2023年9月8日金曜日

出隆の「道徳と哲学」















いよいよ『哲学以前』の結論に辿り着いた

タイトルは「道徳と哲学」となっている

早速始めたい


前回問題にした我々の価値付与的意識と超価値的絶対界=純粋経験界とはどのような関係にあるのか

両者は無関係なのか、あるいは相反するのか

科学的態度、道徳的・倫理的態度、芸術的態度、宗教的態度には、まことのものを求める価値追及の努力があり、それが真・善・美・聖に対応しているのではないか

それを我々は良心と呼んでいる

別の言い方をすれば、良心とは、何かのまことを求める内的欲求であり、そうせよという命令であり、価値要求的な意志活動である

つまり、超価値的絶対界と我々の価値を付与する世界との関係は、純粋経験と意志の問題に還元される


ここで、義務について考えたい

これは、我々人間が当に為すべきこと(当為)として課せられ命ぜられた任務である

しかもそれは不可能に見えようとも遂行しなければいけない任務である

しかし、誰が当為を決め命令したのだろうか

それは義務を負ういろいろな我ではなく、自他の別を超越したある者でなければならない

客観化する我あるいは神自らであるところの超個人的純粋主観(純我)に属するものでなければならない

我々に義務を与えるものは、純粋意志だと言えるのではないか


超価値と価値の問題は、実在界と現象界、普遍主義と個体主義、超越と内在などの問題と絡めて哲学に課せられた大問題の一つである

そのため、それを解決することはここではできないが、問題解決に向けての一つの道を示唆することに止めたい

純粋経験とは、反省の側面がないもので、一・他、自・他の区別も時間空間的規定も価値もない

立場以前の世界であり、主客未剖の絶対境である

価値的生活とは、純粋経験を自ら顧みて善・悪、真・偽とする活動のことである

我々には善を欲し、真を願い、美を求め、聖に帰せんとする絶対的真実在としての欲求があり、それを保存しようとする自己忠実性がある

スピノザコナトゥスも同じものではないかという

著者はさらに、無限の方向性があるにもかかわらず、自己忠実性は一定の目的を持っていなければならず、それを我々は絶対的真理、至高善と言っているのではないかとする

その目的(至高善)はどこか遠くにあるのではなく、目的創造的な活動の中にある

純粋経験界とは、この目的創造的・価値付与的な体系のことなのである

哲学が価値体系の学であることも理解できるだろう

真に生き、真に哲学するものの前には他にもいくつもの道が開けるであろう、と結ばれている



これで出隆の『哲学以前』を読み終えたことになる

哲学を別の切り口から眺めることができたように感じている

ただ、2007年の段階で読んでいたとしても、殆どわたしの中に入ってこなかったであろう

あれから15年ほど経っているが、理解できたとはとても言えない

また、この本によって哲学に誘われることもなかったであろう

哲学に入るには、その時に抱えている実存的問いに触れる言葉を発している哲学者に出会うという偶然(わたしから言えば、必然になるのだが)がなければならないのではないだろうか







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