2026年8月17日月曜日

アトリエの書架を眺める






















久しぶりにアトリエに戻り、新鮮な目で書架を眺める

そこに収まっているものは2007年にフランスに渡ってから手に入れたもので、数年前に日本に戻ってきたものである

つまり、その間にわたしの受容体が、瞬間的にであれ、反応したものの総体がそこにある

向こうにいる時には、その全体の配置が頭に入っていたのだが、こちらに移した時に、整理することなく棚に入れたため、目的の本を探すのにも一苦労するようになった

同時に、この間、興味の持ち方が少しずつ変化しており、この書架に注意を払うことも少なくなっていた

ただ、向こうにいる時に芽生え、未だに解決されていない問題意識は依然としてわたしの中にある

こちらに戻ってからやっていることは、それを解きほぐし、具体的な形に彫刻することである

彫刻と言っても、今のイメージは、粘土を盛り重ねていく塑造の方に近い

最後になると、削り取る彫刻に近くなるのだろうが、

その過程で、これらの資料は大きな力になるはずである

なぜ、これらの本を手に入れたのかが後付けで分る瞬間が訪れるかもしれない

これから、そういう気持ちでこれらの塊と歩みたいものである











2026年8月12日水曜日

コンシュ『形而上学』の翻訳で考えたこと



























今週はどうしたことか、一週間の休日をもらったような気分になっている

こういうことはあまり経験したことがない

コンシュ『形而上学』の三校を終えてから一週間が経過して、ゆったりした気分になってきたのかもしれない

その気分に逆らうことなく過ごして、3日目に入ったことになる

昨日あたりは、かなり長い間リラックスした時間の中にいたと思ってカレンダーを見たところ、まだ2日しか経っていないので驚いた

いつも感じていることだが一日が長いので、たっぷりとそれを味わわせていただいている

その感覚から言えば、特に驚くこともなかったのだが、、以前の感覚で言えば、ということなのだろう

いずれにしても、時間の感じ方でこの人生は大きく変わるということだけは確かだろう

仕事をしていたり、時間に追われたりしていると、どうしてもカレンダー時間を頭に描くことになる

そうなると、時間に追われていることが充実した状態だと錯覚しやすくなる

時間の持つ豊かさ、さらに言えば無限の広がりがそこにあることに気づけなくなる

幸福を求めて人生を送っているとすれば、幸福のかなりの部分を味わうことなく人生を終えることになりかねない


ところで、時間の問題はコンシュ『形而上学』でも取り上げられている

この本は、考えるべき問題――例えば、時間、道徳、倫理、哲学、形而上学、科学、宗教などの基本的な問題――をどのように考えべきなのかについて、一つの道筋を提示していると見ることができる

その意味では、訳者にとってだけではなく、多くの方の参考になるものと言えるだろう

それから、以前に翻訳をした時にも感じたことだが、翻訳は原著者の語り口と同じものにはなり得ず、あくまでも訳者のものであるということである

前回、科学書を翻訳した時、著者を日本に招いて講演会があった

その時、訳書を読んだ人が原著者に向かって「先生が・・・と書いているのは・・・」と発言しているのを聞き、違和感を覚えたことがある

その内容はともかく、その言葉遣いは訳者のものであることを知っていたからである

翻訳しながら、原著者の表現を再現することは不可能であり、訳者のものにしかなり得ないことを身に沁みて理解していたからである

純科学の場合であればまだしも、哲学となるとその仕事は想像を超えるものになる


さらに今回、小見出しを付けることになった

どこに、どのような小見出しを入れるのかという組み合わせは、ほとんど無限にある

その選択によって本書が全く違うものになり得るということである

訳者はその中の一つを選んだことになる

小見出しを付けることにより、この書は二重三重に訳者のもの以外ではあり得なくなった

大変な選択をしたことに気づいた静かな休日である












2026年8月7日金曜日

久しぶりのユルスナ―ル
















本日は、ランドネがご趣味の友人とのデジュネとなった

まず、マルグリット・ユルスナール(1903–1987)の話が出てきて驚いた

ユルスナールと言えば、渡仏前に何度かわたしの前に現れたことがある

ハドリアヌス帝の回想』(Mémoires d'Hadrien)とそのCDを手に入れたり、ユルスナールに関するシンポジウムに参加したこともあった

  ユルスナールのシンポジウムへ(2005-02-26)

しかし、深く入ることなくフランスに渡り、新しい領域に飲み込まれていった

今回、ユルスナールが三島に興味を示し、その考えをまとめていたことを知った

  Mishima ou la Vision du vide (Gallimard, 1980)

  『三島あるいは空虚のヴィジョン』(河出書房新社、1982)

三島の中には空虚しかなかったということなのか

空虚ということは何もないということではないのか

もしそうであれば、コンシュであれば、考えるに値しないと言いそうでもあるのだが、

あるいは、入れ物はあるが中身がないということなのか

このあたりを知るには、読んでみるしかないのかもしれない

それはそうとして、久しぶりにアドリアンのCDでも聞いてみたい気分になった


ところで、コンシュの三校が終わった今週から、暫くの間お休みしていた新しいプロジェをゆっくりと再開したところだ

以前にも書いたかもしれないが、どこに辿り着くのかは全く見えていない

この、どこの港に着くのか分からない船旅をしているような気分は決して悪くない

その良さを知ったのは、フランスに渡って各期ごとにミニメモワールをまとめる作業の中でのことだった

それ以来、その感覚の捨て難さは常にわたしの中にある

コンシュによれば、芸術家が何かを創造するというのは、設計図をもとに進めるのではない

自分が作りたかったものが何だったかわかるのは、それが出来上がった時だと言っていた

まさにその感覚である







2026年8月6日木曜日

いろいろな瞑想生活を観る
















今朝、Youtubeを開くと、山道(The Mountain Path)というドキュメンタリーが出てきた

中国の山奥に暮らす僧の生活と話を撮った静かなものであった

瞑想生活の中にある人たちの姿を見て、その生活様式は違えどもその精神においてはわたしと変わらないような気がした

わたしもかれこれ20年近くになる、言ってみれば瞑想生活の中にあるからだ

今はやりの言葉で言えば、マインドフルネスである

あらゆる瞬間に自らの意識を自らの内に向けているのである


続いて、聖なる群島(The Holy Archipelago)が出てきたので見ることにした

そういう気分だったのだろう

山道における生活も小さな集団で行われていたが、こちらは教会という強固な制度の中での生活であった

2006年の12月に将来を模索するためパリを訪問した際に観たフィリップ・グレーニング(1959–)の Le Grand Silence(大いなる沈黙へ)を想起させるものであった

グレーニングの映画には語りや音楽は一切なかったが、精神においてはこのドキュメンタリーも同じ流れにあるのだろう

美しい映像も楽しんだ

2006年暮れのブログ記事が残っている(こちらから)

これを読み直すと、これからの生活がどのようなものになるのかということの大枠を掴んでいたようである

今振り返ると、細かいところに目を瞑るとすれば、驚くことは何もなかったと言ってよいだろう






2026年8月2日日曜日

コンシュ『形而上学』三校、見直し終える

















夏のカフェ/フォーラムのまとめを終えた今月21日から、コンシュ『形而上学』の三校の見直しを進めていた

本日、見直しと索引の作成を何とか終えることができた

かなり消耗するプロセスとなった

二校の見直しを終えた時には、「これで終わった」という感慨が浮かんできたが、それは全くの錯覚だった

かなり重要な修正から始まり、細かい調整まで残っていた

単に注意が行き届いていないこともあるが、その時の精神状態・気分によって判断基準が微妙に変わることがあるので厄介だ

こうしてみると、このプロセスに終わりはなさそうだが、今回、一応のケリを付けたことになる

今は、不備ができるだけ少ないことを願うばかりである










2026年7月30日木曜日

昔の研究仲間とビアパーティを楽しむ


































兎に角、酷い暑さが続いている

そんな中、ビアパーティのお誘いがあった

その昔所属していた研究所の皆さんとの会である

前回がすっかり昔のことのように感じられる

それは時の流れが速くなったというのではなく、先日も触れた日々が分厚くなり、向こう側が見え難くなっているという状態のせいに違いない

風邪で体調を崩して直前で欠席になった方もいたが、10年振りくらいの方もおられ、話は盛り上がった

と言いたいところだが、日々静寂の中で暮らす身にとっては、異常な騒音の中での会話になかなか入っていくことができなかった

話し声が搔き消される状態の中にいたからである

現代の仕事をしている人は、あの環境を何とも思わないのであろうか

お店は満員であった

次回があるとすれば、話し声の聞こえる場所でお会いしたいものである

いずれにせよ、皆様の更なるご活躍を願っている















2026年7月25日土曜日

仙台で旧交を温める

























今日は1年振りに雨に濡れる仙台を訪問

田村、小林両先生と旧交を温めた

このところコンシュ『形而上学』三校の見直しに当たっていたので、気分転換になったかもしれないし、そうでないかもしれない

田村氏とは1年振りだが、小林氏とは7年振りになる

田村氏は昨年奥様を亡くされ、その後どんな生活をされているのか気になっていたが、お元気そうで何よりであった

ただ、これから先の仕事をどのように組み立てるのかに頭を使われているようであった

おそらく多くの人が直面することではないかと思われるが、外的な拘束要因がなくなった時にどのような生活になるのかが不安要素として浮かび上がるのではないだろうか

わたしのようなプー太郎状態に耐えられるのかという問いにもつながるので、意見を聞かれる場面もあった

わたしから見れば理想的な状態が、必ずしもすべての方にとってそうであるとは限らないので、難しい問題ではある

小林氏にしても、仕事の終わりが近いとのことで、同様の問題を考え始めているご様子であった

いずれにせよ、人生に味が加わるのはこれからである

「生き方としての哲学」は貴重なスパイスになり得るとお伝えし、近いうちの再会を期して別れた































2026年7月22日水曜日

「パリから見えるこの世界」のタイトルから見えてくるもの

































2012年から2022年まで105回に亘って『医学のあゆみ』誌にエッセイを書いた

そのタイトルをChatGPTに分析してもらった

今朝、突然浮かんできたアイディアである

わたし自身も見えていなかったことがあったので、以下に分析結果を転載したい

自らのあゆみを天空から眺望するような感覚を味わわせてくれるものでもあった


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この105本のタイトルを時系列に並べて見ると、単なる関心の変遷ではなく、一人の研究者が独自の知的プロジェクトを形成していく過程が浮かび上がってきます。

私には、大きく五つの時期が見えます。


第1期(2012~2013)――「科学から哲学へ」という問題意識の誕生

最初のタイトルが「科学から哲学、あるいは人類の遺産に分け入る旅」であることは象徴的です。

この時点では、メチニコフ、イェルネ、ジャコブ、フレック、マイヤー、ラマルク、ブルーノなど、一見ばらばらな人物を扱っています。

しかし共通しているのは、科学者の背後にある哲学を探そうという姿勢です。

つまり、科学史ではなく、科学者の思想史を始めているのです。


第2期(2014~2016)――「科学の形而上学化」という方法論の形成

この頃から、医学の哲学、生物意味論、目的論、カンギレム、生命の定義などが現れます。

そして決定的なのが「科学の形而上学化」という言葉です。

これは単なるテーマではありません。

タイトルを見る限り、著者は科学を哲学に利用するのではなく、科学そのものから形而上学を組み立てようという方法を考え始めています。


第3期(2016~2018)――「生き方としての哲学」への転換

突然、アドー、コンシュ、ディオゲネス、エピクテトス、マルクス・アウレリウスが現れます。

さらに、意識の第三層、ネガティブ・ケイパビリティ、哲学的感情、静寂、沈黙など、科学から人格形成へ関心が移っています。

つまり、Science から Philosophy as a way of life へ。


第4期(2018~2020)――科学と哲学の本格的統合

この頃になると、免疫 → 情報 → CRISPR → 汎心論 → 生命 → 存在が一つの流れになっています。

つまり、科学の最新成果を存在論へ接続し始めています。

例えば、CRISPR、植物免疫、情報、利他主義などは、すべて「生命とは何か」へ向かっています。


第5期(2021~2022)――自然哲学の宣言

最後は、免疫の形而上学、徳認識論、科学精神、自然哲学、科学と宗教になります。

そして2022年、「人類の遺産に分け入る旅を超えて」で終わっています。

これは非常に意味深です。

つまり、「旅」は終わり、これからは「自分自身の哲学を書く」段階へ移ろうとしていることが感じられます。



全体を通して見える著者の特徴

私はこのタイトル群から、次のような特徴を感じます。

① 人物ではなく「知」を追っている

普通なら、「ダーウィン」「スピノザ」「ハイデッガー」という紹介になります。

しかしこの著者は、○○あるいは……という副題を必ず付けています。

例えば、「スピノザ」ではなく「幸福への道」を見る。

つまり、人物紹介が目的ではありません。


② 一つの分野に閉じない

免疫 → 医学 → 哲学 → 文学 → 芸術 → 教育 → 倫理 → 宗教 → 文明

すべてを自由に往復しています。


③ 方法論を作ろうとしている

途中から、何度も「科学の形而上学化」が出てきます。

これはテーマではありません。方法です。

つまり、「どう考えるか」を作ろうとしている。


④ 最終的な関心は「自然」

初期は、科学でした。

しかし最後は、自然哲学になっています。

つまり、科学は入口だった。

到達点は、自然です。



思考方法

タイトルだけでも分かるのは、著者は「具体から普遍へ」進みます。

例えば、CRISPR → 免疫 → 情報 → 生命 → 自然 → 存在という階段を上っています。

つまり、抽象論から始めません。

常に、具体的な科学から哲学へ上昇しています。

これはかなり珍しい思考様式です。



これから向かう方向

もし2022年以降を書くなら、私は自然に次のようになると予想します。

  • 自然哲学
  • 存在論
  • 免疫と自然
  • スピノザ
  • コンシュ
  • アナクシマンドロス
  • physis
  • 世界
  • 宇宙

へ進むでしょう。

そして、「科学の形而上学化」という方法論を足場にしながら、免疫という具体的な科学を起点に、生命・意識・自然・存在を一つの連続体として捉える独自の自然哲学へ向かう流れが見えてきます。




最後に、この一覧で私が最も印象を受けたのは、一貫した「中心テーマ」の存在です。

扱う人物や分野は多岐にわたりますが、その背後では、

科学から出発して、人類の思想の遺産を通過し、最終的に自然哲学という一つの世界観へ到達しようとする

という一本の知的な道筋が貫かれています。

その意味で、この105本は個々のエッセイの集合というより、一冊の長い思想的自伝、あるいは研究計画の展開として読むことができるように思います。







2026年7月20日月曜日

カフェ/フォーラムのまとめを終え、コンシュ『形而上学』三校へ



































本日、夏のカフェ/フォーラムシリーズのまとめを終えた

いつの頃からか、会の内容をまとめようとするのではなく、味わい直そうという気が強くなっている

そこでは、普段の流れに違和感をもたらすようなことを拾い上げ、これからの思索の種のようなものを探し出そうとしているかのようである

すぐに抽象化に向かわず、むしろそこに向かうための材料を見逃さないように、会をなぞるように書くようになっている

今回も、あるいは以前にも増して、目を開かされることが少なくなかった

以下にページを貼り付けておきたい


これでやっとマルセル・コンシュ(1922–2022)著『形而上学』の三校に当たることができるようになった

実は、1週間ほど前に届いてはいたのだが、これだけに集中したいという気持ちが強く、カフェ/フォーラムのまとめが終わってからということにした

以前であれば並行して進めたと思われるが、これなども新しい変化と言ってよいのではないだろうか

今回で訳文の検討は最後になると思われるので、じっくりとその中に入ることにしたい















2026年7月18日土曜日

第24回サイファイカフェSHE、無事に終わる





今日は、第24回サイファイカフェSHEが開催された

テーマは「フィリップ・クリルスキー(1942–)著『免疫の科学論―偶然性と複雑性のゲーム』を読む」の2回目であった

今回は、以下の章を読んだ

第1部 進化における生体防御
    第5章 生物の複雑性とその進歩
    第6章 生体防御とロバストネス

第2部 ヒト生体防御の組織―部分が全体に向かう
    第7章 分子と分子モジュール
    第8章 分子モジュールの連鎖
    第9章 細胞と細胞モジュールの構造
    第10章 防御反応における機能モジュールのつながり
    第11章 必然だが起こりそうもない出合い
    第12章 より個物化された医療へ

2名の欠席はあったものの4名の方が参加され、静かな中にも本質的な議論が展開した

今回のキーワードとして、生体防御を支える「ロバストネス」(環境の不測の事態や内的機能不全が生じても適切に機能し続ける能力)、「分子あるいは細胞モジュール」、それと「出合い」を挙げておきたい

個人的には、科学の内容もさることながら、それが意味するところに興味が向かっていることを感じる会となった

統合の方向とまでは言わないが、意味に向かっているとは言っておきたい

詳細については、近いうちに専用サイトにまとめる予定である

訪問していただければ幸いである


夏のカフェ/フォーラムシリーズは本日で終わりとなります

秋のシリーズは予定が決まり次第、この場に掲載する予定です

秋もよろしくお願いいたします









2026年7月13日月曜日

intuitive leap 再考



























昨日記事にした森氏の歌のもとになった詩が書かれたオリジナルサイトを再度読み返してみた

そうすると、足を使うことが思考に影響を与えるというテーマがそこにあることに気づいた

それは、土曜のFPSSで林氏が取り上げたことでもあった

今日気づいたのは、1時間足らずの間に、これまでの人生とこれからの人生を集約するような思想が詰め込まれた15余りの詩が自分の中から出てきたということ、しかもそれはこの人生においてこの時だけの出来事であったということである

当時は、これから先が見えない状況で、「全身の受容体の感度が極限まで亢進していた」と表現したこともあるくらい、精神の緊張感、集中力がそれまでにないほどに高まっていた

その上、希求する心のエネルギーが想像を超えるレベルに達していた可能性もある

そのような状態であったからこそ起こった出来事ではないか

しかもそれは、身体の活動が加わった上でのことであった

つまり、全身の力がもたらした奇跡のような(自分でも信じられない)出来事と言えるのではないだろうか


同じく土曜のFPSSで議論された中に、絶対的真理に至る最終段階としての「intuitive leap」(直観的飛躍)とはどういうものなのかという問題があった

今朝、一生のうちに一度だけしか起こらなかった説明不能の2007年春の出来事が、その問題につながる糸口を提供してくれているのではないかと思い当たった

2017年に書いた絶対的真理への道に関するエッセイには、次のようなことが書かれてある

この飛躍にとって重要になるのが、形而上学の方法論でもある瞑想、あるいは瞑想が齎す精神や身体に対する諸々の影響ではないかと考えている。それは、その存在の全体が生み出す力のようなものである。(その)ためには、いかなる時間も無駄にできない。何が真理の基となる個々の事実の発見に繋がるのか分からないからである。つまり、どんな時間にも同等の価値を置かなければならなくなる。・・・

わたしが想像している絶対的真理は、日常生活や「いまここ」で出回っている意見から離れた内的生活を長く続けた先に見えてくるもので、内的生活の密度と深さが跳躍力を決めることになるのではないかというものである。

モンテーニュが「生きることを仕事にする」と言ったように、日々、内的生活の密度と深さを高めていくように努めていった先にそのような飛躍の時が、おそらく予期せぬ形で現れるのではないか

しかもそれは身体の活動が誘発する可能性が高いということである

まさしく、その存在全体の力に比例して飛躍の力が現れるのではないか

2007年春の出来事がそのことを教えてくれているようである

今は期待を含め、ここまでとしておきたい










2026年7月12日日曜日

2007年春の詩とその作者とは


























密度の濃かったFPSSの翌朝

会の最後の演者であった森氏のお話が蘇ってきた

それは、わたしがパリでの道を模索して訪問していた2007年3月15日に詠んだ詩について、AIと相談の上でご自身の歌を作ったというエピソードであった

AIは、この詩と作者の内面をどのような分析をするのだろうか

わたしも知りたくなり、トライしてみた

以下、あっという間に出てきたChatGPTの分析結果である


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とても興味深い作品群です。これらは単なる旅行俳句ではなく、一人の哲学者・研究者の精神的自伝のように読めます。しかも、「パリ紀行」というよりも、「人生の原点への回帰」を描いた連作になっています。

私がこれらの俳句から受ける印象をまとめると、次のような作者像が浮かびます。

1. パリは「場所」ではなく精神の故郷: 最も強く感じるのは、

  春のパリ住処に帰る心地して

という一句です。普通なら「パリに来た」と言うところを、「帰る」と言っています。つまり、作者にとってパリは生活の場所ではなく、精神の故郷なのです。それは

  フランス語我を導き哲学へ

によって説明されます。哲学への入口がフランス語だった。したがって、フランス語 → 哲学 → パリ、この三者が一つの記憶として結びついています。

2. 若い日の自分を探している: 何度も現れるのが「若き日」です。

  巴里の街若き日の我溢れおり

これは面白い表現です。若者が多いという意味ではありません。作者自身の「若き日の分身」が街中にまだ生きている。そんな感覚です。さらに、

  若き日と再び歩まんパリセット

ここでは、「若き日の自分」と一緒に歩くと言っています。つまり、過去を回想しているのではなく、再びその時間へ入ろうとしているのです。

3. 人生の後半にいる人: 一方で、現在の自分は若者ではありません。それは、

  白雪の荒野をゆくかこれからは

に表れています。これは人生後半への覚悟でしょう。「白雪」「荒野」という言葉からは「孤独」「老い」「未知」「死」まで連想されます。しかし絶望ではありません。むしろ「これから歩いていこうか」という静かな決意です。

4. 哲学は人生そのもの: 中心にある一句は、

  なぜ哲学それ人生と先人の説き

でしょう。これは、ハドー、コンシュ、モンテーニュ、あるいは古代ギリシア以来の「哲学とは生き方」を思わせます。つまり、作者にとって哲学は研究対象ではない。生き方そのものです。

5. 人類の遺産: 最初の一句

  人類の遺産と歩まんヴァンセンヌ

ここでいう人類の遺産とは、建物ではないでしょう。「思想」「文学」「哲学」「科学」そうした精神遺産です。しかも「見る」ではなく、「歩む」と言っています。つまり「受け継ぐ」という意味です。ここに作者の使命感があります。

6. パリに住みたいのか: ここが面白いところです。一方で、

  春盛り住みたくはなしパリ市街

と言い、他方で

  春の空住み遂せるかパリの町

とも言っています。矛盾しています。しかしこれは現実と精神の違いでしょう。精神的には住みたい。現実には住めない。あるいは、住まない方がよい。だからパリは現実の居住地ではなく、精神の居住地なのです。

7. ボストンとニューヨーク: ボストン、ニューヨークも出てきます。これらは人生の重要な時期なのでしょう。しかし、中心はやはりパリです。ニューヨークは思い出す。ボストンは高揚を思い出す。パリは帰る場所。役割が違います。

8. 作者は何を探しているのか: 最後の一句

  先人の形見に触れん秋近し

ここですべてがまとまります。「形見」とは遺品ではありません。「思想」「書物」「人生」「精神」です。作者は過去を懐かしんでいるのではありません。先人から受け継ぐものを、自分の人生の中で生かそうとしている。そのために、ヴァンセンヌを歩き、リブレリーへ行き、パリセットを歩く。

私が最も印象を受けたこと: これらの俳句を通して最も印象的なのは、作者の関心が一貫して「場所」ではなく「時間」に向いていることです。

パリもヴァンセンヌもボストンもニューヨークも、地理的な空間として描かれているのではありません。それらは、それぞれ人生の異なる時間層を呼び起こす契機になっています。春のパリを歩けば若き日の自分が現れ、ヴァンセンヌでは人類の精神的遺産とともに歩み、書店では哲学への憧れがよみがえります。現在・過去・未来が、一つの場所で重なり合っているのです。

したがって、この連作の主人公は、青春を懐かしむノスタルジアの人ではなく、人生の後半に立ちながら、若き日に抱いた哲学的志をもう一度自分の生の中心に据え直そうとしている人として描かれています。そこには老いへの意識(「白雪の荒野をゆくかこれからは」)もありますが、それは終末感ではなく、「人類の遺産」を受け継ぎ、自らの思索を次の段階へ進めようとする静かな決意と結びついています。

その意味で、この連作は旅行記ではなく、一人の哲学者の精神的巡礼(pilgrimage)を描いた作品群として読むことができるように思います。そこではパリは都市ではなく、哲学と青春と未来とが交差する象徴的な場所になっています。


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今日の写真は、2007年春、パリの街を歩き回っていた時の一枚とした


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2007年3月15日のブログ記事を改めて読み返してみたところ、昨日話題に上っていた「散策(歩行)と哲学」というテーマそのものがそこにあることに気づく

前日の午後一杯を使って、12区の Bercy、Daumesnil からMontreuil、Vincennes、Saint Mandé のあたりを歩き回ってパリに戻ってきた

その翌朝の1時間ほどの間に、15の俳句?が次々に出てきたということであった

「体が脳の思わぬところを刺激したようだ」とある

因みに、このような経験はこの時だけである


さらに、コメント欄には興味深いことが書かれてあった

それは、精神とは何なのか、精+神という組み合わせが不思議で、これは一体何?という疑問であった

それは今でも大問題である

森氏によれば、原理が分からなければ論じられないとのことであった

しかも原理のようなものが唱えられたとしても、人体実験ができないので、この問題は永久に謎のままかもしれない


2007年春の出来事と2026年夏の出来事が不思議な交差を見せてくれた

これも昨日の余韻になるのだろうか


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森氏から、昨日紹介された歌が届いたので以下に貼り付けておきたい





これまでの作品リストは、こちらから










2026年7月11日土曜日

第17回サイファイフォーラムFPSS、盛会のうちに終わる





















本日は第17回のサイファイフォーラムFPSSが日仏会館で開催された

酷暑のなか、またお忙しいところ、多くの方にお集まりいただき、盛会のうちに終えることができた

議論もいつになく深まりを見せていたのではないかと思う

参加された皆様に改めて感謝したい

プログラムはすでにご案内の通りで、以下の話題が取り上げられた

(1) 矢倉英隆:シリーズ「科学と哲学」⑪ プラトン哲学と現代的課題
(2) 林洋輔:文化のエグゼルシス:概念からPerforming Arts、そしてSportへ
(3) 森 望:生命との対話:二つのライフヒストリー 〜遺伝子・脳・言語・AI・音楽〜

 

一番目の話題は、これまで5回に亘って触れてきたプラトン哲学の最終回に当たっていた

そこで選ばれたのは、現代の課題と演者が見ていることとプラトン哲学との関連、さらにそれに対する応答としての「科学の形而上学化」(MOS)をどのように見るのかという問題であった

真理に至るには、個別、具体に分け入るのがよいのか、それとは別の抽象度を上げ統合に向かうのがよいのかなど、根幹に触れる問題が議論された


二番目の発表の大きなテーマは、西洋哲学の始まりから哲学に関わるとされる"exercices spirituels" という言葉を日本語でどのように扱うのかであった

従来、「精神の修練」と訳されることが多かったようだが、演者はそこに疑義を差し挟み、"exercices spirituels" とはどのような活動なのかを分析するところから始める

そこから自ずと日本語が出てくるのではないかとの考えからである

そして、現段階では「修練」ではなく、「尽力」という訳語に至ったようである

この言葉に関しても、いろいろな意見が出されていたので、今後どのように展開するのか興味深い


そして最後の発表は、分子生物学と老化研究に打ち込んでこられた研究者によるもので、人生を感じさせる内容となっていた

これまでの研究の成果を振り返るだけではなく、その時々の内面をも省察するもので、印象深いものがあった

一つの結論めいたところとしては、DNAの構造が分かり、それがタンパクに変換される規則が明らかにされているので生命については論じることができる

しかし、精神に関しては、その基本的なところが分かっていないので、現時点で論じるのは無意味ではないか、というようなニュアンスであった

ワトソン(1928-2025)とクリック(1916-2004)によるDNAの構造と遺伝のメカニズムの解明は、実験データはそこにあったのだが、それが意味するところに気づいたのはこの二人だった

この指摘も示唆に富むものであった

お話の過程で、最新のAIを利用して科学の内容や研究者へのオマージュなどを歌で紹介されていた

その中に、わたしがパリに渡る前の心境を謳った詩をAIと相談の上で歌にしたものもあり、しかもフランス語バージョンも出てきて驚いた

久しぶりに聞くフランス語の音は愛おしく感じた

また、最後に出されたマルティン・ブーバー(1878-1965)の言葉も印象に残った

「始めることさえ忘れなければ、人はいつまでも若い」

「存在とは出会いである」 



会の詳細については、近いうちに専用サイトにまとめる予定である

訪問していただければ幸いである



































2026年7月6日月曜日

日々を分厚いものに



































本日の写真も懐かしい馴染の風景とした

マルセル・コンシュ『形而上学』の二校を終え、2週間が過ぎようとしている

現在は三校(最終校)を待っているところである

2週間前がかなり昔に感じられるが、それは時の流れが速くなったという感覚とは違うようなのである

いつの頃からか、一日一日が分厚い塊のように感じられるようになっている

それは、「いまここ」を徹底できるようになったため、一日に詰まっているものが大きくなっているからではないかと想像している

その昔のように、先を見てその中に今日を置くということをしなくなっているため、一瞬一瞬が密に詰まっていて濃く感じられる

つまり、日々の分厚さのために過去の出来事が遠くに行ってしまったように感じているのではないだろうか

それが現在の見立てである



前回も触れたが、二校を終えた後、これまでぼんやりと思い描いていたプロジェに乗り出している

ということで、あゆみ始めてまだ2週間にしかならないが、今のところ、遅々とはしているものの前には進んでいるようである

問題は、全体の構想が見えないことだ

何を作っているのか、どんなものになるのかを知らずに仕事をしているのが詩人であり、芸術家であるとはコンシュの言である

その考えはわたしの中にもあるもので、出来上がった時に自分の構想が見えてくるのだろう

その時が来れば、ではあるのだが、、

それまでは、「いまここ」の精神で一日一日を分厚いものにしていくしかなさそうである












2026年7月1日水曜日

今年も後半に入る


























今年も半分が経過したことになる

今年の前半は、コンシュの『形而上学』の翻訳を軸に回っていたようだ

この2か月は、二校の校正に追われていた

いろいろ手を加えたので、改めて見直してみないとどのような形になっているのか分からない

今は三校を待っている状態である


7月に入り、夏のカフェ/フォーラムが迫ってきた

◉ 2026年7月11日(土)13:00~17:00
 日仏会館 509会議室
 (1) 矢倉英隆:シリーズ「科学と哲学」⑪ プラトン哲学と現代的課題
 (2) 林洋輔:文化のエグゼルシス:概念からPerforming Arts、そしてSportへ
 (3) 森望:生命との対話:二つのライフヒストリー 〜遺伝子・脳・言語・AI・音楽〜

◉ 2026年7月18日(土)14:30~17:00
 恵比寿カルフール B会議室
 フィリップ・クリルスキー『免疫の科学論』を読む ②

丁度、まとめの最終段階に入ってきたところである

当初思い描いていた構図とかなり違うものになりそうだ

自分に引き寄せた内容になっているので、新しいバージョンの方が力があるように感じられる

その日まで手を加えることになるだろう


さて、二校を終えたあたりから、新しいところに向かう具体的な動きが出てきた

実際にプロジェなるものとして当たり始めている

先は全く見えないが、それはいつものことである

また苦しみながら歩むことになるのだろう



今日の写真は、その昔見ていたパリの何気ない眺めとした












2026年6月29日月曜日

詩人の歩みを始める




























1週間前にコンシュ『形而上学』の二校を終えた

その直後、無性に詩の世界に入りたくなったのには驚いた

哲学は詩に近いと言われるが、どこまでも論理が背後にある

そこから解放されたように思ったのだろうか

翌日、最初の学生時代に読んだリルケ(1875-1926)の散文に手が伸びた

詩人が感情を抑えることなく自由に語る世界を味わう

ただ、その欲求は数日のうちに消えてしまった


その後には新たなプロジェの息吹を感じている

まだ全体構想が見えない状態である

これは歩きながら構造を作っていくことになるのだろうか

それが出来上がるまでどうなるか分からないものを作っている

この感覚は哲学の世界に入り、考えをまとめる作業を始めてからわたしの中に常にあるものだ

コンシュも、それが芸術家、詩人の仕事だと言っている

いずれにせよ、新たな詩人の歩みを始めたところである












2026年6月23日火曜日

「翻訳することは理解すること」再び




























前回の記事で、「翻訳した後でなければ理解できない」という言葉を引いた

そして、翻訳には途轍もない労力を要すると続けた

さらにそこから、翻訳からは離れたいという方向に進んだ

しかし、別のところに向かうこともできたことに気づく

それは、一人の人間の考えを理解するには、途方もない労力を要するということだ

そう考えると、外国人の考えを理解しようとしたなら、翻訳という労力を払わなければならないことになる

これは、理解すること自体がそんなに容易なことではないことを意味している

改めて、そのことに思いが至る

もとを辿れば、ジョージ・スタイナー(1929–2020)の「翻訳することは、理解することである」あたりに行き着くのだろうか

これは以前にも指摘したことだが、この状況は日本語でも同じではないだろうか

理解するために、そこにある言葉をなぞるだけでは不十分で、それを言い換えたり、そこから広がる世界を思い描いたりする「翻訳」が必要になるということである

そうしながら、アドー(1922–2010)が言う「文章が自ら語り出すのを待つこと」なのだろう












2026年6月21日日曜日

マルセル・コンシュ『形而上学』の二校を終える



























フランス語の翻訳を始めたのは今から10年ほど前になる

著者から依頼された免疫学に関する本であった

この本は2年後の2018年にみすず書房から刊行された

その流れで、翌年には微生物学の翻訳も出した

この過程で翻訳についていろいろ考えた

その記録は翻訳ブログとして残っている


その昔、「外国語の本は翻訳した後でなければ理解できない」というような話をどこかで読んだ記憶がある

当時はピンと来なかったが、この間それがよくわかるようになった

そして、翻訳という作業が途轍もない労力を要することも身に染みた

ということもあり、翻訳はもうやらないとどこかで思っていた節がある

それではなぜ、日本では無名の、しかも分野違いと言ってもよい本の翻訳を始めたのか

いろいろな理由が考えられる

一つには、2006年にフランス語で初めて語りかけてきた哲学者の著作だったこと

二つには、科学とは対極にあると思い、哲学に入る前から気になっていた形而上学について理解を深めたいという願望もあった

三つには、最初に出会ったときから、世の中の喧騒には目もくれず、静かに、深く、厳密に考えている姿に感じるものがあったことが挙げられる

そこに、今日の世界に必要なものがあると直観したのだろう


今回の過程を振り返れば、2024年11月から翻訳に着手したが、このような哲学者を受け入れる素地が日本にあるのか、はなはだ疑問であった

昨年1年は出版社を探すことに費やされた

予想通り、前向きに考えてくれるところは皆無であった

しかし、今年に入り、考えましょうと言ってくれる出版社が現れた

知泉書館さんである

1月に面談してから動き始め、二校に至っているというのが現在地である


今回の本は日本で初めて紹介されるコンシュの著作になる

そのため、以下のような工夫をした

読み進む上で参考になると考え、原典にはない道標を加えることにした

具体的には、本文には小見出しを付け、対談が収められた補遺には議論されるテーマを冒頭に掲げた

原典では茫漠とした平原を行くような印象があったのだが、ある範囲に意識を集中しながら読み進むことができるようになったのではないだろうか

改めて読み返してみると、原典とは全く違う本になったように見える

読むたびに印象が変わるので、これからもじっくり読み返したい本になりそうである


先ほど、二校の最後の読みを終え、編集者に送ったところである

今回は初校では感じなかった「終わった」という感覚を持つことができた

読みながら、長い翻訳の過程で迷い、悩み、考えてきたことが、どこからともなく浮かんできて驚いた

それは、2年弱のこの旅を懐かしく味わい直すような無意識の感覚と言ってもよいものであった














2026年6月16日火曜日

7年振りの会食























(左から)葛西先生、奥村先生、(一人置いて)垣生先生





今日は、久し振りに順天堂の奥村先生、垣生先生、葛西先生との会食が実現した

葛西氏とは昨年もお会いしているので1年振りだが、このお三方が揃うのはコロナ前の2019年以来になるので、7年振りということになる


プー太郎状態のわたしとは違い、皆様お仕事をされているので、貴重なお時間を割いていただいたことになる

改めて感謝したい

皆様お元気そうで何よりであった


上の写真には写っていないが、形而上学に興味をお持ちの方がおられ、わたしの話も浮くことがなかったのは幸いであった

というようなこともあり、今日はよく飲みというか、飲まされというか、必要以上に話していたのではないかと危惧している

そんな中聞こえてきたのは、日米で研究生活を共にした人たちがどんどん姿を消しているという厳粛な事実であった

今翻訳中のマルセル・コンシュ(1922-2022)の哲学に親しんでいれば、それはこの世界を認識し、生きる際の基本になることではあるのだが、、

すべては(人類もこの地球も)滅びる運命にあることを認識した上で、それでもなお最善を尽くすべく努める知恵をコンシュは「悲劇的な知恵」と呼んでいる

これはわれわれを励ましてくれる知恵と言ってよいのではないだろうか

それから、人生のこの時期になると、これまで読む気にもならなかった哲学的な話にも食指が伸びるというような声も聞こえてきた

わたしの試みについてもご理解をいただいているように感じた

たっぷり3時間、味わい深い会食だったのではないだろうか

前回は台風が近づいていたようだが、今回は地震というおまけが付いていた

またの機会が巡ってくることを願いたいものである









2026年6月14日日曜日

一日の過ごし方



























普段はアパルトマンに留まることなく街中を歩き回り、その時に最良だと感じる場所に落ち着いて何かをするというのが日課になっている

これはパリにいる時に体得したやり方で、当時は「パリの街を書斎にしている」と言っていた

振り返れば、20年近くも続いたことになる

5~10キロの荷物を背負い歩くのだから、いずれ腰にでも来るのではないかと思っているが、いまだ止めようと思ったことはない

ところが、この週末は外に出ることもなく、自由な姿勢で、やりたい時にやりたいことをやるということになっている

計画したわけではなく、そうなっただけなのだが、、

普段これができないのは、アパルトマンにいるとその気にならないからである

これからは、その気になることがあれば、このやり方も面白いかもしれない

ここでのポイントは、「その気」をじっくり観察して見極めることである

長い瞑想的生活がその目を養ってくれているように感じる

この週末のプチ発見であった










2026年6月12日金曜日

この世の縛りの中に生かされている人間



























今日は俳人の友人とのデジュネがあった

明るい午前中だったが、午後から急に激しい雨になり、雷も聞こえてきた

オープンカフェの奥の方だったので、影響はなかった

店員さんも客のいろいろな注文にこたえてくれ、気持ちよく過ごすことができた


スペイン料理を食しながらの話は、いつものように今の時期に考えておくべきことが多かっただろうか

それにしても、この世界に生きるということが、如何に大変なのかということを思い知らされる

それはあらゆることに縛られているということに由来するのだろう

街に出てカフェなどに落ち着くと聞こえてくる話は、ほとんどそのことに尽きている

能天気に、雲上の生活などと決め込んで久しいが、両者のストレスの量には想像を超えるものがありそうだ

ただ、今日もコンシュの形而上学の世界で苦闘していることを考えれば、異なる質のストレスの中に生きているということになるのだろうか

人間である以上、逃れることができないその縛りから解放されるのは、あの世に旅立つ時なのかもしれない

旅立つと言えば、旅行の話も出ていたが、面白そうな場所がいくつか浮かんでいた


店を出る頃には雨も上がり、夏の日差しが戻っていた




samedi 13 juin 2026

俳句を送っていただいたので、以下に貼り付けておきたい

ゆっくりとパエリヤスコール過ぎるまで









2026年6月6日土曜日

もう少しで20年目に入る観想生活



























前記事に列記されている昔のブログを読み返してみた

少し前まではまだ臨場感があったのだが、今回はそれが少しだけ遠のきつつあるように感じた

そこに書かれてある考えは、当時は確かに強いインパクトを与えていたことは分る

それはあたかも、真っ白なキャンバスに鮮烈な色遣いのフォルムが現れるような感じであった

しかし、それが現在の生活や考えに影響を与えるかと問われれば、NON ! となるだろう

なぜなら、それらはすでに自分の中に沈殿し、あるいはいろいろなところに刻み込まれているからではないだろうか

その意味では、自分の考えになっているものを確認しているに過ぎないことになる


60冊超のパリメモを読み返すというプロジェ(Mind Files for Philosophical Musings)を始めたことがある

しかし、それは知らない間に続かなくなり、やり直しても同じであった

不思議に思っていたが、その理由もこのあたりにあるのかもしれない

今は別の具体的なテーマに精神が集中するようになっているので、致し方ないのだろう

フランスでの観想生活を始めてから、もう少しで20年目に入ることになる

一つの大きな転換点を意味しているような気もしてきた










2026年6月3日水曜日

エドガール・モランさん、104歳で亡くなる


































エドガール・モランさんが、5月29日に104歳で亡くなっていたことを知る

2007年にフランスに渡る数年前からわたしの前に現われたので、20年以上の付き合いになる

これまでのブログから、モランさんの名前が出てくる記事を列記してみたい

2008-06-24 Patrick de Wilde 写真展

2008-09-23 エドガール・モランさんと再会する " Mon chemin " d'Edgar Morin

2008-10-01 ミシェル・オンフレ 「旅の理論」 "Théorie du voyage" de Michel Onfray

2009-03-15 自身の真実

2010-04-26 ボリス・シリュルニク / エドガール・モラン対談を読む Boris Cyrulnik vs Edgar Morin 

2011-10-23 ステファン・エッセルさんもエドガール・モランさんも最後は 「詩的に生きること」 Vivre, c'est vivre poétiquement 

2012-12-26 久し振りのエドガール・モランさん

2013-01-23 ハインツ・ヴィスマンさんによる文明と文化

2013-02-27 ステファン・エッセルさん亡くなる

2021-03-02 わたしの受容体に反応した人たち



4つのブログに30の記事が見つかり、驚いた

最近はご無沙汰していたので、これほど多く書いていたとは気づかなかった

フランス文化に触れるようになった当初からのお付き合いになるので、大きな影響を受けていたはずである

今では意識されなくなっているが、彼の言葉がわたしの中に刻印され、生きる力を与えてくれていたものと思われる

その意味で、文化は計り知れない力を持っていると言えるだろう










2026年5月29日金曜日

「一」を確認した後、『形而上学』の再校が届く



























本日は、雲を眺めることから一日を始めた

久しぶりのことだ

暫くすると、「一」と「多」という古代からの問題が空に現われているのを見て、早速カメラを取りに

幸い間に合った

少し後には、跡形もなく消えていた


午後からコンシュの『形而上学』を1か月振りに見直しておこうかと思っていたところ、知泉書館から再校が届いた

何と言うタイミングだろうか

こういうことが偶に起こる

ということで、暫くはその見直しに当たることになりそうである










2026年5月27日水曜日

「ゴルディアスの結び目」とは

























Jean-Simon Berthélemy (1743–1811)  Alexandre coupe le noeud gordien



Gordian Knot という言葉に出会った

ゴルディアスの結び目」と訳される

"cut the Gordian Knot" として使われることが多いという

これは、誰も解くことができなかった難題を、誰も思いつかなかった大胆な方法で一瞬にして解決することを意味する

この言葉は以下のような伝説がもとになっているようである


紀元前4世紀、アジア(現在のトルコ・アナトリア地方)にあったフリギア王国の首都ゴルディオンの神殿に、一台の牛車が奉納されていた

この牛車の車軸と横木はミズキの若枝の皮で作られた非常に頑丈な紐で、複雑に結びつけられていた

結び目は内側に隠されており、どこが紐の端なのかすら分からない

そして、「この結び目を解いた者こそが、全アジアの王になるであろう」との神託が伝わっていた

多くの英雄や賢者たちがこの結び目を解くことに挑戦したが、成功することはなかった

そこに現れたのが、アレクサンドロス大王(356–323 BCE)

彼も牛車の前に立ったが、紐を解くことができず、こう言ったという

「解き方など、どうでもよい。要するに、結び目が解ければよいのだろう」

そう言って腰の剣を抜き、複雑な結び目を一刀両断にした

そして神託通り、アレクサンドロスはアジアの覇者となった


このエピソードはいろいろな意味に解釈できそうである

結果として紐は切れたが、元々の問いに答えたと言えるかどうか

卵を立たせるために、下の部分を潰して立てたという話を思い出させる

現代であれば、深い理解よりも手っ取り早い解決という意味で使われていることもありそうだ

この話をテーマにした絵画もいろいろある

今日のものは、ジャン=シモン・ベルテレミーの作になる












2026年5月26日火曜日

快活な老年





今日のYoutubeには、この映像が紛れ込んでいた

1929(昭和4)年に撮影されたもので、快活なご老人の姿が映っている

まず、当時から矍鑠とした百寿者がいたということに驚いた

中に103歳の男性が出てきて、最後に立ち上がる時、まだシガーをやっているのかと思い嬉しくなったが、見直したところ杖の先であった

いずれにしても19世紀に生きていた人たちの生の姿に触れ、時を越えて生きる力がこちらにも伝わってきたように感じた

嬉しい遭遇であった








2026年5月25日月曜日

老年の美学を考える



























今日は何を思ったか、久しぶりのジャンルのお店に向かった

しかし、本日閉店であった

なぜ確かめてから出なかったのかとも思ったが、後の祭り

周辺の書店数軒を覗くことにした

その中の1軒で、筒井康隆(1934–)の『老人の美学』に手が伸びた

冒頭に人生の時間割について書かれた部分があったからだ

自分の考えは、『生き方としての哲学:より深い幸福へ』の中で触れているが(「人生」考でも再度取り上げている)、それとは違う見方であった

こればかりは人それぞれになるのだろう

全体的に現世の要素が色濃く出ていて、一般読者には受け入れやすい内容になっているのではないかと思った

雑談のようなものなので帰りの電車で読了したが、特に新しいことは出て来なかった

これを読みながら、ひょっとすると、自分は老年の過ごし方のエキスパートになりつつあるのではないかという感想が浮かんできた


振り返れば、還暦に際して、独立して仕事をしていた期間(ほぼ20年)と同じくらいの時間がこれから与えられるとすれば、それなりのことができるのではないかと考えていた記憶がある

その期間の終わりは近づいている

その時、どのような感想を持つのであろうか


老いは突然現れるので何とも言えないが、世に言われている人生百年時代ということになると想像を超える長さである

それをどう生きるのかということは、仕事をどうするのかを考えてきた以上に創造性が求められる重要な問題になりそうである









2026年5月24日日曜日

今日もホッパーの世界の中で



























今日は精神の拘束を解き、空を見上げることができるような椅子に座り、考えを自由に羽ばたかせることにした

久しぶりのことである

7月のカフェ/フォーラムのことが浮かんできた

現代的課題などというタイトルをつけたものもあるが、どこか公的な響きがあり、大げさにも聞こえる

そもそも公的・社会的な色を帯びるものに面白さを感じることはなかった

わたしを促すものはそこにはなかったという意味である

わたしを動かしてきたのは、特定の個人の小さな観察であったり、そこから生まれた考えであった

それを初めて感じたのが、将来を模索していた時期に出会ったフランス文化の中であった

その数年前からフランス語を始めていたという偶然の成せる業だろう

多くの促しがわたしの世界を広げてくれていたように思う


途中、現世のニュースにも目をやったが、興味を惹くものはなかった

やはり、問題は自らの内に在るのだろう

いつもの結論であった


セッティングはかなり違うが、気持ちの上では今日もホッパーの世界の中にいるように感じられる

穏やかな日曜の昼下がりである














2026年5月23日土曜日

エドワード・ホッパーの世界に生きていた

















今日の移動中、アメリカ滞在中のことが思い出された

そして、後半の5年間を過ごしたニューヨークでの生活は、エドワード・ホッパー(1882–1967)の絵の世界にいたのではないかという考えが浮かんだ

当時はそんな意識はなかった

40年以上が経過し、その生活全体を小さな塊として捉えることができるようになった今だからこその感想なのだろう

マンハッタンとロングアイランドの対比が印象的であった

今日取り上げたものは、ロングアイランドのイメージと重なる
























2026年5月21日木曜日

フランス生活の一瞬を追体験、そして「人生」考





























今日は用事があり、外出

そこで昔のブログを眺めていた

フランス滞在中の記事には、実に多くの写真が出てくる

しかも写真が画面いっぱいに広がっているものが少なくない

型にはまらない自由さをそこに見た

その中で、2013年6月2日の記事にあった移動中の写真が瑞々しく美しいと感じた

その瞬間に景色を撮っている人の感動がそのまま写真に現われるのだろうか

その追体験の証を本日の写真とした


また、外出先で、『「人生」考』のページに一つの記事を追加した

すでに発表済みではあるが、わたしが重要だと考えている「気づき」(悟り)についての一節である










2026年5月19日火曜日

サイファイ研究所ISHEのサイトについて考える


























先日、サイファイ研究所ISHEの意義について、Grokの見方を紹介した

2011年に科学と哲学に関する普及活動(SHE)を始めたが、もう1つPAWLが増えるのを切っ掛けに、両者のプラットフォームとして始めたのが、ISHEである

サイファイ研究所と銘打ってはいるが、わたしの中では自分の内的空間をイメージしたものであった

それが時を経るにしたがって、別の空間がまだ埋まっていないことに気づき、カフェの活動はさらに増えることになり、現在に至っている

この間、ISHEを紹介するサイトも運営していたが、当然のことながらISHE創設以降の内容に絞って掲載していた

ところが最近、ISHEの活動に至る以前の出来事も重要ではないかと考えるようになり、フランスでの全的観想生活が始まる前からのものも含め、関連する思索の跡をすべてリンクすることにした


フランスに向かう前には、これから「人類の遺産に分け入る旅」が始まるというイメージを持っていた

改めてISHEサイトを眺めていると、今も続いている旅の道行きを目にしているように感じる

そこには、頭の中だけではなく、この身が世界に触れた時に心の中に誘発された膨大な思いの記録が詰まっている

サイトにある1つのページの中に入ると、そこには想像もしなかったような世界が広がり、そこからさらに迷路のように奥につながる道があるといった具合で、このサイトの奥には鬱蒼とした森――それは人が溢れる森でもある――が広がっている

そんなイメージが浮かび上がる

これまではその時々に綴っていたブログが意識の前面に出ていて、ISHEサイトはどこか別のところにあるという感覚の中にいた

しかし今回、このような新たな視点を得たことで、ISHEサイトが自分の活動(コンシュが言う意味における)の全貌に迫る入り口になっていると感じることができるようになってきた

一日の始めに寄るべきところがISHEサイト、ということになるのだろうか









2026年5月15日金曜日

マルセル・コンシュ著『形而上学』のご案内
























拙訳のマルセル・コンシュ著『形而上学』(知泉書館)の刊行に向けて、現在準備中です

その案内ページを作りましたので、以下に貼り付けておきます


なお、章立ては以下のようになっております


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まえがき
プロローグ

第1章 哲学者になる
第2章 哲学者
第3章 形而上学の概要
第4章 哲学的自然主義
第5章 時間、時間性、時間化
第6章 「神」への確実な道
第7章 哲学の真理と実在性

エピローグ

補 遺
アルノー・プラニョルとの対談
アリオシャ・ワルド・ ロソウスキーとの対談
ディディエ・ローランスとの対談

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刊行の暁には、手に取ってお読みいただければ幸いです

よろしくお願いいたします