今日は「洞窟の比喩」の項を読むことにしたい
井筒によれば、純正なる神秘主義が起こるところ、必ず向上道と向下道、観想面と実践面とが同時に強調されるという
洋の東西を問わず、である
プラトンにおいても例外でないことは見てきたが、ここで「洞窟の比喩」によって神秘道の全体を鳥瞰することにしたい
有名なお話なので、詳しい説明は必要ないだろう
上図のように、洞窟の突き当たった下には、囚人が生まれながらに拘束された状態でいる
彼らは後ろを振り向くこともできず、後ろにある火によって壁に映し出される影絵を眺めるだけである
それが彼らの全世界であり、真実の世界である
これが感性的世界に生き、そこで満足している日常的人間の状態で、無知の境遇とされる
この第一段階の後、第二段階に入る
囚人は解き放たれ上に向かうが、そこで目にしたものが真実だと伝えられても壁に映っていた像の方がはるかに実在的だと思う
第二段階が失敗に終わった後、さらに困難な洞窟の外に出て太陽の下の世界を眺めさせる第三段階が待っている
囚人の眼は徐々に光に慣れ、地上のものを識別できるようになる
さらに太陽を見るようになり、すべての原因が太陽にあったことを認知する
それが幸福感を齎すことになり、洞窟にいる仲間を憐れむ気持ちさえ浮かぶようになる
ここまでが、感性界からイデア界に上昇する過程を描いていることになる
その切っ掛けとなる全人間的方向転換は、鎖に繋がれ前しか見ることができなかった人間が後を見てそちらに歩いて行けるようになる過程として表現されている
そしてプラトンによれば、超越的存在者を証得すべき超越的能力とそのための器官(霊魂の眼)が人間には具わっているという
イデア界に到達した人は、その状態で悠々自適したいと願うのは当然である
しかし彼はそこに留まることは許されず、俗界へ下降させられなければならない
洞窟の奥に降り、そこで超越的生命の中心として働かなければならない
彼には同胞に奉仕すべき神聖なる義務が残されているのである
往きて還ることによりプラトン的哲人の人格は完成するが、それ以後の西洋神秘主義はその精神を裏切ったという
以前に、このことについて触れていたことを思い出した
井筒俊彦によるプラトンの神秘主義と「科学の形而上学化」(2023.4.8)
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