ここ数日、井筒俊彦の『神秘哲学』にあるプラトンについて読んでいた
著者30代半ばの作のためか、熱いものが迸り出ている感がある
それを冷ますには、ある程度の時間が必要であった
ということで、これから印象に残ったところを書き出しておきたい
常識的な人間にすれば、感性界の多彩な生命に満ちた世界に比べ、超越的イデアの世界は灰一色の抽象的な世界である
人間精神によって作り出された生気なき枯物にしか見えない
目の前にいる実際に触れることができる個々の人間ではなく、人間それ自体というような普遍的なものなど幻影に過ぎないのである
人間の認識能力(自然的認識力)はそもそも、個物の世界を見る時にのみ焦点が定まるようになっている
したがって、主体は地上に留まっているのに客体が抽象性を増して上空に昇っていくと、最早認識できなくなる
それを認識できるようになるためには、普遍性に合わせたレンズを整えなければならない
それができるようになると、対象が普遍的になればなるほど抽象的になるのではなく、寧ろより具体的になるという
そこで目にするのは「有の究極」なのだが、人間の自然的認識にとっては「無の極限」なのである
この「有の究極」こそ、ソクラテス以前の哲人が「一者」「存在」「神」と呼んだものであり、プラトンが「善のイデア」と呼ぶ絶対的存在者なのである
ここに見られるように、有として存在しているのだが認識できないものを有たらしめることこそ、プラトンの神秘道の根本使命だという
日常的人間にとっては感性的領域においてのみ成立する認識を徐々に存在の全領域に広げ、最終的には至高の存在領域に至るのがプラトン的体験なのである
そこから全存在界を俯瞰する雄大なる光景こそ、プラトン哲学が齎すものなのである
プラトン哲学=イデアリズム(イデア論)として一つの思想的立場を記憶に留めるだけでは、プラトン哲学を理解したことにはならないということだろう
自らがプラトンが言う道を歩まなければならないのである
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