2023年10月31日火曜日

今年のブログ活動(7)


























今年7月のブログについて振り返っておきたい

7月に入って早々に『免疫から哲学としての科学へ』を英語に直す作業中であるとの記述がある

このアイディアは4月くらいからあったので、すぐに始めているのかと思った

しかし調べてみると、日課と称していた作業は5月に入ってから始めたものであった

それが終わったのが8月中旬なので、7月もその日課の中にあったものと想像される

8月以来、原稿は寝かした状態にある



環境倫理の視点から自然を観る見方について、メモしたものがあった

1)神中心主義(theocentrism)
2)人間中心主義(anthropocentrism)
3)パトス中心主義(pathocentrism)
4)生命中心主義(biocentrism)
5)生態系中心主義(ecocentrism)

パトス中心主義は、人間のように痛みを感じるのであれば、その動物も倫理的に配慮しなければならないとする立場である

それが生命中心主義になると、生けるものすべてが倫理的配慮の下にあると考える

そして生態系中心主義では、そこに在る生物ではなく、生態系全体に対して倫理的配慮をしなければならない

倫理的に配慮すべき範囲がどんどん広がっていることが分かる

これらの点は、将来の考察に参考にしたいものである



この月、秋のフォーラムに向けて、ヘラクレイトスについて読み始めている

特に、ヘラクレイトスとプラトンストア派ヘーゲルなどとの繋がりは興味深く受け止めた

この他、シェリングの生命哲学、有機体哲学についての言及もあった










2023年10月30日月曜日

未来は過去の中にある

























昨夜の帰り道、大きく真ん丸で黄色の満月が低く浮かんでいた

満月の時には卵の黄身のような黄色になる

何かが満ちてきたのだろうか

そうであることを願いたいものだが、まだその感触はない



今朝、これまでいらないものを置く場所になっていた居間の机の上を、ちょっとした思索の場にすることを思いついた

先日、模様替えの時に整理した結果生まれた空間である

アトリエに出かける前とか、就寝前とかに使えそうだ

これまで手を付けることがなかった場所なので、景色が変わり少しだけ新鮮に感じる

その気分のまま、昔作ったファイルに目を通すことにした

「いま」に溺れていると、なかなか目が向かわないところだったので、こちらも新鮮である

それらの中には一つの形にまで成長したものもあるが、依然として思索のための種子のままのものもある

そういう時、時の流れを感じると同時に、これから進むべき道のようなものが見えてくる

「未来は過去の中にある」という言葉の真の意味が迫ってきた朝である










2023年10月28日土曜日

アマチュア・クラシック音楽祭にて


























今日は高校時代の同期生から案内があったアマチュア・クラシック音楽祭に顔を出した

ご本人は哲学科で美学を修めた後、いつからか老舗レストランの3代目としていまだに厨房に立ち続けている

声楽がご趣味で、レストランではいつもドイツリートが流れている

ご自身でもやられるということで、20年ほど?この音楽祭に参加されているようだ

今年は日本の歌曲で、演目は石川啄木の「初恋」と山田耕作の「松島音頭」であった

深く通る声はこれまでの鍛錬の賜物だろう

終わった後、何人かの同期生がホールに集まっており、遠くに去ってしまった当時を現在に引き上げる糸口になりそうである

今日アマチュアの方の演奏を聴きながら、わたしの中の音楽心が刺激されたようだ

何十年も触っていない楽器を取り出してみようかという気になっていた

ひょっとすると面白いことになるかもしれない

秋の昼下がり、そんな想像も悪くないだろう



































2023年10月27日金曜日

来月のカフェ/フォーラムの最終準備を始める
































昨日で今年前半のブログ活動を振り返ったことになる

今日から後半に向かおうかと思ったが、振り返るには近すぎる感じがするので、しばらく時間をおくことにした

ということで、来月から始まる秋のカフェ/フォーラムの準備を再開することにした

今日はベルクソン・カフェで取り上げるソクラテス以前の哲学者についてのテクストを読み直していた

いつも感じることだが、どんな記述でもその奥には広大な世界が広がっていることを痛感する

味わいながら読み進めたい



ベルクソン・カフェのこれまでをざっと見直してみた

このカフェが始まったのはもう7年前になる

そして、4年前の第5回までは1週おいて2日やっていたことに驚いた

そのことを忘れていたのである

コロナ明けから1日になっている

当初、相当の熱量をもってこのカフェに当たっていたことを想像させる

その熱量を思い出しながら、直前まで準備したいものである










2023年10月26日木曜日

今年のブログ活動(6)


























今日の振り返りは、今年の6月にパリから戻って以降が対象になる

まず、6月15日の記事にあったアインシュタインの言葉の再録から始めたい
I lived in solitude in the country and noticed how the monotony of a quiet life stimulates the creative mind.
「わたしは田舎で孤独の中に暮らし、静かな生活の単調さがいかに創造力を刺戟するのかということに気づかされたのでした」

わたしの場合、どれだげ創造力が刺激されているのかは分からないが、忙しく仕事をしている時に比べると、内から湧き上がる量の違いにこれまで驚いてきた 

これからもこの状態を維持したいものである


これに関連した観察として、ピアニストのブーニンさんの言葉が6月23日の記事にある

彼が病気のためピアノを弾くことができなくなった絶望の中で感じたこと、それは「何もしない時間の大切さ」だったという

すべてから解放される精神的な状況というのは、思考空間をうまく行けば無限大に広げることができる

これはわたしが一切の「仕事」と言われるものから身を引いた中で感じてきたことである

それが思考に深さと広さを齎すことを願うばかりである


6月23日の記事に、あるアイディア記されている

パリに渡ってから6年ほどの間、ノートを毎日持ち歩き、折々に触れた外界の様子が齎す心象風景をメモしていた

それは、外に向けての興味が異常なレベルに達し、止めることができなかったためである

その興味は5-6年持続したが、それ以降ノートを持ち歩くことはなくなった

外の景色を充分に吸収し、自分の持つ容量を超過したのだろう

それを10年振りに復活してはどうかというアイディアが、この日浮かんだのである

その後1ー2週間は試した形跡はあるが、現在に至るまで再開されていない

ということは、このやり方で得られるものは10年前に得ており、今は違うやり方が求められるということになるのだろう

それは、現在やっているブログの振り返りのような、これまでの蓄積を顧みる作業の中にあるのではないだろうか

ここ数日間で味わっているこれまでにない落ち着いた精神状態を考えると、これからの道が見えてくるようである

その対象になるのは、ブログ記事だけではなく、カフェ/フォーラムの活動、63冊に及ぶパリメモなどがある

パリメモに関しては、これまで何度か読み直す作業を始めたことはあったが、いずれも頓挫している

これらのプロジェクトが今後どのような展開を見せるのか、いつものように注視したい








2023年10月25日水曜日

今年のブログ活動(5)


























先日パソコンの調子が悪くなり、製造元に相談したが解決されなかった

その時に、最近インストールしたソフトが原因ではないかと指摘された

今日、そのメーカーに問い合わせをしてみた

最近のやり方は、チャットで状況を伝えた後、対応策を考えるというものである

結局、本日もリモートセッションになった

40分くらいいろいろやっていたが、やはり解決されなかった

現状のまま使い続けることになる

この間の作業を見て感じたのは、カスタマーサービスがその昔とは大きく変わり、機械的だが効率的になっているということ

現代の一面を垣間見る思いだ



さて、本日のブログの振り返りは、5月上旬から6月上旬にかけてのパリ滞在についてである

コロナが始まった2020年以来になるので、3年振りのパリであった

日本に長くなっていたので、どのような滞在になるのか想像できなかったが、行ってみると思いのほかスムーズにことが運んだ

その中に入ると、以前から住んでいるような感覚が戻ってきた

そして、プロジェクトとして考えていたことと、これからに向けて大きな絵を描くためのアイディアを集めることをテーマとした滞在が始まった

その中で感じていたことは、夾雑物が消えた時間と意識の中で考えることができているということであった

それと同時に、毎日1~2時間は歩くという日本では到底できないことをやっていた

心身がいい状態であったことを想像させる

ただ、所謂観光趣味(外界に対する興味)は殆どなくなっていることを確認した

幸い、当初の目的(内から湧いてくるものの観察)はクリアできたのではないだろうか

全体の印象は、離れの書斎あるいは隣の庭にちょっとお邪魔したという感じである

来年もトライしてみたいと思わせてくれる滞在となった



それから、この滞在中に連絡が入った問題を解決するため、10年振りにニューヨークに向かった

わずか数日の滞在だったが、貴重な経験となった

こちらの問題も解決したのは幸いであった

日本にいると億劫になりがちな外国語での対話だが、その場に入るとハードルが一気に下がる

これからも機会を捉えて行動したいものである











2023年10月24日火曜日

今年のブログ活動(4)


























今日は4月の活動について振り返りたい

4月8日には、来月のカフェPAWLで取り上げることになるテーマのエッセンスが書かれている

この時期にアイディアが生まれているということは、これまでにはなかったように思う

具体的には、プラトンの『饗宴』と井筒俊彦によるプラトン哲学の解説、さらにわたしの「科学の形而上学化」の関連についてである

このあたりは人間の生き方(プラトン流に言えば、真の生き方)と関連する非常に重要な問題だと考えている

興味をお持ちの方は、第10回カフェフィロPAWL(11月14日)に参加していただければ幸いである



年初に思い付いた論文に向き合った形跡がある

しかし、現在まで結実していない

おそらく、そのような意識があったためだと思うが、その昔読んだ哲学論文の書き方までメモしている

例えば、難しい言葉ではなく日常的な言葉を使い、文学的にするのではなく簡潔に書くこと

自分の意見の表明ではなく、その考えを相手に納得させるために議論すること など

現在のわたしは、全体の論理の流れに乱れがないことに注意するようになっている



4月中旬には、「ミーニングフルネス」(人生における意味を持つ状態)についてのメモがある

その議論を纏めると、次のようになるだろうか

従来、自分の利益のための行動か、個人を超えたより大きな価値に基づく行動かという二元論があった

そこに、愛するに値する対象を積極的に愛することから生まれるものという基準が加えられる

それは、心が鷲掴みにされ、わくわくしている状態だと言っている

ただ、愛すると言ってもゲームやアルコールやギャンブルなどに溺れるのはその中に含まれない

自分の人生に意味があると感じるためには、個人レベルでの満足という主観的な側面だけではなく、正義とか道徳などのより客観的な側面を統合的に考える必要があるとする人がいる

後者の側面を考察する際に欠かせないのが哲学である

意味ある人生、幸福に至る道には、哲学が不可欠なのである

これはわたしの確信になっている



4月からエッセイ・シリーズ「パリから見えるこの世界」の英訳を始めている

そのことを介して、これまでの思索の跡を見直そうとしたのだろう

その後この活動は中断されているが、その考え方は現在進行中のブログ活動の振り返りと同根のものだろう

計画のようなものに追われることなく、ゆっくりと進めたいものである



4月27日には、昨年と今年刊行した『免疫学者のパリ心景』と『免疫から哲学としての科学へ』には現代文明批判としての側面があるという記述がある

その骨子は次のようなものである

現代文明は科学を至高の位置に据え、そこから外れる思考を認めないところがある

事実の断片だけが空中に舞い、その全体が何を意味しているのか、その背後にどのような抽象的・普遍的なものがあるのかという思考には向かわなくなっている

つまり、考えることをしなくなっているのである

これをわたしが言うところの「意識の三層構造」に当て嵌めると、意識活動は第一層と第二層だけに留まり、全的で抽象的な思考が行われる第三層には至っていないことを示している

この点に関連して、井筒俊彦の分析が4月10日の記事に出ている

それによると、意識の表層に留まる活動を「自我」とし、無意識にまで及ぶ活動を「自己」としている

わたしの三層構造と対比すれば、「自我」は第一層での活動で、「自己」は無意識を含んでいるので、新たに無意識を第四層とし、それに第三層を加えた活動ということになるだろうか

井筒は自我と自己の乖離を現代に見ているようだが、その視点はわたしのものと繋がっている

このあたりを中心として、さらに考えを深めたいと思わせてくれる気付きであった











2023年10月23日月曜日

今年のブログ活動(3)


























土曜には拙著『免疫から哲学としての科学へ』(みすず書房)を肴に、免疫や科学、そして哲学について語り合う会を持った

その様子をこちらに簡単に纏めてみた

このような本と付き合うには、時間をたっぷり取り、思考空間をできるだけ広げて、目の前にある言葉をその空間に描くという作業が欠かせない

その上で、その絵を見ながら自らの思考を展開するのである

そうすると、著者の言いたいこと、思考の過程が浮き上がってくるだろう

そのためには、今回のカフェのような時間が必要になる

忙しい現代で欠けているのは、このような静かな時間ではないだろうか

この秋のカフェ/フォーラム・シリーズ第一弾を終えて浮かんできた感想である



さて、今年のブログを振り返る作業を再開したい

2月は『免疫から哲学としての科学へ』の校正に追われていた

その中で、2月23日に前ブログ「二つの文化の間から」から本ブログ「自然と生命を考える」に場所を移している

その理由として、これまで抱えていたいろいろなプロジェクトが一気に終結したことがある

一つ目は『医学のあゆみ』に連載していた「パリから見えるこの世界」が、昨年105回をもって終わったこと

二つ目は、そのまとめとしての『免疫学者のパリ心景――新しい「知のエティック」を求めて』(医歯薬出版)が昨年刊行されたこと

そして三つ目は、『免疫から哲学としての科学へ』がこの3月に刊行されたことである

これらすべてには、フランスに渡る前から始まり、フランス生活の中で浮かんできた問いについてのわたしなりの回答が埋め込まれている

このような背景の下、新たな問題について考える場を欲したのかもしれない

そして早々に、本ブログのタイトルに選んだ「自然」(ピュシス)が取り上げられている

また3月18日には、自然の構造を哲学的に提示することの重要性を説き続けたというシェリングの自然観にも触れている



2-3月には春のカフェ/フォーラム・シリーズを開催した記述がある

これまでと違うのは、終了直後から秋のシリーズのアイディアが固まっていることである

カフェ/フォーラムに対して攻めの気持ちでも生まれていたのだろうか

一つの証左かもしれないが、サイファイ・フォーラムFPSSで発表された内容をまとまった形で公表する場を設けるというアイディアが浮かんでいる

その場の名前を「自然と生命のための科学と哲学」(Science and Philosophy for Nature and Life: SPNL)とし、現在投稿をお待ちしているところである











2023年10月22日日曜日

第10回サイファイ・カフェ SHE 札幌、無事に終わる














昨日、第10回のサイファイ・カフェSHE 札幌を開催した

今回のテーマは、拙著『免疫から哲学としての科学へ』を読み、その中にあるテーマについて議論するというものであった

参加を予定されていた方が急用のため参加できなくなり会の開催が危ぶまれたが、最終的には4名の参加を得て、充実した話し合いができた

その内容については、近いうちに専用サイトに掲載する予定である

ご参照いただければ幸いである


今回のテーマは、参加するためのハードルが高かった可能性がある

次回はもう少し一般的なテーマを設定することにしたい

そのために、現在進行中のブログ活動の振り返りに倣い、これまでのカフェ/フォーラム活動の全体も振り返ってみる必要がありそうだ

今年はサイファイ研究所 ISHE を始めて10年目に当たるので、丁度良い機会ではないだろうか

その中からこれから先が自ずと見えてくることを期待したい

具体的なテーマが決まり次第、この場でお知らせする予定である

参加いただければ幸いである


















2023年10月21日土曜日

今年のブログ活動(2)















今年のブログを振り返るプロジェクト2日目になる

これまでに蓄積した問題を考え直すことによる精神の安定を昨日感じた

これは先日触れた「絶対的真理への道」とも関連する

まず、いろいろな事実を集めるが、そのうちにそれぞれの間に繋がりが見えてくる

その塊を一段上の新たな事実として纏めていく

この作業を繰り返していくと、最終的には最初にあった事実の全体のエキスのようなものが見えてくるのではないか

それをさらに高めたものをわたしが想像する絶対的真理として求めるというものだった

ブログに関するプロジェクトは、この過程の最初の段階に当たる

免疫学者のパリ心景』は、「医学のあゆみ」のエッセイに関する第一段階の成果だったとも言える

このような試みを全活動について進めることが、これから重要になるだろう

という認識に至ったところで、第2回目に入りたい


1月、2月は春のカフェ/フォーラムの準備をしていた

始まる前からアナクシマンドロスの「アペイロン」に興味を持っていた様子がうかがわれる

ソクラテス以前の哲学者については、いずれ纏める必要があるだろう


また、2年ほど前に発見した科学の成果と哲学との関連があり、『免疫から哲学としての科学へ』の中でも触れた

年初に、その点についてもう少し掘り下げて論文にしてはどうかというアイディアが浮かび、手を付けたことが記されている

しかし、今に至るまで完成には至っていない

このまま消え去るのか、あるいは形になるのか

今年はまだ終わっていないので、もう少し様子を見てみたい


我々は相変わらずの戦争の世紀の中にいる

そんな中、闘争本能とそれを抑えることが期待される理性との関係について触れた記事が2つあった

前者は生物の本能のようなもので我々に埋め込まれているが、後者が働くためにはトレーニングが必要になる

それだけ闘争本能のコントロールは難しいのである

古代ギリシアの霊魂論には、「ヌース」(知性、理性)、「プネウマ」(気息、生命)、「プシュケー」(魂)の他に「テュモス」(気概・気持)がある

「テュモス」の実体は「知の沸騰」「激しい息遣い」とされ、荒々しい心の動きを指している

プラトンやアリストテレスは、「ヌース」を上位に置き「テュモス」はそれより下にあると考えた

現代の状況を考慮に入れ、理性が抑えるべき対象となる「テュモス」について見直してはどうかという流れがあるようだ

わたしも意識しておきたい点である


それから、「ピュシス」(自然)についての記述が1月だけ見ても散見された

これらは現ブログ「自然と生命を考える」への底流になっていた可能性がある







2023年10月20日金曜日

今年のブログ活動(1)















パソコンの調子が悪くなり販売元に相談したところ、今日もリモートセッションとなった

1時間以上かかったが問題は解決されず

これからは不自由な状態のまま使い続けることになりそうだ


ブログの活動を見直す作業だが、一応、今年の分から始めることにした

2月までは前ブログ「二つの文化の間から」に書いてある

今年初めの3回は、昨年からのつづきでコリングウッドの自然観について書いている

これらは、今年の分が終わってから進むであろう昨年分の振り返りの際に取り上げるかもしれない


これまでにも触れているが、今年は年の初めにプロジェクトを決めることなく歩むことにした

その記述は前ブログの1月6日にある

年の初めの自分にその後の自分が縛られるのを嫌がったためだ

所謂仕事をするということは、決めたプロジェクトが実現するように自分を縛ることだが、それを忌避したということだろう

言い方を換えれば、その年のプロジェクトは年末に明らかになるという考え方の実行である

この考えは9年前のエッセイに書いたものになる

目的論は本当に科学の厄介者なのか、あるいは目的は最後に現れる(医学のあゆみ、2014.10.11)


プロジェクトに関する大きな枠組みの話が1月12日に出ている

それは、フランスに渡る前(2005~2007年)に書かれたエッセイを読んで生まれたものである

フランスで発見したと思っていたことは、実は退職前の数年間に気づいていたことをより深く、より明確にしたものであった

つまり、渡仏前に抱いていた疑問や問題などについては、一応の回答を得たようなのである

これからは、フランス滞在により生まれた新たな問題をどう解決していくのかについて考えなければならない

今年は年初から『免疫から哲学としての科学へ』の3月刊行に向けた準備に追われていた

この本は上記の問題に対する答えの一つになるのではないだろうか

また、昨年刊行した『免疫学者のパリ心景』も積年の問いに対する回答になっているはずである


これからに向けてのやり方として、1月16日の記事には次のようなことが書かれてある

滞仏中のように新しい荒野を彷徨い歩くことを止め、これまでの旅で蓄積したものを深く掘り進むことに徹してはどうか

そこにある「種」を大事に育てるように歩むべきではないのか

旅での蓄積が想像を超えていることを考えると、このやり方が理に適っているのかもしれない

取り組むべき問題は、すでに目の前にあるのである

暫くの間狩りは止めにして、一ところに留まり深掘りせよということなのだろうか

これを書きながら、今こうしてブログを振り返っていることも同じ志向性を持っているような気がしてきた

妙に気持ちが落ち着くのである


今日はこのくらいにしておきたい


 




2023年10月19日木曜日

ブログの振り返りについて



















今年このブログに何を書いてきたのか、そこから見える自らの活動について振り返ることにした

今日をその第1回にしようと思ったが、事態はそんなに簡単ではないことが判明した

今年の初めはまだ前ブログで書いており、昨年から読んでいたコリングウッドの自然観の最後の3回分から始まっていた

このシリーズは76回で終わっている

調べると、昨年9月1日に始めたことになっているので、4ヶ月間これを続けていたことになる

昨年は他にもいろいろ読んでいるので結構な内容が詰まっているはずだが、明確な記憶として残っていない

昨年末に書いた「1年のまとめ」を読み直してみた

他の活動やブログで取り上げた人はリストアップされているが、ブログの内容に関しては振り返りがされていない

記憶に残っていないのは、今年に限ったことではないことが判明した

これまでこの種の振り返りをやったことがなかったのである

今まで放置されていたのは、そこに重要性を見出していなかったからだろう

コリングウッドのところを読み返しただけでも、放置できないものが至るところにある

今日のところ、このプロジェクトはもう少し真面目に考えなければならないというところに落ち着いた

意外に大変なことになりそうな予感がしてきた









2023年10月18日水曜日

リマインダー: 秋のカフェ/フォーラムのご案内


 Gualtiero BUSATO - La fontaine du dialogue @Angers




サイファイ研 ISHE 主催による秋のカフェ/フォーラムを以下の要領で開催いたします

興味をお持ちの方の参加をお待ちしております

よろしくお願いいたします



◉ 第10回サイファイカフェSHE 札幌

2023年10月21日(土)15:00~17:30
京王プレリアホテル札幌 会議室

テーマ:『免疫から哲学としての科学へ』で、免疫、科学、哲学を考える
今年刊行した免疫論に提示されたいろいろなテーマについて議論できればと考えています


◉ 第8回ベルクソン・カフェ

2023年11月8日(水)18:00~20:30
恵比寿カルフール B会議室

テーマ:J・F・マッテイの『古代思想』(La pensée antique, PUF, 2015) を読む
(参加希望者にはテクストをお送りいたします)
平明なフランス語で書かれた古代ギリシア思想、特にソクラテス以前の哲学者が求めたものについて考える予定です


◉ 第9回サイファイ・フォーラムFPSS

2023年11月11日(土)13:00~17:00
恵比寿カルフール C会議室

プログラム:
① 矢倉英隆 ソクラテス以前の哲学者―3
② 牟田由喜子 H・コリンズ『専門知を再考する』: 専門知は市民社会にどのように有用なのか? 
③ 木村俊範  日本のテクノロジーには哲学が無かったのか、置き忘れたのか? ――  一テクノロジストの疑問



◉ 第10回カフェフィロPAWL

2023年11月14日(火)18:00~20:30
恵比寿カルフール B会議室

テーマ:プラトンの『饗宴』と神秘主義
愛・恋についての対話編『饗宴』を読み、我々の精神の働かせ方、さらに生き方についてのプラトンの考えと神秘主義について語り合う予定です


◉ 第17回サイファイカフェSHE

2023年11月17日(金)18:00~20:30
恵比寿カルフール B会議室

テーマ:『免疫から哲学としての科学へ』を合評する
今年刊行した免疫論について、いろいろな側面から議論していただければ幸いです
















2023年10月17日火曜日

このブログに何を書いてきたのか



















昨日のこと、今年このブログに何を書いてきたのかのイメージが全く湧いてこないことに気が付いた

このブログを始めたのが今年に入ってからだということも、記憶に残っていなかったくらいである

フランスにいる時とは全く違うのである

なぜそうなっているのか


これまでの時間の中で、これからの生き方についての大きな方向性は出来上がってきた

今は、その方向性で歩みを進めればよいと考えているようなのである

そのためか、大きな枠組み、基本的な考え方を揺るがすものには余り出会わなくなっている

こちらの方が出会うものより堅固になっているとも言えるだろう

このような状況なので、根源的な感動に接する機会が減っている

この場に書いたものが鮮烈に迫ってこないというのも理解できるところである

特に今年は、人の書いたものを読み、それを纏めるという記事が多かったように思う

ある意味で、自分に発したものではなく、外から入ってくるものを頭の中で処理するという作業だったとも言える

しかもそれが身に付いていないために、イメージが湧いてこないのだろう

このままの状態にしておくと、これまでに書いたものがどこかに流れ去ってしまう可能性が高い

折角なので、今年は一体何を書いていたのかを振り返る時間を持つのもよいのではないか

昨日、そんなところに考えが落ち着いてきた

年末に向けて、このブログの振り返り(réflexion)を行うことにした







2023年10月15日日曜日

井筒俊彦のプラトン(13)「死の道」(4)

































「死の道」に関する最後の記述は、これまでのまとめになっている

井筒の文章は、理系の人間から見ると少々くどい印象が拭えない

一つの主張をするために、多くの側面から、いろいろな表現を使いながら進めるところがある

もう分かったと言いたいところだが、なかなか手を緩めてくれない

そこまでやらなければ理解されないと考えているのだろうか

あるいは、それが文学的表現ということになるのだろうか



それではまとめに入りたい

人間の霊魂が地上に堕して肉体に宿る前、天上にあって観照したイデア界の光景を覚えている

プラトンミュトスによれば、すべての霊魂は一人の馭者に御される二頭立ての馬車に譬えられている

神々の馬車は何の困難もなく飛翔するが、脆弱な霊魂を持つ人間の馬車は上昇できず、後に地に堕ちて人間の肉体に宿ることになる

最大の難所は天空の外側に出るところで、「天の彼方なる場所」に辿り着いた時、正義それ自体、節制それ自体、知識それ自体などを目にするという

もちろん、それが可能なのは神々の馭者ということである

このように、肉体と結合する前の体験を霊魂が記憶していれば、自己の内面に深く入ることにより真理に逢着できるはずである

死の道は真実在の認識に至らんとする内向的体験道であり、エロスの道、弁証法の道は絶対者認識に至る外向的体験道ということになる

後にルドルフ・オットーは神秘主義を2つに分けて考えているが、それはプラトンにおいて既に確立されているとしている

1つは神を魂の深奥に求める「霊魂・神秘主義」であり、もう一つは神を絶対超越者として無限の彼方に尋ねる「神・神秘主義」であった

内向の道と外向の道は表面上は対照的に見えるが、本質的には同一の道であり、最後には同じ処に到達するのである

(了)



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非常に充実した読みになったと感じている

これまでのわたしの歩みがプラトンの理論との関連で理解できるようになったことも非常に大きかった

これは想像もしていなかったことである

これからもこのような想定外の出会いがあることを願っている











2023年10月14日土曜日

井筒俊彦のプラトン(12)「死の道」(3)



















「死の道」とは、生きながら感性的生を殺して、超感性的な生の原理を呼び覚ますことであった

しかし、「エロスの道」も「弁証法の道」も同様の要素を含んでいる

それではなぜ、「死の道」を独立の神秘道として認めるのであろうか

そこに極めて特色ある性格があるからである

「エロスの道」も「弁証法の道」も、究極の目的地(絶対超越的実在)は外であり上に向かってのものである

その道は、イデア界の秘奥にあるであろう遠き神を求めて、頭上の穹窿の彼方に上昇するというイメージであった

しかし、「死の道」はその反対だという

ここにおいて人は自己の外に向かうのではなく、自己の内に入るのである

心の眼を内部に向け、深く自己の底なき底に沈潜していく下降なのである

この霊魂の自己沈潜が霊魂の浄化であり、「死の実践」だったのである

「エロスの道」「弁証法の道」において、神は蒼穹の彼方、無限の距離を隔ててあるが、「死の道」においては自己に内在する無限に近い神となる

それではなぜ、自己の底に沈潜することにより神に逢着するのだろうか

それは霊魂がはじめから自己の内に神を宿しているからでなければならないという

それに気づかないのは、肉体的生にあるために心の眼が濁っているからである

プラトンはこの状況を「イデアの記憶」のミュトスとして表現した

イデアの世界は仄かな記憶となって霊魂の底に忘れられ潜んでいる

つまり、失われた記憶を甦生し(アナムネーシス)、これに溌溂とした活動を再び与えることこそが、「死の道」としての哲学ということになる

霊魂に超越的世界の記憶がなければ、感性界を唯一無二の世界と信じて疑わず、無常の風に吹かれるまま運命に流されるだけである


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今日のお話に関連して、興味深いことに気づいた

9月17日のポストで、次のような観察をしている

  これまでは、天空にいて現象界を下に見ているように感じていた

  しかし最近、普段は海底で暮らし、現象界に触れる時には底から浮き上がってくるような感じに変わっている


これをプラトンの「エロスの道と弁証法の道 VS. 死の道」という図式の中に入れると、どうなるだろうか

これまでは「エロスの道」「弁証法の道」にあり、蒼穹の彼方を目指して上昇を続けていた

先日紹介したわたしが想像した「絶対的真理への道」も上昇や飛躍が中心にあった

それが最近では海底に下降しているように感じている

なかなか上昇しているという感覚が生まれず、海底ゆえに暗い気分でいた

今日の一節を読みながら、現在わたしは「死の道」にいると考えてもよいのではないかと思った

もしそうだとすれば、プラトンの言う神秘道の表の側面(エロス・弁証法の道)から裏の「死の道」にフェーズが変わってきたと言えるかもしれない

これはわたしにとって大きな発見である

これが一体何を意味しているのか、これからも注視する必要がありそうだ








2023年10月13日金曜日

井筒俊彦のプラトン(11)「死の道」(2)

































絶対的真理あるいは真実在の認識は、死後でなければあり得ないとされた

だとすれば、その認識は現世でも可能であるとする神秘主義は、一体どのような根拠に基づいているのであろうか

ここで問題となる「死の修練」とは、現世にある間はできる限り肉体の感性から来るものに霊魂が汚染されぬよう、苦行することであった

それ自体が目的なのではなく、死後の霊魂の浄福が目的なのである

来世のために魂の浄化に努めることであった

これはプラトンの創見ではなく、オルフェウス教ピタゴラス教団などの密儀宗教団が行っていたものである

プラトンは密儀宗教の実践面を借用し、究極実在の直接認識を目的とした哲学的「死の道」として転成した

密儀宗教と同様、死後の霊魂の浄福を目的とする生物学的死への準備であるが、現世における死後のための準備(死の道)であるという特徴を持っていた

プラトンの関心は「死の前の死」にあったのである

神秘主義は「人が神に成り、神であること」の道だと言われるが、そこには「人間の身に許された限度で」という制限が付く

神秘主義は所詮、相対的存在である人間の相対的な営みに過ぎず、絶対者に肉迫できるかもしれないが、最後の一歩を超えることはできない









2023年10月12日木曜日

井筒俊彦のプラトン(10)「死の道」(1)
































これまでは、生の肯定、現実世界の芸術的肯定を問いた『饗宴』をもとに考えてきた

しかし今日は、生の否定、現実世界の宗教的否定が基調にある『パイドン』について繙いてみたい

一見すると対照的な愛と死の道であるが、実は両者は究極においてイデアへの同一の道なのである


エロスの道は、一つの肉体から二つの肉体へ、そこからあらゆる肉体へ、肉体から事業へ、事業から知識へと登り行く霊魂上昇の階段であった

この過程は霊魂の浄化であり、各段階は旧き自己の死を経て新しい自己に生まれ変わる死生に他ならなかった

現実世界の肯定に安住し、死を経ることのない人間精神には、神秘主義も宗教も生まれる余地がない

感性的世界の外に超感性的世界が実在し、感性界を一度否定することなくしては超越的実在の世界には逢着し得ないのである

またその自覚なくして、宗教も神秘主義も不可能なのである


プラトンにとって「哲学する」とは真理の認識であり、そのためには感性界の影響を絶ち、肉体が死に行く過程が不可欠であった

肉体から見ると、霊魂は肉体に活力を与え、それがなくなると肉体は朽ちて行く

一方霊魂から見ると、肉体と結合している間は一時的な死の状態に陥っている

なぜなら、霊魂の生は純粋知性の認識能力の発動の内であり、肉体から来る感性による認識や感情が霊魂本来の機能を阻害するからである

したがって、人間が真にその名に値する生を生きるためには、霊魂が肉体から解放されなければならない

プラトンによる哲人の「死の修練」は、肉体に死を与え、霊魂に生きようとする道の実践であり、そのことによってより高い生命を獲得しようとする「生の修練」だという

もしそうだとすると、霊魂が肉体と完全に分離する死を経た後でなければ超越的真実在を観ることはできないことになる

現世に在る時にできることはそのための準備であり、それが不十分な時には神的世界に昇ることはできない



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『パイドン』を読んだ時のエッセイがあるので、以下に貼り付けておきたい

もう5年以上前のことになる










2023年10月11日水曜日

井筒俊彦のプラトン(9)「エロスの道」(4)
































これまで見たように、プラトンのエロスは上昇する性質を持っているが、正しい育て方をしなければ上昇することのない迷妄のエロスとなる

饗宴』に出てくるディオティマによれば、正しいエロスの育て方と向上の道程は四段階から成っている

第1段階は肉体愛に属する最下層で、その中にはいくつかの段階がある

最初は1つの美しき肉体にエロスを抱くが、やがて同様の美は他の肉体にも宿っていることに気づき、それはすべての美しき肉体に対する、普遍的な肉体美への愛に転成する

第2段階に入ると、普遍的な肉体美よりも精神美が遥かに尊く価値あることを自覚するようになる

これがさらに進むと、社会的事業や法律のようなものの中にも美が存在することに気づくようになる

第3段階では、美しき肉体、美しき精神、社会的事業、制度などの特殊個別的な美に執着するのを止め、美の大海を眼下に俯瞰しつつ、無数の見事な思想を生み出す

何ものにも隷属することのない卓立無依の自由人になるのである

そして、美の観照に沈潜して瞑想の深底を究めるうちにその精神は著しく力を増し、遂に絶対美の認識にまで飛躍転成を敢行する

その結果到達するのが第4段階で、それは愛の道の最高究極の境地、奥儀になる

この段階に近づく時、驚くほど異様に美しきものを目にすることになるという

それが求めていた絶対美そのものなのである

それは第一に、永劫常在であり、不生、不滅で、減少も増大もない

第二に、条件によって醜となるような相対的な美でもない

第三に、肉体の部分として顕現することも、特殊な言説や認識の下に現れることも、如何なる形姿をとって顕現することもない

それは、深く寂とした、ひとつ抜きん出た久遠の実在である 

このエロスの秘奥に参入する多幸な人は、真の実在としての徳を産出することができ、人間として限りなく不死の人となり得る

つまり、神の伴侶となることが可能になるのである

そして、人生が生きるに値するものであるとすれば、この境地にまで進むことをもってその理由となるであろう


プラトンの愛の上昇道程は、美しき肉体から美しき精神へ、美しき精神から美しき事業、美しき知識へ、そして最後に美しき知識から絶対超越的美の本体へと進むものであった

そこには峻険な自己超克が含まれていることを忘れてはならないだろう











2023年10月10日火曜日

井筒俊彦のプラトン(8)「エロスの道」(3)



















本日も井筒俊彦によるプラトンの「エロスの道」のつづきである

早速始めたい


神から与えられる「ダイモン的なるもの」が人間の中で発動すると、美を獲得しようとする愛として現れる

それは善を獲得しようとする願望に帰着する

この善を熱望する愛が、エロスと呼ばれる

つまりエロスとは、善きものを永久に所有しようと欲すること、と定義できる

それが現実化されるのは、美しきものの中に分娩すること、美しきものにおける生殖として実現する

これは肉体的だけではなく、精神における懐妊についても当て嵌まる

これらを踏まえエロスを再定義するとすれば、美しい対象の内に生殖・分娩することの愛求、とすることができるであろう

死すべき存在は、いつまでも存在し不死であろうとする希求がある

それが懐胎と生殖欲である

この過程によって自らの消滅を超えた永遠性を手に入れることができる

この点を考慮すれば、エロスは永遠性の希求であると定義し直すことができる

プラトンにおけるエロスは、善実現を目指す熾烈な創造的生命の原理なのである

肉体的な懐妊、分娩はあらゆる動物に通じる普遍的現象で、エロスの最低級な発現に過ぎず、人間に特有なものではない

これに対して、精神的な生殖欲を有する人が生むものは、肉の子供ではなく、知慮、正義などのあらゆる徳である

この精神上の分娩こそ、人間本来の生産でなければならない

真に高貴な永遠性は肉のそれではなく、精神の永遠性である

したがって、肉の子供を産んだからといって祀られた者は未だかつてない

ただここで注意すべきは、肉体的エロスと精神的エロスが無関係に存在するのではないことである

肉体的エロスから出発しながらもそれを浄化することにより精神的エロスに転成させ、よって超感性的実在に肉迫することができるようになることである

プラトン的愛の上昇には、自己超克の原理が内包されているのである






2023年10月8日日曜日

井筒俊彦のプラトン(7)「エロスの道」(2)



















今日も井筒俊彦によるプラトンの「エロスの道」のつづきを読みたい


プラトンは霊魂の三分説を唱えた

具体的には、第一はロゴス的要素すなわち純粋知性、第二は名誉心・勇気などの源泉となる激情的要素、そして第三は肉欲などの心の動きを引き起こす欲情的要素である

ティマイオス』によれば、第一の純粋知性のみが神的で不死であるが、第二、第三の要素は肉体の死とともに消滅する

霊魂が不滅という時の霊魂とは、純粋知性の部分だけを指していたのである

純粋知性とは神が我々に付与したダイモン(神と人との仲介者)である

地上に堕ちて人間の肉体に閉じ込められても蒼穹の彼方を思い、そこに帰らんとする情がエロスなのである

人間霊魂に宿る永遠性に向かう志向性こそ、エロスの本体であると言っている

一般にプラトン的愛は人間から神に向かう上昇志向性と解釈されているが、プラトンの真意は絶対者が相対者を引き上げんとする上から下への呼びかけでもある

そのことを部分的にではあるが感得するのは、昇り行く道の終局でしかない

しかし、絶対者から相対者への愛の下降性の働きかけを的確に捕捉・記述することは、人間には不可能であろう







2023年10月7日土曜日

井筒俊彦のプラトン(6)「エロスの道」(1)
































本日は、井筒俊彦による「エロスの道」を読みたい


純粋観想によりイデアに至るのではなく、概念を介して叡智界全体を把握する方法をプラトンは考えた

そうすると、本来イデアとされたもの以外の卑賎、邪悪なものにもイデアが存在することを確認することになった

存在論的にはそれぞれのイデアに差はないのだが、体験的主体にとっては優劣が生まれるのである

イデアの頂点を究めんと欲する者は、イデアの中から適切なものを選択して、そこに繋がる連鎖(階段)を上昇しなければならない

プラトンが指摘するのは「真」「美」「智」などの愛に値するイデア系列であるが、特に「美」のイデア系列を重要視している

この世のものとも思えぬ美的体験こそ、プラトン的美の秘儀へのイニシエーションなのである

他のイデアも叡智界では燦然と輝いているのだが、地上の感性界に降りるとその輝きは弱まる

しかし、美のイデアに関しては地上でも輝きを失わず、これに触れるやいなや忘れていた先住の家を思い出し、焦燥の思いに燃える

ここに、地上の美から永遠の「美」へ、「美」の本体へのエロスの飛翔が始まる

これがプラトンの「エロスの道」なのである

エロスの道は、これまで見てきた弁証法の道と目的、構造の面で完全に一致している

違うのは、弁証法が一般的で抽象的なものに向かうのに対し、エロスの道は特殊性と具体性を持ち、経験的に限定されているものに向かうという点だけである

プラトン的愛の体験道は道の奥に至ると深い宗教的敬虔の雰囲気に包まれ、哲学は絶対美を本体とする崇高な秘儀宗教として構想されているという










2023年10月6日金曜日

プラトンの「弁証法」とわたしが想像した「絶対的真理への道」




これまでに、至高の真理(善のイデア)に至る方法として、プラトンは「弁証法」(ディアレクティケー)を唱えたことを知った

概念の背後には実体としてのイデアが潜んでいるので、どれかを選び、それについて精神を集中するとその実体が見えてくる

それを第一次イデアとし、そこから一段上のイデアを想定してさらに精神集中・観想することにより、第二次イデアとでも言うべきものが明らかになる

そして、この過程を繰り返すことにより「善のイデア」という至高のイデアに到達するというのが、プラトンの弁証法であった

これを知った時、6年前に「医学のあゆみ」のエッセイに纏めた「絶対的真理への道」のことを思い出した




科学の領域に身を置いている時、「絶対的」という言葉はわたしの辞書にはなかった

哲学に入ってからも、この言葉を使うことに暫くの間、強い抵抗があったのである

しかし、このエッセイを書いた頃にはその抵抗感は弱まりつつあったが、消えてはいなかった

そして、手が届きそうもないが、いずれ見えてくるかもしれない「絶対的真理」なるものを想定して、下図のような想像をしたのである





Aは、限られた数の事実から、論理を超えた1回の飛躍で絶対的真理に辿り着く場合で、この道は天才と呼ばれる人にしか開かれていないだろう

Bは、いろいろな事実を集めた上で、論理的に導き出された一段上の限られた数の真理に至り、そこから論理を超えた飛躍によって絶対的真理に辿り着く場合で、これがわたしが歩もうとした道であった

これを想像した時期は連載エッセイを書き始めから5-6年、カフェ/フォーラムの活動を始めてからも同じくらいの時が経過した頃であった

今この図を見直すと、一番下にある「事実」としたものは、井筒の説明にある「第一次イデア」「下位のイデア」に当たると考えてもよいだろう

その頃までにはこのような事実(第一次イデア)が蓄積し、しかもその中に繋がりが見えてくるという経験をしていた

つまり、最下位のイデアの中に塊を作るものが現れ、そこからさらに上位のイデアに向かうことができるのではないかと感じさせたのである

そのため、この過程を繰り返して歩めば、より高位のレベルに達することができるのではないかということで、上図Bの道を想定したのであった

この時の考えは今も変わらず、その方向性で歩んでいるとも言えるだろう

ただ、現在どの段階にあるのか、この先どのような景色が現れるのか、ということに関しては全く分からない

言えることはおそらく、この道以外に行く道なし、ということではないだろうか












2023年10月5日木曜日

井筒俊彦のプラトン(5)「イデア観照」

































本日は、井筒俊彦神秘哲学』の「イデア観照」という項を読むことにしたい

プラトンイデア論は、最初に純粋無雑なイデアをいかなるものの仲介に拠ることなしに
感得しなければならない

その後に概念操作によるイデアの考察(一種の論理学)が続くのである

そうは言うものの、前段の純粋イデアの直接的把握には多くの困難が伴う

概念を叡智界に導入することにより、イデアから出る強烈な実在の光を抑えることができ、それによって擦りガラス越しにではあるが、イデアの世界を一望することができる

しかし、若きプラトンがフィロソフォス(哲学者)に要求したのは、純粋イデアの観照の体験道だったのである

哲人政治家の卵に要求したのもこの道であり、そのためには数学・自然科学の訓練が純粋イデア観照の能力を高めるとされた

各人にそのための器官が具わっており、これらの訓練がその器官の汚れを払拭・浄化し、超越的対象が開顕されるようになる

ただそうだとしても、イデアの発見は偶然に任され、そこで見えてくるものは下位イデアである

また、幸運にもこれらの方法でイデアが明らかにされたとしても、イデア相互間の関係を掴むことができない

ここに組織的な弁証法が必要になる理由がある

イデアの所在を認知するためには、概念の介在が有効である

なぜなら、概念の背後には実体としてのイデアがひそんでいるからである

概念はイデアを覆うもので、中身は明確でなくとも、その所在は確認できるのである

アリストテレスによれば、普遍者とは「他者を包摂しつつ超越する一者(多の統一)」が実体で、それはなかなか把捉できないが、概念としては捉えることができる

このようにして概念の位置を確認できたならば、その中から任意に選び、そこに精神を集中すると、概念しか見えなかったものの実体が姿を現すであろう

その実体を第一次イデアとしてそこに昇り、その地盤からさらに一段上の普遍者を仮定して純粋観想を試みる

このように一段一段上位のイデアを直証することにより、最終的には至高のイデア、すなわち「善のイデア」に到達するのである

そして、そこに至る道を照らしていたのは、実は実在界の太陽である善のイデアからの光だった

つまり、善のイデアは諸イデアに存在と実在性とを与えているのである



この観点から叡智界を見る時、プラトンはイデアがあらゆる分野に存在することを認め、イデア論を批判する

すなわち、数学的関係のイデア、倫理的イデアの存在は確認するが、火や水などの具体的なもの、さらに泥や塵埃など醜穢なもののイデアは否定し、確認したイデアだけに専念すると考えたのである

井筒は、ここでプラトンの神秘主義者としての歩みは終わり、存在の論理学、形而上学を核心とする後期イデアリズムが始まると見ている

ただ、プラトンのイデアリズムに断裂があるとする見方には批判もあるようだ


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至高の「善のイデア」というレベルに至るプラトンの弁証法の過程を知り、驚いていることがある

それは6年前、「医学のあゆみ」に書いたエッセイで想像したことと非常によく重なっていたからである

この点については、次回に取り上げることにしたい













2023年10月3日火曜日

免疫意味論を再考する

































生物意味論(biosemiotics)については、3月に刊行した『免疫から哲学としての科学へ』でも取り上げた

この本では biosemiotics を生物意味論としたが、生物記号論、生命意味論、生命記号論などの訳語が使われているようだ

そこで取り上げたことは、生物意味論から免疫へのアプローチが試みられたことであった

40年ほど前に行われた免疫意味論(immunosemiotics)という領域の提案である

しかし、それ以降の展開を見ると、この試みは失敗に終わったように見える

当初から、例えば、ウンベルト・エーコのような学者は、意味論が免疫学から恩恵を得ることはあるかもしれないが、免疫学が意味論から多くを得ることはないのではないかとの感触を表明していた

その感触が正鵠を射ていたことが分かる

今朝、このあたりの問題を少し踏み込んで考えてみてはどうかというアイディアが浮かんできた












2023年10月2日月曜日

井筒俊彦のプラトン(4)「弁証法の道」
































今日は井筒俊彦によるプラトンの「弁証法の道」を読むことにしたい

前回までで、西洋神秘主義の主体的基本構造が、プラトンの洞窟の比喩に明確に表れていることを知った

その後、キリスト教を通じてヘブライ的東方精神と融合し、神秘主義の性格も変わるのだが、その論理的基本構造は微動だにしなかった

つまり、相対的感性界の深闇と絶対超越的真実在の光明を両端として、その間を往還する道は時空を超えた永遠の形態なのである

この点を認識論的、存在論的に検討するために、プラトンは「線分の比喩」による四段階説を提示した

以下、井筒の用語で解説したい




上図に示したように、洞窟の奥の暗闇(A)から太陽(B)に至る道を1本の直線で表す

この線上にCという1点を定めると、A-CとC-Bという2つの部分が生まれる

このA-Cを感性界(the sensible)の全体、C-Bを叡智界(the intelligible=>知性によってのみ理解される)の全体とする

さらに、A-Cの部分をD点で分割し、C-Bの部分をE点で分割すると、全体で4つの部分が生じる

A-D部は洞窟の壁面の世界に当たり、認識主体においては「憶測」であり、対象は実在性のない幻影なのだが、実物と信じて疑わない

D-C部は壁面を見ている状態から後ろに向かって進み、影の本体を知る「信念」の段階だが、その実体は変転の中にあるもので、確実な実在の上には立っていない

プラトンはこの2つの部分(A-C)を「仮見」(doxa)と名付けた

それより上部に当たる2つの部分(C-B)は永遠に存在するものに関する世界で、「知性」(noesis)とされた

その中のC-E部は「悟性的認識」の領域で、仮説としての感性的世界に属するものから出発し、そこから超感性的なものを観る

したがって、ある仮定から正しい推論によって演繹的に結論を引き出すだけで、存在の究極的始原にまでは上昇できない

E-B部は「超感性」の世界で、認識する対象は生成的事物ではなく「実在」(ousia)である

C-E部で働く「悟性」(dianoia)による認識をよく見ると、感性的知覚の中に悟性の活動を促すものが含まれていることを示している

感覚だけで明らかなものと、それだけでは不確実なものがあり、後者が知性による考察を要求して超越的なものに向かうのである

そこで生成から実在に触れ、その観照に向かうために重要になるのが、数学的思惟だとプラトンは考えた

「悟性的認識」は日常的人間知性が辿り着ける限界と見ることができるだろう

そこからE-B部の「超知性・純粋思惟」の世界を望むと、目の前には深淵が現れ、そこに橋は掛かっていない

飛躍が必要なのである

プラトン的真の哲学者は、洞窟の奥から聞こえる冷笑をものともせず、飛躍しなければならない

そしてこの飛躍を成し遂げ、太陽の下に出た者を、プラトンは弁証家(ディアレクティコス)と呼んだのである

これは後世言うところの神秘家である

弁証家は絶対者に対して自らの無能を自覚してはいるが、人間能力の限界(善のイデア)に達するまで不断の修業鍛錬を止めない

プラトンによれば、この弁証法は哲学そのものであり、弁証家こそ真の哲学者であった

しかし後世、洞窟に留まる悟性的認識をする人も哲学者と呼ばれるようになり、E-B部の弁証法は神秘主義的哲学者の手に委ねられるようになった

その道を究め、善のイデア(絶対超越的実在)を目にすることができるか否かは、個人の素質にかかっている












2023年10月1日日曜日

秋のカフェ/フォーラムのお知らせ





























 Gualtiero BUSATO - La fontaine du dialogue @Angers




サイファイ研 ISHE 主催による秋のカフェ/フォーラムを以下の要領で開催いたします

興味をお持ちの方の参加をお待ちしております

よろしくお願いいたします



◉ 第10回サイファイカフェSHE 札幌
2023年10月21日(土)15:00~17:30
京王プレリアホテル札幌 会議室

テーマ:『免疫から哲学としての科学へ』で、免疫、科学、哲学を考える


◉ 第8回ベルクソン・カフェ
2023年11月8日(水)18:00~20:30
恵比寿カルフール B会議室

テーマ:J・F・マッテイの『古代思想』(La pensée antique, PUF, 2015) を読む
(参加希望者にはテクストをお送りいたします)


◉ 第9回サイファイ・フォーラムFPSS
2023年11月11日(土)13:00~17:00
恵比寿カルフール C会議室

プログラム:
① 矢倉英隆 ソクラテス以前の哲学者―3
② 牟田由喜子 H.コリンズ『専門知を再考する』: 専門知は市民社会にどのように有用なのか? 
③ 木村俊範  日本のテクノロジーには哲学が無かったのか、置き忘れたのか? ――  一テクノロジストの疑問


◉ 第10回カフェフィロPAWL
2023年11月14日(火)18:00~20:30
恵比寿カルフール B会議室

テーマ:プラトンの『饗宴』と神秘主義


◉ 第17回サイファイカフェSHE
2023年11月17日(金)18:00~20:30
恵比寿カルフール B会議室

テーマ:『免疫から哲学としての科学へ』を合評する