2024年3月30日土曜日

ポパーによる「プラトンの呪縛」(24)政治綱領(6)
































平等と不平等に関係するのが、個人主義と集団主義の問題である

個人主義という言葉には、2つの意味合いがある

第1は集団主義に対立するものとして、第2は博愛主義に対立するものとして

第1の場合には他に同義語はないが、第2の意味では、エゴイズム、自己愛などがそれに当たるだろう


まず集団主義だが、プラトン427-347 BC)の場合、個人は国家や部族や人種などの全体に奉仕すべきだという意味であった

法律』ではこう言っている
部分は全体のために存在し、全体が部分のために存在するのではない。・・・君は全体のために作られたのであった、全体が君のために作られたのではない

自らの利害関心を公共の福祉に向けられないのなら、その者はエゴイストであるという含みがある

 しかし上で見たように、集団主義はエゴイズムと対立していないし、自己利益の追求と対立するわけではない

他方、個人主義者は他者のために犠牲を払う用意のある博愛主義者でもあり得るのだ

興味深いことにプラトンにおいては、博愛主義的な個人主義は存在し得ないのである 

プラトンにとって、集団主義に取って代わるのはエゴイズムなのである

彼は個人主義をエゴイズムと同一視し、そこに攻撃を加えたのである

プラトンはなぜ個人主義を攻撃しようとしたのだろうか


アリストテレス(384-322 BC)によれば、正義とは、プラトンが望んだような国家の健康とか調和ではなく、個人を取り扱う一定のやり方である

ペリクレス(c 495-429 BC)も「法律はすべての人に対し、その個人的な争いごとにおいては同等に正義を保証しなければならない」とし、さらに「我々は、隣人にあれこれ干渉するために呼び出されていいとは思わない。なぜなら彼は自分自身の道を行こうとしているのだから」と言っていた

ペリクレスは「我々は、冷遇された人たちを守ることを忘れてはならない・・・と教えられた」と述べ、個人主義と博愛主義の結合を強調した

そして、このような博愛主義と結びついた個人主義は、西洋文明の基礎となったのである

これはキリスト教の中心的教義でもあり、西洋文明に活気を与えてくれた倫理的教義の核心でもある

「君は、君の人格や他のすべての人の人格において、人間性をいつでも同時にたんなる手段としてではなく、目的として扱え」と言ったカント(1724-1804)の中心的教義でもある











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