2023年11月30日木曜日

パスカルの生誕400年に『パンセ』を読む

































今年はパスカルの生誕400年だったようだ

わたしにとって哲学者パスカルは、近くに感じることのできる人に入るだろう

彼の言葉が比較的よく入ってくるからだ

久し振りに『パンセ』(前田陽一・由木康訳)を読んでみることにした


私は長いあいだ、抽象的な諸学問の研究に従事してきた。そして、それらについて、通じ合うことが少ないために、私はこの研究に嫌気がさした。私が人間の研究を始めた時には、これらの抽象的な学問が人間には適していないこと、またそれに深入りした私のほうが、それを知らない他の人たちよりも、よけいに自分の境遇から迷いだしていることを悟った。私は、他の人たちが抽象的な諸学問を少ししか知らないことを許した。しかし、私は、人間の研究についてなら、すくなくともたくさんの仲間は見いだせるだろう、またこれこそ人間に適した真の研究なのだと思った。私はまちがっていた。人間を研究する人は、幾何学を研究する人よりももっと少ないのだった。人間を研究することを知らないからこそ、人々は他のことを求めているのである。だが、それもまた、人間が知るべき学問ではなかったのではなかろうか。そして、人間にとっては、自分を知らないでいるほうが、幸福になるためにはいいというのだろうか。

 

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われわれは精神であるのと同程度に自動機械である。そしてそこから、説得が行われるための道具は、たんに論証だけではないということが起こるのである。証明されているものは、なんと少ないことだろう。証拠は精神しか納得させない。習慣がわれわれの最も有力で最も信じられている証拠となる。習慣は自動機械を傾けさせ、自動機械は精神を知らず知らずのうちに引きずっていく。明日はくるだろう、またわれわれは死ぬだろうということを、いったいだれが証明したであろう。それなのに、それ以上信じられていることがあるだろうか。したがって、習慣がわれわれにそのことを納得させたのである。




 


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