2023年4月30日日曜日

木村信也というアルチザンにして芸術家























お昼過ぎにテレビをつける

町工場のようなところを映した番組が流れていたが、感じるところがなく次に変えた

他のところも見たが、これと言ったものがなかったので最初に戻った

それを見ているうちに引き込まれたのである



今はアメリカに移り住み、バイクを作っている人のドキュメンタリーであった

自分の求めるものを形にすることに全精力を注ぎこんでいる人間がそこにいた

芸術家、哲学者の姿も見えた

自分が日頃やっていることもこういうことではないかと感じながら、その作業を見ていた

いいものを創るには、あそこまで時間をかけて、トライ・アンド・エラーを繰り返しながら、ゆっくり進めなければならないことを再確認する

ご本人は文章も書くようだが、バイクづくりに似ているというようなことを言っていた

部品を集めてそれを組み合わせるという意味において

外国人のコメントだったと思うが、自分の持っているものを誠心誠意出し切ってものを作っていけば、いつかどこかに辿り着くのではないかというようなことを言っていた

妙に感じ入るところがあった

それから折々に挟まれる家族のコメントもよかった




知る人ぞ知る人なのだろう

よいものを見せてもらった

自分はアルチザンなのだと確認する時間にもなった











2023年4月29日土曜日

プロジェクトなしの今年のこれまで





























 君は何を思う




2015年暮れにスートゥナンスを終え、翌年には大学院を修了することになった

そして2016年から、年初にその年のプロジェクトを決め、年末にはそのまとめをしてきた

それが終わったのが昨年末ということになる

今年に入り、年の初めに考えたことにその1年が縛られるのが鬱陶しいような気持になったからである

今年の初めに何を考えていたのかはっきりとは覚えていない

当時はまだ『免疫から哲学としての科学へ』の校正に忙しかったのではないだろうか

いずれにせよ、それ以来、その時その時に浮かんできたテーマに従ってやって来たようである

これまでのところだが、以前のように固定化されたものがないので、気分はよい

その上、これから何が出てくるのか分からないという期待感がある

年の終わりに一体どのような総括をするのだろうか

そういう楽しみが今年はありそうだ











2023年4月28日金曜日

哲学論文の書き方































昨日の夜、古い資料が山になっているのをひっくり返した

その中に哲学論文の書き方という文書があった

アメリカの大学の哲学教師が学生のためにまとめたものである

科学から哲学に移った当初、哲学論文というものが何か特別のものに見え、全く筆が進まなかった

そこで、哲学論文とはどういうものなのかを調べた時のものだろう

フランスとアメリカの大学のサイトに当たってみた

そして、この手の情報はフランスには乏しく、アメリカでは微に入り細を穿つ解説が溢れているのに驚いたのである

フランスの放任主義にも見えるやり方に好感を持ったことを思い出す

ということで、手取り足取りの解説に目をやることもなく、一人で苦しんでいた

その後も哲学論文を書こうという気にはならなかった

その気が出てきたのは、大学院を卒業して何年かしてからであった

自分の中にある考えを専門家はどう見るのかを知りたくなったからだろう



今朝その解説を読んで、今論文を書こうとしていることもあり、参考になるところが少なくなかった

例えば、普段は使わない難しい言葉を使ったり、変に文学的にするのではなく、日常の言葉を使い、簡潔に書くこと

自分の意見を表明するのではなく、その意見を相手に納得させるために「議論」すること

そのためには、他の哲学者の考えを出して論じたり、他の例を出すことも有効である

意外だったのは、哲学論文では直接引用することをできるだけ避けること

引用したい場合には、その内容を自分の言葉で説明するようにとのこと

その他にも細かいことが書かれてあったが、結局はどれだけ説得力のある厳密な議論を展開できるのかがポイントになるのだろう

結論ではなく、そこに至る過程が重要になる

哲学に入ってから、このような視点が自分の思考や文章に表れるようになっているのかもしれない

そんな希望的な想像をした朝である












2023年4月27日木曜日

現代文明批判としての『免疫から哲学としての科学へ』と『免疫学者のパリ心景』

































新刊『免疫から哲学としての科学へ』の第1章では、アラン・バディウ(1937- )さんの言葉をエピグラフとした

免疫学の本にこの方が登場したのは初めてではないかと想像している

10年以上前にその言葉を聞いた時、頭の中がスッキリしたというか、自分がやろうとしていることが一つの枠組みの中にすっぽり収まったという感覚に陥った

それはこういう言葉であった

知識は継続する。しかし、もし哲学が知識でないとすれば、継続することはできない。哲学は常に始まるのだ。すべての哲学者はいつも「わたしは始める」といった。(初めに)過去の全体についての新しい解釈があるのだ。

哲学は知識ではないと言っている

それでは知識を提供するのは何なのか

それは科学と言ってよいだろう

そこでは想像に基づくものが排除される

科学は文明に属している

知識を介してどこへでも伝達される

この状態をよしとしているのが現代文明とも言えるだろう

当時のわたしの考えは、知識で止まっていては駄目だというもので、それは今でも変わっていないどころか、より明確な形でわたしの芯を形成するようになっている

その一つが「科学の形而上学化」だが、あくまでも科学が提示した知識をもとにするが、そこを超えなければならないという「わたしの方法序説」である

それは科学を文化にすることにも繋がる

文化にまでならなければ、人間の心には入ってこない

そのために必要なものは「思考・思惟」あるいは哲学的思索だが、現代ではそれが弱体化さらには欠落しているように見える

今回の本は、前作の『免疫学者のパリ心景』同様、この見方をベースにした試みである

その意味では、この二著には現代文明批判の側面があるとも言えるだろう











2023年4月26日水曜日

「パリから見えるこの世界」を英語の世界から見直す


























ゆっくりと「パリから見えるこの世界」の英訳をやっている

当初想像した通り、日本人以外の人が読むという前提が具体的に見えてくると、視点が変わってくる

そこに、ある種の緊張感も生まれる

内容的には普遍的なことを書いてきたつもりだが、それでもその世界がどれだけ普遍的なのかは分からない

潜在的読者の世界にも通じるようになっているかどうかという点である

少なくとも、自分の中では同じ対象を別の方向から眺めているという感覚が生まれている

それだけで何か新しいものを見つけたような気持ちになるので、心地よい

これも「わたしの発見」になるだろう

それとは別に、間違いや自分の誤解を発見することもある

ということで、このプロジェはこれからもゆっくりと進めたいものである



雨上がりの夕方、街が霧にむせび、車のライトが何とも幻想的で詩的な雰囲気を醸し出していた









2023年4月25日火曜日

新たな展開と懐かしのアルト・ハイデルベルヒ
















昨日は月曜で週の初めだったが、一日で実に多くのことが起こった

いずれも目には見えないことだが、過去を振り返るものがあったり、先に繋がることも含まれていたりで、充実していた

朝はやや退屈気味だったが、夕方から夜中にかけて想定外の盛り上がりを見せてくれた

ただ、新たにやらなければならないことが出てきたのではあるが、、

一日は本当に長いのである

いつものように、まだ火曜日なのかという感想が出てくる


先ほどテレビをつけると、ハイデルベルクの街歩きが流れていた

学生時代、『思ひ出:アルト・ハイデルベルヒ』という本を読み、想像を膨らませたことがあった

それから院生時代と研究者になってからの2回訪問しているが、気が付かないうちに最後の訪問からもう30年ほど経過している

ということで、景色を見ても記憶を呼び覚ますものがほとんど出てこなかった

また、ハイデルベルク城は記憶に残っているものと少し違うように見えた

懐かしさを感じるのは、ハイデルベルクさらにはハイデルベルヒという街の名前だけのようである






2023年4月22日土曜日

ゆったりした土曜日





本日はなぜかのんびりした気分で、ゆっくり始めることにした

出かける前にテレビをつけると、100分de名著が流れていて、金子みすゞ(1903-1930)が取り上げられていた

最後の方に出てきた「このみち」という詩に次の言葉があった

このみちのさきには、
なにかなにかあろうよ。

わたしの道あるいは我々の道もまさにこれだろう

そう思いながら歩んでいる



昨日、フランスとのやり取りがあり対応を考えていたが、解決策を思いついた

それにしてもフランスを離れて3年

日常的に日本語で考えていて、フランス語が浮かぶことはない

それでなくても問題があった電話での聞き取りは難しくなっている

特に、専門用語が出てくると駄目である

その内容をメールしてもらったが、想像していたのは全く違っていたので驚くと同時に、情けなくなる

しかし考えてみれば、これは当然の帰結とも言える

フランスに渡ってから実用的なフランス語を鍛えるということを止め、読むことに重点を置いていたからだ

それでよいこともあったことは認めるのだが、、













2023年4月20日木曜日

論文執筆を始める















免疫から哲学としての科学へ』の中には「わたしの発見」をいくつか織り込んでいる

その中の一つを英語論文にするべく動き始めた

英語論文は久し振りである

丁度、「パリから見えるこの世界」の英訳を始めたところだが、その過程はこれまでに考えたことを別の視点から見直す機会になっている

今回の試みについても、執筆当時の考えをさらに深める機会になることを願っている


クリアしなければならない問題はいくつかある

当然のことだがまず、一つの纏まりを作ることができるのかどうか

そして、それを価値あるものと認めるところがあるかどうかである

その結果、公表されることになれば、より多くの人が「わたしの発見」を目にすることになる

そこでフィードバックが生まれれば、考えはさらに深まることになる

ということで、精神に緊張を与えることにもなるだろう

昔のように仕事としてではなく、生きる一環としてやることなのでストレスが全くないのも見逃せない







2023年4月19日水曜日

1日の景色の変化





昨日の朝、紫煙を燻らしながら瞑想している時、新しいプロジェクトが浮かんできた

正確には、プロジェクトの芽と言った方がよいだろう

その芽を眺めていると、次々疑問が出てきて面白そうである

これから暫くは、その芽を育てることに力を注ぎたい



今日は朝には想定できなかったことが午後に起こった

前に進めるように自らが動くことができたと言った方が正確だろう

長らく手が付けられなかったことなので、少しだけ光が見えてくるようである

このように、1日は非常に長いので朝に想像していたものとは全く違う姿が現れることがある

注意深く観察し、日々をよく刈り取ることを忘れないようにしたいものである









2023年4月18日火曜日

人工知能のこれから



















先日、クロノス症候群について触れた

人工知能(AI)が人間の仕事を奪ってしまうのではないかという不安や恐怖のことを言うようだ

天空に棲んでいると、そのような現状を実感として掴むことができなくなっている

ただ、この問題をどのような枠組みの中で考えればよいのかということに関しては、注目する必要があるだろう

わたしの場合には、特に哲学的な枠組みである


特殊な仕事をさせるために、言わば道具としてAIを使う場合(narrow AI)と総合的な仕事をさせるためのAI(general AI)は別に考えた方がよいのではないかという

前者の場合には、すでに人間を超える能力を具えたものが出来上がっているようだ

後者の場合、現状では人間のように独自にデータを集めたり、それを人間の助けを借りずに解析するところまでは行っていないらしい

今後、技術が進歩してそのレベルにまで達することも考えられる

その可能性は低くはないような予感がしているが、そこで意識のようなものが生まれ、自分で判断できるようになったとしたらどうなるか

その場合、彼らは我々のパートナーのような存在になるので、どのような扱いをすればよいのかという倫理的な問題が生じることになる

さらに、SFなどで見られるように、彼らの中に悪い奴がいて人間を滅ぼしにかかる者が出ないという保証もない

このようなことはすでに言われていると思われるが、考えるべき問題は山のようにありそうだ

地上に降りると、一気に疲れが出てきた






2023年4月17日月曜日

スティーヴン・ホーキングの最終理論とは


























スティーヴン・ホーキング(1942-2018)博士が考えていた最終理論を解説した本が出たとのニュースを読む

『時間の起源について: スティーヴン・ホーキングの最終理論』 

著者はホーキング博士の最後の共同研究者だったトマス・ハートッホ(1975- )氏

現在はルーヴェン・カトリック大学で研究をされている


このニュースに興味を持ったのは、ストーニーブルックの哲学教授ロバート・クリーズさんの評価であった

Nature 誌に出ていた書評は、"The never-ending quest for a beginning" と題されている

その中でクリーズさんは、2つのことに苛立ったと書いている

一つは、著者がホーキングというブランドを崇め奉っていること

例えば、「デルポイの神託」とか「科学の使徒」とか「わたしが知っている最も自由な人間」など

そのような表現からはホーキングの実像を捉えることができないと考えているからだろう


そして2つ目は、師匠譲りの哲学に対する軽蔑だという

免疫学者のパリ心景』でも紹介したが、ホーキングは「哲学は死んでいる」と言っている

ただ、それは哲学がやっていることを正しく理解していないための発言で、批判されるべきだろう

ハートッホ氏も、科学は数学を用いて彼が哲学的だと考えている問題に回答を与え、哲学の先を行っているとしている

しかし、その考えは間違っているとクリーズさんは考えている

科学者の仕事は自然を解析することだが、哲学者は科学者がどのように解析しているのかを研究するのが仕事だと見ているからだろう

 いずれにせよ、実際にどのような内容なのか、この目で確かめたくなってきた







2023年4月16日日曜日

「ミーニングフルネス」とは(2)

































昨日、意味ある人生に関して世の中に出回っている一般的な見方について触れた

一つは情熱を持てることに打ち込むことだが、それは退屈とか孤立が齎す感覚と対極にあるいい感覚を経験するからだとされる

それを著者のスーザン・ウォルフさんは「充足感」と言う

ただ、他にもいい感覚を齎すものがあり、充足感に至る過程には痛みや失望やストレスもある

さらに、充足感を得た後に何かが欠けているという気持ちになることもある

あるいは、充足感というポジティブな経験だけが人生において意味があるのかという疑問も生まれる

著者は、充足感だけではミーニングフルネスを説明できないのではないかと考えている


ここで、シーシュポスの話が登場する

シーシュポスは罰を受け、石を山頂まで運ぶとその石が下まで落ちるので、この作業を永遠に続けなければならなくなった

苦痛に満ちた理不尽な罰である

ある哲学者がこう想像した

もしこの行為が快楽に感じられる物質をシーシュポスに注射するとどうなるか

主観的にはシーシュポスは心地よいが、その物質は妄想を起こしたり、理解力を落としているだけかもしれない

外から見ると、この行為にどれだけの意味があるのか分からない

やはり悲惨な状態に変わりないのではないか

そこで、一般的な第二の見方――客観的な要素も考慮に入れなければならない――が現れる

それは自分より大きな何かに関わり、貢献することであった

そこから著者は、ミーニングフルネスの条件を「充足感」とするだけでは不十分で、「相応しい適切な充足感」とすべきだと考える

そこに客観的な見方を入れるということである

自分を超える価値に関与するということは、同じ価値観を持つ人間との繋がりを生む可能性が出てくる

それは人間の社会的な性質とも合致するという

ただ、これらの議論は、日々の生活に追われている人にも当て嵌まるのだろうか

生活が安定するまでは、このような問題は生じないのではないだろうか

逆に意味ある人生を送っている人にとっても、問題にはならない可能性がある



これで「人生の意味」あるいは「ミーニングフルネス」という概念についての章を読み終えたことになる

基本的には、昨日のものとあまり変わりはなかった











2023年4月15日土曜日

「ミーニングフルネス」とは(1)

































スーザン・ウォルフ(1952- )というノースカロライナ大学の哲学教授が書いた本が届いた

『人生における意味とそれが重要な理由』

この本でミーニングフルネス(meaningfulness)という概念を提唱したいようだ

マインドフルネスという言葉は広まっているが、ミーニングフルネスという言葉にはまだ出会ったことがない

人生において深い意味を持つ状態とは何を言っているのだろうか

そのあたりを理解したい


著者はまず、行動を選択する際に人間が考える基準として、これまで2つの流れがあったとする

一つは自分の利益のため、もう一つは自己利益に加えて、個人を超えたより高いところからの視点もあるとする二元論である

後者には、正義とか道徳などの視点が考えられる

しかしこれらの考え方には、他の多くの動機が除外されていると著者は主張する

それは幸福とも道徳とも異なり、人生を前に進める力を持つもののことである

例えば、家族を喜ばせるとか、庭の草むしりをするとか、頭を絞って哲学書を書くとか、チェロを弾くとか、、

これらを著者は「愛の理由」と呼んでいる


ミーニングフルネスという言葉は、大学の哲学者はあまり使わない

寧ろ、神学者とか心理学者(心理療法士)によって使われているという

意味(ミーニング)という言葉は、人生が空虚に感じられたり、他の人が充実した人生を送っているように見える時に浮かんでくる

あるいは、死を意識したり、死の床にいる場合にもこの言葉が現れるようだ

ミーニングフルネスという言葉を、愛するに値する対象を積極的に愛することから生まれるものと理解したいと著者は言う

あるいは、その人の人生が愛するに値するものを深く愛するが故に、心が鷲掴みにされ、わくわくしている状態を指す

同じ愛すると言っても、煙草を吸い過ぎたり、ゲームをし過ぎたりするのは価値がないと著者は考えている


アリストテレス(384 BC-322 BC)は道徳的主張をする際に「エンドクサの手法」を用いたことでも有名である

エンドクサ(endoxa)とは、多くの人に受け入れられているもの・ことのことで、彼の探究の出発点になった

一つの見方が広く認められていることに合致するのか、他の見方とうまく調和するのかを判断の基準にしたのである


意味のある人生に関して、これまでに広く言われている2つの見方がある

一つは、それが自分に期待されているからとか、一般に良いと言われているからという考えから離れ、自分の好きなことを追究しなさいという見方

もう一つは、真に充実した人生を送るためにはそれでは駄目で、自分より大きな何か、自分を超える何かに関わりなさいという見方である

著者が考えるミーニングフルネスは、この両者を融合したようなものではないかという

自分の人生に意味があると感じるためには、主観的な側面と客観的な側面が必要なのではないかと考えているからだろう

これからミーニングフルネスのより哲学的な定義をするのではなく、その構成要素、そこにある具体的な価値を明らかにしていくようだ












2023年4月14日金曜日

制御性T細胞の研究史を読む





免疫反応を抑制する細胞として制御性T細胞(Tレグ)がある

その発見者坂口志文氏からご著書『免疫の守護者 制御性T細胞とはなにか』の献本を受けた

おそらく文体のせいだと思うが、一気に読み終えた

見ると、ジャーナリストが絡んでいる

忙しい現代人にはこれでないと受け入れられないということなのだろうか

事実を追うことができれば、最後まで行くことになる


そこで気付いたのは、Tレグが定義されるまでの過程は科学の王道である仮説演繹法が徹底されているということである

学生時代に自己と非自己の謎に興味を持ち、免疫寛容のメカニズムを明らかにしたいという願望を持ち続けた

Tレグの研究は無視された時期もあったようだが、数十年をかけて結実する

その過程を見ていると拙著『免疫から哲学としての科学』でも取り上げたハンス・セリエ(1907-1982)の人生を思い出した

セリエの場合も学生時代に観察した患者さんの症状を「ストレス」という概念で説明できるのではないかという考えに長い時間かけて到達している

Tレグに関しては、これから人間の治療に向かうようなので、なかなか大変ではないかと想像されるが、更なる発展を期待したい










2023年4月12日水曜日

「パリから見えるこの世界」を英語にして読み返す

































『医学のあゆみ』誌に連載していたエッセイ「パリから見えるこの世界」(2012-2022)を折に触れて読み返すことにした

その際、英語に翻訳する作業も加えて

別の側面が見えてくるのではないかと期待してのことである

そろそろ細かいところが記憶から消えて始めているので、丁度良いのではないかとの思いもあった

この場合の「記憶から消える」ということだが、書いたことは記憶の倉庫には在るのだが、意識の表層からは退いているため、すぐには引き出せないという意味である

読んでいくとそれらのほとんどは見事に蘇ってくるので、記憶装置は機能しているとみてよいだろう

それは驚くべきことである

エッセイのすべてをこのようにして読み終えるには、2-3年はかかるのではないだろうか

その膨大な蓄積にも目を見張る

このような作業は、井筒俊彦の「自己」に近づき、「自己」を引き寄せるためにも有効になるのではないだろうか

そんな気がしている

いずれにせよ、他のプロジェの息抜きとして機能してくれるとありがたいという思いである











2023年4月10日月曜日

井筒俊彦の自我と自己、あるいはわたしの「意識の3層構造」















7年ほど前のメモを読んでいる時、井筒俊彦(1914-1993)についてのコメントを見つけ、一昨日とのつながりを感じる

メモを読んで感じたのは、かなりの部分を忘れているということであった

そんな前に名前が出ていたことに少し驚いたのである

そこにあったのは、以下のようなことであった

「自我」とは実存する人間の表層活動の中心で、「自己」は通常意識されることのない無意識の領域まで含めた人間の存在全体の中心とされており、「人間内部で働く宇宙的生命の創造的エネルギーの原点」である


自我と自己を区別している

わたし流に解釈すれば(井筒の解釈と同じであるという保証はないが)、次のようになるだろうか

「自我」とは意識の表層にあるもので、「自己」とはより深層にあり、その人間全体を動かしている原点にあるものである

わたしの意識の3層構造で言えば、自我とは第1層で動いている意識で、自己は第3層に及ぶ意識となるだろう

井筒の場合、自己の中に無意識の領域も含めている

わたしの場合、意識されているものを対象にしているが、敢えて無意識をこのモデルに入れるとすれば、第4層とすることができるかもしれない 


いずれにせよ、日常に追われている時にはほとんど自我しか働いていない可能性がある

井筒が見ていた現代の問題は、自我と自己の乖離であった

わたしの場合には、第1層に留まる思考に終始する現代人が第3層に至る思考を蔑ろにしているところに問題を見ている

これはわたしの考えだが、第3層に至る思考をし、あるいは自己に近づくためには、内的探検とも言える瞑想が有効になるだろう


思わぬところから、井筒との繋がりが見えてきた

もう少しご本人の声に耳を傾ける必要がありそうだ







2023年4月9日日曜日

科学における革新と理解と説明

































今年の1月、Nature誌に「論文や特許がどんどん革新的ではなくなっている」という論文が出た

過去のものとの乖離が少なくなっているというのである

過去60年の間に出た4,500万篇の論文、390万件の特許をCDという指数で解析した

CD指数とは、これまでの結果を確固たるものにしたのか(consolidating)、過去の結果とは断裂しているのか(disrupting)を示すものである

CからDの間が-1から1で表される

その結果を大雑把に言えば、程度の差はあるもののあらゆる分野においてCD指数が下がっているという

つまり、革新的な成果が出にくくなっているという結果である

著者らが使っているもう一つの指標は、論文や特許で使われている言語である

創造とか発見に関係する言葉が多いのか、改良や応用に関するものが多いのかという評価である

こちらでも同様の傾向が見られている

ただ、これは全体的な傾向で、画期的な成果は少ないながらもコンスタントに出ているという

つまり、新しい領域はまだ存在していると考えられる


このような革新性の低下の原因はどこにあるのだろうか

知識の増大に伴い科学者は対応が難しくなり、自分が馴染んでいる狭い範囲に留まることになる

リスキーなプロジェクトや長期的なプロジェクトには金が出ないので、その方がキャリアを築く上で有利に作用するからである

とすれば、科学政策にも問題があることになる

このような背景が革新的な成果を生み出すことを妨げているのではないかという



この論文が革新性を科学に求めていることに疑問を挟む人もいる

それは現在横行しているイデオロギーの中での議論になる可能性があるからである

科学とは何が何でも新規なものを求めるものではなく、説明し理解することを規範とすべきではないかという考えに基づく疑義である

それから数字による評価が行き過ぎると、スポーツ選手のドーピングのように、科学者の行いにも悪い影響が出てくるという

説明と理解の重要性については『免疫から哲学としての科学へ』においても触れている










2023年4月8日土曜日

井筒俊彦によるプラトンの神秘主義と「科学の形而上学化」
























今日は打って変わって晴れ上がってくれた

プラトン(427 BC-347 BC)の『饗宴』をざっと読み終え、井筒俊彦(1914-1993)による『神秘哲学』所収のプラトンをパラパラとやっている時、驚きの発見をした

この作品は1949年に刊行されたもののようで、わたしには固く感じられた

ただ、そこで言われていることは、非常によく入ってきた


まず、常識的人間の認識は、直接目で見て触れられる感性的事物の世界のみを唯一の現実とする

超越的イデアの世界は灰色の抽象的世界で、頭の中にある生気ないものとしか考えられない

対象の抽象性、普遍性が増すほど主体からは遠ざかるように見えるが、それは主体の目が曇っているからである

それに対して存在的見地からすれば、対象は益々具体的になるという

それこそ、ソクラテス以前の哲学者が「一者」「存在」あるいは「神」と呼び、プラトンが「善のイデア」と呼ぶ全的な存在である

プラトン神秘主義の根本的なミッションは、感性的世界に留まる日常的人間を、普遍的なものが見える状態を変えることである

あるいは、人間霊魂を可視的なる世界から不可視的な叡智界に転換させることだという

その結果、そこにある全体的真理を具体的に見徹する人にならなければならない


この道は、転変無常の感性界から永劫不変の超越界へ昇る向上道(アナバシス)である

しかしここで終わっては駄目で、そこから反転して再び現象界に戻り万人のために奉仕する向下道(カタバシス)を下らなければならない

相対的世界をイデア化するために尽くす義務がある

神秘主義が成功するか否かは、この後半の成果によるのである

テオリアの後にプラクシスが求められるのである


その際に重要になることを、有名な「洞窟の比喩」を出して説明する

洞窟に繋がれ、影の世界を見ている人は、それが唯一の現実だと信じている

その囚人を解き放ち、外の世界に向かわせると最初は戸惑うが、やがて影で見ていた感性的世界の真の姿を理解するようになる

これがアナバシスの過程である

この過程で重要なのは、鎖を解かれた後、体全体の向きをぐるっと変えなければならないことである

全人的方向転換、人間精神の全的向き替え、すなわち「回心」がなければならないのである

プラトンによれば、人間には超越的存在を見ることができる「霊魂の眼」が具わっており、それを本来の対象に向けることが欠かせないという

この「神秘主義的回心」がイデア体験の必須条件であることを意味している

アナバシスで究極の「善のイデア」に到達し、限りなく神に近いところに至ることはできるが、それ以上は昇れない

高みで一人「一者」の観照に耽るのではなく、そこから世人のために尽くすことによってのみ神秘主義の究極の目的が達成されるのである

しかし、西洋神秘主義はプラトンに背き、往きて還らぬ道になったというのが井筒の見立てである



プラトンのミスティークの道を読んだ時、わたしが唱える「科学の形而上学化」のことが浮かんできた

最初に、抽象的で普遍的な世界への「回心」があった

それから、科学が明らかにした現象界の状況を掴んだ後、抽象的な概念の世界に入るというやり方を採った

これはプラトンの「アナバシス」に当たるだろう

そして、そこで何かを掴んだ後には普及の過程が待っていると考えた

免疫学者のパリ心景』や『免疫から哲学としての科学へ』の刊行も、カフェ/フォーラムの試みも、不十分ではあるが「カタバシス」の営みに入れることができそうである

こうして見ると、わたしの歩みは井筒の言う「プラトン的ミスティーク」への道と繋がっているような気がしてきた

今日の発見である










2023年4月7日金曜日

雨の日はリュートミュージック




昨日、今日と雨が続いている

こんな日はリュートの音色がしっくりくる

今朝はその音楽の中で時の流れを見つめている


昨日は静かに過去人の声に耳を傾けていた

プラトンの『饗宴』と拙著『免疫から哲学としての科学へ』の中でも引用したミシェル・セール(1930-2019)さんの『パラジット』(Le Parasite)である

繰り返し読んでいるとその都度発見がある

今日もその続きを読むことにしたい









2023年4月5日水曜日

思いがけない便り
























今日は思いがけない便りがフランスから届いた

新刊が出たとのお知らせであった

先日こちらから送った拙著刊行のお知らせに対する返答のようなものだろう

近いうちにお会いできないか、お尋ねのメールを送ったところである


また日本からも初めての方からのお便りが届いた

先日久し振りの予期せぬメールをいただいたイギリスの方の紹介であった

こちらは夏の終わりまでにはお会いできないかと思っている


今週から数年来のプロジェに取り掛かることにしたが、なかなか手につかない

今日やっと、下調べがまだ不十分であることが原因だと気づく

これはよく見られる症状だが、懲りずに突進しようとして逆に一歩も前に進めなくなったようだ

そう気付くと、逆にやることが増え、止まっているわけにはいかなくなる

心の持ち様とはこういうことを言うのだろう











2023年4月2日日曜日

FPSSとSHEに思いを馳せる

































一昨日、サイファイ・フォーラムFPSSにおける発表内容を文章として残すサイト(SPNL)を設けるというアイディアを提案した

幸いなことに、これまでに何名かからポジティブな反応が届いている

これでサイトは産声を上げることができそうである

賛同者に改めて感謝したい



夜、この春のカフェSHEで話題になったプラトンの『饗宴』を読み直す

今日のところは、冒頭の解説で終わった

英語版とフランス語版もあるので、余裕があれば読み比べることにしたい










2023年4月1日土曜日

クロノス症候群(Cronos syndrome)、あるいは Cronos と Chronos という神





今日、フランス語圏の情報の中で "syndrome de Cronos" という言葉を発見

少なくともわたしは「クロノス症候群」という言葉を日本語で耳にしたことがなかった

英語に行ってみると、"Cronos syndrome" という言葉は存在し、「置き換えられることの恐怖」という記事が出てきた

これは人間の職が人工知能や機械など置換されることへの不安や恐怖のことで、特に ChatGPT 以来広がっているという



ここで引き合いに出されているクロノスはギリシア神話の農耕の神とされる Cronos で、ローマではサトゥルヌス(サターン)と呼ばれる

神話によれば、クロノスは天空神のウラノス地母神ガイアの息子で、権力の座にいる父を排除するために鎌で父を去勢したという

その結果、自分が権力の座につくと、同じ目に遭うのではないかとの恐怖心から、生まれた子供を次々に飲み込んでいく

最後にクロノスの妻レアの機転を利かせた計画で子のゼウスは助かり、そのゼウスによってクロノスは滅ぼされた

父親と同じ運命に陥ったことになる

最近生れている現代人の心理状況がクロノスのそれと似ていると考える人たちがいたということだろう

ここに出てきたクロノスとよく混同されるのが時間の神のクロノス(Chronos)で、混同は昔からあったという

今日、はっきりとこの2つを区別できるようになった