実生活と哲学との関連について、道徳という点から考えてみたい
例えば、自分や自分の家族に不利になるからと言って、真実を語らないことに疚しさを感じないか
あるいは、酷い状態に置かれた人を見た時、その人を助けなければならないという内なる声は聞こえないか
しかし、我々の生活が経験の世界だけに限られるとすれば、道徳を理解できないだろう
超越的な(カントの物自体、プラトンのイデアなどの)世界に馴染んでいなければならないのである
その意味では、哲学がカバーする世界が実生活においても生かされていることになる
哲学は超越的な世界に関わると言ったが、プラトンは「哲学は死の練習」であり、哲学者の故郷は「幸福者の離島」であるとした
肉体は滅びるが、魂は不滅であるというところに繋がる
カントも形而上学の目的は、神、自由、不死だけであるとしている
哲学者は「幸福者の離島」に引きこもり、超越的な世界で何をしているのだろうか
アリストテレスによれば、幸福な神々がやっていること——すなわち、行為や制作することではなく、観ること(theoria)——が「徳に即しての現実的活動」で、幸福を齎すことになる
アリストテレスにとって、神々をまねぶ哲学者の生活が人間の最高の生活であったことが分かる
しかし、哲学者は離島に留まり自己充足的な生活をしているだけでよいのだろうか
プラトンは政治に関わり、国民の生活を向上させなければならないと言った
理論か実践か、観照か行動か、哲学か生活かという二者択一の乖離状態に置いたままでよいのかという問いが現れる
この問いに対して、田中は次のように言う
哲学は生活的なものから解放され、全く自由である立場を徹底させながら、その自由自足的な哲学を再び生活に結びつけるところに、哲学のもっと深い意味が見出されるのではないか
この考え方には共感するところがある
最初から哲学を社会の役に立つものにしようとするのではなく、あくまでも超越的な世界に一人で足を踏み入れ、その上で生活的な世界への関与が望まれた時にはそこに戻っていくという道筋が、自分のこれまでと重なるからかもしれない
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