◉ 2026年7月11日(土)13:00~17:00日仏会館 509会議室
(1) 矢倉英隆:シリーズ「科学と哲学」⑪ プラトン哲学と現代的課題(2) 林洋輔:文化のエグゼルシス:概念からPerforming Arts、そしてSportへ(3) 森望:生命との対話:二つのライフヒストリー 〜遺伝子・脳・言語・AI・音楽〜◉ 2026年7月18日(土)14:30~17:00恵比寿カルフール B会議室フィリップ・クリルスキー『免疫の科学論』を読む ②
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(1) 矢倉英隆:シリーズ「科学と哲学」⑪ プラトン哲学と現代的課題(2) 林洋輔:文化のエグゼルシス:概念からPerforming Arts、そしてSportへ(3) 森望:生命との対話:二つのライフヒストリー 〜遺伝子・脳・言語・AI・音楽〜◉ 2026年7月18日(土)14:30~17:00恵比寿カルフール B会議室フィリップ・クリルスキー『免疫の科学論』を読む ②
医学のあゆみ 257: 803-807, 2016
ゆっくりとパエリヤスコール過ぎるまで
2007-03-16 フランス人であるとは COMMENT PEUT-ON ETRE FRANCAIS ?
2008-01-03 エドガール・モラン Edgar Morin
2008-06-24 Patrick de Wilde 写真展
2008-10-01 ミシェル・オンフレ 「旅の理論」 "Théorie du voyage" de Michel Onfray
2009-03-15 自身の真実
2009-05-16 エドガール・モランさんの言葉から Edgar Morin parle
2010-02-05 エドガール・モランさんの『ヨーロッパの文化と野蛮』を読む
2010-04-26 ボリス・シリュルニク / エドガール・モラン対談を読む Boris Cyrulnik vs Edgar Morin
2010-04-29 英語のご飯にフランス語のふりかけ、そしてブログが齎してくれるもの
2010-06-02 エドガール・モラン特集、あるいは盲目知を乗り越える
2011-01-08 休息の週末、気分に任せぱらぱらとやる
2011-03-14 世界を複雑に考える
2011-05-31 曖昧さに耐えること、そして理解することと判断すること
2011-06-03 自らとのランデブー、そして愛が行動へ向かわせる?
2011-10-23 ステファン・エッセルさんもエドガール・モランさんも最後は 「詩的に生きること」 Vivre, c'est vivre poétiquement
2011-12-23 4年前の記事を読み直す: エドガール・モランさんと考える
2012-01-25 まさに夢のような夢
2012-02-25 「過去に向き合いましょう、それは進歩になるでしょう」
2012-12-26 久し振りのエドガール・モランさん
2013-01-23 ハインツ・ヴィスマンさんによる文明と文化
2013-02-27 ステファン・エッセルさん亡くなる
2013-04-24 「曖昧さに耐えること」 再び、あるいはネガティブ・ケイパビリティ
2014-02-24 人生が彼らに教えたこと
2016-12-27 「パリから観る」 の言葉から
2018-03-07 エッセイの登場人物をまとめる
2020-06-11 COVID-19パンデミック、あるいは一観察者に見えてきたもの
2021-03-02 わたしの受容体に反応した人たち
2021-07-20 エドガール・モランさんの100歳のお祝い
この言葉は以下のような伝説がもとになっているようである
今日の移動中、アメリカ滞在中のことが思い出された
そして、後半の5年間を過ごしたニューヨークでの生活は、エドワード・ホッパー(1882–1967)の絵の世界にいたのではないかという考えが浮かんだ
当時はそんな意識はなかった
40年以上が経過し、その生活全体を小さな塊として捉えることができるようになった今だからこその感想なのだろう
マンハッタンとロングアイランドの対比が印象的であった
今日取り上げたものは、ロングアイランドのイメージと重なる
今日、Youtubeからニール・セダカ(1939–2026)の Oh! Carol が流れてきた
快晴の下、気分が浮き立つように感じた
子供の頃によく聞いていたのではないかと思う
大人になってからコンサートに行った記憶も蘇ってきた
当時も何かの切っ掛けで昔の記憶が刺激されたのかもしれない
調べたところ、1999年オーチャードホールであった
セダカさんが今年86歳で亡くなっていたことは知らなかった
この機会にいろいろなバージョンを聞き比べることにした
それにしても最近はAIの進出が著しい
The Sword of Damocles (1812) Richard Westall (1765–1836)
本日もボエティウス(480–524)の『哲学の慰め』から始めている
今日の部分では、わたしのテーマでもある「真の幸福」(beatitudo)について、哲学の女神が語っている
最高の幸福とは、それを獲得すれば、他には何も必要としない善、完全な状態であるという
そうではないのにそうだと思って追及する人がいる
その例が検討される
例えば、物が充足している状態、尊敬に値するものが手に入った状態、権力を手に入れるか、権力者とつながりを持った状態、その他に、名誉、快楽、貴族の身分、世間の人気、妻や子、身体の強壮などが出てくる
その上で、そのいずれもが最高の幸福(ベアティテュード)にはなりえないことが明かされる
この中に、過去の記憶を刺激する記述が出てきた
このやうにして王たちにとっては、必ずや [幸福より] 不幸の割合が多くなる。自らの地位の危険を体験した或る暴君は、王威にまつはる恐怖を、頭上にぶらさがつてゐる剱の恐怖になぞらへた。かくの如く、身を嚙むような不安を追い拂ひも得ず、又恐怖の刺を退けも得ないやうなものが、何の勢力であろう。(畠中尚志訳)
この件を読んだとき、このエピソードについて記事を書いたことを思い出したのだ
調べたところ、2番目のブログにその記事はあった
タイトルはそのものずばりの「« Epée de Damoclès » ダモクレスの剣」で、2009年9月27日のものであった
このような形で過去が蘇ってくるのは、いつも嬉しいものである
このエピソードの詳細は、上記リンクに当たっていただければ幸いである
その記事にあった「翳りゆく部屋」を聞きながら17年前を味わい直すことにした
mors hominum foelix (人の死は幸いである)
ということで、今日はボエティウスの書を久しぶりに読み直すところから一日を始めることにした
苦境に立たされた時に、その状態をどのように解釈するのか
そこで重要になるのが、感情に圧倒された濁った目で見るのではなく、哲学が教える理性に支えられた澄んだ目で見ることであると、哲学の女神? が教え諭す
その教えを理解できるようになって久しいが、有用性ということを敢えて出すとすれば、このあたりが哲学の根本的な有用性と言ってよいのではないだろうか
この基本を確認した後、新たなテーマについて考えを羽ばたかせていた
このところ、マルセル・コンシュの『形而上学』の初校の見直しに当たっていた
想像以上に時間がかかったが、本日すべてを終えて知泉書館の編集者に送ったところである
何度も読み返していると、その都度理解が深まっていることが分かる
アドーが言う読み方をしていると、確かに著者の声が立ち上がってくる
それ以前にはなかった認識に至るのを体感するのは、やはり楽しくもあり、満ち足りたものをもたらしてくれる
いつものことだが、それでも行き届かないところがある
しばらく時間をおいて、再び見直すことになるだろう
取り敢えず、今抱えているいくつかの焦点をオーガナイズしながら、新しいテーマを探索する方向に進むことができそうである
束の間の解放感を感じている
今週末に春のカフェ/フォーラムシリーズ最後になる第16回サイファイカフェSHE札幌が開催される
この1週間、何か新しい視点が得られないか考えることになる
それと並行しなければならないのがマルセル・コンシュによる『形而上学』の翻訳である
こちらもこの1~2週間が最終盤ということになりそうだ
どのようなことになるのかまだ見えていないが、納得のいくところまでやりたいものである
今日の瞑想を眠っていた別ブログにアップした
ご参考までに
Mind Files for Philosophical Musings: わが生の形而上学化
昨日の話題にあった「超世俗的」ということに関連した考察が、その後の記事で展開されていた
わたしにとって重要なことが2つ語られているので、以下に貼り付けておきたい
吉田秀和さんの姿勢と観察、あるいは中原中也(2017年11月1日)
1つは、空を仰ぎ、全世界を自分に呼び込むような姿勢で、その全体を捉えようとする心――これは形而上学の心と同じである
もう1つは、世の中で活躍している人たちとは違う別の世界があり、その世界を持っている人がいるということ――これはまさに「超世俗的」と重なっている
吉田秀和(1913–2012)さんは若いときにその世界を知りたいと思ったとある
この2つ、実は根のところでつながっている
再確認すべきことが、ひと昔前に記録されていたことになる
先日の学友との会食の後、これまでの記録を読み返してみた
そうしたところ、興味深いことが見つかった
プラトンによれば、そのものの本質は原初にあるという
真の原初ではないが、これから社会に出て歩み出す以前の学生時代は、一つの原初と捉えられないこともない
ひと昔前の会食で、友人の一人がわたしのことを「学生時代から『超世俗的』で、今も変わっていないからなぁ」というような形容をしていたという件があった
学友といつもの談笑、あるいは目の前の鏡(2017年10月30日)
「超世俗的」という言葉はわたしの辞書になかったので、それまでそうとは意識されていなかったようである
今、改めて振り返ってみると、わたしの本質に近いところのものが学生時代にすでに表れていたと読み取ることもできる
「超世俗的」と言えば、わたしの心の師になっているシノペのディオゲネス(c. 412–323 BCE)の本質そのものとも言えるだろう
そう言えば、最初のエッセイ集の表紙も素晴らしいディオゲネスであった
今、近代美術館で下村観山展が開かれている
下村観山(1873–1930)がディオゲネスを描いているという話を聞き、出かけることにした
会場はそれなりに混んでいた
多くのテーマがわたしの興味の外にあったので、それほど長居はしなかった
目的のディオゲネスの絵は2つあった
撮影が許されていたものが以下のディオゲネス
撮影不可だったのが以下の絵になる
©The Trustees of the British Museum
こちらは東洋の諦念のようなものを感じさせるのだが、、
外はすっかり春めいていた
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アパルトマンに戻り、最後に近代美術館を訪れたのはいつだったのか調べてみた
ぴったり13年前にフランス・ベーコン(1909–1992)を観に行ったのが最後であった
当時はフランスにいたので、春のカフェシリーズのために帰国した時期に当たる
「目撃せよ。体感せよ。記憶せよ。」 フランシス・ベーコン展にて(2013年3月29日)
1週間ほど前にサイファイカフェ/フォーラム東京シリーズが終わりました
このシリーズに参加された皆様に改めて感謝いたします
これらの会についてのまとめが終わりましたので、以下に貼り付けておきます
参照していただければ幸いです
マルセル・コンシュの哲学(3)『生きることと哲学すること』を読む ①
フィリップ・クリルスキー『免疫の科学論』を読む ①
『生き方としての哲学:より深い幸福へ』を語り合う
◉ 第16回サイファイフォーラムFPSS(2026年3月14日)
(1) 矢倉英隆:シリーズ「科学と哲学」⑩ ポパーのプラトン批判 (2)
(2) 竹田扇:デカルトの医学論――機械論に基づいた⼈体の統⼀的理解
(3) 白石裕隆:「文(ふみ)以前」を“詩"索する、地質・文学・遺跡紀行――川端康成「東海道」を端緒として
春のシリーズ最後の企画は、以下の予定です
日時:2026年4月11日(土)
会場:札幌エルプラザ 特別会議室
テーマ:『免疫から哲学としての科学へ』を読む(4)免疫を形而上学化する
この本を読む最後の会となります
興味をお持ちの方の参加をお待ちしております
なお、夏のシリーズは以下の2つで、プログラムは決まり次第お知らせいたします
◉ 第17回サイファイフォーラムFPSS――2026年7月11日(土)
◉ 第24回サイファイカフェSHE――2026年7月18日(土)
こちらの会もよろしくお願いいたします