2023年8月31日木曜日

出隆の「科学的立場における実在と真理」(1)















前回までのところを纏めれば、以下のようになるだろう

知識や経験が真理と呼ばれるためには、その基礎に命令的、理想指示的な当為が仮定されている

当為という論理的良心の要求が基礎に立つことで真の認識になるのであり、模写説のように真なるものが客観的に実在するのではないことになる

これを模写説に対して、構成主義の真理観と呼ぶことにする

そこで問題になるのは、当為とは何なのかということである

当為とは、何かを真なる知識とするための基礎的予想で、それぞれの真理はそれぞれの当為を仮定している

各学問領域における真理は、その領域における当為を仮定している

普通、真理は仮定などのないものと思うだろう

そして、真理は唯一絶対であると主張したいだろう

著者はこれを、存在という太古からの謎を解かんとする我々形而上学的動物に共通する要求だと見ている

それはそれぞれの立場や仮定の上の諸真理ではなく、立場以前の真実在、世界や人生における真相を捉えようとする努力に繋がる

現象的実在から本質的実在に向かうのである

この無仮定として求める真理は偽に対立する真理ではなく、真偽以前の真理(真実在)、さらに言えば、絶対的真理とされるものではないかと著者は言う

それは真偽を超越したものであり、我々の要求に基づいた真理という意味で、我々が構成したものである


ここで、実在という概念について考えてみよう

絶対的真理として求められる真実在は、一切の立場から離れ、真偽の区別も超越するものである

真偽の別がないとすれば、それは真の実在とは言えないだろう

以前にも触れたが、我々とは独立に在るものは実在し、それが確かめられない幽霊のようなものは実在しないと言われる

ただ、その個人の心理においては実在していると言えないだろうか

それは、美なるもの、聖なるものについても当て嵌まるのではないか

このような考え方を絶対的真理にも適用できないだろうか


さらに、構成とは何を意味するのだろうか

著者は、実在を模写するという考え方を捨て、我々の主観が採用する立場によって構成されるのが実在であると考えている

真実在と言われるものは立場以前の主客未剖の世界であり、我々が普通実在と言うものは我々が経験し認識した何かで、真実在とは異なっている

我々は客観界をそのまま認識・経験するのではなく、何ものかを客観界として認識・経験するのである

ある立場に立っているから現れるものであり、当為の要求によって現れたものである

それが構成されるという意味であり、新たに創造されたものと言ってもよいだろう

ただ、この主張は個人的な要素が前面に出ていると受け止められ、独我論ジョージ・バークリーの唯現象論などと誤解される可能性もある

ここではそうではないとだけ言っておこう






2023年8月30日水曜日

出隆の「真理について」(2)



















昨夜も免疫学者との会食があった

拙著『免疫から哲学としての科学へ』についての感想から話が始まった

日本人は広く統一的に見ることが余り得意ではないという認識をお持ちのようで、それはわたしのものとも重なる

いろいろなものを指標に、研究対象の特徴を特定したりすることには長けている

例えば、ある病気に関連する遺伝子を同定するというような種類の研究

しかし、やっていること、行われていることを支える芯のようなものに対する思索がないようなのだ

哲学的思考に弱いということになるのだろうか

これは科学に限らず、政治や社会を見ていて感じることの一つである

科学の研究者は特に若い時には狭い範囲に絞ってやることは悪くはない

逆に、余り広く考えすぎると研究を進められなくなる

しかしある程度の年になると、全体を統一的に知りたくなるのではないだろうか

そういう欲求に拙著はある程度答えられるのではないかという評価であった


ということで、本日も昨日の「真理について」のつづきに当たりたい

真理は、判断する側がそう考えなければならないと認めるものとするという主張だが、判断には理性的ではない要素が入ってくる

そこに誤謬があるかもしれない

万人が認めるからといって、それを真理とできるであろうか

このような事実的普遍妥当性に対して、すべての人が認めるべきものという意味の理想的普遍妥当性を唱える流れが現れた

それは Sollen(当為:当にかく為すべし=それ以外であってはいけない)の哲学で、Müssen(自然のままに然あること=Sein 以外ではあり得ない)の哲学に対するものである

真理とするには、そこに理想的な価値がなければならないと考えることだろうか

著者は次のような今に通じる例を出している

ある官吏が上司から「わたしのために偽証せよ、さもなくば首にする」と言われたとする。その官吏は家庭のことなどを考え、偽証するかもしれないし、世間はそれを仕方がないと言うかもしれない。しかし、それ以外の道はないのだろうか。もし彼が偽証するくらいなら乞食になってもよいと考える人であれば、別の道が生まれる。人間は食わざるを得ない必然性を持っている一方、内心の道徳命令を聞く動物でもある。

ミュッセンの意味での必然、それは外部から強制され束縛され運命付けられた被制約的状態で自然必然性と呼ぶ

これに対するゾレンの意味での内的命令により決められた必然は、自らの理想的要求が自らの現実に課す命令的拘束の状態で、理想的必然性と呼ぶ


多数の人が承認しているから真であるとするのは多数決主義になる

勝てば官軍にも通じる精神で、それで真偽を決めるわけにはいかない

予言者故郷に容れられずで、真理が少数者の中にあることも稀ではない

真理の基準として挙げた普遍妥当的という特徴は、万人が承認している事実という意味ではなく、理想的に万人が承認すべきことという意味ではければならない

地動説が真だと言うのは、大多数が認めているから真なのではなく、天文学的に忠実であろうとすれば、必ずこのように思惟し承認すべきであるという意味において真なのである

つまり、このように思惟すべしという論理的良心、すなわち当為が真理の基礎にあるのだ







2023年8月29日火曜日

出隆の「真理について」(1)



















昨日から大阪に来ている

昨夜は現役時代にお世話になった免疫学者との会食があった

拙著『免疫から哲学としての科学へ』はすでにお読みいただいているかと思ったが、スラスラとはいかないとのことでまだのようであった

ただ読了部分については、いろいろな問題点が指摘された

特に興味を惹かれたのは、アジュバントに関連した自然免疫の問題と免疫記憶という現象だったとのこと

アジュバントに関しては免疫学者の思考の枠外に置かれていたため、長くその意味は考慮されることがなかった

それを思考の枠内に入れて深く考察したのが、ジェーンウェイというアメリカの免疫学者であった

また、免疫記憶の実態は話をすればするほど見えなくなり、まだまだ謎が多いことが明らかになる

我々免疫学者は、教科書に書かれてあることを読み、それをそのまま受け入れ前提とするところがある

これは他の領域でも同じだろう

しかし、実際にはよく分かっていないことが稀ではない

その点を意識するためには、「それは本当な何なのか?」という根本に迫る哲学的問いを改めて出すことが重要になるだろう

拙著では、新たな枠組みを作った人の共通点として、免疫学のイニシエーションを受けていないことを挙げた

つまり、そのような前提から自由な人が新しい世界を開く可能性が高いということを強調したかったからである

拙著は、これまで免疫学をやって来た人が頭を整理したり、免疫学を大きな視点から見直す上で欠かせない本であるとの評価をいただいた

特に経験を積んだ専門家には一度手に取っていただきたい本である



さて本日も『哲学以前』のつづきで、「真理について」考える

一般的には、科学的知識だけが真理であり、客観的な実在を示すと考えられているようである

しかしこれまで見たように、宗教にも真理があり、科学が示す実在とは違う実在があるかもしれない

ここで、真理とか実在ということについて考え直すことにしたい


ある「もの・こと」がある立場に立てばAに見えるし、別の立場からはBにも見える

そのどちらかとも決められないということがある

これは真理が1つではないと言っているようでもある

これに対して、真理は1つであるという考え方もある

著者はこの違いをこう説明する

それぞれの立場に現れる世界、すなわち「現象」「表象」が前者で、立場のいかんにかかわらず我々の外に客観的に厳存するところのもの、すなわち「本質」「実体」と呼ばれるものが後者である

普通、真偽の区別は、心に現れるもの=表象と、外界に実際に存在するもの=実在とが一致する場合に真とし、違っていれば偽としている

これは模写説と呼ばれ、常識に植え付けられている見方だが、これをそのまま主張する学者はほとんどいないという

まず、表象が外界の実在をそのまま写しているとはとても言えない

歴史的知識や自然科学の記述なども対象をそのまま複写しているわけではない

模写説以外にも新実在論プラグマティズムによる真理観があるとしているが、ここでは詳説されていない

著者は模写説に対立するものの中で理性主義を取り上げている

模写説が経験的な実在を基準とするのに対して、これは判断する側の理性的思惟を重視する

すなわち、何人もこのように考えなければならないとされる場合に真理とするという立場である






2023年8月28日月曜日

科学と宗教をどう考えるのか



昨日のポストに関係する議論の大きな枠組みが分かるビデオが現れたので、上に貼り付けておいた

宗教の問題には科学者の大部分は足を踏み入れないようにしているように見える

その中に、宗教はナンセンスだと声高に唱える人もいる

その一方で、神を信じ、その立場から発言している科学者もいる

全否定と全肯定の間にはいろいろなニュアンスをもった考えがあるようだ

このビデオは科学と宗教の問題を考える入口で参考になりそうである


昨年、この問題に関連するエッセイを書いたので、こちらも貼り付けておきたい

「科学と宗教」を考えるためのメモランダム(医学のあゆみ 280: 184-187, 2022)
Memorandum for reflecting on “Science and Religion” (Journal of Clinical and Experimental Medicine 280: 184–187, 2022)

 






2023年8月27日日曜日

出隆の「宗教的態度」

































まず、宗教と哲学が求めているもの、それぞれの対象は何なのか

哲学は、物自体、実体、根本原理などと呼ばれるものを求め、宗教は神聖なるもの、全知全能なるもの、永遠無眼なるものを神とか仏と呼んで求めている

いずれも世界や人生の根本問題について、人間の形而上学あるいは宗教的要求を満たすべく、最終統一者を対象にしていると出隆は見ている

対象に関しては両者の間に共通点もあるが、その態度は大きく異なっているという

宗教の場合、対象に自己を没していくが、哲学の場合には冷静に批判的に反省する

また、宗教の場合は結束する傾向があるが、哲学は個人的に活動することが多く、宗教に対しても批判者となることがある


宗教の宗派は数えきれず、それらを纏めて宗教の定義や本質を明らかにするのは宗教学や宗教哲学に任せる方がよいだろう

ただ、宗教的なるものについて考えを巡らせることは重要だろう

宗教的関係は神と人との間に結ばれるものであるが、そこに至る欲求は今の状態よりも良い生活、あるいは限りない生命を願う心で、それが宗教心だという

より良きものを求める心はあるが、現実の世界はそれを実現させてくれず、自らの小ささを痛感する

そこから、永遠無限な超越的存在に合しようとする「絶対者に対する純なる帰依の情」が生まれるが、それが宗教的関係だという

超越的な関係を内在的な関係にすることである

これに対する哲学は、客観的冷静の中で我と世界との関係を根本から知的に考察する態度だという


ここで、科学的尺度で宗教における神の創造や奇蹟の信仰について判断することについて触れている

これらの現象は科学の立場から不可解であり、虚構であり、迷信だと言われる

著者によれば、これらのことは知的分析を離れた宗教的純粋感情の立場でのみ、客観的、普遍的意味を持ってくる事実だという

理知を排し理知に反するのではなく、理知を超越した真の知であり、それは目や耳などを介する知覚ではなく、宗教的心情で捉えることだという


哲学は科学に対して科学批判の側面を持っているが、宗教に対しては宗教の自己反省という側面がある

それは全人格的反省であるため、哲学者としてとか科学者としてという限定を付けることは不都合である

人間は「・・・として」というところから自由な人格を持っているからである

科学者がそうであるように、哲学者が信仰を持っていた例は稀ではない

プラトンのイデア界においては道徳も宗教も芸術も合致していたのである









2023年8月26日土曜日

人との接触が増えると意識の底が浅くなる?















昨日、おそらく10年以上お世話になったメガネのヨロイの部分にヒビが入っていることに気づいた

本日、新しいものを求めて何軒か巡ることを覚悟して出かけたが、幸いにも一店目で見つけることができホッとした

1週間ほどは読書用眼鏡で過ごすことになる


現在、旅の空であるが、意識に上ることが違ってきたように感じている

普段落ち着いている時には、かなり昔のことも含めてかなり広い範囲のことが意識に上り、それについての反省が浮かんでくる

より深いところにあることが問題になるようなのだ

しかし、いろいろな方との接触が日常化してくると、意識に浮かぶ時間軸が短くなり、より現実的な問題がテーマになってくる

これが仕事をしている時の意識状態だったのだと思う

現実に対応するのに忙しくしている時にはそうならざるを得ないのだろう

そのため深い反省は後景に退き、逆に観想生活にある時には時間がかかる決断や行動が容易になる

事実、これまでにいくつかの具体的な行動計画が生まれてきた

そう言えば、5月にパリに行った時にも行動に移る過程に抵抗がなくなっているのを感じたことを思い出す

現実との距離を短くするには現在のような状況は有効なのかもしれない

もう少し今の状態が続くので、新たな決断に繋がる何かが生まれることはないのか、注意深く観察していきたい







2023年8月25日金曜日

出隆の「科学の方法と哲学の方法」



















昨日はフランスでお世話になった方とのディネがあった

もう10年以上のお付き合いになる友人ということになる

お仕事が忙しかったとのことで、1時間遅れのスタートとなった

現実のお仕事は、今社会的に要求されていることが中心になり、それをこなすことに費やされるようだ

ただ、そもそもその仕事とは?という問いには皆さん乗ってこないとのこと

個別具体的なことを効率的にやることが求められ、やや哲学的で普遍的テーマには興味を示さなくなっているということだろうか

このところブログで取り上げていることとも関連するが、それは現代社会に共通する状況なのかもしれない

昨日はフランス語が聞こえる場所だったので、こちらも参加したい気持ちはあった

だが、フランスでは思考に重点を置いていたため、そのようなトレーニングはしてこなかった

今はフランス語を話す必要がない環境にいるので、やはりトレーニングを始める気にもなかなかならない



さて本日も、出隆著『哲学以前』の緒言「科学の方法と哲学の方法」を読むことにしたい

科学の方法には、第一義的には知識を得る方法であり、二義的にはそれを科学的体系にする組織方法がある

知識を得るためには、大きく2つの方法がある

第1は、普遍的な原理から出発して、同一律矛盾律排中律充足理由律などを用い、他の特殊な知識を導き出すアリストテレス以来の演繹法である

この方法は、新しい知識を大きく広げることができない

第2は、経験的な自然科学が用いるもので、特殊な事象を集め、そこからその一切に適用可能な原理・法則を導き出すフランシス・ベーコンが主唱した帰納法である

こちらは「自然界の斉一」が前提となる

これまでがそうだったので、これからもそうだろうと言える状態でなければならない

哲学にはこのような条件を検討する科学批判の学としての側面があることについてはこれまで触れてきた

それ以外に哲学に特有の方法はあるのだろうか

著者は以下の3つを挙げる

1つは、ヘーゲルの主唱する弁証法的方法で、正反合を経て最高の真実在に至るとする

2つは、古くは神秘主義者、近くはベルクソンなどの直観的知力に基づく方法で、ものを外から見るのではなく、その中に入ってものそのままの状態を捉えることだという

3つは、フッサールなどの純粋現象学的方法で、あらゆる立場を除き去った純粋意識の立場からその状態を純粋に記述するものである

このように、科学と哲学とは方法上でも違いがあることが分かるだろう


ここで著者は、哲学者と科学者はそれぞれの領分を弁えなければならないと注意を喚起している

つまり、お互いの領域に口を出すべきではないというのだ

それから、科学万能主義が去らない現代において、科学の知識を他の領域に援用しようとする傾向があるが、それは誤りであるとしている

これまでいろいろなところに書いてきたように、前者の点には必ずしも同意できないが、後者の点には同意したい








2023年8月24日木曜日

出隆の「科学と科学批判としての哲学」(3)

































これまで纏めて「科学」という言葉で語ってきたが、実際にそこにあるのは物理学、生理学、社会学、生物学などの「特殊科学」である

諸科学には共通の根本仮定があるかもしれないが、それぞれに個有の仮定もある

この仮定や方法や原理などを纏めて言えば「立場」となり、諸科学は特殊な立場の上に立っていることになる

とすれば、哲学の任務はこれら諸科学の立場を明確にし、それらの間の関連を検討し、統一した立場を提示することでなければならないだろう

それは、そこにある最終的究極的原理を発見し、それを基に科学を分類することだという

例えば、フランシス・ベーコンは人間の知力を「記憶」「想像」「理性」に分け、これを基に諸学を分類した

ベンサムアンペールは、リンネによる植物の二名法に倣って科学の分類に応用し、オーギュスト・コントは数学を基礎に置き、その上に諸科学を階層的に分類して頂点に社会学を冠した

著者によれば、分類には無理もあるが、彼らが科学の分類を哲学の任務であると心得ていた証であるとしている

ここで問題になるのは、何を分類の原理にするのかということである

例えば、植物学という特定の領域の基準を用いることに問題はないのか

哲学はその統一原理を発見しなければならないという

哲学は、科学が主張する客観的で普遍性のある真理について批判する立場にある

その意味では、ヴィンデルバントが定義したように、哲学は価値の批判学なのである

これまでの考察からは科学と哲学の研究対象が異なっているように見えるが、本当にそうなのだろうか

哲学にもあるがままの世界や人生を知ろうとしている側面があるのではないか

つまり、科学批判としての哲学だけではなく、哲学独自の対象に対して、自らの立場を吟味しながら向き合うという哲学もあるのではないか









2023年8月23日水曜日

出隆の「科学と科学批判としての哲学」(2)




















昨日はニューヨーク時代以来の友人とのディネがあった

すでに人生終盤の過ごし方全般について具体的に考えておられるようで、彼我の違いを感じた

その他、このところの日本の低迷を科学の現場でもひしひしと感じておられるようで、何が原因なのかが問題になった

それは複合的な原因によっていると思われるので、答えを出すのは大変だろう

現象的には、個人的な内的エネルギーの発露が見られないとか、例えば中国の研究者に比してハングリーさが見られないという

社会や政治を見ていると、問題を真正面から取り上げて説明し議論するということが見られないどころか、すべてを曖昧にしたり胡麻化したりする傾向が著しい

つまり、日本人が考えていないというか、その精神が活発に働いているようには見えない

その背後には、すべての前提を自明のものとして考えているところがあるのではないだろうか

そこを疑わなければ、思考は始まらない

さらに、政府の側に国民市民には知らしむべからずという精神が沁み込んでいるように見える

それではどうすればよいのかということになるが、即効性のあるものは思いつかなかった

根本のところでは、流されることなく、本質に迫る(形だけのものではない)思考や議論が求められるのだろうが、これはまさに哲学が求めるやり方になる

だとすれば、哲学的思考の欠如が原因の根本にあるということになり、それが多くの人に根づくことが解決に繋がるのかもしれない

どれだけの時間がかかるのか想像もできない

それとは別に、中国やロシアからの研究者の受け入れやいろいろなやり取りに関する調査が入るようになっているとのこと

さらに、彼らが母国に戻ってから不条理なことが起こり、生活に影響が出ることもあったようだ

国際政治が研究の現場にも影を落としていることを知った



さて本日も出隆のつづきで、「科学と科学批判としての哲学」の2回目になる

早速始めたい


17世紀に入るが、科学と哲学は未分化な状態で、哲学は一切の科学を総括する学を目指した

デカルトホッブススピノザライプニッツなどの形而上学的体系がその成果である

さらに、人間内部の問題(人性)にも目が向くようになり、ロックヒュームは知識の性質について解析するようになる

しかし彼らは、知識された内容、経験された内容と知識そのもの、経験することを混同し、後者を捉えることができなかった

「もの・こと」を対象化する科学的手法では、主観(認識する主体で起こること)を捉えることができない

彼らは懐疑主義に陥ったのである

知識・経験の本質を捉え、真理を真理たらしめる価値を見るのに適した立場を自覚したのはカントであった

哲学の任務は科学的認識の批判学であると彼は考えたのである

19世紀に入り、真の科学は明晰に意識された仮定の上に立ち、そこに入ってくる現象を記述・説明する学と規定されるようになる

哲学は科学の根本仮定、科学的立場を批判する位置を占めるのである

対象が平凡で分かりきったように見えるものの中に不明なものを発見すると、それまで自明だったものが実は仮定だったことに気づく

それを明らかにしようとするのが、批判精神であり、哲学することだという

この場合の科学批判とは、科学が求める普遍妥当的な真理にその価値があるのかを厳密に論理的に検証することだという

今日のこのお話、冒頭で指摘した日本の状況とも重なって見えてくる







2023年8月22日火曜日

出隆の「科学と科学批判としての哲学」(1)














昨日は旧研究室のメンバーとの会食があった

参加予定のお一人はコロナの家庭内感染が疑われ、急遽欠席となった

コロナはまだそこにあるようだ

今回は久しぶりで、定年を迎えたり、今年定年という方もおられ、時が確実に流れていることを感じた

自分では年を重ねているという感覚がないので、改めて驚いた次第

院生として加わっていた2人もすでに50を迎えようかということなので、致し方ないだろう

彼らが当時参加したインドでの学会発表の思い出話などで盛り上がっていた

またの機会があれば再会したいものである

そして、皆さんの更なる活躍を願っている


さて本日も出隆の『哲学以前』に目を通したい

緒言7の「科学と科学批判としての哲学」である

まず、科学的態度とは何を言うのかだが、著者は知的な態度だと言い、情緒的なものとは一線を画し、哲学と親和性があると言う

感情というのは直接的であるが、知は間接的である

その意味は、対象を表象し、想像し、反省し、思惟した結果だということである

それでは、科学と哲学の違いはどのように考えられるのだろうか

古代ギリシアにおいて哲学は、学問と同一の範囲を占めていた

それは、神話的、宗教的解釈を離れて、純理論的、概念的に自然現象を理解しようとするものであった

現象の本質に迫ろうとする欲求を形而上学的欲求と言う

これが生まれたのはギリシアの植民地であったが、当時対象は外界にあったが、文化の中心がギリシア本土に戻る頃には、その目が内的世界にも向かうようになった

ギリシアにおける哲学の完成者としてのアリストテレスは、諸学を総括する全体の学と、それらに共通する根本原理を解明する「第一哲学」(後に形而上学と呼ばれる)を区別した

続くローマ時代には、時代の倫理的、宗教的要求に応えるべく倫理哲学、宗教哲学に重点が移り、中世に至って哲学は「神学の侍女」と呼ばれるまでになった

それは、哲学が本来持っている一切の根源に分け入る努力という側面が失われ、他から与えられたものを弁護する学に堕したことを意味した

しかし、ルネサンスを迎え、学問的思索は教会から解放され、プラトンに代表されるギリシア哲学の再生と同時に、プラトン以前の自然哲学者も復活を遂げる

その後、自然を対象にした学問(自然科学)の発展が続くが、まだ哲学と科学は明確に区別されていなかった







2023年8月21日月曜日

出隆の「立場の立場=哲学の立場」あるいは「常識と哲学」



















出隆は、哲学の立場を「立場をさらに追考(nachdenken)する立場」、すなわち「立場の立場」だと言う

それは、いろいろな立場と併せて立場そのものを反省・追考する自覚の立場であるとともに、立場以前(純粋経験)をも考察する全局的立場でもあると言う

つまり、哲学の領域として以下の3領域を想定しているようだ

1)種々の立場に関して言えば、科学的学問に対する反省批判の哲学としての科学哲学、あるいは宗教や芸術を対象にする宗教哲学、芸術哲学などがある

2)種々の立場を離れて立場そのものを対象とする原理的哲学としての一般哲学があり、その中心は認識論や範疇論などになる

3)立場以前の真の実在、世界と人生の実相を認識・把捉しようとする形而上学あるいは本体論的領域があり得る


ここで、哲学的立場といわゆる常識的立場との異同を検討しておきたい

常識とは何かを定義することは難しい

普通の人が有する知識内容あるいは判断能力とすることもできるが、普通の人とはどのような人を言うのか

著者はまず、常識は専門知、学術知に対立するものと考える

そこを流れる水と言うのに対し、それはH₂Oだと言うのが化学知だという

しかし科学者にとって、それは常識とも言えるものだろう

このような事情は他にも考えられる

とすれば、あることを知っている集団内で通じることが常識になるのか

ただ、それが学問的に検証されたことであるかどうかは分からない

検証を経た場合には正しい常識、その反対は非常識ということになる

常識はまた、いろいろな仮定を基にしているにもかかわらずその仮定を意識せず、自明のものとしている可能性が高い

科学や哲学においては、その検討が行われる


これから先は、科学的態度、芸術的態度、宗教的態度、道徳的態度などと哲学的態度との異同について考えるようである







2023年8月20日日曜日

出隆の「立場とその立場における世界」



















昨日は、科学とキリスト教との関係について研究されている方とのディネがあった

その昔共同研究をしていたイギリス人の紹介でお会いすることになった

どのような領域においても、一つの枠の中に安住したいという多数の人たちと、そこから出て異なる領域の人と交わりたいと考える少数の人たちがいるようだ

わたしは科学を出て哲学に入り、そこから科学に問いかけるような位置にいるので、興味を持たれたのかもしれない

お話はまさに異分野の人間がそれぞれの領域を探り、接点を求めようとするものになった

これからいろいろな化学反応が起こる可能性を感じる貴重な時間となった


それでは今日も出隆の『哲学以前』を読みたい

緒言の「4.立場とその立場における世界」である

早速始めたい

ここで問題になるのは、立場に現れる世界である

普通の簡単な考え方は以下のようなものになるだろう

常識的に見られたそのままの事実が我々の意識の外に多数存在し、それを一人の人間の立場から一面的に選択統一され、一つの世界を構成する

そこから諸学を含むいろいろな立場から見える世界が検討される

ある立場に立つということは、その視点から見ることを選択することである

そこで問題になるのは、ある対象はいろいろな面を持っており、一つの立場からでは捉え切れないことである

マルクスという人間と学問がそこにあるが、それを一つの立場から捉えるのは極めて難しいだろうという

特に学問の世界になると、専門外のことには口出ししないという暗黙の了解がある

例えば、科学者は価値について口を出してはいけないとして、一つの事象に評価を下すことから逃げることがある

このような事情のため、一つの事象を一つの立場から見える部分をもってその全体だと錯覚するようになる

立場ということから拙著『免疫から哲学としての科学へ』を見れば、そこにある免疫という現象をいろいろな立場から考え直そうとした試みということが言えるかもしれない


それでは、一つの事象をどのような立場から見ればよいのかと著者は問う

科学や哲学などの知的立場、情的、意志の立場、あるいは科学以前の神話的、常識的立場、宗教、芸術、道徳などからの立場もあるだろう

ただ、これらの境界が明瞭であるとは思えない

極言すれば、このような立場は無限にあるとも言えそうである

ここで著者は、立場について考えるのも一つの立場であるとして、立場そのものの検討に入るようである


 




2023年8月19日土曜日

出隆の「種々の立場、立場における真理」































今日は『哲学以前』の緒言「種々の立場における真理」について読みたい


ある事物事象を見る場合、いろいろな立場から見、考える

例えば、常識から言えばとか、科学的に説明すればとか、宗教家ならば、などの制限を付けるのはそれである

と云うことは、それぞれの立場に応じた真理があるということなのだろうか

一人の人間が、いろいろな立場に立つことも可能である

例えば、科学者が芸術家でもあり、宗教家でもあるということも稀ではない

ゲーテのように幅広い領域に関心を持つ人間も存在した

反対に、見ている方もいろいろな見られ方をしている

著者は、多くの立場に立ち多くの真理を認める人は「広い」人とし、これらの相対的真理の上に絶対的真理を捉えようとする人を「深い人」として区別している












2023年8月18日金曜日

出隆の「そのままの事実すなわち純粋経験とこれを見る立場」

































今日も出隆著『哲学以前』の緒言に当たる「立場と世界」の「2.純粋経験とこれを見る立場」を読みたい

純粋経験とはどんなものか

それは見る我と見られる対象とが区別されていない主客未剖の状態で、主客合一・物我一如の境地だという

沈みゆく太陽を見ている我と太陽との境がなくなるような状態、あるいは何かに打ち込んでいる時に時間や場所が消えるように感じなどがそれに当たる

それは表現し得ない経験そのままの状態である

思惟された内容ではなく、思惟しているそのことこそが純なるこの状態である

夕日の景色を眺めて科学的・心理的に分析するようになると、主客が分裂し純粋経験の状態から離れる

知識となるものは、純粋経験について考え、判断し、意識した(客観化された)内容である

この主客が分裂した状態から、再び主客を統一しようとするが、それが意識するということだという

意識する方向は多方面に及び、統一を生み出そうとするが、それが学問の立場になるのではないか

学問とは純粋経験に根ざす純粋思惟が諸方面に及んだ時の意識、すなわち知識の体系だと言えるだろう



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いろいろな例やメタファーを出して説明されているが、少々くどいようにも感じる

そう思っていたら、最後にカントの「そんなにまで明瞭にしようとしなかったなら、いっそう多く明瞭であったろうに」との言葉が引用されていた

この分野に入って感じていることは、書かれてあることを自分で経験していなければ、分かったような気分にはならないということである

その意味では、哲学は時間がかかるとも言えるだろう

幸い、今回の純粋経験とそれについての思惟の関係はよく理解できるものであった











2023年8月17日木曜日

出隆の「学問とは何か」



















出隆の『哲学以前』のつづきになる

これまで概論の序言に当たるところを見てきたが、ここからは緒言になるという

「哲学思慕」という序言に続く緒言は「立場と世界」と題されている

早速、その冒頭にある「学問とは何か」というエッセイを読むことにしたい


これからのいくつかの論考の中で、哲学の輪郭を示したい

その中で哲学の諸問題を捉え、哲学はなぜそれらの問題を自らの問題としなければならないかという哲学の動機を明らかにしたいという

そこで注意することは、哲学で使われる言葉——例えば、判断とか表象など――を最初から定義しようとせず、とにかくいろいろなものを読んでいく中でそのイメージを作り上げていくことだという

合点できるまで待つということだろうか

それでは最初のエッセイ「学問とは何か」に入りたい


学問を出来上がったものとすれば、一定の方針に基づいて知識や経験が選択され統一されたもの、すなわち知識体系と考えられている

とすれば、そこにある知識や経験とは何かという問いが現れる

哲学の始めには驚きがあると言ったのはアリストテレスだが、ヘルバルトはそれを疑惑であるとした

疑惑(疑念)とは、それが何かが分からない心の動揺状態だという

「それは何か」と問う何か(衝動)によって意識が分裂する状態が疑念だとも言える

それが A なのか、B なのか、あるいは C なのかが分かるまでの主客二分状態だとも言っている

すなわち疑念の解決とは、この分裂状態が知的・情的・意的に統一され、動揺が除去されることである


例えば、雷鳴を聞くという経験をしたとする

そこで起こった疑念に対して、ある人は神話的に(それは雷様が怒ったからだ)、またある人は物理的に(それは火花放電だ)解決しようとする

意識レベルの疑念については、さらに宗教的、芸術的、科学的、哲学的などの解決があるかもしれない

学問とは、このように多様な解決努力の成果の一つだという

ただ、どんなものでも学問になるのではなく、常識的なものや神話的解決はそこから除外される

著者は、学問を科学的、哲学的な解決に絞っている

その上で、それは何かという問いで動揺したところから、合理的な一つの立場で(一定の原理で)統一することにより出来上がる一つの知的体系を学問と定義している

あるいは、一定の原理によって抽出統一されることで出来上がる知識の集団と定義して、これからこの定義に修正を加えていくようだ







2023年8月16日水曜日

出隆の「哲学への要求と非難」
































今日も続けて、出隆著『哲学以前』の序言「真理思慕」の最後になる「哲学への要求と非難」を読みたい



著者は、これまでの2回で哲学の案内は終わったと考えている

ただ、ついて来られない者を捨てきれない何か(愛、老婆心)があるようだ

これまで見たように、哲学は仮定の批判であり、無仮定的に考えることである

しかし、日常生活ではそのような検討は行われないどころか、それが行われた場合には嘲笑されたり、時に危険視されたりする

古来、哲学者は社会や国家などに受け入れられず、迫害されることもあった

眼前の利害に囚われ、実利実用のみを口にし、現状に縛られているかぎり哲学は育たず、真理は消える

哲学的精神は真理思慕である

古き一切から脱却し、自由独立なる者として真理に向かう心であり、全き新生でなければならない

そのためには、周りの状況に囚われることなく一人で立つ「真理の勇気」を必要とする



日本では欧州大戦以来、にわかに哲学が需要を増してきた

それは喜ばしいことだが、市場から乞われて顔を出す御用商人のような哲学は、寧ろ哲学の堕落である

哲学が通俗化する時、哲学は利用され乱用されて、その価値は暴落する

哲学が求めるものは他人の哲学説ではなく、自ら哲学する精神であった

社交上必要な教養としての哲学ではない筈だ

それは排斥しなければならない

哲学を文化的・政治的諸問題のために利用しようとする要求もある

また、終極の世界観、人生観を哲学に求める場合も見られる

しかしそれを得るには、自ら哲学する以外に方法はないのである

つまり、いろいろな動機から哲学の中に回答を求めようとするが、既存の哲学が直ちに解を与えることはなく、あくまでも自分の何ものかを捉えなければならない



ここで哲学に対する非難について見ておこう

第1に、哲学が難解であるということ

第2に、空理空論を弄び、概念的にのみ考えるもので、人生の真には触れず、実用にも適さないということ

そして第3に、哲学には異説が沢山あり、科学のように統一された説がないこと

まず、哲学が難解であるということだが、それが古いものを破棄し、新しい真なるものを生み出すものだとしたら、普通の人には異質な世界に入ったように感じるだろう

また、日常生活では概念的な言葉が使われることはほとんどないので、その理解に困難を覚えるのも理解できる

しかし、だからと言って、すべてを理解しやすい実用的なものに置換することには著者は反対だという

難解ゆえに非難するのではなく、その中に飛び込んで理解しようとしなければならない

抽象的・概念的なるものが空理空論の目印ではないのである

最後に、哲学には異説が多いという非難だが、これは事実であろう

しかし、哲学は真理そのものを示すというよりは真理への過程であり、個々の説は個々の哲学者が産み落とした生児である

どの哲学を選ぶかは、その人にかかっている

初学者に勧めたいのは、何らかの哲学的入門書を通読した後、偉大だと思われる哲学者の原著を繙くこと

そして、自らの腹を痛める苦しい哲学的努力を通して、スピノザの言う「高貴なもの」を体得することである


ここで序言は終わる












2023年8月15日火曜日

出隆による「新生としての哲学的精神」





今日は、出隆の『哲学以前』の序論「真理思慕」の2番目の論考「新生としての哲学的精神」を読みたい


哲学という言葉の元にある philosophia には「智慧を追求し愛慕する精神」が示されている

外装がいかに変わろうが、この精神だけは哲学のものだという

それから「智慧ある者」(sophistai)に対して、智慧はないが「知を愛する者」(philosophos)と自らを称したソクラテスの中にその精神は表れている

この哲学的精神は、智慧を慕い求める愛の努力である

所有し教えるそれではなく、追究する精神であり、真理に対する切なる思慕であり意欲である

哲学的愛慕(エロス)は、プラトンの『饗宴』によれば、貧と富の間に生まれた娘である

彼女は常に豊富を求める

真理を自己のものにしようとする熱情を持っているが、富者の貪欲な知識収集でも、博識を誇るディレッタントの知識欲でもない

ソクラテスが求めたように、外から掻き集める智慧ではなく、陣痛を経て自らが発見する真の智慧である

ソクラテス自身が智慧を生み出すのではない

人が真理に至るのを助け導くのである

真理の所在を示す羅針盤である

これこそが哲学の任務だという


プラトンにとって、求める理想の真理はイデアの郷にある

霊魂はかつてそこに住んでいたが、肉体と結合して現世に降りて以来、魂にできるのはエロスをもって故郷を思うことだけである

つまり、真理に至るには感覚的、肉体的汚れを落とし、思惟だけにならなければならない

それは肉体の死を意味している

哲学が死の支度と言われる所以である

哲学的思惟の動機は、生活と思想の根本仮定と根本矛盾を発見することであり、哲学の途はその批判的統一の過程だという

既存の思想のうちに虚偽・仮定を発見し、新しい問題を提出することが哲学者の任務だと言える

ジンメルも言うように、哲学者の偉大さは彼が与えた解答ではなく、彼の提起した問題によって決せられる

つまり、哲学的新生とは、新問題を敷設していく不断の基礎工事だとも言えるだろう

ベルクソンは、哲学の見方は事物事象の核心に入りそのものと成り、共に流動しつつ考える(直観する)ことにあると言った

著者も哲学する(philosophieren)とはそんなものだと言う

自ら腹を痛めた哲学説には、その哲学者の個人的色彩が強く現れるとともに、そのような哲学的思惟にまで力づけた動機に応じた哲学体系が宿るだろう


これまで哲学的精神が何たるかを見てきたが、これから先は指導するものなしに独りで真理創造の途を登らねばならない












2023年8月14日月曜日

出隆著『哲学以前』を読み始める






日本語による哲学入門書の第2弾として、出隆による『哲学以前』に目を通すことにした

これを手に入れたのは2007年以降であることは分かるが、正確な年は分からない

ただ、これまでに読んでいないことは確かである

序を見ると1921年に書かれたことになっているので、表現が仰々しく感じるところもある

これは論文集ではなく、一般への普及啓蒙書(いかに哲学するのかを平明に示そうとした書)だという

当時も哲学への欲求が高かったようだが、哲学の社会化、民衆化は欲するが、通俗化を欲する者ではないと断っている

この点など、現代にも通じる問題になるだろう



今日は、冒頭にある「真理思慕」と題された序論に当たるところにある「真理への愛欲と知欲=知識欲」を読んでみたい

始めから、文学的というかメタフォリカルな表現に溢れている

その隙間を縫ってエキスを抽出していきたい

哲学に入った最初には迷いがあり、淋しさがあったようだ

それが何であったかと言えば、愛欲であり知欲であったという

それはアダムとイブ以来存在する原罪のようなものである

その存在は疑えば疑うほど確実になる事実であり、そこに苦悩を伴うのもまた事実である

苦悩がある故に、知識欲を放棄することも可能かもしれない

しかし哲学を欲する者は、それを宿命と受け止め、毒杯を仰いだソクラテスのように永遠にそれを飲み続ける覚悟が必要だと著者は言う

この知識欲を取り巻く状況は、永遠の闇に住んではいるが、光明の頂にまで意識を追いつめて行く闇であり、常に自己の周囲に闇を創造して行く何かである

光には到達することはできないが、それでもなお光を求める闇である

このような指摘はこれまでにもされているので、よく理解できる

さらに叙述するとすれば、淋しさや迷いのもとには何ものかを求める原始的で模索的な意志がある

相手を知ろうとする欲求がある


ここで、普通の知識欲=好奇心と真なる知識欲との区別が出てくる

真なる知識欲とは、正・善・美を理想とした論理的・倫理的・芸術的・宗教的などの「まこと」を欲するものだという

これに対する好奇心は、博識欲とでも言うべきもので、知識を単に集めて貯め込む方向にのみ進み、「まこと」を求める心に欠けるとしている

後者の知識欲は気概なき歴史家や史料編纂官に見られるもので、哲学史研究家の著者にもその要素ありと見ておられる

真の知識欲は、自らの知識を作り、破り、深めながら、より普遍妥当的な知識へと自らを高め、仕上げて行く

それは常識的な知識から科学的知識へ、さらにそこから哲学的知識などへと進むことであろう

この真の知識欲を「哲学的精神」と呼び、philosophia という言葉とともに「哲学とは何か」について、これから考えを進めるようだ












2023年8月12日土曜日

哲学の究極において求められているもの(3)


































形而上学は他の科学では満足できない2点、すなわち、統一的な理解ができないことと原理には盲目であるということを解決できる可能性がある

問題は、科学にも原理的なものがあり、形而上学のそれはより普遍的であると言うのだが、それがどれだけ確実なのかという点である

その原理は、すべてを問題として、すべてを仮定的に考えて行くものなので、実は不安定なものなのである

そう言えば、ハイデガーも本質とは確定したものではなく、常に更新されるものであると指摘していた

デカルトは『知能を正しく導くための規則』という遺構の第1則で、次のように言っている
多くの人々が、人間の風習や植物の本性や、星座の運動や金属の変質や、その他これに似たような学問の対象になっているものを、この上なく勤勉に研究していながら、しかもそれにもかかわらず、ほとんど誰も良識(bona mens)あるいは全一的智(universalis sapientia)について、考える者がないのは、全く不思議なことだと、わたしには思われる。なぜなら、他のそれらすべてのものは、ただこの智に何らかの寄与をなすことによって、尊重されるのであって、それ自体で価値をもつものではないからである

あるいはまた、

すべての学問的知識は、どれほど違った事物に向けられても、いつも同じ一つのものであるところの、全人的智(humana sapientia)にほかならない

デカルトによれば、哲学智とは、特殊科学が研究するところを超えて求める一つの統一された智ということになり、田中もそれに同意しているようである

そして、哲学は少なくともその意欲(エロス)においては、超越性の彼方に神智を窺い知ろうとするものになるだろうという

人間の仕事としての哲学の限界を自覚しながらの


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これで田中美知太郎著『哲学初歩』を読み終えたことになる

語りが学術書にあるようなものではなく、自らの思索の過程を追うような文体になっているので好感を持った

また、これまでの経験からわたしの中で固まって来た哲学観、あるいはこれからの方向性などと多くの点で重なっていることが見えてきた

その意味では驚きはなく、これまでの道を確認するような過程となった

2007年の段階でこの本を読んでいたとしても、ピンとくることが少なかったのではないかと想像しながらの読みとなった













2023年8月11日金曜日

哲学の究極において求められているもの(2)



















昨日、愛智としての哲学はよりよく生きること、幸福な生活と関係があることが指摘された

しかし同時に、幸福な生活とは何なのか、そんなものはこの世に存在するのかという疑問も出された

今回、問題なのは完全な幸福ではなく、そこにできるだけ近づくことではないかと提案される

その完全性を知るために哲学しなければならないという

この場合の哲学は、学問として厳密な学を目指すということではなく、我々が幸福になる道が示されているかどうかが切実になる

そして、それは学び教えることができるのかという前出の問題が現れる

人間を幸福にするためには政治が機能していなければならないが、賢明な政治家と暗愚の政治家を分けている徳についても同じことが言えるだろう

哲学の領域は、思想的冒険の領域に他ならない

幸福とよき生活を求める過程で現れる諸問題も冒険的要素である

そして我々は、自己の責任において幸福を求めなければならないだろう

たとえ失敗して不幸に泣くとしても、この自由を欲するのではないだろうか

つまり、選ばれた少数の指導者が準備したような幸福は望まないということである


それでは幸福への道はどのようにして可能なのか

一つの考えは、諸々の学問を収め、その科学知識を実用化すればよいのであって、神秘的・哲学的智などは必要ないというものである

確かに、学問的知識を実用化すれば、それぞれの学問がカバーする領域の外的条件は整うかもしれない

しかし、それだけで我々は幸福を感じるだろうか

それぞれの領域を超えた総合的な実用化、しかも賢明な実用化が行われなければ幸福には繋がらないのではないか

そして、そこで哲学智が必要となると思われる

ここで再び、学問的知識と哲学的智の区別が現れるのである


田中は、科学知を科学に一任するのではなく、それらを哲学が引き受けなければならないという

この場合の科学と哲学は何が異なっているのか

発見物の処理方法が異なり、特殊の論理が要求されるということなのだろうか

これまで、それは学ぶことのできない智(sapientia)としてきた

しかしここにきてそれは、単なる既存のものの発見で終わる知性の活動ではなく、すべての知識と行為と製作と、すべての事物を総合的に使用する知性最高の能力だと考えられるようになった

アリストテレスは、他の学問的知識と哲学の違いを『形而上学』の中で次のように区別している

他の学問は存在の一部を取り扱うだけで、その存在について原理的には説明しないが、哲学は特定の存在に限られず、存在一般を、ただ存在である限りにおいて取り扱い、その原理の前提を直知し、それにもとづいてその他を論証する

哲学は、内容に関しても、方法に関しても独自のものを持つ智であると言えるだろう


(つづく)







2023年8月10日木曜日

哲学の究極において求められているもの(1)
































本日も田中美知太郎の『哲学初歩』を読み進みたい



アリストテレスは『形而上学』の冒頭で、「人間はすべて生まれつき知ることを求めるものである」と言っている

このような天性が具わっているのだとすれば、愛智としての哲学は我々の本質に根ざす必然的なものになる

アウグスティヌスは『神の国』の中で、我々が存在していること、そのことを知っていること、そして我々の存在とそれを知っていることを我々は何よりも大切に思っていることを指摘しているという

このような知を愛する心が我々に確実に存在しているとするアウグスティヌスの考えに、田中も同意しているようだ

そして、単なる自己意識、単なる生存欲を超越しなければならないという

このような超越への指向こそ知の愛であり、哲学だという

超越への指向は、ソクラテスが言う「単に生きるだけではなく、よく生きることが重要だ」という言葉に繋がる

哲学の入口にあるものは、幸福論へ繋がるとも言えそうである

プラトン以来、我々は皆、幸福になりたいと願っていると言われる

哲学は我々の生活のすぐ横にあるのである



ここで、よい(幸福な)生活とはよいものをたくさん持っていることによると考えてみよう

例えば、富、権力、名誉、健康、器量、力量などが浮かんでくる

しかし、これらを所有することだけでよい生活になるだろうか

それらをどう使うのかが重要になるのではないか

それでは、正しい使用法を教えるのは何なのだろうか

そこに哲学の出番があると田中は言う

ここでも、いろいろな疑問が湧いてくる

幸福とは何なのか

それが明らかにされたとして、そんなものはこの世に存在するのか

もし存在しないのであれば、それを求めることに意味はあるのか

同様に、愛智としての哲学の存在意義も怪しいものとなるのではないか

これらの問いにどう向き合えばよいのだろうか


(つづく)











2023年8月9日水曜日

「哲学は学ぶことができるのか」(2)
































共通性を持つロゴスを介する部分は学ぶことができるが、それは知ではないということがあった

そして知に至るためには、各自が自ら悟る以外にないとされた

この2つの過程を学と知に分けてはどうかという

ロゴスを介する知の共有過程を学と呼ぶのである

ここで一つの疑問が現れる

全ての知はロゴスを介して学んだ学知なのか

そうではなく、生まれつき、あるいは慣習などを通して知っていることもあるのではないか

学ばなかったことを自ら発見して知ること(発見知)も可能ではないだろうか

ただ、そこで明らかになったことは、ロゴスを介して語ることができなければならない



ところで元々の問いは、哲学は学ぶことができるのか、であった

それに答えるためには、哲学が求める智とはどのようなものなのかを明らかにしなければならないだろう

一つの可能性として、上記の発見知――すなわち、学んだ知を乗り越えて、未だ学ばれないことを新しく知ること――を哲学の智と考えてはどうか

しかし、これは他の学問についても言えることだろう

科学の知によって我々は完全に満たされるだろうか

我々を全的に賢くすることができるだろうか

こう問うと、哲学は全一的な智を求めているが、科学は絶えず動揺している未完の状態にあるとも言える

あるいはまた、その内実が極めて哲学的な科学も存在することも事実である



ここでオーギュスト・コントの三段階の法則が出てくる

『哲学初歩』は2007年1月に手に入れただけで、読んでいなかったことが分かる

そうでなければ、フランスでコントの著作に触れて、何と残念なことを、と思うことはなかったはずだからである

田中は最終の実証的・科学的段階になることにより、何かを失っているのではないかという

それを、あらゆるものを根本から知ろうとするエロスの純真性に見ている

わたし自身は科学をやって来たので、科学をすることにより失うというよりは、科学の段階には何か欠けているものがあるという認識に至った

その結果、人間精神の第4段階として「科学の形而上学化」を想定したのだが、この段階を支えるものにエロスがあるとは言えるだろう



プラトンが言うように、原理的に不明である限り、我々は真に知っていることにはならない

田中はプラトンを引用して、次のように言う

直接に始原へ遡って、実際に畢竟の泥土の中に埋もれている精神の眼を徐々に引き出し、これを高みへ導き上げるために、これらの諸科学を転向の補助手段として用いるのが哲学である

(科学)知(scientia)に対する(哲学)智(sapientia

田中によれば、哲学智が科学知と異なっているので、その存在を否認しようとする傾向があるという

哲学智は科学知と異なっていることは明らかなのだが、問題は知性の領域において科学以外のものを認めるかどうかでなければならないだろう

もちろん田中は、科学を超えた思考の冒険を試みなければならないとしている

「科学の形而上学化」の精神とも響き合う主張である

ただ、それを学ぶことはできないのである









2023年8月8日火曜日

「哲学は学ぶことができるのか」(1)

































今日も田中美知太郎氏の『哲学初歩』にある哲学に対する考え方を見ていきたい

テーマは「哲学は学ぶことができるのか」

この点については、フランスに渡る前、自分なりに考えたことがあり、ブログ記事に残っている

 哲学を「学ぶ」とは(2007年4月19日)

その時の回答は以下のようなものであった

わたしの中ではこういうことのようだ。これまでに存在した人間が考えてきた軌跡を辿り (おそらくこの過程が学ぶということになるのだろうか)、自分と響き合うものを持った人を捜し求める場にしようとしているようだ。自らの感覚器を研ぎ澄まし、相手が放つものを捉える作業を通して、わたしの中にすでに存在している思想を生き返らせ、新たに誘発される思考を追いながら、それに陰影を加え、少しでも自分らしいものを創出できないかということになる。今ぼんやりと自分の中にある考えをより確かなものとして見えるようにしたいという強い願望があるようだ。

田中氏の見方を検討することにより、これがどのように変容してくるのか

興味が湧いてくる

それでは早速始めたい



この章の副題は、「学問的知識と哲学的智」となっている

アリストテレスも言ったように、知っていれば教えられる、すなわち、智者の条件は教えられることである

ただ、これまで見たように、哲学する愛智者は学び続けなければならない

常に智と無智の間にあり、哲学が求める智には到達できないからだ

ここで、哲学智は学ぶことができるのかという問いが現れ、学ぶことができないことを学ぶという矛盾した哲学像が浮かび上がる


知るということに関して、プラトンはこう言っている

何かの知識を持っている人は、自分の知っているその事柄について、ロゴスを与える(=説明する)ことができる

自分自身に対しても、他人に対しても、ロゴスを与えることのできない人は、それができないかぎりにおいて、その事柄を理解していないことになる


ヘラクレイトスも言っているように、ロゴスとは公共的なものである

誰にでも通じるものとしてのロゴスを媒介として語られる

ただ、ロゴスを以って語られたとしても、それが真実であるかどうかは分からない

真実性を確かめなければ、知識とはならない

ロゴス(理論)を自分で「直知的」(直観的)に確認しなければ、知識にはならないのである

語り尽くせぬものを媒介しなければならなくなる

ここで問題になるのは、すべての知においてロゴスと直知が結びついているのかという点である

両者が結びついていない場合には、学び知ることはできない

カントは、哲学の場合、ロゴスと直知は結びついていないと考えている

それ故、カントはこう結論する

ひとは決して哲学を――歴史学的にでなければ――学ぶことはできない。学ぶことができるのは、せいぜい哲学することだけである

田中はこうパラフレーズする

理論的体系としての哲学そのものは学ぶことができるけれども、哲学することは学ぶことができない

プラトンの手紙には、哲学の最も大切なところは、自分で見つけ出すよりほかに仕方ないということであり、話したり、書いたりすることにより、他に伝えることはできないという指摘がある 

理論的な構造を学んでもその哲学を知ったことにはならないということだろうか

知るということがどういうことなのかは、プラトンの『テアイテトス』でも取り上げられて以来、大きな問題であり続けている

この点については以前エッセイに纏めたことがあるので、貼り付けておきたい

 プラトンの『テアイテトス』、あるいは「真に知る」ということ(2021年3月13日)


(つづく)












2023年8月7日月曜日

田中美知太郎による「哲学と生活との関連」(2)
































実生活と哲学との関連について、道徳という点から考えてみたい

例えば、自分や自分の家族に不利になるからと言って、真実を語らないことに疚しさを感じないか

あるいは、酷い状態に置かれた人を見た時、その人を助けなければならないという内なる声は聞こえないか

そこでカントを出してきて、それらは絶対無条件の命令(定言命法)として現れると田中は言う

しかし、我々の生活が経験の世界だけに限られるとすれば、道徳を理解できないだろう

超越的な(カントの物自体、プラトンのイデアなどの)世界に馴染んでいなければならないのである

その意味では、哲学がカバーする世界が実生活においても生かされていることになる

哲学は超越的な世界に関わると言ったが、プラトンは「哲学は死の練習」であり、哲学者の故郷は「幸福者の離島」であるとした

パイドン』において魂の永遠を説いたプラトンだが、デカルトも『省察』において魂と肉体が別物であるとした

肉体は滅びるが、魂は不滅であるというところに繋がる

カントも形而上学の目的は、神、自由、不死だけであるとしている



哲学者は「幸福者の離島」に引きこもり、超越的な世界で何をしているのだろうか

アリストテレスによれば、幸福な神々がやっていること——すなわち、行為や制作することではなく、観ること(theoria)——が「徳に即しての現実的活動」で、幸福を齎すことになる

アリストテレスにとって、神々をまねぶ哲学者の生活が人間の最高の生活であったことが分かる

しかし、哲学者は離島に留まり自己充足的な生活をしているだけでよいのだろうか

プラトンは政治に関わり、国民の生活を向上させなければならないと言った

理論か実践か、観照か行動か、哲学か生活かという二者択一の乖離状態に置いたままでよいのかという問いが現れる

この問いに対して、田中は次のように言う
哲学は生活的なものから解放され、全く自由である立場を徹底させながら、その自由自足的な哲学を再び生活に結びつけるところに、哲学のもっと深い意味が見出されるのではないか

この考え方には共感するところがある

最初から哲学を社会の役に立つものにしようとするのではなく、あくまでも超越的な世界に一人で足を踏み入れ、その上で生活的な世界への関与が望まれた時にはそこに戻っていくという道筋が、自分のこれまでと重なるからかもしれない










2023年8月6日日曜日

田中美知太郎による「哲学と生活との関連」(1)
































田中美知太郎の『哲学初歩』にあった哲学に対する見方を纏めると、以下のようになるだろう

哲学とは、最も広く深い意味において、根本的に知ることを求めるもので、それは知る側の生活にも根本的な影響を与えることになる

すなわち、哲学するとはそのようなことを希求することなのである

これから、その希求が何を意味しているのか、その元になっているものは何なのか

我々の生活とどのような関係があるのか、というような問題について考えることになる



「愛智」(ピロソピア)という言葉を最初に使ったのは、ピタゴラスだとされている

ピタゴラスを迎えて対談中の支配者が彼の学識の豊かさに驚き、「一番自信を持っている学術は何か」と尋ねた

それに対してピタゴラスは、「学術の心得は自分には一つもない。ただ私は愛智者なのだ」と答えたという

さらに、愛智者とそれ以外の人との違いを問われ、彼はこう答えたと伝えられている
この世に生活する人は、3つに類別される。1つは、人生という催し物である競技会に出て賞を得ようとする人たち。2つは、そこで商売をして金銭を儲けようとする人たち。そして第3には、そこで何がどのように行われているのかを見物するためにやってくる人たちがいる。
この世に生を受けた者にも、名誉や金銭の奴隷となる者がいる一方、ものの在り方を観ることに熱心な者も僅かながらいる

これが愛智者(ピロソポイ)なのだという

つまり、愛智者とは人生において選択される一つの生き方であることが見えてくる

愛智という問題は、最上の生活とは何なのか、何が幸福を齎すのか、我々はいかに生きるべきなのか、という問いをすでに含んでいたのである



しかし、その営みは日常生活に何の役にも立たないと言われたり、哲学者を風変わりな人間として揶揄することも行われてきた

プラトンもそのことについて触れ、「若い時に哲学をやるのは悪くないが、それ以上の年になってもやっているのは・・・」とカリクレスに発言させている

この世で栄誉を得ることが最上で、哲学など男子一生の仕事にはなり得ないという考え方になるのだろう

哲学者の中には、哲学の存在を自明のこととし、狭い専門家うちの約束に従って、流行りの問題を手際よく処理するということに満足している人もいるという

しかし、なぜ世界と人生の真理を探ることに意味があるのか、哲学の存在理由は何なのかについて回答しなければならないだろう

ソクラテスもプラトンも、哲学は自分自身にとってだけではなく他の人にとっても絶対に必要であると信じていたようである

ソクラテスの哲学は知を愛求し、それによって精神をできるだけよいものにする努力であった

プラトンの哲学は政治の原理とすべきもので、それによって多くの人を幸福な生活に導くものであった

哲学者こそ、政治指導者にならなければならないという考えである

ここに、哲学に対する2つの対立する考え方――日常生活には役立たない VS. 個人や国家を不幸から救う――が現れた



ここで田中は、プラトンの『パイドン』を引き合いに出してくる

今から5年前になるが、この対話篇から広がった考えをエッセイに纏めたことがある

プラトンには、我々の感覚世界が根源的な智に至る過程を邪魔するという認識がある

哲学するためには、身体的な要素を極限まで削ぎ落し、精神だけにならなければならないのである

その究極の状態は何かと言えば、肉体の死である

つまり、死に至った時に人間は最高の認識を得ることが出来るのである

より柔らかく言えば、肉体が衰えるに従って認識の程度が上がってくることになる

そもそも哲学するためには、日常生活から離れたところに身を置かなければならないのである

その状態で、日常生活に直接役立つ成果を挙げることが出来るだろうか

寧ろその問いから離れ、哲学の使命は超越的な真善美に関わるものを積極的に希求することだと宣言することこそ、求められるのではないだろうか


(つづく)










2023年8月5日土曜日

田中美知太郎の「哲学とは何か」(2)



















今日も田中美知太郎の『哲学初歩』を読みたい


よく言われることだが、愛智を希求する者は智を所有する者ではない

もし所有しているのであれば、それを求めはしないからである

愛智者は智者ではないが、無智の者でもない

無智の者とは、自分では十分な智を持っていると思っている人間なのでそれを求めようともしない


プラトンの『饗宴』によれば、エロス(愛)はポロスとぺニアを父母として生まれた

ポロスとは、才能も資産も十分で困窮することのないことを意味し、ぺニアは欠乏や貧困を示す名前である

エロスは愛(エロス)智の精神を具え、我々を智へと導く原動力(哲学の愛を体現している)とされる

ここで注意すべきは、エロスが齎す意欲を無制限に広げるのではなく、我々自身の知性の及ぶ範囲内に止めることである

エロスは智以外にも世俗的な金銭や名誉、あるいは不確かな思いなし(ドクサ)にも向かうからである

そこに注意することにより、誤謬を防ぐことができる

節制あるいは克己心が求められるのである


プラトンの『パイドロス』に以下のような言葉があるという

ひとり智を愛し求める哲人の精神のみが翼をもつ。なぜならば、彼の精神は、力のかぎりをつくして記憶をよび起しつつ、つねにかのもののところにーー神がそこに身をおくことによって神としての性格をもちうるところの、そのかのもののところにーー自分をおくのであるから。人間は実にこのように、想起のよすがとなる数々のものを正しく用いてこそ、つねに完全なる秘儀にあずかることになり、かくてただそういう人のみが、言葉のほんとうの意味において完全な人間となる。しかしそのような人は、ひとの世のあくせくとしたいとなみをはなれ、その心は神の世界の事物とともにあるから、多くの人たちから狂える者よと思われて非難される、だが神から霊感を受けているという事実のほうは、多くの人びとにはわからないのである。(藤沢令夫訳) 

 

節制や思慮分別が重要だからと言って、それがエロスをかき消すようになるのは避けなければならない

分別くさく、人間のすることはもう分かってしまっているというような態度は愛智者とも哲学とも無縁である

我々は真善美に素朴で熱烈な愛を捧げなければならない

そうする時、我々の魂には翼が生え、彼方へと駆り立てるであろう

また、愛智のうちには、突進・飛翔と抑制・節制が同居していることも見えてきた

哲学という概念は決して安定してはいないのである

 






2023年8月4日金曜日

田中美知太郎の「哲学とは何か」(1)





今日も田中美知太郎の『哲学初歩』を読み進みたい

第1章に当たる「哲学とは何か」を読み、自分の考えと比較検討したい

最初に言葉の問題が指摘される

古代ギリシアの「ピロソピア」という言葉は、「知を愛すること」という普通の言葉との関連において理解できるものである

それに対して、明治期に西周が考案した「哲学」という言葉(最初は「希哲学」とされた)は、日常の言葉とは関係がないので何を指しているのか理解できない

ピロソピアという言葉から、この営みの根底に旺盛な知識欲がなければならないことが分かる

知識とは何かは一大問題なので取り敢えず横に置き、日常的に言われる知識を軽蔑・無視する社会に哲学は生まれないし、学問探求の精神を持たない人や知識を手近な目的への手段とするような人は哲学とは無縁である

先日もヘラクレイトスの言として引用したが、「智を愛し求める者は、実に実に多くのことを探究しなければならない」のである

また、東洋にも古代ギリシア人が語った知(人生観や世界観)と重なるものがあるが、その背景に「もの・こと」の根本から知ろうする愛智探究の精神がなければ哲学ではないと言っている


ところで、いろいろなものを見聞し、知識を蓄えて喜んでいる者は哲学者ではないという

愛智者の中に本物と偽物がいるというのである

真実の愛智者は、真実に在るものを知ろうと希う者で、自分の思惑(ドクサ)や思いなしの中で暮らしている者ではない

それでは、具体的にどのような人を我々は智者と考えるのだろうか

アリストテレスは『形而上学』(第1巻第2章)で次のように言っている

全体に亘って知っている人、分かりにくいことを知っている人、厳密性のある知識を持っている人、教え説明できる人などである

そこで求められているものは、根本原因、第一原理についての普遍的抽象的な知識ということになる

学校での哲学は哲学教師を作り、大工仕事を学べば大工になり、医学を学べば医者になり、法律を学べば法律家になる

しかし、我々が第一原理についての普遍的抽象的な知識を学ぶと、一体どういう人間になるのだろうか

それは絶対的な智者になること、全人的に賢くなることを希う人間になることだと田中は言う

もう少し具体的に言うとどうなるのか

そういう人間になるためには、眼前にあるものを考えることなく真実の姿だと思うのではなく、真の実在に向けて自らの眼と魂全体をそこに向け直すこと(回心)が必要になる

客観的な知識と主体的な智が一致することが求められるのである


(つづく)








2023年8月3日木曜日

田中美知太郎著『哲学初歩』を読む
































日本語の哲学入門書を読んでみることにした

哲学に興味を持ったのは、フランス語でものを読むようになったからである

わたしにもごく自然に思考に入っていくことができる空間がそこにあったからではないかと想像している

言葉を変えれば、書いている人が思考していることを感じ取ることができたということだろうか

それならわたしにもできそうだという感触となって伝わってきたのである

日本語の本からはそれを感じられなかったとも言える

促されなかったのである

2007年にフランスに渡ってからすでに16年が経っている

この時期に日本語による哲学入門書を読み直して、印象の変化について考えることにした



まず、手元にあった田中美知太郎著『哲学初歩』(1950)を取り上げることにする

岩波現代文庫から刊行された2007年1月に手に入れたものである

「はしがき」には、次の言葉がある

不正確な歴史展望と、勝手な歴史批評にもとづいて、何か最新型の哲学的立場を、読者に提供したりするのも、本書の任務ではない。そのような哲学評論は、学会消息通の自己満足にはなっても、哲学とは何の関係もないことを知らねばならない。・・・ギリシア以来の本物の哲学者が、歩いてきた大道について見るならば、哲学の思想はもっと自由で、明るいものであることが知られるであろう。
この中にある「哲学思想はもっと自由で、明るいもの」という言葉が印象に残る

その後にある言葉は、当時思い至ったことと重なるものがある、とのメモがあった

すぐに私たちが納得するような、今日の問題を論じた言葉だけに耳を傾けていると、私たちはいつまでたっても、自分たち自身の先入見や思想的盲点に気がつかず、自分の気に入ったようにしか、ものが考えられないで、かえって時流に乗る他の者どもに支配され、自分自身の本当に独立した考えをもつことが出来なくなるのではないかと恐れられる。そしてなお、これらの古典を翻訳によって読む場合には、他の外国語訳も併せて読む方が、理解の助けになることが多いと思われる。


 






2023年8月2日水曜日

ヘラクレイトスと智の在り方

































前ポストで、ヘラクレイトスマルクス・アウレリウスも引用しているようだと書いた

そこで『自省録』を本棚に探したのだが、ある筈のところにない

そして今日、全く別物を探している時、昨日確かめた、ある筈のところにあるではないか

最近はこのようなことが日常茶飯事になり、嫌になる

早速、神谷美恵子訳で何を言っているのか見てみたい

つねにヘーラクレイトスの言葉をおぼえていること。曰く「地の死は水になることもあろ。水の死は空気になることにあり。空気の死は火になることにあり。そしてまた逆に。」また同じく記憶すべきものとしてつぎのものがある。「自分の道がどこへ向かっているかを忘れる者。」また「人びとは彼らがもっとも絶え間なく交わっているもの(すなわち「全体」を支配している理性)と不和でおり、毎日出逢う事柄を意外なものと考えている。」また「我々は眠っている者のごとく行動したり口をきいたりしてはならない。」というのは眠っているときでも我々は行動したり口をきいたりしているように思われるからだ。またその際[(親)の倅] のようであってはならない。すなわち単に祖先から伝えられた通りにやるのであってはならない。

当時唱えられていたエンペドクレスの4元素説との関連だろうか

土 → 水 → 空気 → 火 という循環があると考えていたようだ

また、この世界全体を支配している理性(ロゴス:logos cosmique)に馴染んでいないと、日々の出来事を理解できないということか

ヘラクレイトスには「自分ではなく理性(ロゴス)に耳を傾け、万物は1つであることを認めるのが賢明である」という言葉もある

ロゴスに親しんで生きることがストア派の善であるというところと通じるのだろうか


最後にわたしの認識とも合致する言葉をヘラクレイトスは残している
智を愛し求める人(哲学的人間)は、実に多くのことを探究しなければならない。

そう言った上で

 博識は知性を教えるものではない。そうでなければ、ヘシオドスピタゴラス らにも知性を教えていただろう。


ヘシオドスやピタゴラスの知の在り方に対する厳しい批判と見てよいだろう

それは現代の知の在り方にも通じるものである