感得しなければならない
その後に概念操作によるイデアの考察(一種の論理学)が続くのである
そうは言うものの、前段の純粋イデアの直接的把握には多くの困難が伴う
概念を叡智界に導入することにより、イデアから出る強烈な実在の光を抑えることができ、それによって擦りガラス越しにではあるが、イデアの世界を一望することができる
しかし、若きプラトンがフィロソフォス(哲学者)に要求したのは、純粋イデアの観照の体験道だったのである
哲人政治家の卵に要求したのもこの道であり、そのためには数学・自然科学の訓練が純粋イデア観照の能力を高めるとされた
各人にそのための器官が具わっており、これらの訓練がその器官の汚れを払拭・浄化し、超越的対象が開顕されるようになる
ただそうだとしても、イデアの発見は偶然に任され、そこで見えてくるものは下位イデアである
また、幸運にもこれらの方法でイデアが明らかにされたとしても、イデア相互間の関係を掴むことができない
ここに組織的な弁証法が必要になる理由がある
イデアの所在を認知するためには、概念の介在が有効である
なぜなら、概念の背後には実体としてのイデアがひそんでいるからである
概念はイデアを覆うもので、中身は明確でなくとも、その所在は確認できるのである
アリストテレスによれば、普遍者とは「他者を包摂しつつ超越する一者(多の統一)」が実体で、それはなかなか把捉できないが、概念としては捉えることができる
このようにして概念の位置を確認できたならば、その中から任意に選び、そこに精神を集中すると、概念しか見えなかったものの実体が姿を現すであろう
その実体を第一次イデアとしてそこに昇り、その地盤からさらに一段上の普遍者を仮定して純粋観想を試みる
このように一段一段上位のイデアを直証することにより、最終的には至高のイデア、すなわち「善のイデア」に到達するのである
そして、そこに至る道を照らしていたのは、実は実在界の太陽である善のイデアからの光だった
つまり、善のイデアは諸イデアに存在と実在性とを与えているのである
この観点から叡智界を見る時、プラトンはイデアがあらゆる分野に存在することを認め、イデア論を批判する
すなわち、数学的関係のイデア、倫理的イデアの存在は確認するが、火や水などの具体的なもの、さらに泥や塵埃など醜穢なもののイデアは否定し、確認したイデアだけに専念すると考えたのである
井筒は、ここでプラトンの神秘主義者としての歩みは終わり、存在の論理学、形而上学を核心とする後期イデアリズムが始まると見ている
ただ、プラトンのイデアリズムに断裂があるとする見方には批判もあるようだ
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至高の「善のイデア」というレベルに至るプラトンの弁証法の過程を知り、驚いていることがある
それは6年前、「医学のあゆみ」に書いたエッセイで想像したことと非常によく重なっていたからである
この点については、次回に取り上げることにしたい
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