第1章に当たる「哲学とは何か」を読み、自分の考えと比較検討したい
最初に言葉の問題が指摘される
古代ギリシアの「ピロソピア」という言葉は、「知を愛すること」という普通の言葉との関連において理解できるものである
それに対して、明治期に西周が考案した「哲学」という言葉(最初は「希哲学」とされた)は、日常の言葉とは関係がないので何を指しているのか理解できない
ピロソピアという言葉から、この営みの根底に旺盛な知識欲がなければならないことが分かる
知識とは何かは一大問題なので取り敢えず横に置き、日常的に言われる知識を軽蔑・無視する社会に哲学は生まれないし、学問探求の精神を持たない人や知識を手近な目的への手段とするような人は哲学とは無縁である
先日もヘラクレイトスの言として引用したが、「智を愛し求める者は、実に実に多くのことを探究しなければならない」のである
また、東洋にも古代ギリシア人が語った知(人生観や世界観)と重なるものがあるが、その背景に「もの・こと」の根本から知ろうする愛智探究の精神がなければ哲学ではないと言っている
ところで、いろいろなものを見聞し、知識を蓄えて喜んでいる者は哲学者ではないという
愛智者の中に本物と偽物がいるというのである
真実の愛智者は、真実に在るものを知ろうと希う者で、自分の思惑(ドクサ)や思いなしの中で暮らしている者ではない
それでは、具体的にどのような人を我々は智者と考えるのだろうか
アリストテレスは『形而上学』(第1巻第2章)で次のように言っている
全体に亘って知っている人、分かりにくいことを知っている人、厳密性のある知識を持っている人、教え説明できる人などである
そこで求められているものは、根本原因、第一原理についての普遍的抽象的な知識ということになる
学校での哲学は哲学教師を作り、大工仕事を学べば大工になり、医学を学べば医者になり、法律を学べば法律家になる
しかし、我々が第一原理についての普遍的抽象的な知識を学ぶと、一体どういう人間になるのだろうか
それは絶対的な智者になること、全人的に賢くなることを希う人間になることだと田中は言う
もう少し具体的に言うとどうなるのか
そういう人間になるためには、眼前にあるものを考えることなく真実の姿だと思うのではなく、真の実在に向けて自らの眼と魂全体をそこに向け直すこと(回心)が必要になる
客観的な知識と主体的な智が一致することが求められるのである
(つづく)
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