久し振りの蒸し暑さを感じた一日であった
今週は小休止の時間に当たっているせいか、ブログに向き合う気になっている
また今朝のこと、これからに向けて一つのアイディアが浮かんできた
これまでもどこかにその考えは埋もれていたのだろうが、取り上げて行動に移すというところまでは至らなかった
その余裕はないと判断したからだろう
ただ、今朝は少し違ったようだ
続くのかどうか分からないが、まず始めてみようという気になったようである
新たなプロジェが始まれば、いつものようにどこかに消えていきそうではあるのだが、、
ヘラクレイトスの主要なフォルミュールとして、「すべては流れる」(パンタレイ)があった
この考えについて、アリストテレスが『形而上学』の中で師プラトンの考えとの関連で論じているところがある
若いころからプラトンは、初めにクラテュロスに接してこの人のヘラクレイトス的な見解に親しんだ、そして、ーーこの見解では、およそ感覚的な事物はことごとく絶えず流転しているので、これらの事物については真の認識は存しえないというのであるが、ーーこの見解をかれは後年にもなおその通りに守っていたからである。ところでソクラテスは、倫理的方面の事柄についてはこれを事としたが、自然の全体についてはなんのかえりみるところもなく、そしてこの方面の事柄においてはそこに普遍的なものを問い求め、また定義することに初めて思いをめぐらした人であるが、このことをプラトンはソクラテスから承け継いで、だがしかし、つぎのような理由から、このことは或る別種の存在についてなされるべきことで感覚的な存在については不可能であると認めた。その理由というのは、感覚的事物は絶えず転化しているので、共通普遍の定義はどのような感覚的事物についても不可能であるというにあった。(出隆訳)
つまり、プラトンが若い時から親しんだヘラクレイトス的な世界の捉え方によれば、感覚的世界に依存するかぎり、普遍的なものを認識することができないことに気づいたのである
「ヘラクレイトス問題」と呼ばれることもあるこの状況を前にして、プラトンは感覚的な事物とは別の存在をイデアを想定し、そこから生じる関連する感覚的事物には同じ名前を付けることになった
これは、プラトンのイデア論のもとにはヘラクレイトスの哲学との対峙があったということを意味しているのだろうか
今日も興味深いつながりが見えてきた
それが本当なのかどうか、これからも注意して見ていきたい
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