2023年10月31日火曜日
今年のブログ活動(7)
2023年10月30日月曜日
未来は過去の中にある
2023年10月28日土曜日
アマチュア・クラシック音楽祭にて
2023年10月27日金曜日
来月のカフェ/フォーラムの最終準備を始める
2023年10月26日木曜日
今年のブログ活動(6)
I lived in solitude in the country and noticed how the monotony of a quiet life stimulates the creative mind.
「わたしは田舎で孤独の中に暮らし、静かな生活の単調さがいかに創造力を刺戟するのかということに気づかされたのでした」
わたしの場合、どれだげ創造力が刺激されているのかは分からないが、忙しく仕事をしている時に比べると、内から湧き上がる量の違いにこれまで驚いてきた
これからもこの状態を維持したいものである
これに関連した観察として、ピアニストのブーニンさんの言葉が6月23日の記事にある
彼が病気のためピアノを弾くことができなくなった絶望の中で感じたこと、それは「何もしない時間の大切さ」だったという
すべてから解放される精神的な状況というのは、思考空間をうまく行けば無限大に広げることができる
これはわたしが一切の「仕事」と言われるものから身を引いた中で感じてきたことである
それが思考に深さと広さを齎すことを願うばかりである
6月23日の記事に、あるアイディア記されている
パリに渡ってから6年ほどの間、ノートを毎日持ち歩き、折々に触れた外界の様子が齎す心象風景をメモしていた
それは、外に向けての興味が異常なレベルに達し、止めることができなかったためである
その興味は5-6年持続したが、それ以降ノートを持ち歩くことはなくなった
外の景色を充分に吸収し、自分の持つ容量を超過したのだろう
それを10年振りに復活してはどうかというアイディアが、この日浮かんだのである
その後1ー2週間は試した形跡はあるが、現在に至るまで再開されていない
ということは、このやり方で得られるものは10年前に得ており、今は違うやり方が求められるということになるのだろう
それは、現在やっているブログの振り返りのような、これまでの蓄積を顧みる作業の中にあるのではないだろうか
ここ数日間で味わっているこれまでにない落ち着いた精神状態を考えると、これからの道が見えてくるようである
その対象になるのは、ブログ記事だけではなく、カフェ/フォーラムの活動、63冊に及ぶパリメモなどがある
パリメモに関しては、これまで何度か読み直す作業を始めたことはあったが、いずれも頓挫している
これらのプロジェクトが今後どのような展開を見せるのか、いつものように注視したい
2023年10月25日水曜日
今年のブログ活動(5)
2023年10月24日火曜日
今年のブログ活動(4)
2023年10月23日月曜日
今年のブログ活動(3)
2023年10月22日日曜日
第10回サイファイ・カフェ SHE 札幌、無事に終わる
昨日、第10回のサイファイ・カフェSHE 札幌を開催した
今回のテーマは、拙著『免疫から哲学としての科学へ』を読み、その中にあるテーマについて議論するというものであった
参加を予定されていた方が急用のため参加できなくなり会の開催が危ぶまれたが、最終的には4名の参加を得て、充実した話し合いができた
その内容については、近いうちに専用サイトに掲載する予定である
ご参照いただければ幸いである
今回のテーマは、参加するためのハードルが高かった可能性がある
次回はもう少し一般的なテーマを設定することにしたい
そのために、現在進行中のブログ活動の振り返りに倣い、これまでのカフェ/フォーラム活動の全体も振り返ってみる必要がありそうだ
今年はサイファイ研究所 ISHE を始めて10年目に当たるので、丁度良い機会ではないだろうか
その中からこれから先が自ずと見えてくることを期待したい
具体的なテーマが決まり次第、この場でお知らせする予定である
参加いただければ幸いである
2023年10月21日土曜日
今年のブログ活動(2)
今年のブログを振り返るプロジェクト2日目になる
これまでに蓄積した問題を考え直すことによる精神の安定を昨日感じた
これは先日触れた「絶対的真理への道」とも関連する
まず、いろいろな事実を集めるが、そのうちにそれぞれの間に繋がりが見えてくる
その塊を一段上の新たな事実として纏めていく
この作業を繰り返していくと、最終的には最初にあった事実の全体のエキスのようなものが見えてくるのではないか
それをさらに高めたものをわたしが想像する絶対的真理として求めるというものだった
ブログに関するプロジェクトは、この過程の最初の段階に当たる
『免疫学者のパリ心景』は、「医学のあゆみ」のエッセイに関する第一段階の成果だったとも言える
このような試みを全活動について進めることが、これから重要になるだろう
という認識に至ったところで、第2回目に入りたい
1月、2月は春のカフェ/フォーラムの準備をしていた
始まる前からアナクシマンドロスの「アペイロン」に興味を持っていた様子がうかがわれる
ソクラテス以前の哲学者については、いずれ纏める必要があるだろう
また、2年ほど前に発見した科学の成果と哲学との関連があり、『免疫から哲学としての科学へ』の中でも触れた
年初に、その点についてもう少し掘り下げて論文にしてはどうかというアイディアが浮かび、手を付けたことが記されている
しかし、今に至るまで完成には至っていない
このまま消え去るのか、あるいは形になるのか
今年はまだ終わっていないので、もう少し様子を見てみたい
我々は相変わらずの戦争の世紀の中にいる
そんな中、闘争本能とそれを抑えることが期待される理性との関係について触れた記事が2つあった
前者は生物の本能のようなもので我々に埋め込まれているが、後者が働くためにはトレーニングが必要になる
それだけ闘争本能のコントロールは難しいのである
古代ギリシアの霊魂論には、「ヌース」(知性、理性)、「プネウマ」(気息、生命)、「プシュケー」(魂)の他に「テュモス」(気概・気持)がある
「テュモス」の実体は「知の沸騰」「激しい息遣い」とされ、荒々しい心の動きを指している
プラトンやアリストテレスは、「ヌース」を上位に置き「テュモス」はそれより下にあると考えた
現代の状況を考慮に入れ、理性が抑えるべき対象となる「テュモス」について見直してはどうかという流れがあるようだ
わたしも意識しておきたい点である
それから、「ピュシス」(自然)についての記述が1月だけ見ても散見された
これらは現ブログ「自然と生命を考える」への底流になっていた可能性がある
2023年10月20日金曜日
今年のブログ活動(1)
パソコンの調子が悪くなり販売元に相談したところ、今日もリモートセッションとなった
1時間以上かかったが問題は解決されず
これからは不自由な状態のまま使い続けることになりそうだ
ブログの活動を見直す作業だが、一応、今年の分から始めることにした
2月までは前ブログ「二つの文化の間から」に書いてある
今年初めの3回は、昨年からのつづきでコリングウッドの自然観について書いている
これらは、今年の分が終わってから進むであろう昨年分の振り返りの際に取り上げるかもしれない
これまでにも触れているが、今年は年の初めにプロジェクトを決めることなく歩むことにした
その記述は前ブログの1月6日にある
年の初めの自分にその後の自分が縛られるのを嫌がったためだ
所謂仕事をするということは、決めたプロジェクトが実現するように自分を縛ることだが、それを忌避したということだろう
言い方を換えれば、その年のプロジェクトは年末に明らかになるという考え方の実行である
この考えは9年前のエッセイに書いたものになる
目的論は本当に科学の厄介者なのか、あるいは目的は最後に現れる(医学のあゆみ、2014.10.11)
プロジェクトに関する大きな枠組みの話が1月12日に出ている
それは、フランスに渡る前(2005~2007年)に書かれたエッセイを読んで生まれたものである
フランスで発見したと思っていたことは、実は退職前の数年間に気づいていたことをより深く、より明確にしたものであった
つまり、渡仏前に抱いていた疑問や問題などについては、一応の回答を得たようなのである
これからは、フランス滞在により生まれた新たな問題をどう解決していくのかについて考えなければならない
今年は年初から『免疫から哲学としての科学へ』の3月刊行に向けた準備に追われていた
この本は上記の問題に対する答えの一つになるのではないだろうか
また、昨年刊行した『免疫学者のパリ心景』も積年の問いに対する回答になっているはずである
これからに向けてのやり方として、1月16日の記事には次のようなことが書かれてある
滞仏中のように新しい荒野を彷徨い歩くことを止め、これまでの旅で蓄積したものを深く掘り進むことに徹してはどうか
そこにある「種」を大事に育てるように歩むべきではないのか
旅での蓄積が想像を超えていることを考えると、このやり方が理に適っているのかもしれない
取り組むべき問題は、すでに目の前にあるのである
暫くの間狩りは止めにして、一ところに留まり深掘りせよということなのだろうか
これを書きながら、今こうしてブログを振り返っていることも同じ志向性を持っているような気がしてきた
妙に気持ちが落ち着くのである
今日はこのくらいにしておきたい
2023年10月19日木曜日
ブログの振り返りについて
今年このブログに何を書いてきたのか、そこから見える自らの活動について振り返ることにした
今日をその第1回にしようと思ったが、事態はそんなに簡単ではないことが判明した
今年の初めはまだ前ブログで書いており、昨年から読んでいたコリングウッドの自然観の最後の3回分から始まっていた
このシリーズは76回で終わっている
調べると、昨年9月1日に始めたことになっているので、4ヶ月間これを続けていたことになる
昨年は他にもいろいろ読んでいるので結構な内容が詰まっているはずだが、明確な記憶として残っていない
昨年末に書いた「1年のまとめ」を読み直してみた
他の活動やブログで取り上げた人はリストアップされているが、ブログの内容に関しては振り返りがされていない
記憶に残っていないのは、今年に限ったことではないことが判明した
これまでこの種の振り返りをやったことがなかったのである
今まで放置されていたのは、そこに重要性を見出していなかったからだろう
コリングウッドのところを読み返しただけでも、放置できないものが至るところにある
今日のところ、このプロジェクトはもう少し真面目に考えなければならないというところに落ち着いた
意外に大変なことになりそうな予感がしてきた
2023年10月18日水曜日
リマインダー: 秋のカフェ/フォーラムのご案内
今年刊行した免疫論に提示されたいろいろなテーマについて議論できればと考えています
平明なフランス語で書かれた古代ギリシア思想、特にソクラテス以前の哲学者が求めたものについて考える予定です
愛・恋についての対話編『饗宴』を読み、我々の精神の働かせ方、さらに生き方についてのプラトンの考えと神秘主義について語り合う予定です
今年刊行した免疫論について、いろいろな側面から議論していただければ幸いです
2023年10月17日火曜日
このブログに何を書いてきたのか
昨日のこと、今年このブログに何を書いてきたのかのイメージが全く湧いてこないことに気が付いた
このブログを始めたのが今年に入ってからだということも、記憶に残っていなかったくらいである
フランスにいる時とは全く違うのである
なぜそうなっているのか
これまでの時間の中で、これからの生き方についての大きな方向性は出来上がってきた
今は、その方向性で歩みを進めればよいと考えているようなのである
そのためか、大きな枠組み、基本的な考え方を揺るがすものには余り出会わなくなっている
こちらの方が出会うものより堅固になっているとも言えるだろう
このような状況なので、根源的な感動に接する機会が減っている
この場に書いたものが鮮烈に迫ってこないというのも理解できるところである
特に今年は、人の書いたものを読み、それを纏めるという記事が多かったように思う
ある意味で、自分に発したものではなく、外から入ってくるものを頭の中で処理するという作業だったとも言える
しかもそれが身に付いていないために、イメージが湧いてこないのだろう
このままの状態にしておくと、これまでに書いたものがどこかに流れ去ってしまう可能性が高い
折角なので、今年は一体何を書いていたのかを振り返る時間を持つのもよいのではないか
昨日、そんなところに考えが落ち着いてきた
年末に向けて、このブログの振り返り(réflexion)を行うことにした
2023年10月15日日曜日
井筒俊彦のプラトン(13)「死の道」(4)
2023年10月14日土曜日
井筒俊彦のプラトン(12)「死の道」(3)
「死の道」とは、生きながら感性的生を殺して、超感性的な生の原理を呼び覚ますことであった
しかし、「エロスの道」も「弁証法の道」も同様の要素を含んでいる
それではなぜ、「死の道」を独立の神秘道として認めるのであろうか
そこに極めて特色ある性格があるからである
「エロスの道」も「弁証法の道」も、究極の目的地(絶対超越的実在)は外であり上に向かってのものである
その道は、イデア界の秘奥にあるであろう遠き神を求めて、頭上の穹窿の彼方に上昇するというイメージであった
しかし、「死の道」はその反対だという
ここにおいて人は自己の外に向かうのではなく、自己の内に入るのである
心の眼を内部に向け、深く自己の底なき底に沈潜していく下降なのである
この霊魂の自己沈潜が霊魂の浄化であり、「死の実践」だったのである
「エロスの道」「弁証法の道」において、神は蒼穹の彼方、無限の距離を隔ててあるが、「死の道」においては自己に内在する無限に近い神となる
それではなぜ、自己の底に沈潜することにより神に逢着するのだろうか
それは霊魂がはじめから自己の内に神を宿しているからでなければならないという
それに気づかないのは、肉体的生にあるために心の眼が濁っているからである
プラトンはこの状況を「イデアの記憶」のミュトスとして表現した
イデアの世界は仄かな記憶となって霊魂の底に忘れられ潜んでいる
つまり、失われた記憶を甦生し(アナムネーシス)、これに溌溂とした活動を再び与えることこそが、「死の道」としての哲学ということになる
霊魂に超越的世界の記憶がなければ、感性界を唯一無二の世界と信じて疑わず、無常の風に吹かれるまま運命に流されるだけである
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今日のお話に関連して、興味深いことに気づいた
9月17日のポストで、次のような観察をしている
これまでは、天空にいて現象界を下に見ているように感じていた
しかし最近、普段は海底で暮らし、現象界に触れる時には底から浮き上がってくるような感じに変わっている
これをプラトンの「エロスの道と弁証法の道 VS. 死の道」という図式の中に入れると、どうなるだろうか
これまでは「エロスの道」「弁証法の道」にあり、蒼穹の彼方を目指して上昇を続けていた
先日紹介したわたしが想像した「絶対的真理への道」も上昇や飛躍が中心にあった
それが最近では海底に下降しているように感じている
なかなか上昇しているという感覚が生まれず、海底ゆえに暗い気分でいた
今日の一節を読みながら、現在わたしは「死の道」にいると考えてもよいのではないかと思った
もしそうだとすれば、プラトンの言う神秘道の表の側面(エロス・弁証法の道)から裏の「死の道」にフェーズが変わってきたと言えるかもしれない
これはわたしにとって大きな発見である
これが一体何を意味しているのか、これからも注視する必要がありそうだ
2023年10月13日金曜日
井筒俊彦のプラトン(11)「死の道」(2)
2023年10月12日木曜日
井筒俊彦のプラトン(10)「死の道」(1)
プラトンの『パイドン』、あるいは魂の永遠を考える(2018.3.19)
2023年10月11日水曜日
井筒俊彦のプラトン(9)「エロスの道」(4)
2023年10月10日火曜日
井筒俊彦のプラトン(8)「エロスの道」(3)
早速始めたい
神から与えられる「ダイモン的なるもの」が人間の中で発動すると、美を獲得しようとする愛として現れる
それは善を獲得しようとする願望に帰着する
この善を熱望する愛が、エロスと呼ばれる
つまりエロスとは、善きものを永久に所有しようと欲すること、と定義できる
それが現実化されるのは、美しきものの中に分娩すること、美しきものにおける生殖として実現する
これは肉体的だけではなく、精神における懐妊についても当て嵌まる
これらを踏まえエロスを再定義するとすれば、美しい対象の内に生殖・分娩することの愛求、とすることができるであろう
死すべき存在は、いつまでも存在し不死であろうとする希求がある
それが懐胎と生殖欲である
この過程によって自らの消滅を超えた永遠性を手に入れることができる
この点を考慮すれば、エロスは永遠性の希求であると定義し直すことができる
プラトンにおけるエロスは、善実現を目指す熾烈な創造的生命の原理なのである
肉体的な懐妊、分娩はあらゆる動物に通じる普遍的現象で、エロスの最低級な発現に過ぎず、人間に特有なものではない
これに対して、精神的な生殖欲を有する人が生むものは、肉の子供ではなく、知慮、正義などのあらゆる徳である
この精神上の分娩こそ、人間本来の生産でなければならない
真に高貴な永遠性は肉のそれではなく、精神の永遠性である
したがって、肉の子供を産んだからといって祀られた者は未だかつてない
ただここで注意すべきは、肉体的エロスと精神的エロスが無関係に存在するのではないことである
肉体的エロスから出発しながらもそれを浄化することにより精神的エロスに転成させ、よって超感性的実在に肉迫することができるようになることである
プラトン的愛の上昇には、自己超克の原理が内包されているのである
2023年10月8日日曜日
井筒俊彦のプラトン(7)「エロスの道」(2)
今日も井筒俊彦によるプラトンの「エロスの道」のつづきを読みたい
プラトンは霊魂の三分説を唱えた
具体的には、第一はロゴス的要素すなわち純粋知性、第二は名誉心・勇気などの源泉となる激情的要素、そして第三は肉欲などの心の動きを引き起こす欲情的要素である
『ティマイオス』によれば、第一の純粋知性のみが神的で不死であるが、第二、第三の要素は肉体の死とともに消滅する
霊魂が不滅という時の霊魂とは、純粋知性の部分だけを指していたのである
純粋知性とは神が我々に付与したダイモン(神と人との仲介者)である
地上に堕ちて人間の肉体に閉じ込められても蒼穹の彼方を思い、そこに帰らんとする情がエロスなのである
人間霊魂に宿る永遠性に向かう志向性こそ、エロスの本体であると言っている
一般にプラトン的愛は人間から神に向かう上昇志向性と解釈されているが、プラトンの真意は絶対者が相対者を引き上げんとする上から下への呼びかけでもある
そのことを部分的にではあるが感得するのは、昇り行く道の終局でしかない
しかし、絶対者から相対者への愛の下降性の働きかけを的確に捕捉・記述することは、人間には不可能であろう