2024年3月31日日曜日

ポパーによる「プラトンの呪縛」(25)政治綱領(7)
































昨日見たような個人主義と博愛主義が結びついた思想の中に、プラトン427-347 BC)は自分の敵を見たのである

ポパー(1902-1994)はその証拠を『法律』から2つだけ挙げる

プラトンはこう語っているという
女、子供、すべての家畜や財は共有される。至る所でそしてあらゆる仕方において、私的で個人的なもの一切を生活から殺ぎ落とすために、試みられないことは何もない。可能な限り、自然そのものから個人に財として分け与えられた才能でさえ、ある意味において万人の共有財とされる。我々の目、耳そして手が、あたかも個人の身体的部位としてではなく共同体の部位であるかのように、見、聞き、そして振る舞うだろう。全ての人間は、毀誉褒貶において一致するように、また同一事について同時に喜怒哀楽を覚えるように鍛えられる。そしてすべての法律は国家を最高度の統一にもたらすために完璧に整備される。

このような国家をプラトンは、「神的なもの」「模範」「範型」「原像」すなわち国家の形相とかイデアと呼ぶのである

もう一つの例は、軍事遠征と軍事教練を扱っているところである

彼は他の全体主義的な軍国主義者やスパルタ賛美者と同じように、軍事教練こそ最重要の要請であり、市民の全生涯を規定すべきものであるとする

そしてこう書いている

すべての内での第一原理は、男であれ女であれ、何人も、いついかなる時にも、指導者なしでいてはならないということである。心が、真面目さゆえにせよあるいはただ戯れにせよ、自分勝手に動くようになってはならない。戦時においてであれ、あるいは平和の最中においてであれ、指導者に眼差しを向け、忠実に従うべきである。そしてまたどんな些細な事柄においても、指導者の導きのもとにあるべきである。例えば、起床し、移動し、沐浴し、食事を取るのも・・・ただ命じられた時にのみすべきである。・・・統制なき状態は、すべての人間の生活からのみならず、人間に仕える動物すべてからも根本的にそして最後の痕跡に至るまで取り除かねばならない。


プラトンは、知覚対象物が生成流転する世界の多様性を憎むだけでなく、個人やその自由を憎んだ

彼は、個人主義とエゴイズムを同一視し、反個人主義と無私の精神は同一であると考えていた

このような同一視は反人道主義的なプロパガンダとして成功を収め、現代に及ぶまで倫理的考察を混乱させたとポパーは見ている

プラトンの倫理はキリスト以前に達成されたキリスト教に最も近いとものと持ち上げられ、キリスト教を全体主義的であると解釈する道を切り拓いたのである

事実、キリスト教にも異端審問という全体主義的な考えに支配された時代があったので、その再来には注意しなければならない


それでは、人々がプラトンには人道主義的な意図があったと語ったのはなぜなのか

その一つは、彼が自分の集団主義的な教えを語る時、「友人というものはその持ち物のすべてを共有する」というようなことを前置きとしたことである

このような無私で高潔な考えを前提とする議論が、最終的に反人道主義的な結論に至るとは誰が考えられるだろうか

もう一つは、プラトンの対話篇(特にソクラテスの影響下にあった時期)には実際に人道主義的な考えが多く含まれているということである

例えば『ゴルギアス』に見られる、不正をすることは、不正をこうむることよりも一層悪いというソクラテスの教えは、博愛主義的であり個人主義的でもあり、キリスト教の教えとも類似している

しかし、『国家』にはこうした個人主義との結びつきがなく、全面的に敵対する新しい正義論が展開されている

プラトンは言う
わたしは国家全体にとって至上のものを目指して立法する。・・・というのも、わたしは個人の願望をまさに価値の段階において低位のものと見るからである

集団としての全体に向けられていたプラトンにとっての正義とは、集団の健康、統一、安定性以外の何ものでもないのである

相互に争う個人の要求の調整や、個人の要求と国家の要求との調整には何の関心も持っていなかったというのが、ポパーの結論である 











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