昨日、愛智としての哲学はよりよく生きること、幸福な生活と関係があることが指摘された
しかし同時に、幸福な生活とは何なのか、そんなものはこの世に存在するのかという疑問も出された
今回、問題なのは完全な幸福ではなく、そこにできるだけ近づくことではないかと提案される
その完全性を知るために哲学しなければならないという
この場合の哲学は、学問として厳密な学を目指すということではなく、我々が幸福になる道が示されているかどうかが切実になる
そして、それは学び教えることができるのかという前出の問題が現れる
人間を幸福にするためには政治が機能していなければならないが、賢明な政治家と暗愚の政治家を分けている徳についても同じことが言えるだろう
哲学の領域は、思想的冒険の領域に他ならない
幸福とよき生活を求める過程で現れる諸問題も冒険的要素である
そして我々は、自己の責任において幸福を求めなければならないだろう
たとえ失敗して不幸に泣くとしても、この自由を欲するのではないだろうか
つまり、選ばれた少数の指導者が準備したような幸福は望まないということである
それでは幸福への道はどのようにして可能なのか
一つの考えは、諸々の学問を収め、その科学知識を実用化すればよいのであって、神秘的・哲学的智などは必要ないというものである
確かに、学問的知識を実用化すれば、それぞれの学問がカバーする領域の外的条件は整うかもしれない
しかし、それだけで我々は幸福を感じるだろうか
それぞれの領域を超えた総合的な実用化、しかも賢明な実用化が行われなければ幸福には繋がらないのではないか
そして、そこで哲学智が必要となると思われる
ここで再び、学問的知識と哲学的智の区別が現れるのである
田中は、科学知を科学に一任するのではなく、それらを哲学が引き受けなければならないという
この場合の科学と哲学は何が異なっているのか
発見物の処理方法が異なり、特殊の論理が要求されるということなのだろうか
これまで、それは学ぶことのできない智(sapientia)としてきた
しかしここにきてそれは、単なる既存のものの発見で終わる知性の活動ではなく、すべての知識と行為と製作と、すべての事物を総合的に使用する知性最高の能力だと考えられるようになった
アリストテレスは、他の学問的知識と哲学の違いを『形而上学』の中で次のように区別している
他の学問は存在の一部を取り扱うだけで、その存在について原理的には説明しないが、哲学は特定の存在に限られず、存在一般を、ただ存在である限りにおいて取り扱い、その原理の前提を直知し、それにもとづいてその他を論証する
哲学は、内容に関しても、方法に関しても独自のものを持つ智であると言えるだろう
(つづく)
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