このところの感じ方が以前とは違っていることに気づいた
以前は、自分は天空にいて現象の下界を見下ろしているという感じであった
ところが最近は、海底のような意識の底で普段は暮らし、地上の現象界に触れるために底から浮き上がるように旅に出るということを繰り返していたようである
天空にいた時も意識の深いところで暮らしていたわけだが、底にいるよりは明るい気分で過ごすことができた
これはおそらく、現在の日常に自分の根となるものが溢れているため、どうしても天空にいるとは思えないためではないか
例えばフランスに行けば、わたしにとって現象界として根付いたものがなくなるため、容易に天空に身を置くことができるのだろう
さて今日もハイデガーを読むことにしたい
第1講義は「我々は考えようとした時、その意味を知ることになる。この試みを成功させるためには、我々は考えることを学ばなければならない」で始まる
その学びに入ることにした時点で、我々はまだ考えることができないことを認めたことになる
しかし、人間は考えることができる存在だと言われる
理性(ratio)は思考の中で進化する
理性的動物である人間は、そう望めば思考ができるはずである
でも、できないかもしれない
そこには可能性があるだけで、保証はないのである
なぜなら、我々はしたいと思うことだけをすることができるからである
我々の本質的な存在に向かう何かにだけ、我々は真に向かうのである
我々を本質的な性質の中に留めるものが、我々を長きに亘って支える
我々を支えるものに我々はしがみついているからである
それを記憶から手放さないことで、我々はしがみついているのである
記憶とは考えの集合である
何の考えかと言えば、我々を支えているものについての考えである
それが思考されなければならないものであり続けるがゆえに、我々は考えるのである
思考には考え直すという才能がある
それは思考すべきことがあるからこそ与えられる才能であり、そのとき初めて我々は考えることができるのである
つまり、こういうことだろうか
我々を支えるものの記憶が思考されねばならないものである時、我々は考え、考え直すことができる
わたしのフォルミュール「考えること=考え直すこと」が現れた
これは少なくともハイデガーまで遡ることができるということになる
それから、記憶は考えの集合であり、それは思考の対象でもある
思考するに値する記憶があるかどうかが、思考の質も決めるということなのだろうか
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