講を終えることにしたい

このような状況は、科学そのものは考えないし、考えることもできないという事実に基づいている

科学は考えない

これは衝撃的な発言である

たとえ、科学は常にそれなりのやり方で考えることと関係しているという補足をすぐにしても、この発言は衝撃的であろう

しかしそのやり方は、思考と科学の間に横たわる溝が見えて初めて真正なものとなり、結果として実を結ぶのである

ここに橋はない

あるのは飛躍だけである







 

2023年9月18日月曜日

ハイデガーによる思考とは(3)














今日もハイデガーを続けたい

思考ができるためには、それを学ばなければならない

考えるべきことに我々の心を向けることによって、我々は考えることを学ぶのである

最も思考を誘発するものとは何なのか

それは我々がまだ考えていないということである

世界は益々思考を誘発するようになっているのにである

このような時には国際会議や学会などで講演したりするのではなく、すぐに行動すべきだとの声が聞こえる

欠けているのは思考ではなく、行動だと言うのである

しかし人間は長い間、多くの行動をしてきたが、余りにも思考してこなかった

ただ、至るところで哲学に対する興味が示されるようになっている現在、人間はまだ考えていないなどとどうして言えるのか

哲学者というのは卓越した思想家である

哲学において思考が適切に行われているので、彼らはそう呼ばれる

今日、哲学に対する興味が示されていることを否定する人はいないだろう

しかし興味とは何をいうのか

それは「ものこと」の中心に在り、在り続けるということである

しかし今日の興味は、関心をそそる、面白い場合にかぎりそう認めるもので、次の瞬間には無関心になり得るのである

人々が哲学に興味を示すということは、考える準備ができたという証拠にはならない

もちろん、哲学史の立派な研究もされていて有用なのだが、それにしても我々が考えていることを保証するものではない

逆に、哲学に没頭していることが我々に考えているという幻想を与えているのである


ここで、思考を誘発する時代において最も思考を誘発するのは、我々がまだ考えていないということである、という奇妙な主張を再検討したい

思考を誘発するとは、我々を考えさせることである

思考を誘発するものとは我々が決めたもの、設定したものではなく、それ自体が我々に考えさせるもののことである

本質的に考えなければならないことについて、我々はまだ考えていないということなのである

それは思考の遅さや遅れあるいは無視が原因で治療可能なものなどではない

考えなければならないことは、人間からずっと前に離れて行ったのである

それはいつからのことなのか

特定の出来事があったのか

そうではなく、初めから離れて行ったのである

しかし、現代において人類は常に思考してきたし、記憶に残る深い思考もされてきた

ただそれは、科学知を生み出す思考とも言えるもので、ここで議論する思考とは何の関係もない








2023年9月17日日曜日

ハイデガーによる「思考を学ぶとは」



























このところの感じ方が以前とは違っていることに気づいた

以前は、自分は天空にいて現象の下界を見下ろしているという感じであった

ところが最近は、海底のような意識の底で普段は暮らし、地上の現象界に触れるために底から浮き上がるように旅に出るということを繰り返していたようである

天空にいた時も意識の深いところで暮らしていたわけだが、底にいるよりは明るい気分で過ごすことができた

これはおそらく、現在の日常に自分の根となるものが溢れているため、どうしても天空にいるとは思えないためではないか

例えばフランスに行けば、わたしにとって現象界として根付いたものがなくなるため、容易に天空に身を置くことができるのだろう



さて今日もハイデガーを読むことにしたい

第1講義は「我々は考えようとした時、その意味を知ることになる。この試みを成功させるためには、我々は考えることを学ばなければならない」で始まる

その学びに入ることにした時点で、我々はまだ考えることができないことを認めたことになる

しかし、人間は考えることができる存在だと言われる

理性(ratio)は思考の中で進化する

理性的動物である人間は、そう望めば思考ができるはずである

でも、できないかもしれない

そこには可能性があるだけで、保証はないのである

なぜなら、我々はしたいと思うことだけをすることができるからである

我々の本質的な存在に向かう何かにだけ、我々は真に向かうのである

我々を本質的な性質の中に留めるものが、我々を長きに亘って支える

我々を支えるものに我々はしがみついているからである

それを記憶から手放さないことで、我々はしがみついているのである

記憶とは考えの集合である

何の考えかと言えば、我々を支えているものについての考えである

それが思考されなければならないものであり続けるがゆえに、我々は考えるのである

思考には考え直すという才能がある

それは思考すべきことがあるからこそ与えられる才能であり、そのとき初めて我々は考えることができるのである




つまり、こういうことだろうか

我々を支えるものの記憶が思考されねばならないものである時、我々は考え、考え直すことができる

わたしのフォルミュール「考えること=考え直すこと」が現れた 

これは少なくともハイデガーまで遡ることができるということになる

それから、記憶は考えの集合であり、それは思考の対象でもある

思考するに値する記憶があるかどうかが、思考の質も決めるということなのだろうか











2023年9月16日土曜日

サイファイ・フォーラムFPSSについて、そして考えるとは

































今日もこれからのことが頭に浮かんだ

その一つが「科学者のための科学の哲学フォーラム FPSS」(Forum of Philosophy of Science for Scientists)である

科学者が科学について話題提供をしながら哲学的な考察を加えるという会で、毎回2名の方が発表されている

このフォーラムを来年から年3回の開催にしてはどうかというアイディアが浮かんだ

発表と意見交換の機会を増やすことが目的である

ただし、他のカフェはこれまで通り、年2回の開催とする

この方向で可能性を検討することにした



夜、最近届いたハイデガー著『思考とは何をいうのか』(Was heisst Denken?)の英語版 What Is Called Thinking? を読み始める

思考するとはどういうことなのかを考える時に戻ってくるところなのだろうか

今日は、訳者のジェシー・グレン・グレイのイントロを読んだ

ハイデガーはまず、思考とは何ではないかを指摘する

第1に、意見や概念を持つことではない

第2に、ある状況についての考えを持つことでもない

第3に、論理的に推論して1つの結論に導くこと(raciotination)でもない

第4に、ヘーゲルが至高の思考と考えた体系化や概念化でもない

ハイデガーが考える思考は、科学のように知識を生み出すものでも、謎を解決するものでもない

科学よりも、一般に思考と考えられているものよりも、彼が考える思考は劣っている

しかし彼は、詩的であり哲学的な思考の独立した役割を明らかにする方向に動いている

ハイデガーが言う思考は、世界の在り様を具体的に見、語ることである

我々はその世界内に存在している

したがって、思考は人間であることを規定することでもある

思考しなければしないほど、我々は人間であることから遠ざかる

非体系的に、非概念的に、しかし厳密さと正確さをもって考えること

習慣となった見方を避けること

考えるとは1つの生き方のことである












2023年9月15日金曜日

パリカフェについて




2019年1月に第2回を開いて以来お休みになっていたパリカフェについて考えていた

この間、COVID-19のパンデミックがあり、わたし自身もベースを日本に移すということがあった

そのため、パリカフェは自然消滅だろうとぼんやり思っていた

それが変化したのは、先月から今月初めにかけての旅でのちょっとした会話が切っ掛けであった

具体的には、わたしがこの5~6月にパリに行ったことをある方に話すと、パリカフェをやるためですか、と聞いてきたのだ

それに対して自動的に、あの会はもう開けなくなったので・・と答えていた

そして昨日、これからのことに思いを馳せている時、その会話が蘇ってきたのだ

こちらからパリに行ってカフェをやるということもありだと気づいたのである

このように、これまであり得ないと決めつけていた「思考の盲点」が見えてくる瞬間には何とも言えないものがある

広報の手段がブログだけになるので、どれだけ伝わるのか分からない

参加希望者が2名以上で開催という条件付きではあるが、トライするのも面白いのではないか

開催のいかんにかかわらず、そのために準備する過程は多くのものを齎してくれるのではないだろうか

これから前に進める方向で、計画を練ることにしたい

どんなことになるだろうか







2023年9月14日木曜日

来年をぼんやり思い描く















今日は途中から雨が降り出し、静かな気持ちになって来た

昨日からモバイルから離れていたので、要らない情報が入ってくることもない

これは意外に重要ではないかと思う

普段、いかに不要なものの中に埋もれているかが見えてくる

生活をしていない場合、必要なものは殆どないのである


ということで、久し振りに遠くを眺めることにした

と言ってもせいぜい来年までのことである

最近、来年用の手帳を買ったことも関係しているのかもしれない

今年の手帳を買った時にはどのような年になるのか、想像もできなかった

そして、今年も想像もできなかったような展開を見せている

来年のことなど想像することさえ無駄だろう

ただ、毎年恒例の活動については大体の予定を考えてみた








2023年9月13日水曜日

ヘッセの「自伝素描」から



















昨日の『若き人々へ』から「自伝素描」を読んでみたい

そこには若き日に感じたであろう言葉が溢れていると想像されるからである

このような偶然でもなければ、最早手に取ることもないであろう本だからである

ここでは、気になった文章を時にアレンジしながら書き出すことにしたい


生まれつき私は子羊のようなたちで、シャボン玉のようになびきやすいのであるが、おきてとなると、どんな種類のものであろうと、特に少年時代には、それに対し、いつもつむじ曲がりな態度をとった。「なんじは・・・すべし」というのを聞いただけで、私の心はすっかりそっぽを向き、私はかたくなになった。


十三の年から私には、自分は詩人になるか、でなければ何にもならないという一事が明らかになった。(他の職業にはそこへ道があったが)詩人にだけは、それが存在しなかった!・・・彼らは過去の世界ではさん然と輝いていた。だが、現在と現実の世界では、人々は彼らに敵意を抱いていた。


過去のもの、歴史、古いもの、非常に古いものに対して、絶えず関係を持つことが始めて、精神生活を可能にすることを、気づいた。


私は戦争中、スイスの首府ベルンで暮らしていた。それは、ドイツと中立国と敵との外交の真っただ中にあり、外交官や政治上の密使やスパイやジャーナリストや買占め人や密売者ばかりで、人口過剰になった町であった。・・・しかも、そういうものについて戦争中を通じ、私は全然気づかずにいた!


私に対する世人の非難は、私には現実に対する感覚がない、ということである。 私には、現実に対する尊敬が実際かけている。現実は、最も意に介するにあたらないものだと、私は思う。・・・なぜなら現実は偶然であり、生活のくずであるからである。

 

 

 

 


2023年9月12日火曜日

懐かしい本との再会、そして60年振りにヘッセの声を聴く

































先日のブログに懐かしい本の名前を書き出しておいた

その後、古い書庫を覗いてみたところ、倉田百三愛と認識の出発』と河合栄治郎編『学生叢書』の何冊かを発見した

倉田のものは、平凡社版「世界教養全集3」に収められていた

記憶に残っているままの赤い背表紙が箱から見えるもので、定価350円

1963(昭和38)年に購入したことになっている

この巻に収められているのは、鈴木大拙『無心ということ』、芥川竜之介『侏儒の言葉』、三木清『人生論ノート』、亀井勝一郎『愛の無常について』である

いずれも懐かしい響きがある



その近くに、これまた懐かしいヘルマン・ヘッセの著作集数冊が見つかった

こちらの表紙の色や作りも記憶のままで、その中の1冊を今日の写真とした

この本には「ツァラツストラの再来——一言、ドイツの若き人々へ――」「自伝素描」「カラマゾフ兄弟、ヨーロッパの没落」「ドストエフスキーの『白痴』随想」の4編が収められている

こちらも1963年に購入、定価200円

翻訳も高橋健二で懐かしい

60年振りに最初のエッセイを読んでみたが、当時読んだのか読んでいないのかは分からなかった

ここでヘッセは、次のようなことを言っている

運命について
自らの運命を認識し、自らの生活を生きることを学べ!

運命を外から受け入れるような人は、運命に殺される

運命は各人の中で成長する

運命が自己の最も固有なところから来る人は、運命によって強められ、神にされる 

運命を認識した者は決して運命を変えることを欲しない

運命を変えようと欲するのは権力者である

君たちが苦痛を感ずる時、なぜ祖国だとか、国民だとか、それに類した大きな神聖なことを口にするのか

大きな言葉を使いつけていると、互いに理解することも、自分自身を理解することも難しくなるのだ 

 

孤独について

孤独は、運命が人間を彼自身に導かんと欲する道である

孤独は人間が最も恐れる道である

大多数の人々は、ついぞ孤独を味わったことがない

彼らは決して自分自身と語らない

日々の生活と国民とから授けられる「任務」に自己を捧げるのは、ずっと容易で心安らかでもある 

だが、自己の孤独を、自己の二つとない自己に定められた孤独を見出した者は幸いだ

その人のところには運命がやって来、その人から行為が生まれるからだ 

 

世界改良: 

世界を改良しようというような奇妙な要求は断念すべきであろう

世界は改良されるために存在しているのではない

君たちもまた改良されるために存在しているのではない

君たちは自分自身であるために存在しているのだ

君自身であれ!

まさに今、世界改良の歌が再び激しく歌われ、わめかれる

それはどんなに粗野に、不幸に、愚かに、無思慮に響くことだろう! 

そういう時は、金や財布、虚栄や自負が中心になっているのだ


君たちと君たちの国民: 

君たちの国民とすべての国民が必要とするものは、自分自身であることを学んだ人々、自分の運命を認識した人々である

君たちドイツ人は他のどの国民よりも服従することに慣れている

実行や男らしさは、書物や大衆演説の中からは生じないことを忘れるな!

それは悩みと孤独を経て行く山の上で生じる

そんなに急ぐことはない!


別れ

君たちのめいめいの中には、自然の呼び声と意志と構想がある

未来と、新たなものと、より高いものとを目指しての構想がある

それを熟さしめよ

その名が何であろうと、演説家や教師から言われることに耳を貸すな

君たちのめいめいが耳を貸す必要のあるのは、唯一つ、自分の唯一の独自の鳥だけである

その鳥に耳をかせ!

君たち自身の中から来る声に耳をかせ! 

 

 

 

 

 

 

2023年9月11日月曜日

ネド・ブロックが考える意識



ニューヨーク大学の哲学者ネド・ブロックが「意識は非生物学的であるか」をテーマに議論している

拙著『免疫から哲学としての科学へ』の中でも紹介したように、ブロックは意識には2種類あることを指摘している

1つは主観的経験や感覚に関わる現象意識で、もう1つはより高度の推論や発話や行動を行う際に使われるアクセス意識である

この議論では「説明のギャップ」(explanatory gap)という言葉がよく出てくる

これは、意識の主観的な側面と脳に関する物理的な説明との間のギャップを指している

ブロックは汎心論は余り可能性がないという見方を採っている

汎心論も組合せ問題を説明しなければならないからだろう

これは、最小の存在に存在する単純な意識が我々人間が持つような複雑な意識にどのように移行するのかという問題である

また、今は捨てられているかに見える二元論にも可能性があるのではないかというようなことを口走っている

まだまだ予断を許さない問題である






2023年9月10日日曜日

意識への多様なアプローチ、あるいは『免疫から哲学としての科学へ』





この3月に出した拙著『免疫から哲学としての科学へ』において、認知、意識の問題を大きなテーマとして取り上げた

人間の意識について異なる分野の研究者にインタビューしたビデオが現れたので上に貼り付けておいた

代表的な科学者は、大部分の科学者が考えるように、人間の意識は脳から生まれるという見方を採っている

そのほか、宇宙の意識の一部として人間の意識が生まれたという見方や、神が目的をもって人間に付与したという神学者の見方などが紹介されている

進化論の立場からは、何らかの偶然で人間の意識は生まれたと説明されているが、そのメカニズムは明らかにされていない

現在までに固まってきた個人的な感触は、人間の意識は脳から生まれるが、他の生物でもそれぞれの意識(人間に相当するという意味ではなく)を持っていると考えてもよいというものである

この意識、認知と免疫は機能的に同じではないかという提案をしたのが、上記の拙著である

進化の過程でどのように意識が生まれたのかの説明ができないということから、意識は進化の最初からあったという汎心論的見方を採ることも考えられる

ただ、人間の意識が頭にあると、この見方はなかなか受け入れるのは難しいかもしれない

今のところ、それぞれの進化レベルにおける意識を科学的に捉えることができないので、これは形而上学的な説ということになるのだろうか

いずれにせよ、これからもフォローしたい興味深い問題である














2023年9月9日土曜日

今道友信による出隆

































出隆哲学以前』の最後に、弟子に当たる今道友信による解説があるので読んでおきたい

この本の初版は1921(大正10)年なので、ほぼ1世紀前のものである

解説には何とも懐かしい名前が出てくる

わたしが若き日に触れたものだけを以下に書き出しておきたい

西田幾多郎善の研究』(1911)

岡倉天心茶の本』(1906)

阿部次郎三太郎の日記』(1914) 

河合栄治郎編『学生叢書』 (1936-1941)


ここでは、著者の出隆がどのような人物だったのかを書いている部分に注目したい

出隆の専門はアリストテレス研究だった

手元にあるものを見直せば、出の名前がそこにある

今道が東京帝国大学文学部哲学科に入学した1945年、出は哲学哲学史第一講座を担当していた

その講義は聴き取りにくい声でノートを読み上げるものだったようだ

わたしも文系に入り、体験したことである

出の前期はキリスト教の信仰(プロテスタント)で貫かれ、教会では牧師に代わって説教をすることもあったという

このような、社会における実践は、尊敬するソクラテスプラトンに学んだものであった

さらに1948年には共産党に入党

その背景には、出のコスモポリタニズムへの傾倒と、国家主義への拒否反応があったと今道は見ている

この傾向がキリスト教にも導いたと思われるが、第二次大戦中、キリスト教会はナチスに反対することもなかったし、米国が原子爆弾による大量殺人を行っても有効な反応を示すことはなかった

これらが原因でキリスト教に絶望し、新しい実践の場を唯物論哲学と共産党に求めたと推測している


定年2年前の1951年3月には東大教授を辞職

翌月の東京都知事選立候補のためであった

今道は激論を交わして辞意撤回を迫ったというが、「無謀な」決断が翻ることはなかった

選挙には大敗し、出の理想主義的国際路線は共産党の容れるところとはならず、1964年には除名処分を受ける

それからの道は苦難の連続だったと思われるが、哲学の研鑽は最後まで続けた

そして1980年、阿佐ヶ谷の病院で息を引き取った

享年89











2023年9月8日金曜日

出隆の「道徳と哲学」















いよいよ『哲学以前』の結論に辿り着いた

タイトルは「道徳と哲学」となっている

早速始めたい


前回問題にした我々の価値付与的意識と超価値的絶対界=純粋経験界とはどのような関係にあるのか

両者は無関係なのか、あるいは相反するのか

科学的態度、道徳的・倫理的態度、芸術的態度、宗教的態度には、まことのものを求める価値追及の努力があり、それが真・善・美・聖に対応しているのではないか

それを我々は良心と呼んでいる

別の言い方をすれば、良心とは、何かのまことを求める内的欲求であり、そうせよという命令であり、価値要求的な意志活動である

つまり、超価値的絶対界と我々の価値を付与する世界との関係は、純粋経験と意志の問題に還元される


ここで、義務について考えたい

これは、我々人間が当に為すべきこと(当為)として課せられ命ぜられた任務である

しかもそれは不可能に見えようとも遂行しなければいけない任務である

しかし、誰が当為を決め命令したのだろうか

それは義務を負ういろいろな我ではなく、自他の別を超越したある者でなければならない

客観化する我あるいは神自らであるところの超個人的純粋主観(純我)に属するものでなければならない

我々に義務を与えるものは、純粋意志だと言えるのではないか


超価値と価値の問題は、実在界と現象界、普遍主義と個体主義、超越と内在などの問題と絡めて哲学に課せられた大問題の一つである

そのため、それを解決することはここではできないが、問題解決に向けての一つの道を示唆することに止めたい

純粋経験とは、反省の側面がないもので、一・他、自・他の区別も時間空間的規定も価値もない

立場以前の世界であり、主客未剖の絶対境である

価値的生活とは、純粋経験を自ら顧みて善・悪、真・偽とする活動のことである

我々には善を欲し、真を願い、美を求め、聖に帰せんとする絶対的真実在としての欲求があり、それを保存しようとする自己忠実性がある

スピノザコナトゥスも同じものではないかという

著者はさらに、無限の方向性があるにもかかわらず、自己忠実性は一定の目的を持っていなければならず、それを我々は絶対的真理、至高善と言っているのではないかとする

その目的(至高善)はどこか遠くにあるのではなく、目的創造的な活動の中にある

純粋経験界とは、この目的創造的・価値付与的な体系のことなのである

哲学が価値体系の学であることも理解できるだろう

真に生き、真に哲学するものの前には他にもいくつもの道が開けるであろう、と結ばれている



これで出隆の『哲学以前』を読み終えたことになる

哲学を別の切り口から眺めることができたように感じている

ただ、2007年の段階で読んでいたとしても、殆どわたしの中に入ってこなかったであろう

あれから15年ほど経っているが、理解できたとはとても言えない

また、この本によって哲学に誘われることもなかったであろう

哲学に入るには、その時に抱えている実存的問いに触れる言葉を発している哲学者に出会うという偶然(わたしから言えば、必然になるのだが)がなければならないのではないだろうか







2023年9月7日木曜日

出隆の「芸術及び宗教と絶対界」(2)




























今日はトンボの群が飛び回っている

去年より背が伸びたススキの穂が左右前後に激しく揺れている

風を浴びて嬉しそうだ

暑いのだが、秋に向かう景色である

その景色の余韻を味わいながら、昨日のつづきを始めたい



著者の言う宗教的生活とは、倫理的苦闘であり、地上の罪人としての自責であり、自らを聖化しようとする焦慮だという

また、現実の知識界にいる悶えから脱却しようとする努力だともいう

そして、そのような努力・戦いを命じたのは我々を超えた超人間的なものだという

宗教的態度における純我(純粋思惟の立場にある)においては、自らの悩みを意識し、それを否定しようとする

それは、否定態(悩みを意識していることを言うのか)をさらに否定しようとする純我であり、主客未剖の純我に帰ろうとする純我の努力である

その境地は主客合一・自他融合・無我であり、一切衆生の悩みを摂取抱擁した仏であり、万人を平等に愛する神だという

真の宗教的生活においては、我と神との間にいささかの間隙を許さず、帰依や求めや祈りもあり得ない

それは神の生活という言葉も絶した絶対者の生活である

ただ自らを見、自らを愛する絶対肯定の生活である

主客相即・自他不離の境において一切は、超神的な純愛のうちに融合統一する四海同胞なのである

神と悪魔が合体し、美と醜が抱擁し、愛と憎しみ、必然と自由も融合する

超価値的絶対界である

超美、超善、超真の絶対的太陽が現れるのである

しかし、我々の中には真偽・善悪・美醜などの価値を付け、優れた価値を追求する努力が働いている

これは厳然とした事実である

理想として超価値的絶対界が想定されるがゆえに、我々の価値追及の努力を無視するとしたらどうであろうか

論理的良心、倫理的良心、芸術的良心、宗教的良心などを高めようとする努力を蔑ろにするとしたらどうなるであろうか














2023年9月6日水曜日

出隆の「芸術及び宗教と絶対界」(1)
















暫く中断していた出隆の『哲学以前』を読み終えることにした

ただ、前回の「科学的立場における実在と真理」のつづきから再開しようとしたが、現象界に身を置いていたためか、なかなかその議論の中に入っていけない

現象界から見ると、どうでもよい議論に見えてくるのである

同様に、わたしが日頃語っていることも似たようなものかもしれないという疑念が湧いてくる

それだけ現象界とイデア界との乖離は大きいということだろう

いずれにせよ、「科学的立場における実在と真理」の後半はスキップして、その先の芸術と宗教の問題に進むことにしたい


これまで見てきた科学的立場に立つということは、一つの立場に立つ以前の純粋な経験を反省的に統一する段階に立つことである

それは知るとか考えることになるが、さらに言えば、分かつこと限定することだと著者は言う

これに対する芸術や宗教には感じるという要素があり、対象と合致、融合することである

すなわち、芸術は自らの絶対肯定(創造)であり、科学は自らの反省すなわち否定(実現)であり、宗教は否定の否定としての大肯定(復帰)であると言う

真の芸術的態度は、純なる直接的活動である

主体が対象を見聴きするのではなく(そこでは主客が分離している)、主客未剖の境における直接的活動であり、そこでは直観が働いている

自らの内なる純粋感情を直知する純粋知覚の立場に立つことであり、その活動は自らを反省するのではなく、自らの内なる現状そのままを肯定して前に進むものである

芸術家は表現することにより、直ちに見、聴き、創造する

そこで創造的に表現された真理を美と呼ぶのである


それでは宗教的態度とはいかなるものであろうか

これは聖なるもの、絶対唯一の最高実在としての神に関わるものである

芸術的実在が多元的、個別的であるのに対し、宗教的実在は普遍的であり唯一絶対であると考えられている

宗教的自覚とは、科学的自覚をさらに自覚することだという

宗教的態度と現実生活との関係は、芸術的直観の態度とは正反対である

すなわち、芸術的直観は現実的・自然的なるもの、個人的・肉体的なるもののうちにもその直下に内在する美を直観する

それに対して、宗教的生活では現実的なる存在を否定することにより、彼岸に真実在(神)を捉えようと努める

それゆえ、「自然即神」とする汎神論は宗教的と言うより芸術的世界観だと著者は見ている








2023年9月5日火曜日

科学・哲学・神学をどのようにオーケストレートするのか





これまでの歩みの中で出来上がってきた科学と哲学についての考えは、近著2冊に提示した

その考えと響き合う哲学をお持ちのジョン・レノックス博士のビデオが現れた

John Lennox | What Stephen Hawking Got Wrong

その主張は現在のわたしの考えとほとんどズレがない

ビデオに寄せられたコメントもそれを膨らませてくれる



これから科学・哲学・神学がわたしの中でどのように絡んでくるのか

あるいは、どのようにそれぞれを取り込んで新しい知のあり方を提示できるのか

それがこれからの大きな道になりそうだ

振り返れば、当初のアイディアは「科学の神学・形而上学化」(théologico-métaphysicalisation de la science)であった

やっと初めの考えに戻ることができるようになったとも言えそうである

ご参考までにレノックス博士のビデオを上に貼り付けておいた














2023年9月4日月曜日

新しい週のはじめに


























まだ地上の世界の余韻が残っているが、新しい週が始まったという感覚はいつもより強い

今日は、旅の空で意識の上って来た2冊の本を探すところから始まった

いつもは苦労するのだが、今回は比較的短時間で見つけることができた

これから読み直して参考にすることになる

また、やるべきこと(プロジェと言った方が抵抗は少ないのだが)を整理した

これまでもぼんやりと頭にあったものが、この旅でより明確な姿になってきたということになる

頭の中がスッキリしてきたので、いろいろ動きやすくなってくるのではないだろうか

ここで言う動きは精神的な領域に限らず、身体的な側面にも及びそうである

このような予感はこれまでになかったことである

まだ意識のレベルが現象界に近いところにあるからだろうか

意識が再び以前のレベルに戻るまでにどれだけ時間がかかるのか

その時、上述の動きが身体に及ぶものとして残っているのか

興味が湧いている










2023年9月3日日曜日

8月を振り返って



















8月後半は旅に出たが、本日無事に帰宅した

いつものように、出る前に想像していたものとは大きく違う景色が展開した

出る前は言ってみれば意識の底から上の世界を望むという状態であった

それが、外に出て人とお会いすると、上の世界に出て同じ平面で見ることができるようになる

景色が変わるのは当然とも言えるだろう

以前にも触れたが、意識の深さが減少し、上にある現象界に対応する意識の割合が増えてくる

そんな中、今回も行動に向けたいくつかのアイディアが浮かんできた

これから整理しながら少しずつ手を付けていくことになるだろう

これらのアイディアは、ちょっとした言葉が引き金になることが多い

出会った人のものであったり、現象界に近いところで触れる文字であったりと様々である

これは3月にも経験したことで、その時のアイディアは今回の旅に出るまでのプロジェになった

今回のものはどのような展開を見せるだろうか

この先、想定外の景色を見たいものである






2023年9月2日土曜日

杜の都で旧交を温める















今日は仙台で、その昔お世話になった田村眞理先生、島礼先生ご夫妻と旧交を温める会があった

コロナがあり、会が計画されては延期になるということを繰り返していたが、3年目にしてそれが実現したことになる

いつもの通り、各種ビールを片手に愉快な歓談のひと時となった

田村先生は退職後臨床家として仕事を始めてからすでに10年、島先生は昨年春から臨床の現場に入られたとのこと

頭が下がる

近況をいろいろと伺ったが、人の命が交差する現場はなかなかストレスの多いところではないかと想像する

両先生ともこれからどのような道を歩まれるのであろうか

わたしのようなプー太郎生活も悪くないとは言ってみたが、理解を超えるというご様子であった

また機会があればお会いしたいものである



Youtube の話題を1つだけ

その昔、荒木一郎の歌で聞いたことがある『空に星があるように』が高橋真梨子の歌で流れてきた

なかなかのいい雰囲気に変わっている

別の曲として聴いていたのかもしれない

以下に貼り付けておきたい











2023年9月1日金曜日

高尾山薬王院でデジュネ














今日は久しぶりに全身を使う汗びっしょりの一日となった

ランドネがご趣味の古い友人のアイディアで高尾山に上ることになった

友人は下から苦も無く上られたようだが、わたしは途中リフトを利用させていただいた

しかし、リフトの登り口までが急階段で息が切れる

それだけではなく、リフトを下りてデジュネを予定していた薬王院までがまたまた急階段で嫌になる

ランドネの専門家によると、あの程度の階段で息をあげているようでは普段の運動不足が見えるようだとのこと

お説ごもっとも

後で分かったことだが、高尾山には毎月のように上られているとのこと

幸い薬王院の精進料理が素晴らしく、量もそれなりにあり、疲れを癒してくれた

この食事を出すのは今日が(コロナ後?)初日とのこと

予約している人は他の一組だけで、静かな環境で食事を堪能することができた

食後、九字撫木という儀式?があった

九字撫木と書かれた小片の表に氏名を書き、裏に体の悪いところを書く

それから悪い部分をその小片で撫でると良くなるということらしい

その小片はこれから護摩焚きにされるとのことであった

薬王院を出て、帰りはケーブルカーで下り、TAKAO 599 Museum のカフェでわたしにとってはきつかった一日を振り返った