今日は、エルンスト・カッシーラー(1874-1945)の言葉に耳を傾けてみたい
プラトンは、神秘的な脱我(エクスタンス)によって人間の魂が神との直接的な融合に達しうるということは認めない。最高の目的たる善のイデアの認識にいたることは、こうした方法では不可能である。それには周到な準備と徐々の規則正しい向上とが必要であり、一躍してその目的に到達すわけにはいかない。善のイデアを完璧な美しさにおいてみることは、人間精神が突如、恍惚状態になることによってできるものではない。
こうした諸々の《原因(aitiai)》や《第一原理》を求める強い衝動が、プラトンの根本的な革新であった。人間的にみても、実際的にみても、彼は急進的な人物だと言うことはできない。われわれは彼を保守的と呼びうるし、反動的だとして非難することさえできるかもしれない。しかし、それは決定的な問題ではない。彼の問題は精神的な革命であって、政治的革命ではなかった。
(プラトンは)《幸福》があらゆる人間の魂の最高の目的である、とするソクラテスの命題を受け容れた。他面において、かれはソクラテスとともに、《幸福の追求》が快楽の追求と同じでないことを主張した。・・・
神話的思惟においては、人間は善いダイモンか悪いダイモンに所有されているのであるが、プラトンの理論においては、人間が自分のダイモンを選ぶのである。この選択が彼の生活と彼の未来の運命を決定する。人間は超人的な、神的な、あるいは魔力的な力によって堅く握りしめられていることをやめる。彼は自らが全責任を負わなければならない自由な行動者なのである。「選ぶ者にこそ責任があり、神には責任がない」。プラトンにとって、幸福、エウダイモニアとは、内的自由、すなわち偶然的で外的な環境には依然しない自由を意味している。
エルンスト・カッシーラー『国家の神話』
もしそれが過去についての正確な知識を求め、未来を解釈する一助にしようとする研究者によって有益なものと評価されるのであれば、私は満足しようと思う。私の歴史は、束の間の賞賛を博するためのものではなく、未来の財宝として書かれたのである。
2,000年以上もの間生き延びているのだから、これくらい言われても致し方ないだろう
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