2023年10月2日月曜日

井筒俊彦のプラトン(4)「弁証法の道」
































今日は井筒俊彦によるプラトンの「弁証法の道」を読むことにしたい

前回までで、西洋神秘主義の主体的基本構造が、プラトンの洞窟の比喩に明確に表れていることを知った

その後、キリスト教を通じてヘブライ的東方精神と融合し、神秘主義の性格も変わるのだが、その論理的基本構造は微動だにしなかった

つまり、相対的感性界の深闇と絶対超越的真実在の光明を両端として、その間を往還する道は時空を超えた永遠の形態なのである

この点を認識論的、存在論的に検討するために、プラトンは「線分の比喩」による四段階説を提示した

以下、井筒の用語で解説したい




上図に示したように、洞窟の奥の暗闇(A)から太陽(B)に至る道を1本の直線で表す

この線上にCという1点を定めると、A-CとC-Bという2つの部分が生まれる

このA-Cを感性界(the sensible)の全体、C-Bを叡智界(the intelligible=>知性によってのみ理解される)の全体とする

さらに、A-Cの部分をD点で分割し、C-Bの部分をE点で分割すると、全体で4つの部分が生じる

A-D部は洞窟の壁面の世界に当たり、認識主体においては「憶測」であり、対象は実在性のない幻影なのだが、実物と信じて疑わない

D-C部は壁面を見ている状態から後ろに向かって進み、影の本体を知る「信念」の段階だが、その実体は変転の中にあるもので、確実な実在の上には立っていない

プラトンはこの2つの部分(A-C)を「仮見」(doxa)と名付けた

それより上部に当たる2つの部分(C-B)は永遠に存在するものに関する世界で、「知性」(noesis)とされた

その中のC-E部は「悟性的認識」の領域で、仮説としての感性的世界に属するものから出発し、そこから超感性的なものを観る

したがって、ある仮定から正しい推論によって演繹的に結論を引き出すだけで、存在の究極的始原にまでは上昇できない

E-B部は「超感性」の世界で、認識する対象は生成的事物ではなく「実在」(ousia)である

C-E部で働く「悟性」(dianoia)による認識をよく見ると、感性的知覚の中に悟性の活動を促すものが含まれていることを示している

感覚だけで明らかなものと、それだけでは不確実なものがあり、後者が知性による考察を要求して超越的なものに向かうのである

そこで生成から実在に触れ、その観照に向かうために重要になるのが、数学的思惟だとプラトンは考えた

「悟性的認識」は日常的人間知性が辿り着ける限界と見ることができるだろう

そこからE-B部の「超知性・純粋思惟」の世界を望むと、目の前には深淵が現れ、そこに橋は掛かっていない

飛躍が必要なのである

プラトン的真の哲学者は、洞窟の奥から聞こえる冷笑をものともせず、飛躍しなければならない

そしてこの飛躍を成し遂げ、太陽の下に出た者を、プラトンは弁証家(ディアレクティコス)と呼んだのである

これは後世言うところの神秘家である

弁証家は絶対者に対して自らの無能を自覚してはいるが、人間能力の限界(善のイデア)に達するまで不断の修業鍛錬を止めない

プラトンによれば、この弁証法は哲学そのものであり、弁証家こそ真の哲学者であった

しかし後世、洞窟に留まる悟性的認識をする人も哲学者と呼ばれるようになり、E-B部の弁証法は神秘主義的哲学者の手に委ねられるようになった

その道を究め、善のイデア(絶対超越的実在)を目にすることができるか否かは、個人の素質にかかっている












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