2023年7月31日月曜日

ヘラクレイトス哲学とストア派

































数日前まで、厳寒の頃を思い浮かべながら生活していたが、わたしの想像力では太陽のエネルギーにかないっこない

外を歩くのも命懸けという便りも届いていたが、当地は昨日今日と凌ぎやすくなりホッとしている

気が付けば、今日で7月ともお別れになる

今月も日課に明け暮れていたが、その合間にヘラクレイトスに触れる機会があった

その複雑な哲学の骨格がいくつか見えてきた

その一つにこの世界に調和を齎すものとしてロゴスがあることを唱えたことは前回触れた

彼の哲学は後のプラトン、さらにヘーゲルにも影響を与えたことは見てきたが、その他にもストア派への影響も指摘されている

マルクス・アウレリウスの『自省録』にも引用されているようだ

この世界を統一するものとしてロゴスがあるという考え方と、ストア派の自然と調和して生きるのが善であるという考え方が響き合うのだろうか

かなりの広がりを持った哲学者のようである

先月には見えていなかった世界が広がっている

これからさらに広がることを期待している














2023年7月27日木曜日

ヘラクレイトスとロゴス



















ヘラクレイトスは、すべては流れと変容の中にあるとする一方、すべては対立が調和する統一の中にあると考えていた

永遠の変容はカオスとは異なり、そこに一つの統一体を見ていたようである

一見すると矛盾する2つのテーゼを唱えていたことになる

外見上は変化と動きの中にあるが、その背後に秩序があり節度をもって動いているとしたのである

その秩序を知る鍵がロゴス(λόγος)であった

ロゴスは多義的な言葉であるが、当時は大きく3つの意味があったという

第1は言説で、行動に対して語られることを指していた

第2はより限定的な意味で、算数や幾何学における計算、尺度などを指す

そして第3の意味は、論理、論理的に考える能力、あるいは理性を指していた

これは科学研究に用いられるもので、「省察」という行為と関連づけられる

この用法は紀元前5世紀以前には見られないという

ヘラクレイトスは、ロゴスの中に2つの種類を見ていたようだ

1つは普通の人間が用いるもので誤りに導きやすいもの、もう1つは研究者が用いる真理に繋がるロゴスである

その意味では、ヘラクレイトスはロゴスを世界を統一するものとして捉えた最初の哲学者と言えるのかもしれない






2023年7月26日水曜日

ヘラクレイトス哲学からプラトンへ




















久し振りの蒸し暑さを感じた一日であった

今週は小休止の時間に当たっているせいか、ブログに向き合う気になっている

また今朝のこと、これからに向けて一つのアイディアが浮かんできた

これまでもどこかにその考えは埋もれていたのだろうが、取り上げて行動に移すというところまでは至らなかった

その余裕はないと判断したからだろう

ただ、今朝は少し違ったようだ

続くのかどうか分からないが、まず始めてみようという気になったようである

新たなプロジェが始まれば、いつものようにどこかに消えていきそうではあるのだが、、


ヘラクレイトスの主要なフォルミュールとして、「すべては流れる」(パンタレイ)があった

この考えについて、アリストテレスが『形而上学』の中で師プラトンの考えとの関連で論じているところがある

若いころからプラトンは、初めにクラテュロスに接してこの人のヘラクレイトス的な見解に親しんだ、そして、ーーこの見解では、およそ感覚的な事物はことごとく絶えず流転しているので、これらの事物については真の認識は存しえないというのであるが、ーーこの見解をかれは後年にもなおその通りに守っていたからである。ところでソクラテスは、倫理的方面の事柄についてはこれを事としたが、自然の全体についてはなんのかえりみるところもなく、そしてこの方面の事柄においてはそこに普遍的なものを問い求め、また定義することに初めて思いをめぐらした人であるが、このことをプラトンはソクラテスから承け継いで、だがしかし、つぎのような理由から、このことは或る別種の存在についてなされるべきことで感覚的な存在については不可能であると認めた。その理由というのは、感覚的事物は絶えず転化しているので、共通普遍の定義はどのような感覚的事物についても不可能であるというにあった。(出隆訳)


つまり、プラトンが若い時から親しんだヘラクレイトス的な世界の捉え方によれば、感覚的世界に依存するかぎり、普遍的なものを認識することができないことに気づいたのである

「ヘラクレイトス問題」と呼ばれることもあるこの状況を前にして、プラトンは感覚的な事物とは別の存在をイデアを想定し、そこから生じる関連する感覚的事物には同じ名前を付けることになった

これは、プラトンのイデア論のもとにはヘラクレイトスの哲学との対峙があったということを意味しているのだろうか

今日も興味深いつながりが見えてきた

それが本当なのかどうか、これからも注意して見ていきたい






2023年7月25日火曜日

ヘラクレイトスの哲学とヘーゲル

































本日もヘラクレイトスについて読む

ヘラクレイトスと言えば、万物の始原(アルケー)として「火」(pyr)を見ていた

この他に提唱されたアルケーには、タレスの「水」(hydōr)やエンペドクレスの「土・水・火・空気」の4つのリゾーマタなどがある

ヘラクレイトスの哲学は「万物は流れる」(Panta rhei:パンタレイ)という2つの言葉に集約される

水や土や空気には全く動きがないように見える状態もあるが、火にはそのような状態はなく常に動いている

永続的な創造と破壊がそこにある



ヘーゲルによれば、ヘラクレイトスはタレスがそこからすべてが生まれるとした水とは違う意味で火を語っているのではないかという

始原としての火というよりは、この世界の在り様のメタファーとして火を持ち出したのではないかというのである

ヘーゲルはまた、自身の弁証法哲学の起源をヘラクレイトスに見ているという

ヘーゲルの弁証法は、1つの立場を肯定する「定立」(These)、それを否定する「反定立」(Antithese)、そしてその対立がさらに高い段階に止揚(アウフヘーベン)される「綜合」(Synthese)の3段階を経る

ヘラクレイトスは「万物は対立から成っている」「2つの対立するものが結合して調和を生み出す」「すべて存在は対立する部分の争いから構成される」と考えた

対立による葛藤が存在の根底にあり、それが更なる発展の源泉になっていると考えていたヘーゲルが、自らの思想の源をヘラクレイトスに見たとしても不思議ではない

人類の精神がこのように繋がっているのを見るのも悪くない



ところで、久し振りにヘーゲルを読んでみたが、よく入ってくるのに驚いた

これからもう少し頻繁に読みたいものである









2023年7月24日月曜日

ヘラクレイトスを読み始める



























ヘラクレイトス(c.540-c.480 BC)について読んでいる時、次のような形容に出会った

彼は孤独の中に生き、考え、瞑想し、書き、真に禁欲的な生活をし、そして
自分自身を深く探求し、分析し、知るために努めた

紀元前6世紀から5世紀にかけてイオニアのエフェソスで、60年の生涯を送ったと言われている

師につかず、弟子も取らず、隠者のように暮らしながら、自分とは何かを追求した

史上、最も孤独な哲学者と言われる

また、そのような人生からか「泣く哲学者」とも言われ、原子論を唱えた「笑う哲学者」デモクリトス(c.460-c.370 BC)と対比される



当時の自然哲学者の仕事でもあった自然についての著作を物したとされるが、現存しない

残っているのは百数十の言葉の断片だけである

しかもそれらは、曖昧で、不可解で、謎めいていると言われる

わたしが目にしたことがあるのは、例えば「同じ川に二度足を踏み入れることはない」とか「自然は身を隠すのを好む(身を隠すものである)」などである

今回読む中で、「善悪は同じである」とか「生と死は同じである」あるいは「すべてのものは対立から生まれる」という考えがあることを知った

「全ては動きの中にあり、過ぎ去り、止まるものは何もない」とする見方は、「あるものはあり、あらぬものはあらぬ。あるものは時間を超えて不変不動である」としたパルメニデス(c.520-c.450 BC)の認識と対比される

これなどは、人間の認識のあり方の代表的な対立になるのではないか

ヘラクレイトスについては、もう少し読んでいきたい










2023年7月20日木曜日

シェリングの生命哲学
































今日の午後、久し振りにソクラテス以前の哲学者について少しだけ読んだ

この秋の会で話したいと思っているヘラクレイトス(c.540-c.480 BC)だが、表面的なところは非常によく入って来た

これからどこまで深めることができるのかが、夏の終わりからのテーマになるだろう

なぜか分からないが、わたしの中では古代の哲学者はすぐそばにいる

かれらとの親和性は非常に高いようだ




さて、今日も続けてシェリング(1775-1854)を読んでおきたい


前回指摘した概念と物質との合一を理解するためには、次のことをやる必要があるという

それは、想定する被造物を理想の形で思い描き、それを手本として自然を創造した高次の神的知性を想定することである

しかし、概念や構想が行為に先行するような存在者は、物質を作成できない

彼らにできるのは、せいぜい現存する物質に形を与えること、知性と合目的性の刻印を外部から与えることくらいである

創造は、それ自身の内部において、それ自身による根源的な必然性に基づくものなのである

いかにして理想は現実とともに、かつそれと不可分に生ずるのだろうか


自然物が創造者の作品であるとすれば、そこには合目的性は内在し得ない

目的概念を持ち込むことにより、その作成者は芸術家に成り下がってしまう

合目的性を自然の中に入り込ませた途端に自然の理念を破壊してしまう

合目的性は我々の知性との関係の中でのみ有効で、有限の世界のことである

無限の創造者の中では存在論的でしかあり得ない








2023年7月17日月曜日

シェリングの有機体哲学



















本日も日課の中にあった

ただ、ベルクソン(1859-1941)について探し物をしているうちに久し振りに引き込まれ、時空を超えることになった

やはり、共振するところが多い

ものを外から見る「分析」(科学的方法)とものの中に入って感じ取る「直観」(形而上学的方法)の対比も出てきた

これを最初に読んだ時には、ものの中に入る??となったことが懐かしい

科学に対する基本的な姿勢など、驚くほど近いことを改めて確認した


ベルクソンの中でも触れられているシェリング(1775-1854)に目をやれば、「有機体の哲学」というのがある

 自然を形成しているものは機械論だけでは断じてない

有機的所産はすべて自分自身で存立している

有機組織は自分自身を産出するのであり、自分自身を起源としている

つまり有機的組織は「前進する」のではなく、無限に自己自身へと回帰し続ける

あらゆる有機的組織の根底には、ある概念が横たわっている

この概念は有機的組織そのものに内在し、それを有機的組織から決して分離できない

有機的組織は単なる芸術作品ではない

なぜなら、芸術作品の概念は作品の外部、すなわち芸術家の頭の中にあるからである

原因と結果は過ぎ去りゆくもの、姿を消してしまうもの、単なる「現象」である

しかし有機的組織は単なる現象ではなく、それ自体が客体である 

 

様々な概念を相手に戯れることが哲学であると考え、諸事物の幻影を現実のものと思い込んでいる人たちがいる

有機的組織内には絶対的個体性がある 

その諸部分は全体によってのみ可能であり、全体は諸部分との相互作用によって可能である

物質に過ぎない部分がそれとは異質な理念によって関係づけられる

それを行うのは、直観し反省する「精神」に他ならない 

つまり、有機的組織は「精神」との関係の中でしか考えられないのである

有機的組織の根底にある概念はそれ自体では実在性を持たず、物質も内在する概念によってのみ有機物なのである


シェリングは、有機的組織に合目的性を見ており、それは知性との関係においてのみ考えられるとしている

 概念と物質は不可分であり、それぞれが共に発生したと考えているようだ

 

 

 

 

 

 

 

2023年7月13日木曜日

現在の内的状況を分析する


























最近ブログに向かう時間が減っている

ブログを通して考える時間が減っているとも言える

そこで、このところの自らの内的状況について分析してみた


現在、最も重点を置いているのは日課である

一日がそれを中心に回っていて、それ以外への窓が閉ざされているように見える

2007年にパリ生活を始めてからの状況とは明らかに違っている

当時は、大きなテーマを抱えながらも、自分を取り巻く新しい環境に興味津々で向かっていた

そのため、腰を据えて一つのことに集中することができなかったのである

それが現在はと言えば、他のところに興味を示すことなく、黙々と一つのことに打ち込んでいるようなのである



これは一つの前進と言えるのではないだろうか

これまで多様なことに首を突っ込むことにより、いろいろなものが自分の中に溜まってきたはずである

それは意識してやっていたことではないが、結果としてそうなっていると思われる

その中から選んだものについて、今集中していると見ることができるからだ

その集中は、かなり深いところで安定した状態の中で行われていると感じている

非常に密度の濃い時間が流れている

毎日、小さな問題に遭遇するが、それらを自らに引き寄せて、その場で解決しなければ前に進まないと決めているようなのである

そのため、遅々とした歩みではあるがどこか安定感があるのだ

これはこれまでになかったことである

これからもテーマこそ変われ、同じような状況が続くことになるのではないだろうか

その途中に、どこに向かうのかを模索する自由な時間が広がることはあるのだろうが、、














2023年7月10日月曜日

ヤスパースによるシェリング



















このところ、日課に体を合わせながらの日々であった

少しずつリズム感が出てきて、前に進んでいるのが見えてきた

それにしても先は長い


この間、シェリング(1775-1854)の哲学をもう少し読んでみようかという気になって来た

昨年『学問論』を読み、わたしの考えと通底するものを感じ取ることができた

また、自然哲学についての著作もある

これから隙間の時間に目を通していきたい


ヤスパース(1883-1969)の言葉にこういうのがある

シェリングを研究するということは、われわれ自身をよりよく理解することを意味する。・・・われわれは、シェリングのうちに自らを再認識する。なぜなら、哲学最高の課題への、すなわち形而上学へのシェリングの飛躍が驚くほどわれわれの心を動かすからであり、・・・


「哲学最高の課題への、すなわち形而上学への飛躍」というヤスパースの言葉など、わたしを鼓舞して余りある







2023年7月5日水曜日

改めて、プロメテウス的やり方とオルフェウス的やり方の統合について

















自然に対する向き合い方として、重要になると考えていることがある

ピエール・アドー(1922-2010)が指摘したプロメテウス的とオルフェウス的という2つの態度である

プロメテウス的とは、理性や意志に基づく技術で自然と対峙するやり方で、人間のために自然を利用してもよいとする

これに対するオルフェウス的やり方は、人間を自然の一部と見做し、技術ではなく芸術や哲学による言説を用いる

この点については拙著の中でも触れているので、参照していただければ幸いである

その中で、「科学の形而上学化」とは、この2つのやり方を融合するものであると指摘した

それがより完全な知に向かうものという認識に基づいている


ダ・ヴィンチ(1452-1519)は、昼間に科学をやり、夜から瞑想に入った言われる

一日の営みの中で2つのやり方を統合したことになる

この視点からみれば、わたしの場合、人生という流れの中で2つのアプローチを統合している過程にあると言えるかもしれない

人生の前半に科学をやり、後半で哲学に入ったという意味で






2023年7月4日火曜日

環境倫理学の見方





















今日は用事があり外出

2時間ほど丁寧に説明をしていただきながら、これからの方針を決めた

それから、最近始めたばかりのメモを読み直してみた

環境倫理についての考察である

この問題について3つの視点から論じるようである

 第1は、自然の価値について

 第2は、自然の資源の管理について

 第3は、環境が抱える危機について


最初の視点については5つの見方を取り上げるようだ

 1)神中心主義(theocentrism)

 2)人間中心主義(anthropocentrism)

 3)パトス中心主義(pathocentrism)

 4)生命中心主義(biocentrism)

 5)生態系中心主義(ecocentrism)


3番目にあげたパトス中心主義は、人間やその他の動物について痛みの感じ方を中心において考える

人間と同じように痛みを感じるのであれば、その動物も同じ倫理的配慮の下に置かなければならないと考えるのである

4番目の生命中心主義は、生きとし生けるものすべてが倫理的配慮の下にあるとする

5番目の生態系中心主義は、そこに在る個々の生物の幸福ではなく、生態系全体を倫理的配慮の対象とする


これらの議論を始める前に、自然というものについての考えを明確にする必要があるだろう

しかし、自然についてはいろいろな人がいろいろなことを言っている

一つ言えるのは、そこに在る個別を見ても自然が何かは分からないということ

その意味では、メタの概念になる

この辺の事情は、免疫について解析する中で気付いたことで、『免疫から哲学としての科学へ』の中でも論じている

ある人は、純粋の自然は存在しないという表現を使っている

認識論や文化の違いによっても自然が変わってくる

多義性がある(polysemous / polysémique な)概念だと言えるだろう







2023年7月2日日曜日

『免疫から哲学としての科学へ』を英語に移す、あるいは自然の中で生きるということ

 















現在、3月に刊行した『免疫から哲学としての科学へ』を英語に直す作業中である

日本語版よりも読者層は広くなると思われるので、これまでよりも客観的に見るというか、相対化する度合いが増しているように感じる

その過程でこれまで気付かなかったことが見えてくることがある

出版社は未定だが、翻訳本になるので出版社間の合意が問題になりそうだ

ただ、いずれどこかに落ち着くことを天に任せている

当分は更なる発見があることを願いながら、この作業を続けることになるだろう



ところで、最近は1日が非常に長いのでもう大昔に感じられるのだが、昨日の夜?だっただろうか

最後の生き残りと言われる70代の鷹匠松原英俊さんと、そこに弟子入りした女子高生のドキュメンタリー『鷹を継ぐもの』が流れていた

全ての時間を動物とともに生き、自然の中に生きていた

鷹が暴れて耳を引きちぎりそうになっても全く動じない

まず、自分を取り巻くすべてを受け入れ、その上で何事も始まるという感じなのである

これこそが自然体なのだろうか

そう言えば、ムツゴロウさんも徹底して動物とともに生きたようである

ライオン?に指を噛み切られた時も全く動じなかったと言われる

他の動物とともに生きるということ、自然の中に生きるということ

それはどういうことなのか

そして、そのような生活が人間にどのような影響を与えるのか

そのことを垣間見る時間であった