本日は、第10回目になる「生き方としての哲学カフェ PAWL」を開いた
タイトルは「プラトンの『饗宴』と神秘主義」とした
具体的には、プラトンの中期対話篇『饗宴』(副題「エロスについて」)を読み、そこから見えてくるものの見方、知の在り方、ひいては人間の生き方に至る問題について議論するのが目的であった
参加予定の方が欠席となり、今日の会は研究対象同様、対話篇での開催となった
まず、前半で『饗宴』の内容を振り返り、後半ではそこにある発言が意味するところを考えるという順序で話題を提供した
前半では、エロスの種類が問題にされ、一種類ではなく、ウラニアとパンデモスに属する2つのものがあると指摘される
ウラニアのエロスとは、理性に恵まれた方を愛し、放埓とは無縁の愛で、パンデモスは低俗で、魂よりは肉体を、出来るだけ考えないものを愛する
そこから次第に、エロスが志向するものが広がってくる
一つのポイントは、アリストパネスのお話ではないだろうか
それによれば、人間の本来の姿は、男、女、それに男女(両性具有)であったが、神々を攻撃しようとしたため、ゼウスによって2つに切断される
エロスとは、本来の姿に戻るために分身を求める「完全性への欲求」に付けられた名前だったのである
この対話篇の肝は、ソクラテスがその昔、ディオティマという女性(プラトンの創作と言われる)から聞いた話を紹介するくだりだろう
そこで、プラトン哲学の中心的テーマが語られていると理解した
それによると、エロスはポロス(豊穣)とぺニア(欠乏)の間に生まれたので、両者の中間にある
困窮もしないが富むこともない、知に関しても叡智と無知の中間にいる者で、まさに愛智者(フィロソフォス)なのである
エロスが目指す究極のものは、イデア(形相)ということになる
そこに至る道として、「洞窟のアレゴリー」や「線分の比喩」、弁証法(ディアレクティケー)などが紹介された
このような方法論を示したことも、後に続く人にとっては助けになっているのではないだろうか
そして究極の形相界に至った時、そこから俯瞰する全存在界の雄大な光景こそ、プラトン哲学が齎すものだと井筒俊彦は言う
ディオティマは、そこに至った人間は不死になるというが、おそらく人間には及ばない境地なのだろう
ただ、その時の精神状態については現代人はあまり考えないのかもしれないが、興味をそそられるところである
精神の集中を続けて行くと、何か見えるものがあるのかもしれないという希望は捨てない方がよいだろう
今回のタイトルに入れた「神秘主義」という言葉だが、何気なく聞いていると、どこか怪しげな雰囲気も漂う
しかしここでは、神との一体化というよりは、絶対的・究極的な真理(プラトンで言えば、善のイデア)に接するという意味に解釈したい
あるいは、絶対的な真理に辿り着かないまでも、それを強く希求する心もそこに入れてもよいかもしれない
もちろん、絶対的などというのは神的なものしかないと考える人もいるのだろうが、、
最後に、プラトン哲学との関連で、わたしが考えてきたこととの対比についてお話した
あまりにも強い関連があるのに驚きながら話を進めていた
充実した対話となったのではないだろうか
会の詳細については、後ほど専用サイトに掲載する予定です
ご参照いただければ幸いです
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