2024年3月31日日曜日

ポパーによる「プラトンの呪縛」(25)政治綱領(7)
































昨日見たような個人主義と博愛主義が結びついた思想の中に、プラトン427-347 BC)は自分の敵を見たのである

ポパー(1902-1994)はその証拠を『法律』から2つだけ挙げる

プラトンはこう語っているという
女、子供、すべての家畜や財は共有される。至る所でそしてあらゆる仕方において、私的で個人的なもの一切を生活から殺ぎ落とすために、試みられないことは何もない。可能な限り、自然そのものから個人に財として分け与えられた才能でさえ、ある意味において万人の共有財とされる。我々の目、耳そして手が、あたかも個人の身体的部位としてではなく共同体の部位であるかのように、見、聞き、そして振る舞うだろう。全ての人間は、毀誉褒貶において一致するように、また同一事について同時に喜怒哀楽を覚えるように鍛えられる。そしてすべての法律は国家を最高度の統一にもたらすために完璧に整備される。

このような国家をプラトンは、「神的なもの」「模範」「範型」「原像」すなわち国家の形相とかイデアと呼ぶのである

もう一つの例は、軍事遠征と軍事教練を扱っているところである

彼は他の全体主義的な軍国主義者やスパルタ賛美者と同じように、軍事教練こそ最重要の要請であり、市民の全生涯を規定すべきものであるとする

そしてこう書いている

すべての内での第一原理は、男であれ女であれ、何人も、いついかなる時にも、指導者なしでいてはならないということである。心が、真面目さゆえにせよあるいはただ戯れにせよ、自分勝手に動くようになってはならない。戦時においてであれ、あるいは平和の最中においてであれ、指導者に眼差しを向け、忠実に従うべきである。そしてまたどんな些細な事柄においても、指導者の導きのもとにあるべきである。例えば、起床し、移動し、沐浴し、食事を取るのも・・・ただ命じられた時にのみすべきである。・・・統制なき状態は、すべての人間の生活からのみならず、人間に仕える動物すべてからも根本的にそして最後の痕跡に至るまで取り除かねばならない。


プラトンは、知覚対象物が生成流転する世界の多様性を憎むだけでなく、個人やその自由を憎んだ

彼は、個人主義とエゴイズムを同一視し、反個人主義と無私の精神は同一であると考えていた

このような同一視は反人道主義的なプロパガンダとして成功を収め、現代に及ぶまで倫理的考察を混乱させたとポパーは見ている

プラトンの倫理はキリスト以前に達成されたキリスト教に最も近いとものと持ち上げられ、キリスト教を全体主義的であると解釈する道を切り拓いたのである

事実、キリスト教にも異端審問という全体主義的な考えに支配された時代があったので、その再来には注意しなければならない


それでは、人々がプラトンには人道主義的な意図があったと語ったのはなぜなのか

その一つは、彼が自分の集団主義的な教えを語る時、「友人というものはその持ち物のすべてを共有する」というようなことを前置きとしたことである

このような無私で高潔な考えを前提とする議論が、最終的に反人道主義的な結論に至るとは誰が考えられるだろうか

もう一つは、プラトンの対話篇(特にソクラテスの影響下にあった時期)には実際に人道主義的な考えが多く含まれているということである

例えば『ゴルギアス』に見られる、不正をすることは、不正をこうむることよりも一層悪いというソクラテスの教えは、博愛主義的であり個人主義的でもあり、キリスト教の教えとも類似している

しかし、『国家』にはこうした個人主義との結びつきがなく、全面的に敵対する新しい正義論が展開されている

プラトンは言う
わたしは国家全体にとって至上のものを目指して立法する。・・・というのも、わたしは個人の願望をまさに価値の段階において低位のものと見るからである

集団としての全体に向けられていたプラトンにとっての正義とは、集団の健康、統一、安定性以外の何ものでもないのである

相互に争う個人の要求の調整や、個人の要求と国家の要求との調整には何の関心も持っていなかったというのが、ポパーの結論である 











2024年3月30日土曜日

ポパーによる「プラトンの呪縛」(24)政治綱領(6)
































平等と不平等に関係するのが、個人主義と集団主義の問題である

個人主義という言葉には、2つの意味合いがある

第1は集団主義に対立するものとして、第2は博愛主義に対立するものとして

第1の場合には他に同義語はないが、第2の意味では、エゴイズム、自己愛などがそれに当たるだろう


まず集団主義だが、プラトン427-347 BC)の場合、個人は国家や部族や人種などの全体に奉仕すべきだという意味であった

法律』ではこう言っている
部分は全体のために存在し、全体が部分のために存在するのではない。・・・君は全体のために作られたのであった、全体が君のために作られたのではない

自らの利害関心を公共の福祉に向けられないのなら、その者はエゴイストであるという含みがある

 しかし上で見たように、集団主義はエゴイズムと対立していないし、自己利益の追求と対立するわけではない

他方、個人主義者は他者のために犠牲を払う用意のある博愛主義者でもあり得るのだ

興味深いことにプラトンにおいては、博愛主義的な個人主義は存在し得ないのである 

プラトンにとって、集団主義に取って代わるのはエゴイズムなのである

彼は個人主義をエゴイズムと同一視し、そこに攻撃を加えたのである

プラトンはなぜ個人主義を攻撃しようとしたのだろうか


アリストテレス(384-322 BC)によれば、正義とは、プラトンが望んだような国家の健康とか調和ではなく、個人を取り扱う一定のやり方である

ペリクレス(c 495-429 BC)も「法律はすべての人に対し、その個人的な争いごとにおいては同等に正義を保証しなければならない」とし、さらに「我々は、隣人にあれこれ干渉するために呼び出されていいとは思わない。なぜなら彼は自分自身の道を行こうとしているのだから」と言っていた

ペリクレスは「我々は、冷遇された人たちを守ることを忘れてはならない・・・と教えられた」と述べ、個人主義と博愛主義の結合を強調した

そして、このような博愛主義と結びついた個人主義は、西洋文明の基礎となったのである

これはキリスト教の中心的教義でもあり、西洋文明に活気を与えてくれた倫理的教義の核心でもある

「君は、君の人格や他のすべての人の人格において、人間性をいつでも同時にたんなる手段としてではなく、目的として扱え」と言ったカント(1724-1804)の中心的教義でもある











2024年3月29日金曜日

ポパーによる「プラトンの呪縛」(23)政治綱領(5)
































一昨日のこと

寝る前にテレビをつけると、以前に見たことがあるノーラン・ライアン(1947- )のドキュメンタリーが流れていた

メジャーリーグでノーヒットノーラン7回の大投手である

その番組の最後で、ライアンが発した言葉が "I was born to be a pitcher." であった

彼の場合、野球のキャリアが終わった後は余生なのかもしれない

I was born to be ... の先に何かを加えることができる人は幸いなのか

わたしの場合かなり前から、それは人生の最後にならなければ分からないと考えるようになっている

つまり、それを知るために歩むのが人生だという認識に至っているということである




さて今日もポパー(1902-1994)によるプラトン論で、平等主義の検討から入るようである

平等主義とは、国家の市民を平等に取り扱うべしという要求だとする

出生、血縁、富が法の執行者に影響を与えてはならず、「生まれつきの(自然な)」特権は承認しないということである

平等主義は、プラトン(427-347 BC)の生まれる数年前にペリクレス(c. 495-429 BC)が演説し、トゥキュディデス(c. 460-395 BC)が以下のように伝えている
我々の法は、すべての市民に対し、その私的な揉め事においては平等な仕方で平等な権利を付与する。しかし卓越性の要求を見落としはしない。ある市民が卓越した行為をするならば、その者は優先的に公職に登用される。特権によってではなくして、彼の貢献に対する褒美としてである。彼の貧困がその障害となることはない。
このような考えは、ヘロドトス(c. 484-c. 425 BC)をはじめとする当時の知識人によって表現されていたという

プラトンの正義の原則は、当時出回っていた思想に対立するものであった

彼は生まれついての指導者には自然の特権があることを主張した

平等主義者は生まれつきという生物学的な平等性を基にした議論を展開した

しかし、人間には生まれつき不平等があるので、これが平等主義の弱点になる

この点をプラトンは突いたとポパーは考えている

「平等でないものを平等に扱うことは不平等を生み出さざるを得ない」というわけである

「ひとしいものには平等を、ひとしくないものには不平等を」というフォルミュールに至るのである


それでは、プラトンが言う生まれついての特権について、彼はどのような論証をしているのだろうか

これに対して、「自分自身の仕事を気にかける」とか「自らが属する階級とかカースト内における場所や労働を保持することが正義である」と言っている

要するに、自身に属するものを維持することが正義になるのである

それから最後の論証は、集団主義あるいはホーリズムの原理を持ち出し、個人の目的は国家の安全性を維持することにあるという原理と関係する

これについては後に議論するようだ










2024年3月27日水曜日

ポパーによる「プラトンの呪縛」(22)政治綱領(4)































本日は快晴

春が早足で近づいている

久し振りにシガーに手が伸びた

日常に戻って頭を空にして、考えが流れるままにしておいた

この時間が貴重である

このところ、午前中をこのようにのんびり過ごし、午後からアトリエに向かうことが日課になっている

そろそろ来週末にあるサイファイカフェSHEのための準備を始める時期だろうか

さて今日もポパー(1902- 1994)によるプラトン論を読むことにしたい



国家』は正義についての見解が本格的に探究されている

しかし、正義が法の下での平等である(イソノミア)という見解については言及さえしていない

プラトンはそれを見落としたのか、あるいは意図的に避けたのか

当時、平等説が広く行き渡っていたことを考えると、前者の可能性はあり得ない

すでに触れたように『ゴルギアス』では、人間の平等は擁護されていたのである

プラトンの知的誠実性が問題になるとポパーは言う


正義についての人道主義的理論は、以下の3つの提案をしている

1)平等な権利の原理(生まれつきの特権を排除する)

2)個人主義という原理

3)国家の使命や目的は、その市民の自由を保護することにあるという原理

これに対してプラトンは、正反対の原理を提示する

1)生まれついての特権の原理

2)ホーリズム、集団主義という原理

3)個人の使命や目的は、国家の安全性を維持し強化することにあるという原理

これら3点について、これから論じることになる








2024年3月26日火曜日

ポパーによる「プラトンの呪縛」(21)政治綱領(3)
































我々が普通に考える正義とは異なる考えを持っているプラトン427-347 BC)の方が正しいのではないか

そういう疑念も湧いてくる

しかしもしそうだとしたら、ポパー(1902-1994)は全身全霊で不正義に与すると宣言する

こういう見方もある

当時のギリシア人の正義とは、全体、例えば国家の健康ということに関連していたのではないか

我々の基準で、当時の伝統的な全体論的考えを批判するのは不公平ではないのか

しかしポパーは、これらの考えに同意しかねるという

なぜなら、『国家』以前の対話篇『ゴルギアス』に「正義とは平等である」という見方が人民によって採られており、それは「自然そのもの」だとも書いているからである

また、プラトンの弟子であるアリストテレス(384-322 BC)は、「すべての人間が正義とは一種の平等であると」見做してきたと語っているという

もしこのような見方が当時も一般的であったとするならば、プラトンは『国家』において新しい考え方を吹き込んだことになる

なぜそのようなことをしたのだろうか

法の下での人間の平等を目指した人たちに懐疑と混乱を広め、そのような運動を麻痺させるためか

ポパーによれば、プラトンは法の下での人間の平等を目指す運動は不倶戴天の敵であると考えていたという

これからその論証が始まるようだ









2024年3月24日日曜日

ポパーによる「プラトンの呪縛」(20)政治綱領(2)
































まず、プラトン427-347 BC)の正義についての考えを検討してみたい

我々が一般的に正義について思い浮かべるのは、次のようなことではないだろうか
1)社会生活において必要な自由の制限を平等に分かち合うこと
2)法の下での市民の平等な扱い
3)法そのものが、特定の市民や集団や階級を優遇あるいは冷遇しないこと
4)裁判が党派的ではないこと
5)市民に供される重荷のみならず利益に平等に関与すること

もしプラトンが正義をこのように考えていたのなら、全体主義的だとしたポパー1902-1994)自身は間違っていたと考える

しかし、そうではないと『国家』における「正しい」という言葉を分析して結論する

プラトンは『国家』の中で、「最善国家のためになるもの」が「正しい」のだと主張している

つまり、厳格な階級区分と階級支配を維持して、一切の変化を阻止することである

この視点からみれば、プラトンの政治綱領は全体主義と一致すると見てよいだろうとポパーは言う


国家共同体においては、各人は自分の本性に最も相応しい一つの仕事をすべきであるとする

大工は大工仕事に、靴屋は靴作りに専念すべきであり、労働者が戦士時階級に上昇しようとしたり、戦士が監視者階級に入り込もうとするのは、国家の没落を意味する

3階級間でのいかなる変更、交換も不正ということになる

プラトンの正義は、階級支配、階級的特権の原理と同じことなのである

すなわち、支配者のみが支配し、労働者は労働し、奴隷はその役を果たす時、国家には正義が訪れることになる

このように、プラトンの正義は我々が思い描くものと根本的に異なっているのである









2024年3月23日土曜日

ポパーによる「プラトンの呪縛」(19)政治綱領(1)






























プラトン427-347 BC)の社会学を知った後では、政治綱領を解明することは容易だとポパー1902-1994)は言う

静止と変化に関する彼のイデア論的理論により、以下のことを要求する

 どんな政治的変化も静止させよ

 変化、運動は悪であり、静止こそ神聖である

 国家を形相とイデアの正確なコピーとして建設するなら、変化は阻止できる

それをするためには、自然に帰れ、すなわち我々の先祖の国家、原始の国家へ帰り、家父長的部族社会に帰るのである

そこでは、賢い少数者が無知な多数者を支配する階級制が行われている

ここでポパーが根本的だと見ている要素を以下に挙げる

1)厳格な階級区分

2)国家の運命と支配階級の運命との一体視

3)支配階級は、戦争遂行のための徳性や軍事的技能の養成を独占する

4)支配階級の知的活動は検閲によって統制されねばならない

5)国家は自分自身を配慮し、経済的自給自足を目指すべきである

このような綱領は全体主義と呼んでもよいとポパーは言う

ただプラトンにはその他にも、善や美に対する燃え上がるような憧れ、知恵や真理に対する愛、哲学者が支配すべきという要求、自国の市民は有徳で幸せであることを望んだこと、国家は正義の上に築かれるべきだという要求などがある

このようなプラトンを理想化する視点を考慮に入れても、ポパーは全体主義に変わりはないと見る

これからこれらの点を具体的に検討していくようである










2024年3月22日金曜日

ポパーによる「プラトンの呪縛」(18)自然と協定(7)


















それでは、自然で完全だとされる最初の国家がどうして解体の芽を内在させることになったのか

自然で完全な国家には、そのような芽は生じない筈ではなかったのか

一切の作られたものは腐敗せざるを得ないと言うが、それが完全国家にはなぜ当て嵌まらないのかを説明してはいない

そこでプラトン(427-347 BC)が示唆したことは、最初の支配者が数学や弁証法に明るい哲学者であれば違ったということであった

しかし、実際には違ったというのだろう

さらに彼らは、監視者の種族に純潔性を維持するための優生学的な方策を知る必要があったというのである

高貴な血と労働者の卑しい血が混じるのを回避する方策である

しかし監視者はその知識を持っているわけではないので、血統保存が純粋になされることがなく、退化が始まるのである

彼らは知覚や経験に基礎を置いて考えるので、移ろいゆく信頼できるものではない

純粋に理性に基づき、数学的である学問が必要になるとプラトンは示唆する

しかし、高次の血統保存に関するカギを知らなかったため、腐敗は始まったのである

支配階級内部における分裂、人間本性(魂)の内部分裂が進行することになった

ヘラクレイトス(c. 540-c.480 BC)が言ったように、戦争、階級闘争が、あらゆる変化、人間の歴史の父であり、原動力なのである


プラトンの思想の根底には、形而上学的二元論があるという

論理においては、一般的なものと特殊的なもの

数学的思弁においては、一と多

認識論においては、純粋な思考に基礎を置く合理的な知と特定の経験に基礎を置く思い込み

存在論においては、根源的な変わらない真の実在的世界と多として変化を重ね人を欺く現象、すなわち、純粋な存在と生成、変化の対立

宇宙論においては、創造者と没落に委ねられた被造物

倫理においては、存続するものとしての善と没落して行くものとしての悪

政治においては、完全性と独立性を達し得る国家と、不完全であり依存せざるを得ない国家の統一のために抑圧されなければならない個人、人民の群との対立として表れている







2024年3月21日木曜日

ポパーによる「プラトンの呪縛」(17)自然と協定(6)































プラトン(427-347 BC)にとっての理想国家は、それ自体で十全で完全な個体である

それに対して市民は、個体ではあるが国家の不完全なコピーと見做された

国家が超有機体であるとされ、ここで生物学的、有機体的な国家論が西洋に導入されたとポパー(1902-1994)は見ている

拙著『免疫から哲学としての科学へ』でも取り上げたクロトンのアルクマイオン(5th century BC)の影響を受けたプラトンは、国家の生物学的理論の確立よりは人間個体を政治的に見ようとした

この傾向は個人は国家よりも低次であり、個人は国家の悪しきコピーであるとする考えとも一致する


プラトンは、統一された調和のとれた有機体的国家、つまりより原始的な社会形態を要求していたという

国家は小規模であるべきで、その成長は統一を妨げないという条件付きで認められる

つまり、統一された閉鎖性、国家の個体性をプラトンは強調する

しかし同時に、個人の多様性も強調する

人間の魂は、理性、力、欲望(動物的本能)の3つの部分に分けられる

これは国家における3つの階級――監視者(統治者)、戦士、労働者(ヘラクレイトスが言うところの「野獣の如くその胃袋を満たす者」)――に対応している

人間は見かけは一であるが実際は多であり、完全国家は逆に、見かけは多であるが現実には一である

このように国家や世界の統一と全体性が強調されており、ホーリズム(全体論)に通じるところがある

プラトンにとって、社会変革の中での変化に満ちた生活は現実的には見えず、失われた部族生活の統一に憧れているとポパーは見ている

安定的で永続する全体に奉仕することが個人にとっては「自然」なのである


プラトンは『法律』の中で、次のように書いている
法律には、共同体全体の福祉を実現させるという課題があり、一部には説得によって、また一部には強制によって、市民たちを一致結束させる。また法律は、市民各人を共同体の役に立つよき行為に参加させる。実際、国家に対する正しい心構えを持った人間を作り出すのは法律である。各人がほしいままに行為し生きて行けるようにするためにではなく、彼らすべてを共同体の結束のために利用する。
また、次のような政治的ホーリズムの古典的定式も見られる
君は全体のために生まれたのであって、全体が君のためにではない

プラトンは国家は人間個人、人間の魂になぞらえることができると見做した

そして、国家の病、すなわち国家の統一性の解体には、人間の魂、人間の本性の病が対応することになる 

国家の病は、特に支配階級に属する者たちの邪悪さ、道徳的腐敗から生じるのである









2024年3月20日水曜日

ポパーによる「プラトンの呪縛」(16)自然と協定(5)






























本性についてのプラトンのこのような考え方は、ヒストリシズム的方法論にさらに接近させるという

対象の真の本性(本質、自然)を探究することが学問には課せられるが、プラトンによれば、ものの本性とはその起源になる

社会科学や政治学の場合、社会や国家の起源を探究することが課題になり、歴史がヒストリシズムの方法論になる

プラトンの場合、社会の起源は協定、社会契約で、それは自然な取り決め、人間の社会的本性に基づく取り決めなのである

人間の社会的本性とは個人の不完全性から生じ、その程度は人それぞれであるとした

国家はそれ自体で自立しており、個人の不完全性をより高いものに統合し得ると考える

国家が腐敗し分裂していく萌芽は国家の内にあるのではなく、不完全性を持つ個人の内に育つという


プラトンは政治的権威が基礎を置く原理をいくつか挙げ、生物学版自然主義についてこう言っている
「強者が支配し、弱者は支配されるべきであるという原理」があり、これは「テーベの詩人ピンダロス(522/518-442/438 BC)がかつて述べたように」自然に即した原理である
さらに、それに協定主義を結合して、こう続けている
「賢者が指導し支配し、無知なる者はしたがうべきであるというより重要な原理である。・・・これは自然に合致するものである」
人間は一人ではやっていけないので、自分の利益を促進するために集まってくる

しかし人間は等しくないので、分業という経済原理が導入される

この生物学版自然主義の要素は最初は無邪気な仕方で導入されるが、最終的には支配者と被支配者の分業に辿り着くことが明らかになる


唯物論者によれば、炎とか水、大地とか空気などは元々から存在するとされる

しかしプラトンは、そうではなく、そうあるのは魂だけであるという

秩序や法は魂から来るのだから、同じように元々からあるに違いなく、より起源に近いことになる

これは精神版自然主義に当たり、保守的な実定主義とも親和性がある

一切が偉大な立法者の知恵に委ねられ、それはプラトンの自画像であるとポパー(1902-1994)は言う









2024年3月19日火曜日

ポパーによる「プラトンの呪縛」(15)自然と協定(4)






























久し振りにポパー(1902-1994)のプラトン(427-347 BC)論に戻ってみたい

3週間ぶりくらいだろうか

カフェ/フォーラムウィークのほとぼりを冷ますには丁度良さそうだ


まず、プラトンが使う「自然」(physis: ピュシス)という言葉にはいろいろな意味がある

一つは、存在するものという意味もある「本質」と一致する使い方だ

そのため今日でも、本質主義者は「本性」(Natur: 本質)という言葉を使うという

これはプラトンにとっては、「形相」とか「イデア」とほとんど同じ意味である

しかし、本質と形相・イデアとの間には次のような違いがあるとポパーは言う


知覚対象物の形相・イデアは、そのものの中にあるのではなく、先祖・始祖の中に分離されて存在している

その形相・イデアは、そのなかのあるもの(=本質)を後裔に当たる知覚対象物に引き渡すのだという

それはそのものに内在する本質になり、形相・イデアに属するものである

したがって、「自然な」ということは、元々割り当てられ、ものに具わっているものということになる

これに対して「人為的な」というのは、人間が外から強いたり、変更したり、付け加えたりしたものである

したがって、人為(技術や芸術)から生まれたものは、神的な形相・イデアの模倣にしか過ぎず、真実からは遠ざかるのである

つまり、自然と協定・人為との対立は、真と偽、真実に在るものと現象に過ぎないもの、本来的なものと二次的なもの、神の技から生まれたものと人間の技が作るものなどの対立に対応している

「自然」という言葉で言いたいのは、最初にそこに在ったもののことで、魂こそがそれであるとプラトンは考えている

身体よりも魂が形相・イデアに近いのである


プラトンが「ピュシス」という言葉を人間に使う時、人間の精神的諸能力、天分、生まれついての力量を表しており、かなりの程度魂に近い

プラトンは「種族」という言葉もよく使うようで、形相・イデアのあるものを始祖から受け継いだ同一の本性を持つ後裔のことを言うらしい

これを生物学の用語で言えば、「クローン」ということになるだろうか








2024年3月18日月曜日

シンフォニーとしてのカフェ/フォーラムウィーク、そして就寝前の読書





今朝、アトリエに向かう途中、今回のカフェ/フォーラムの全体が一つの交響曲のように見えてきた

聞こえてきたと言ってもよいだろう

経験した全体を見渡し、そこにあるアンジュレーションあるいはアーティキュレーションを観取し、味わうことができるようになって来たということだろうか

似たような感覚は文章を書く時にも感じるが、この場合には全体の流れの中にこちらの方から大小の抑揚をつけていくことになる

時には書きながら、オーケストラの指揮でもしているような気分になることもある

これまでカフェ/フォーラムウィーク全体の流れについて眺めるという視点が弱かったようなので、そのすべてに参加している者としては、これから新たな楽しみが増えたことになる



ところで、昨年12月のことだっただろうか

寝る前に本棚の前に立ち、その全体を眺めている時、一冊の本が目に入り、それをその場に立ったまま読んだことがあった

そして30分か1時間くらい、その中に入っていた

読んでいる言葉が、心の中で鮮明なイメージとして浮かび上がって来たからだろうか

そのイメージの解像度が他の状態で読んだ時と違うだけではなく、全く別の記憶領域にそれが貯えられているように感じたのである

この setup がわたしには合っていたのだろう

それ以来、これが習い性となったようで、少々疲れていてもこの体勢に入らなければ寝られなくなった

今回2週間のブランクでこの習性を忘れているかと思ったが、そんなことはなかった

これからどれだけ続くのかは分からないが、本当にちょっとした切っ掛けで良い習慣が身につくものだと驚いている

これは今年前半の嬉しい変容と言えるだろう






2024年3月17日日曜日

わたしにとっての非日常がもたらしてくれるもの

































昨日、怒涛の2週間のカフェ/フォーラムウィークを終えて帰宅した

特に今回は準備が最後まで待っていたため「怒涛の」と感じたのだろうか

あるいは、非常に密な会が重なり、最初に予想した通り、まさに異次元の世界にいたからなのだろうか

「異次元」で気づいたのだが、普通の人(この世界に入る前のわたしに当たる)が生活している次元がわたしにとっての非日常で、わたしの日常とは普通の人の非日常に当たるのかもしれない

いずれにせよ、非日常の大切さがよく分かる

今回の非日常の中で無意識下に感受していた(今は言葉になっていない)ものが、これから見えてくることがあるかもしれない

それを期待している


ところで、今回の滞在1週を過ぎた頃から花粉症が全開になった

帰宅して収まるかと思ったが、さらに進んでいるようである

こちらも時間の経過を待つしかないだろう

思い返せば23年前のこの季節、フランス語がわたしを襲った

その経緯は拙著『免疫学者のパリ心景』に詳しいので、参照していただければ幸いである

非日常と言ってもよい症状が、運命を変えるきっかけを与えてくれたのである

今回の症状は一体何をもたらしてくれるのだろうか

密かにそんな淡い期待を抱きながらの再びの日常である









2024年3月15日金曜日

恒例の会食で変容の数々を認識する























恒例になって久しい学友との会食に出かけた

まだお仕事をされている方たちなので、日程調整が必要であった

お話によると、お一方は今月で仕事を辞められるようなので、これからの調整は容易になるのではないだろうか

偶然にも、東京でのカフェ/フォーラムを締めくくるタイミングとなった


仕事をしている立場から見ると、わたしのようなプー太郎生活がどのようなものなのかに興味が湧くというのもよく理解できる

この疑問には、最近では落ち着いて答えることができるようになってきた

一つの認識に辿り着いたということだろう

何もしないで、考えをどこかに絞ることなく、ゆったり生活を続けて17年になる

その結果だと思うのだが、自分の内的精神世界が著しく拡大してきたように感じている

いろいろなアイディアをその空間に入れ、自分もその空間で遊びながら、それぞれのアイディアを深めたり、他に繋がりを求めたりできるようになってきた

思考する力がついてきたとは、こういう状態のことを言うのだろうか

分からない

あるいは、創造性にも繋がるというデフォルトモードネットワーク(DMN)が働いている状態に近いのではないだろうか

そうかもしれない


いずれにせよ、仕事から離れて、何かに追われることなく、自由な空間に身を置く生活を一定期間継続することが、このような状態になるための必要条件だと考えるようになっている

それからすべてが始まるという感覚である

これはわたしの中で真理になってきた

ただ、それを目指して歩んだわけではなく、振り返ればそうなっていたという偶然の成せる業だったのではあるのだが、

現在では、何か考えるべきテーマが現れた時、自らの内的空間を前にして、それを広げてその中に入り、抱えているテーマについていろいろな角度から眺める時間がかけがえのないもののように感じるようになっている

これは、わたしにとって驚きの変容なのである


先日のスピノザ(今回のPAWLはなかなか良い内容だったとの評をいただいた)によれば、自分の見出した真理を他の人と共有することが幸福に繋がるという

もしそうだとすると、カフェ/フォーラムの活動も、今日のような会食も、わたしを幸福にしていると言えるのかもしれない

このような認識に至ったこともまた、驚きの変容なのかもしれない









2024年3月14日木曜日

第18回サイファイカフェSHE、意識が飛翔したまま終わる

























今日は、第18回サイファイカフェSHEにおいて意識の問題を取り上げた

お忙しい中、新しい方、7-8年(?)振りの方を含めた多くの方にお集まりいただき、多岐に亘る活発な議論が展開した

イントロとして、あくまでも免疫学に身を置く一研究者から見た意識研究の現況を紹介した

話題提供者が準備不足の上、興味の持ち方が特異であったため、議論にすんなり入っていけなかったかもしれない

しかし、最終的にはまとめ切れないほどの内容が語られる会となった

まとめは、近日中に専用サイトに掲載する予定である



今日は、東京での春のカフェ/フォーラムシリーズの最終日であった

今回のシリーズでも多くのものを吸収し、認識を新たにすることができた

将来に向けてのエネルギー補給もできたように感じている

参加された多くの皆様に改めて感謝したい


春のシリーズは、4月6日(土)に予定されている第11回サイファイカフェSHE 札幌で終了することになる

今回のテーマは「プラトン哲学からものの見方、生き方を考える」となっている

奮って参加いただければ幸いである


なお、次回の東京開催は、第11回サイファイフォーラムFPSSを7月13日(土)に、また秋のカフェ/フォーラムシリーズは通常通りのラインナップで、10~11月を予定している

詳細が決まり次第、この場に公開する予定である

今後ともよろしくお願いしたい








































2024年3月12日火曜日

第11回カフェフィロPAWL、目を開かされる議論の内に終わる






















本日は、第11回目のカフェフィロPAWLが開催された

雨天の中、お一方が欠席となったが、4名が参加された

今回はスピノザ(1632-1677)の『知性改善論』(1677)を取り上げた

スピノザが哲学の道に入るようになった考え方が表現されている

最初に、人間が普通に求める善として「富」「名誉」「快楽」が挙げられる

つまり、普通の人にとってはこれが最高善ということになる

しかし、それが真の善であれば問題はないが、そうでない場合には最高善がもたらす幸福を失いかねない

そこで真の善、最高善をどう考えるのかという探求に入る

その背後には、人間は自分より優れた本性(完全性)を獲得することが可能であると考えているという認識がある

その結果、真実の善を、本性に至るすべての手段、最高善を、その本性をできるかぎり他者と共に享受すること、そして求める本性(完全性)を、精神と全自然との合一の認識であるとした

その上でスピノザは、精神と全自然との合一性の認識を、他者と共有するように努力することが幸福につながると考えたのである

さらに、最善の知覚様式、知性の道具である真の観念、虚構された観念や虚偽の観念(誤謬)や疑わしい観念(疑惑)との識別などの検討を経て、永遠なる事物の認識方法について論じられる

いろいろな議論が展開し、目を開かされることも少なくなかった

詳細については、近いうちに専用サイトに掲載する予定である





































2024年3月11日月曜日

学生時代のオーケストラ・メンバーと半世紀ぶりに会食




























先週のこと、学生オケの後輩から突然連絡が入り、急遽半世紀ぶりに再会することになった

当時トランペットをやっていたのだが、同じパートの後輩からであった

最初はわたしを含めて6名の予定だったようだが、残念ながらお一方が都合が悪くなり欠席となった

待ち合わせ場所に向かう前は見つけることができるのか不安であったが、一人だけ当時の面影を残した方がおられたので合流できた


席が始まると、亡くなった方の話題がしばらく続いた

意外にあっけなく亡くなっている方が多い

人間とは脆いものである

まだ楽器をいじっている人がいる一方、すでに止めてしまった方もいて人様々だ

まだ現役の人は、昔より数段上達しているというから、人間の能力には限りがないようだ

わたしも昔はいい演奏をしていたようだが、半世紀は楽器に触れていないので、今は音も出ないかもしれない

再開してはどうかという誘惑の声も聞こえた

考えてみればいつも暇なのだからできそうなものだが、これまでその気にならなかった

来週以降の気分に任せて考えてみることにしたい


当時の活動の話を聞いていると、昔が蘇ってくる

オーケストラの溜まり場だった今はないお店のことも思い出した

そこではいろいろな人に会い、いろいろなやり取りがあったはずである

学生時代の人間関係も浮かんできて、甘酸っぱいとでも言うのか、懐かしさを感じた

またすっかり忘れていたが、当時、ジャズにも相当浮かれていた様子も浮かび上がってきた

今回、当時共演したピアニストの方にも声をかけたようだが、どうしても都合がつかなかったようだ

またの機会にお会いしたいものである

興味深いお話が出てくるのではないだろうか

人生のこの時期には、いろいろな楽しみが転がっていそうである

今回、声をかけていただき、感謝したい










2024年3月9日土曜日

第10回サイファイフォーラムFPSS、活発な議論の内に終わる












今日は、第10回サイファイフォーラムFPSSが開催された

2名の方が欠席となったが、参加者間で活発な議論が展開した

プログラムは以下の通りであった


最初に主宰者による「科学と哲学シリーズ」の第4回で、ソクラテス以前の哲学者のアナクサゴラス(c. 500-c. 428 BC)が取り上げられた

この哲学者はイオニアの哲学と科学をアテナイに伝えた人物とされ、アテナイを哲学の都としたことでも評価されている

神話や宗教から離れた自然主義的な思考の持主で、それがソクラテス(c. 470-399 BC)らの哲学者に落胆をもたらしたことが記録に残っている

現代の言葉で言えば、科学だけでは不十分で、倫理的な思索が必要になるということだろうか

2つ目は、木村俊範氏による「日本のテクノロジーには哲学が無かったのか、置き忘れたのか? 一テクノロジストの疑問」であった

この発表は、前回時間不足のためにできなかったディスカッションに重点を置いたものであった

内容はこちらからお読みいただければ幸いである

3つ目は、佐賀徹雄氏による「社会のための科学について考えること――元工学研究者の問い」で、発表内容はこちらをご覧いただければ幸いである

そして最後は、今回初めての試みとなった一つのテーマを掘り下げて議論するフォーカス・ディスカッションと称するセッションで、テーマは「進歩」とした

これからも工夫を加えながら折に触れて開催したいものである

それぞれの詳しい内容については、近いうちに専用サイトに掲載する予定である


今回の議論においても、相互に関係ないと思われたそれぞれのテーマの間に強いつながりがあることが見え、やや感動しながら議論の推移を見守っていた

以下の写真のように、この議論はアルコールが少し入った後半のフォーラムでも継続されていたことが窺われる

前回同様、今日一日が一つのシンポジウム(饗宴)になっていたことが分かる

非常に良い流れになっていたと言えるのではないだろうか


なお次回のFPSSは、7月13日(土)同じ時刻、同じ場所で開催予定である

参加される皆様には、スケジュール調整のほどよろしくお願いしたい






















2024年3月8日金曜日

追い込みの日々の始まりか

























本日は午前中から外に出て、明日以降の準備に当たった

いつもの日常で困っているのだが、今に至るまで矯正できていない

駅を変えたりしながら、結局4~5軒梯子したのではないだろうか

最後は、もう何年かぶりになるこの神社の境内であった

なぜかこころが静かになってくるから不思議だ

こういう精神状態になるのであれば落ち着いてもよいのではないかと思うのだが、現実に戻るとなかなか厳しい

明日の会までにはまだまだ時間がある

何とか漕ぎつけたいものである

これからの1週間はこの繰り返しになりそうだ



























今日のような1日の使い方は、パリの街を書斎としていた当時を思い出されるものでもあった










2024年3月7日木曜日

フランス絡みの四方山話を愉しむ





本日は、昨日のベルクソンカフェのまとめを書いた後、フランスでお世話になった方とのディネに出かけた

明日出張とのことで、慌ただしいところお時間を割いていただき感謝である

お店の女将さんとはお知り合いでようで、予期せぬ再会になったようだ

座っていることが多い生活では、そもそも食べなくてもよいのではないかと思うことも少なくない

今日も量は少ないように見えたが、お腹にどっしり残った

四方山話から、フランスの思い出話や最近のお仕事の状況まで、あっという間に時間が経ったのではないだろうか

昨日は拙いフランス語の読みで閉塞感を味わったが、今夜のようにフランス人が絡んだ気楽な会話になると開放感が漂う

久し振りに自由の片鱗を感じることができた

やはり、今年も求めているのだろうか


いずれにせよ、愉快なひと時であった

機会があれば、またお話を伺いたいものである






2024年3月6日水曜日

第9回ベルクソンカフェ、盛会の内に終わる














今日は、フランス語のテクストを読み哲学する第9回ベルクソンカフェがあった

久し振りの方や新しい方が参加され、充実した会となった

今回のテクストは、ジャン・フランソワ・マッテイ著『古代思想』にあるソクラテス以前の哲学者エンペドクレス(490-430 BC)とヘラクレイトス(540-480 BC)について論じたものであった

ソクラテス以前の哲学者については、去年春からサイファイフォーラムFPSSでも取り上げており、今日の2人もその中に入っていた

その内容とズレを感じたことが今日のテクストにあった

それはヘラクレイトスの唱えるアルケーの火である

これまで炎の火がアルケーだと思っていたが、マッテイさんの考えではそうではない

それは、すべての物理的なものの中にあり、それを他のあらゆるものへと変化させる原初的なエネルギーの概念を指しているという

この他にもいろいろな発見があったので、近いうちに専用サイトにまとめを掲載する予定である





















2024年3月5日火曜日

老いを眺める



昨日、Youtubeを流していたら、この動画が現れた

一人の女性がご自身の辿り着いた世界観を語っている

年齢を見て驚いた

アメリカの女医Gladys McGareyさんで、103歳だったからだ

声には張りがあり、精神的な衰えを全く感じることがない

これからはこういう人が沢山出てくるのだろう

関連のビデオを検索していたら、俳優のディック・ヴァン・ダイクさんが98歳になり、未だに活力に溢れている

肖りたいお二人となった










2024年3月4日月曜日

古い友人たちとの会食を愉しむ

























今日から春のカフェ/フォーラムに包まれる2週間が始まった

異次元での生活と言ってもよいだろう

池の底から浮き上がり、現実界を楽しむ時間である

いつものことだが、最後の最後まで準備することになりそうだ

今回はどのようなことになるのか、まだ予想できていない


お昼は山歩きがご趣味の古い友人とのデジュネがあった

今回はフレンチを味わいながら、宗教的なお話が出たり、人生の問題が哲学的に提示されたり、老いのお話も出てきたりした

いつもの話題もこのような傾向はあるのだが、今日はそれが強調されていたように感じたのは気のせいだろうか

いずれにせよ、時間は密に流れ、あっという間の1時間半であった


夜は前の研究所に関係する方との呑み会に参加した

所要時間の計算を間違え、遅刻することになった

今回は久しぶりの方もおられ、それぞれの無事を確認するという側面もあった

また、人生何でもありということで、貴重な経験をされている方もいたりして、興味が尽きない時間となった

その中で、静的な日常にあるわたしに対して、もっと体を使うようにとの助言もあった

これから暖かくなるので心したいものである

こちらも気がつけば3時間が過ぎていた


またの機会があれば、お話を伺いたいものである









2024年3月1日金曜日

Immunity: From Science to Philosophy のカバーデザイン届く

































一昨日、拙著 Immunity: From Science to Philosophy の制作スケジュールが送られてきた

4月に原稿の校正、5月にゲラ校正の予定のようだ

何もない時期に当たっているのは幸いであった


そして本日、上のような表紙案が届いた

これに決定したので、一足早く公開したい

非常に速いペースで進んでいる

生々しくダイナミックな動きがあるデザインになっているのに驚いた

哲学臭が感じられないので、現代人にとっては手に取りやすいかもしれない

そんな第一印象であった