2023年8月10日木曜日

哲学の究極において求められているもの(1)
































本日も田中美知太郎の『哲学初歩』を読み進みたい



アリストテレスは『形而上学』の冒頭で、「人間はすべて生まれつき知ることを求めるものである」と言っている

このような天性が具わっているのだとすれば、愛智としての哲学は我々の本質に根ざす必然的なものになる

アウグスティヌスは『神の国』の中で、我々が存在していること、そのことを知っていること、そして我々の存在とそれを知っていることを我々は何よりも大切に思っていることを指摘しているという

このような知を愛する心が我々に確実に存在しているとするアウグスティヌスの考えに、田中も同意しているようだ

そして、単なる自己意識、単なる生存欲を超越しなければならないという

このような超越への指向こそ知の愛であり、哲学だという

超越への指向は、ソクラテスが言う「単に生きるだけではなく、よく生きることが重要だ」という言葉に繋がる

哲学の入口にあるものは、幸福論へ繋がるとも言えそうである

プラトン以来、我々は皆、幸福になりたいと願っていると言われる

哲学は我々の生活のすぐ横にあるのである



ここで、よい(幸福な)生活とはよいものをたくさん持っていることによると考えてみよう

例えば、富、権力、名誉、健康、器量、力量などが浮かんでくる

しかし、これらを所有することだけでよい生活になるだろうか

それらをどう使うのかが重要になるのではないか

それでは、正しい使用法を教えるのは何なのだろうか

そこに哲学の出番があると田中は言う

ここでも、いろいろな疑問が湧いてくる

幸福とは何なのか

それが明らかにされたとして、そんなものはこの世に存在するのか

もし存在しないのであれば、それを求めることに意味はあるのか

同様に、愛智としての哲学の存在意義も怪しいものとなるのではないか

これらの問いにどう向き合えばよいのだろうか


(つづく)











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