2023年4月16日日曜日

「ミーニングフルネス」とは(2)

































昨日、意味ある人生に関して世の中に出回っている一般的な見方について触れた

一つは情熱を持てることに打ち込むことだが、それは退屈とか孤立が齎す感覚と対極にあるいい感覚を経験するからだとされる

それを著者のスーザン・ウォルフさんは「充足感」と言う

ただ、他にもいい感覚を齎すものがあり、充足感に至る過程には痛みや失望やストレスもある

さらに、充足感を得た後に何かが欠けているという気持ちになることもある

あるいは、充足感というポジティブな経験だけが人生において意味があるのかという疑問も生まれる

著者は、充足感だけではミーニングフルネスを説明できないのではないかと考えている


ここで、シーシュポスの話が登場する

シーシュポスは罰を受け、石を山頂まで運ぶとその石が下まで落ちるので、この作業を永遠に続けなければならなくなった

苦痛に満ちた理不尽な罰である

ある哲学者がこう想像した

もしこの行為が快楽に感じられる物質をシーシュポスに注射するとどうなるか

主観的にはシーシュポスは心地よいが、その物質は妄想を起こしたり、理解力を落としているだけかもしれない

外から見ると、この行為にどれだけの意味があるのか分からない

やはり悲惨な状態に変わりないのではないか

そこで、一般的な第二の見方――客観的な要素も考慮に入れなければならない――が現れる

それは自分より大きな何かに関わり、貢献することであった

そこから著者は、ミーニングフルネスの条件を「充足感」とするだけでは不十分で、「相応しい適切な充足感」とすべきだと考える

そこに客観的な見方を入れるということである

自分を超える価値に関与するということは、同じ価値観を持つ人間との繋がりを生む可能性が出てくる

それは人間の社会的な性質とも合致するという

ただ、これらの議論は、日々の生活に追われている人にも当て嵌まるのだろうか

生活が安定するまでは、このような問題は生じないのではないだろうか

逆に意味ある人生を送っている人にとっても、問題にはならない可能性がある



これで「人生の意味」あるいは「ミーニングフルネス」という概念についての章を読み終えたことになる

基本的には、昨日のものとあまり変わりはなかった











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