2026年10月3日土曜日

第17回サイファイカフェSHE札幌、無事終わる













本日、第17回になるSHE札幌を開催した

今回から、東京で行われているFPSSの様式を取り入れ、参加者が発表する機会を設けることにした

プログラムは以下の通りであった

1)矢倉英隆:『生き方としての哲学:より深い幸福へ――アドー、コンシュ、バディウと考える』を読む

2)方波見基雄:先験的現象学、その後の動向と潮流


最初の演題では、ベルクソンカフェのこれまでをまとめた小冊子を材料に、第1章のピエール・アドーの分析による古代哲学、特に魂の鍛錬(Exercices spirituels)を中心に議論した

魂、ひいてはこの生についての興味深いアプローチが展開されていた古代哲学の多様性に目を見張った

つづく演題は現象学に関するものであったが、基礎的な知識がないと理解が難しいのではないかという印象を持った

それぞれの内容の詳細については、近いうちにまとめる予定である

17-SHE札幌サイトを訪問していただければ幸いである

















なお、来月から始まる東京シリーズの予定は以下の通りである

◉ 第25回サイファイカフェSHE
11月7日(土) 14:30~17:00 恵比寿カルフール B会議室
フィリップ・クリルスキー『免疫の科学論』を読む ③

◉ 第18回サイファイフォーラムFPSS
11月14日(土)13:00~17:00 日仏会館 509会議室
(1) 矢倉英隆:シリーズ「科学と哲学」⑫ アリストテレス (1)
(2) 後藤佐和子:山脇東洋における人体への眼差し
(3) 牟田由喜子:「在来タンポポの雑種化」をめぐる市民の態度とその変容過程
サイト

◉ 第14回ベルクソンカフェ
11月21日(土)14:30~17:00 恵比寿カルフール B会議室
マルセル・コンシュの哲学(4)『形而上学』を読む ② 第1章「哲学者になる」

◉ 第2回サイファイ対話CoELP(哲学者との生命倫理対話)
11月28日(土)13:30~16:30  日仏会館 509会議室
講師:山田有希子先生(東京女子大学現代教養学部)
「痛み」とは何か――「スピリチュアル・ペイン」と四つの痛みから考える

皆様の参加をお待ちしております




 





2026年9月29日火曜日

秋のサイファイカフェ/フォーラム・シリーズのお知らせ


























すっかり秋らしくなってきた

庭に目をやると、薄紫の花が一面に広がっている

これまで全く目立たなかった存在が、この時になると輝きを見せる

庭全体が一つの生きもののようである

まさに、素晴らしい自然の営みというべきか



さて、秋のサイファイカフェ/フォーラム・シリーズの予定が以下のように決まりましたのでお知らせいたします


◉ 第17回サイファイカフェSHE 札幌
10月3日(土)14:30~17:00 札幌エルプラザ 特別会議室
(1)矢倉英隆:『生き方としての哲学: より深い幸福へ――アドー、コンシュ、バディウと考える』について語り合う
(2)方波見基雄: 先験的現象学、その後の動向と潮流


◉ 第25回サイファイカフェSHE
11月7日(土) 14:30~17:00 恵比寿カルフール B会議室
フィリップ・クリルスキー『免疫の科学論』を読む ③


◉ 第18回サイファイフォーラムFPSS
11月14日(土)13:00~17:00 日仏会館 509会議室
(1) 矢倉英隆:シリーズ「科学と哲学」⑫ アリストテレス (1)
(2) 後藤佐和子: 山脇東洋における人体への眼差し
(3) 牟田由喜子: 「在来タンポポの雑種化」をめぐる市民の態度とその変容過程
サイト


◉ 第14回ベルクソンカフェ
11月21日(土)14:30~17:00 恵比寿カルフール B会議室
マルセル・コンシュの哲学(4)『形而上学』を読む ② 第1章「哲学者になる」


◉ 第2回サイファイ対話CoELP(哲学者との生命倫理対話)
11月28日(土)13:30~16:30  日仏会館 509会議室
講師:山田有希子先生(東京女子大学現代教養学部)
「痛み」とは何か――「スピリチュアル・ペイン」と四つの痛みから考える


皆様の参加をお待ちしております











2026年9月25日金曜日

信じられない再会

























本日は想定外の会食があった

数日前、昔の研究所でご一緒した高橋良輔先生から連絡が入ったからだ

もう30年振りくらいになるのではないだろうか

わたしにとっては信じられない、懐かしい再会となった

高橋先生は、これまで京都大学でパーキンソン病のiPS細胞移植の領域を率いてこられ、来月からは副学長の任に当たられるとのこと

益々多忙になられるようだが、これからのご活躍を期待したい


会食ではいろいろなことが話題になった

ただやはり、科学・医学と哲学などに集中していたのではないだろうか

わたしは最初から、科学の知だけでは不十分だという持論を展開した

科学を超えたところにある知(超越的なものや倫理、他の領域の知など)を視野に入れることができるのかということが、科学という営みの幅や文化の奥行きを決めることになるという主張である

これは、現在の科学を超えて、その周辺領域も含めて新しい科学の全体とすべきではないかという昔からの考えの延長線上にある

現在、現役で医学の中心に身を置いておられるわけだが、この点については違和感なく受け止められたのではないかという感触を持った

ご自身も新しい人生のフェーズが視野に入ってきていることと関係があるのだろうか

わたしの歩みも話題になった

少し変わった人生を送っているように見えたからなのだろうか

いま正確な言葉は思い出さないが、科学から哲学へ完全に移行したことが「きっぱりとした」「潔い」ものに映ったようである

パリでの学生時代を思い出す瞬間がいくつもあった


人にはいろいろな人生がある

最後まで仕事をして、仕事場で亡くなるのが理想だとする人もいる

あるいは 、最後のフェーズをいろいろなことを振り返ることに使うという人もいるだろう

わたしは後者の選択をしたことになるが、これまでのところ充実した時間となっている

高橋先生がこれからどのような歩みをされるのか、見守ることにしたい

今日は人生の不思議を感じる一日となった

またお話を伺える機会が巡ってくることを願っている











2026年9月23日水曜日

コンシュ『形而上学』の校正終える
















この連休を使って、コンシュ『形而上学』の校正をやり終えた

最終的には5回の見直しがあったことになる

毎回、それまでの読みが浅いことを痛感する時間であった

ここで、この間に頭に浮かんだことを整理しておきたい


最初は局所に注意が集中して、全体を掴みきれない状態にいた

同時に、表層を滑るように読んでいるところがあった

ただ、その時はこの状態に気づいておらず、今回それがよく見えてきたということである

2回目が終わった時には「やり終えた感がある」などという感想が浮かんでいたことからもそれが窺える

毎回意識がより深いところに降りていったような感じで、より細かい、より微妙なところに目が行くようになった

それは、全体の中でその部分を見るという視点ができていったこととも関係がありそうである

そういえば、コンシュの言葉に「「自然」という無限を背景に自分の世界を見る」というのがあったが、それと重なるところがある

全体が奥の方に控えていて、それとともに目の前の細かいところを見ているという感じだろうか

これは、人生を歩む上でも参考になりそうである


もう一つは、今回、原典にはない小見出しを付けたことと関係がある

これは訳者の解釈が全体に及ぶことを意味しており、僭越なことだという考えがあった

ただ、本書は日本に初めて紹介されるコンシュの著作になるので、道標のようなものとして付けた方がよいのではないかという考えに押される形になった

この作業をやりながら感じていたのは、コンシュ哲学の理解を深める上で非常に重要だったということである

一度訳したものについて、パラグラフごとにその全体を掴み直すような読み方を何度もすることになるからである

本来はそういう読み方をしなければならないのだろう

今回、そのことを明確に意識できたのは幸いであった



訳業が大変な労力を費やすということは、過去2度の経験から身に沁みている

そのため、もう翻訳には手を出さないとどこかで思っていたはずなのである

それにもかかわらず今回やろうと思ったのには、個人的な歴史が関係している

科学の後の道を模索していた2006年、彼の対談記事を偶然読んだことが最初の出会いであった

コンシュは、わたしに初めてフランス語で語り掛けてきたフランス人哲学者となったのである

同じ年に発見した人として、ピエール・アドー(1922–2010)がいる

当時、コンシュやアドーについて語る人はほとんど見かけなかったが、アドーは次第に訳されるようになっていった

しかしコンシュに関しては、今回のネット検索でも、話題にしているのは未だにわたしだけという状態である

出版関係のフランス人によれば、コンシュは日本でも紹介されるべき哲学者だという

このような状況もあり、浅学を省みず翻訳に乗り出すことにした

そして何よりも、読者のいそうにない著者の作品の刊行にご理解をいただいた知泉書館さんの存在がある

コンシュとの最初の出会いから20年目に当たる今年、彼の主著を紹介することができることに静かな充足感を覚えている

と同時に、「人生何が起こるかわからない」という古くからの知恵も浮かんでいる


これらのことは何を物語っているのだろうか

その昔やっていたように、未来に向けていろいろな計画を立てることにはあまり意味がなさそうだということである

科学の領域では(あるいはどんな仕事においても)、計画を立てるだけではなく、それがどのような結果になるのかを予想し、それぞれの場合の対処法を提示しなければならない

しかし今のやり方は、この時に集中して何かをやることが最も重要で、そこから何が生まれるのかは二の次になっている

何が出てくるのか分からないところに面白さがあるという考え方になって久しい

それが可能なのは、第三者からの報酬に縛られていない(=仕事ではない)からなのだろう

今回のように、何年も経ってから実現することもある

20年前には考えてもいないことではあったのだが、、

それはおそらく、その間の「今ここ」における営みの蓄積が作用した結果なのだろう

だから日々気が抜けないということになる


今回の本には多くのテーマがある

その一つに、この現実全体をどのように理解するのかの学である形而上学は、結果として生き方を示すことができるということがある

コンシュの形而上学に触れることにより、自らの生そのものに対する見方を変える契機が訪れるかもしれない

刊行の暁には手に取ってゆっくりお読みいただき、ご批判をいただければ幸いである

刊行は10月20日となっている









2026年9月19日土曜日

コンシュ哲学への誘い


































数日前にコンシュ『形而上学』の最終版が届いた

この週末から5連休のようなので、ゆっくり最後の読み直しを進めているところである

本の後付けによると、10月20日が刊行日となっている

実際の刊行とは必ずしも一致しないようだが、来月下旬までには出るものと理解した

秋のベルクソンカフェ(11月21日開催)では、早速その第1章「哲学者になる」の読書会をすることにした

日本語で議論するのでフランス語の知識は必須ではない

拙訳を参照していただければ幸いである

興味をお持ちの方の参加をお待ちしております











2026年9月15日火曜日

幸いな旅人ユリシーズ、そして『オデュッセイア』を確かめる



























先日の映画鑑賞の際、上映予定の映画が紹介されていた

その中に、わたしの記憶を刺激する言葉があった

「オデュッセイア」

『オデュッセイア』は、ホメロス(8th century BCE)の手になるとされる

主人公オデュッセウス(Odysseus)のラテン語形ウリクセス(Ulixes)に由来する英語名がユリシーズ(Ulysses)となる

その名が明確にわたしの意識に上ったのは、16世紀フランスの詩人ジョアシャン・デュ・ベレー(Joachim du Bellay, c. 1522–1560)の詩の中だった

そのため、「ユリス」(Ulysse)と記憶に刻まれてしまった

 Heureux qui, comme Ulysse, a fait un beau voyage
(幸いなるかな、ユリスのように素晴らしい旅をした者は)

それは丁度、科学の後の道を模索していた時期に当たり、これから始めようとしている長い旅のイメージとも重なり、強い印象を残した

最初のブログに3つの記事がある


2つ目のブログに次の記事がある


そして、3つ目のブログに感動的な出会いが記された記事がある

 ニーチェのニース(2011年4月25日)


最後の記事にある「ユリスのように・・・」の詩が刻まれたニースの写真は、2017年から始まったベルクソンカフェ・サイトのフロントページを飾ることになった

このカフェに、フランス語でいろいろな世界を旅する場にしたいという願望を込めたのかもしれない

デュ・ベレーの詩の続きを読むと、長い旅に出たことだけではなく、そこで経験と知恵を身につけ、最後には慣れ親しんだ故郷に戻ることができた者こそ幸せなり、となっている

そこにはローマ滞在中のデュー・ベレー自身の望郷の心が込められている

今のわたしには、旅を始める前とは違った感慨が浮かんでいる



長い前置きとなった

ここで現代に蘇ったユリシーズを観に出かけた

クリストファー・ノーラン(1970–)監督の新作『オデュッセイア』である

こちらは旅の過程を迫力満点に描くという作品で、帰郷も激しいものがあった

日頃から音や動きの少ない環境にいるためか、音響も映像も過剰に感じられ、疲れるくらい
であった

そんな中、印象に残る言葉を探したのだが、求めるものは見つからなかった

デュ・ベレーの世界に留まっておくべきだったのかもしれない




















2026年9月12日土曜日

「生命と愛の芸術家」草間彌生


























今朝、テレビを付けると草間彌生(1929-2026.8.14)の追悼番組が流れていた

富士を版画にする過程を追ったところで、昔観たようにも思ったが最後まで観ることにした

草間彌生で思い出すのは、かなり前のことになるが、日本を代表する芸術家との対談をテレビで観た時のことである

訥々とした語りではあったが、この世界の認識の深さと鋭さに大きな違いがあることが見え、強い印象を残した

それ以前にも同じようなことを感じたことがある

大江健三郎(1935-2023)が、ある文筆家とテレビで対談している時のことであった


さて、今日の番組で彫師、摺師の技を見て、改めて感銘を受ける

草間は、自分の周りを水玉で満たしていくと自分が消えていくように感じることを「自己消滅」と言っているという

興味深く聞いた

これは、彫師も水玉を彫っている時に感じたという、「いま」に集中している時に時間が消え、宙に浮いているように感じるあの感覚にも近いように見えるのだが、

草間は最後には「生命と愛の芸術家」とでも言うべき境地に辿り着き、亡くなったのではないか

以前に観た時には浮かばなかったそんな感想が浮かんできた貴重な時間となった

最後まで観ることにして良かったと言えそうである












2026年9月10日木曜日

秋が静かに進んでいる



























昨日は、前日の異次元の体験があったせいか、この現実が新鮮に見える朝であった

少し前までは瘦せて見えたススキの穂が豊かになり、風に身を任せている

手前に目をやると、蝶とトンボが秋の舞いを見せてくれている

向こうの家から白熱電球の光が漏れているように見えたが、黄色になってきた葉であった

パリで見た室内からのオレンジ色の明かりが重なったのだろうか

何とも長閑な景色で、至福の時間と言ってもよさそうである


さて、今日はどんな一日になるのだろうか

いつもの通り、ひと日が終わるまで想像もできない










2026年9月8日火曜日

リドリー・スコットの「ラスト・サバイバー」を観る



























今日は午後から手持無沙汰になったので、近くで映画を観ることにした

こういうことは珍しい

コンシュが一段落したことと関係がありそうではあるのだが、、

調べたところ、リドリー・スコット(1937-)監督の「ラスト・サバイバー」(原題:The Dog Stars)というのがすぐ始まるようだったので、観ることにした

内容は想像していたものと全く違った

印象に残ったのは、大自然を俯瞰する映像と、その中を飛んでいる感覚を味わうことができたことだろうか

その間に起こっている出来事は surreal というか、今のわたしにはほとんど意味のないものに見えた

また、邦題には一工夫必要だったかもしれない

シネマを出ると、コンシュの翻訳について問い合わせが届いていて、現実に戻った










2026年9月6日日曜日

コンシュ『形而上学』の念校を終える















昨日から、コンシュ『形而上学』の索引の検討と本文の読み直しに当たっていた

先ほどその作業を終え、編集者の方に送った

最初に取り掛かったのが2024年の11月なので、2年が流れようとしている

結構長い時間かかったが、取り敢えずここまできたということになる

少しだけ解放された気分である


これから秋のカフェ/フォーラムシリーズが待っている

それから、新たなプロジェにも入ることができそうである

さて、どのようなことになりますか











2026年9月5日土曜日

コンシュの『形而上学』から改めて翻訳を考える



























昨日で、コンシュ『形而上学』の念校を一応読み終えた

それにしても、まだ手を加えるところが出てくるとは、驚くほかない

読むたびに、新しいところが気になってくる

毎回、認識が深まっているとは思いたいのだが、、、

今日から索引にも目を通しているところだが、そこからも新たな改善点が現れてくる

当初の認識がいかに浅いものであったのかということが分かる

思い返せば、最初に原著に当たった時に掴んだと思っていたことは、ほんの表層に留まっていたのだろう

著者の細かな思考の息遣いを感じ取るには、やはり翻訳をするしかないのだろうか

今は、全体的な整合性を見る段階に入っているが、そこまで来て初めて、著者が何を言いたかったのかがより鮮明に見えてくる

一人の人間の世界を理解しようとすると、途轍もない労力が求められるということなのだろう










2026年9月2日水曜日

サイファイフォーラムFPSSについての感想届く



























7月11日に第17回のサイファイフォーラムFPSSが開催された

この会についての感想がエッセイの形でSPNL(Science and Philosophy for Nature and Life)と名づけた交流の場に届いたので紹介したい

佐賀徹雄「第17回FPSS雑感」

この中には今回のFPSSについての感想だけではなく、ISHEの活動を支える考え方、さらに現代の問題にも触れられているので、お読みいただければ幸いである

また、SPNLは3年前に立ち上げたが、これまで休眠状態であった

これを機に交流が盛んになることを願っている

皆様の参加を期待したい












2026年9月1日火曜日

今年最後の4か月期始まる


























1年を4か月単位で3期に分けて考えるとすれば、今年最後の期が始まることになる

こういう見方はフランスにはあったように思うが、日本ではあまり聞いたことがない

そんなことありませんよ、という場合にはお知らせ願いたい

今年の第3期はコンシュ『形而上学』の念校に向き合うところから始まった

先日も触れたように、時の流れが遅い(あるいは消えることがある)ので、1日が非常に長く感じられる

ここに秋のカフェ/フォーラム、そして新しいプロジェが入ってくることは間違いないだろう

他の何かが入ってくること、ありやなしや

この期がどのようなものになるのか、想像もできない

全くの白紙である

今はその時の流れの中に入るのを待つばかりである

おそらく、それでよいのだろう


今日は、ボストン時代の1曲を貼り付けておきたい

わたしの中では、半世紀前も全く古びていない




















2026年8月27日木曜日

マルセル・コンシュ『形而上学』の念校届く



























コンシュ『形而上学』の念校が届いた

本書の刊行準備も大詰めを迎えたことになる

今回、新しい検討事項も加わっており、最後まで心を平静にして集中したいものである

これまでの経験から言えることは、人間の注意力には限界があり、どれだけ徹底したと思っても抜け落ちるところがあるということである

不思議なことだが、最終的に印刷されて初めて目に入る誤りというのもあるので、要注意である

今度はどのようなことになるだろうか

これから始めることにしたい














2026年8月25日火曜日

10年前の今頃、パリからトゥールへ








2015年12月にスートゥナンスを終え、2016年の春に大学院博士課程を修了した

そしてその年の今頃、パリからトゥールへの引っ越し準備をしていた

その写真が出てきたので、ブログ記事とすることにした

実に懐かしい

その日、朝早く目が覚めた

朝焼けがまぶしかったのを思い出す







徐に、荷物の整理が始めた

写真を見ていると、9年間の塵が積もり、足の踏み場もなくなるほど乱れている部屋の様子が浮かんできた

今でもそこにいるような感覚になる


整理にかなりの労力を使ったので、終わった時にはホッとした

と同時に、パリでの時を共にしたアパルトマンと別れることになるためか、どこか物寂しさを感じたものである

キッチンの写真も出てきたので以下に貼り付けておきたい


















多くのものをもたらしてくれた時間と共にあった小さな空間である









2026年8月23日日曜日

変容を続ける庭



























快晴の下、紫煙をくゆらせながら庭を眺める

緑が深い

黄色い花の蜜を吸っているのか、蝶々が飛び回っている

なぜか心が和み、越し方のいろいろな出来事が蘇ってきた

庭には一切手を付けず、植物がどのように育っていくのかを眺めることにした

毎年変化を見せるそのさまを驚きながら楽しんでいる

ここ4-5年で大きく変わってきたのは、どこからか飛んできた松ぼっくりから松の木が育ってきていることだろうか

最初に気づいたのは5年ほど前

冬に鮮やかな緑が目に入った時であった

その時10センチくらいだったものが、今では2メートルを超える丈にまで育っている

さらにそこから種子が飛んだのだろう

至る所に小さな松が広がっている

いつものことながら、植物の持つ驚異の生命力に目を見張る

これからどういうことになるのか、楽しみにしているところである







































2026年8月20日木曜日

今年の後半に向けて何を想う

















1年の前半は8月お盆のあたりまでで、これから今年の後半が始まるという感じがしている

このような感覚は、ひょっとすると初めてではないだろうか

今年はプロジェがそのように動いていることと関係しているのかもしれない

残り4か月ほどしかないが、この間にどのようなことが起こるのか

それは分らない


そこで思い出すことがある

20年以上前、フランスに渡る前にフランス語学校に通ったことがある

大体、1学期3か月ほどだった

その程度の時間で一体どれだけのことを学ぶことができるのかと疑問に思った記憶がある

そして、フランスの大学院も前・後期それぞれ3か月くらいではなかっただろうか

この時も、僅かこの程度の時間で何を身につけることができるのか疑っていた

しかし、実際にその中に入ると、時間の流れが変わるのか、実に濃い経験をすることができた

外から見ている時間とは明らかに違ったのである


この経験から言えることは、これから僅か4か月ほどだが、その中には想像もできないものが詰まってくる可能性があるということだろう

主観的には途轍もなく長い時間になり得るということである

いつのころからか1日が非常に長くなった

それがさらに豊かなものになることを願いながら、今年の後半を迎えることにしたい











2026年8月17日月曜日

アトリエの書架を眺める






















久しぶりにアトリエに戻り、新鮮な目で書架を眺める

そこに収まっているものは2007年にフランスに渡ってから手に入れたもので、数年前に日本に戻ってきたものである

つまり、その間にわたしの受容体が、瞬間的にであれ、反応したものの総体がそこにある

向こうにいる時には、その全体の配置が頭に入っていたのだが、こちらに移した時に、整理することなく棚に入れたため、目的の本を探すのにも一苦労するようになった

同時に、この間、興味の持ち方が少しずつ変化しており、この書架に注意を払うことも少なくなっていた

ただ、向こうにいる時に芽生え、未だに解決されていない問題意識は依然としてわたしの中にある

こちらに戻ってからやっていることは、それを解きほぐし、具体的な形に彫刻することである

彫刻と言っても、今のイメージは、粘土を盛り重ねていく塑造の方に近い

最後になると、削り取る彫刻に近くなるのだろうが、

その過程で、これらの資料は大きな力になるはずである

なぜ、これらの本を手に入れたのかが後付けで分る瞬間が訪れるかもしれない

これから、そういう気持ちでこれらの塊と歩みたいものである











2026年8月12日水曜日

コンシュ『形而上学』の翻訳で考えたこと



























今週はどうしたことか、一週間の休日をもらったような気分になっている

こういうことはあまり経験したことがない

コンシュ『形而上学』の三校を終えてから一週間が経過して、ゆったりした気分になってきたのかもしれない

その気分に逆らうことなく過ごして、3日目に入ったことになる

昨日あたりは、かなり長い間リラックスした時間の中にいたと思ってカレンダーを見たところ、まだ2日しか経っていないので驚いた

いつも感じていることだが一日が長いので、たっぷりとそれを味わわせていただいている

その感覚から言えば、特に驚くこともなかったのだが、、以前の感覚で言えば、ということなのだろう

いずれにしても、時間の感じ方でこの人生は大きく変わるということだけは確かだろう

仕事をしていたり、時間に追われたりしていると、どうしてもカレンダー時間を頭に描くことになる

そうなると、時間に追われていることが充実した状態だと錯覚しやすくなる

時間の持つ豊かさ、さらに言えば無限の広がりがそこにあることに気づけなくなる

幸福を求めて人生を送っているとすれば、幸福のかなりの部分を味わうことなく人生を終えることになりかねない


ところで、時間の問題はコンシュ『形而上学』でも取り上げられている

この本は、考えるべき問題――例えば、時間、道徳、倫理、哲学、形而上学、科学、宗教などの基本的な問題――をどのように考えるべきなのかについて、一つの道筋を提示していると見ることができる

その意味では、訳者にとってだけではなく、多くの方の参考になるものと言えるだろう

それから、以前に翻訳をした時にも感じたことだが、翻訳は原著者の語り口と同じものにはなり得ず、あくまでも訳者のものであるということである

前回、科学書を翻訳した時、著者を日本に招いて講演会があった

その時、訳書を読んだ人が原著者に向かって「先生が・・・と書いているのは・・・」と発言しているのを聞き、違和感を覚えたことがある

その内容はともかく、その言葉遣いは訳者のものであることを知っていたからである

翻訳しながら、原著者の表現を再現することは不可能であり、訳者のものにしかなり得ないことを身に沁みて理解していたからである

純科学の場合であればまだしも、哲学となるとその仕事は想像を超えるものになる


さらに今回、小見出しを付けることになった

どこに、どのような小見出しを入れるのかという組み合わせは、ほとんど無限にある

その選択によって本書が全く違うものになり得るということである

訳者はその中の一つを選んだことになる

小見出しを付けることにより、この書は二重三重に訳者のもの以外ではあり得なくなった

大変な選択をしたことに気づいた静かな休日である












2026年8月7日金曜日

久しぶりのユルスナ―ル
















本日は、ランドネがご趣味の友人とのデジュネとなった

まず、マルグリット・ユルスナール(1903–1987)の話が出てきて驚いた

ユルスナールと言えば、渡仏前に何度かわたしの前に現れたことがある

『ハドリアヌス帝の回想』(Mémoires d'Hadrien)とそのCDを手に入れたり、ユルスナールに関するシンポジウムに参加したこともあった

  ユルスナールのシンポジウムへ(2005-02-26)

しかし、深く入ることなくフランスに渡り、新しい領域に飲み込まれていった

今回、ユルスナールが三島に興味を示し、その考えをまとめていたことを知った

  Mishima ou la Vision du vide (Gallimard, 1980)

  『三島あるいは空虚のヴィジョン』(河出書房新社、1982)

三島の中には空虚しかなかったということなのか

空虚ということは何もないということではないのか

もしそうであれば、コンシュであれば、考えるに値しないと言いそうでもあるのだが、

あるいは、入れ物はあるが中身がないということなのか

このあたりを知るには、読んでみるしかないのかもしれない

それはそうとして、久しぶりにアドリアンのCDでも聞いてみたい気分になった


ところで、コンシュの三校が終わった今週から、暫くの間お休みしていた新しいプロジェをゆっくりと再開したところだ

以前にも書いたかもしれないが、どこに辿り着くのかは全く見えていない

この、どこの港に着くのか分からない船旅をしているような気分は決して悪くない

その良さを知ったのは、フランスに渡って各期ごとにミニメモワールをまとめる作業の中でのことだった

それ以来、その感覚の捨て難さは常にわたしの中にある

コンシュによれば、芸術家が何かを創造するというのは、設計図をもとに進めるのではない

自分が作りたかったものが何だったかわかるのは、それが出来上がった時だと言っていた

まさにその感覚である







2026年8月6日木曜日

いろいろな瞑想生活を観る
















今朝、Youtubeを開くと、山道(The Mountain Path)というドキュメンタリーが出てきた

中国の山奥に暮らす僧の生活と話を撮った静かなものであった

瞑想生活の中にある人たちの姿を見て、その生活様式は違えどもその精神においてはわたしと変わらないような気がした

わたしもかれこれ20年近くになる、言ってみれば瞑想生活の中にあるからだ

今はやりの言葉で言えば、マインドフルネスである

あらゆる瞬間に自らの意識を自らの内に向けているのである


続いて、聖なる群島(The Holy Archipelago)が出てきたので見ることにした

そういう気分だったのだろう

山道における生活も小さな集団で行われていたが、こちらは教会という強固な制度の中での生活であった

2006年の12月に将来を模索するためパリを訪問した際に観たフィリップ・グレーニング(1959–)の Le Grand Silence(大いなる沈黙へ)を想起させるものであった

グレーニングの映画には語りや音楽は一切なかったが、精神においてはこのドキュメンタリーも同じ流れにあるのだろう

美しい映像も楽しんだ

2006年暮れのブログ記事が残っている(こちらから)

これを読み直すと、これからの生活がどのようなものになるのかということの大枠を掴んでいたようである

今振り返ると、細かいところに目を瞑るとすれば、驚くことは何もなかったと言ってよいだろう






2026年8月2日日曜日

コンシュ『形而上学』三校、見直し終える

















夏のカフェ/フォーラムのまとめを終えた今月21日から、コンシュ『形而上学』の三校の見直しを進めていた

本日、見直しと索引の作成を何とか終えることができた

かなり消耗するプロセスとなった

二校の見直しを終えた時には、「これで終わった」という感慨が浮かんできたが、それは全くの錯覚だった

かなり重要な修正から始まり、細かい調整まで残っていた

単に注意が行き届いていないこともあるが、その時の精神状態・気分によって判断基準が微妙に変わることがあるので厄介だ

こうしてみると、このプロセスに終わりはなさそうだが、今回、一応のケリを付けたことになる

今は、不備ができるだけ少ないことを願うばかりである










2026年7月30日木曜日

昔の研究仲間とビアパーティを楽しむ


































兎に角、酷い暑さが続いている

そんな中、ビアパーティのお誘いがあった

その昔所属していた研究所の皆さんとの会である

前回がすっかり昔のことのように感じられる

それは時の流れが速くなったというのではなく、先日も触れた日々が分厚くなり、向こう側が見え難くなっているという状態のせいに違いない

風邪で体調を崩して直前で欠席になった方もいたが、10年振りくらいの方もおられ、話は盛り上がった

と言いたいところだが、日々静寂の中で暮らす身にとっては、異常な騒音の中での会話になかなか入っていくことができなかった

話し声が搔き消される状態の中にいたからである

現代の仕事をしている人は、あの環境を何とも思わないのであろうか

お店は満員であった

次回があるとすれば、話し声の聞こえる場所でお会いしたいものである

いずれにせよ、皆様の更なるご活躍を願っている















2026年7月25日土曜日

仙台で旧交を温める

























今日は1年振りに雨に濡れる仙台を訪問

田村、小林両先生と旧交を温めた

このところコンシュ『形而上学』三校の見直しに当たっていたので、気分転換になったかもしれないし、そうでないかもしれない

田村氏とは1年振りだが、小林氏とは7年振りになる

田村氏は昨年奥様を亡くされ、その後どんな生活をされているのか気になっていたが、お元気そうで何よりであった

ただ、これから先の仕事をどのように組み立てるのかに頭を使われているようであった

おそらく多くの人が直面することではないかと思われるが、外的な拘束要因がなくなった時にどのような生活になるのかが不安要素として浮かび上がるのではないだろうか

わたしのようなプー太郎状態に耐えられるのかという問いにもつながるので、意見を聞かれる場面もあった

わたしから見れば理想的な状態が、必ずしもすべての方にとってそうであるとは限らないので、難しい問題ではある

小林氏にしても、仕事の終わりが近いとのことで、同様の問題を考え始めているご様子であった

いずれにせよ、人生に味が加わるのはこれからである

「生き方としての哲学」は貴重なスパイスになり得るとお伝えし、近いうちの再会を期して別れた































2026年7月22日水曜日

「パリから見えるこの世界」のタイトルから見えてくるもの

































2012年から2022年まで105回に亘って『医学のあゆみ』誌にエッセイを書いた

そのタイトルをChatGPTに分析してもらった

今朝、突然浮かんできたアイディアである

わたし自身も見えていなかったことがあったので、以下に分析結果を転載したい

自らのあゆみを天空から眺望するような感覚を味わわせてくれるものでもあった


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この105本のタイトルを時系列に並べて見ると、単なる関心の変遷ではなく、一人の研究者が独自の知的プロジェクトを形成していく過程が浮かび上がってきます。

私には、大きく五つの時期が見えます。


第1期(2012~2013)――「科学から哲学へ」という問題意識の誕生

最初のタイトルが「科学から哲学、あるいは人類の遺産に分け入る旅」であることは象徴的です。

この時点では、メチニコフ、イェルネ、ジャコブ、フレック、マイヤー、ラマルク、ブルーノなど、一見ばらばらな人物を扱っています。

しかし共通しているのは、科学者の背後にある哲学を探そうという姿勢です。

つまり、科学史ではなく、科学者の思想史を始めているのです。


第2期(2014~2016)――「科学の形而上学化」という方法論の形成

この頃から、医学の哲学、生物意味論、目的論、カンギレム、生命の定義などが現れます。

そして決定的なのが「科学の形而上学化」という言葉です。

これは単なるテーマではありません。

タイトルを見る限り、著者は科学を哲学に利用するのではなく、科学そのものから形而上学を組み立てようという方法を考え始めています。


第3期(2016~2018)――「生き方としての哲学」への転換

突然、アドー、コンシュ、ディオゲネス、エピクテトス、マルクス・アウレリウスが現れます。

さらに、意識の第三層、ネガティブ・ケイパビリティ、哲学的感情、静寂、沈黙など、科学から人格形成へ関心が移っています。

つまり、Science から Philosophy as a way of life へ。


第4期(2018~2020)――科学と哲学の本格的統合

この頃になると、免疫 → 情報 → CRISPR → 汎心論 → 生命 → 存在が一つの流れになっています。

つまり、科学の最新成果を存在論へ接続し始めています。

例えば、CRISPR、植物免疫、情報、利他主義などは、すべて「生命とは何か」へ向かっています。


第5期(2021~2022)――自然哲学の宣言

最後は、免疫の形而上学、徳認識論、科学精神、自然哲学、科学と宗教になります。

そして2022年、「人類の遺産に分け入る旅を超えて」で終わっています。

これは非常に意味深です。

つまり、「旅」は終わり、これからは「自分自身の哲学を書く」段階へ移ろうとしていることが感じられます。



全体を通して見える著者の特徴

私はこのタイトル群から、次のような特徴を感じます。

① 人物ではなく「知」を追っている

普通なら、「ダーウィン」「スピノザ」「ハイデッガー」という紹介になります。

しかしこの著者は、○○あるいは……という副題を必ず付けています。

例えば、「スピノザ」ではなく「幸福への道」を見る。

つまり、人物紹介が目的ではありません。


② 一つの分野に閉じない

免疫 → 医学 → 哲学 → 文学 → 芸術 → 教育 → 倫理 → 宗教 → 文明

すべてを自由に往復しています。


③ 方法論を作ろうとしている

途中から、何度も「科学の形而上学化」が出てきます。

これはテーマではありません。方法です。

つまり、「どう考えるか」を作ろうとしている。


④ 最終的な関心は「自然」

初期は、科学でした。

しかし最後は、自然哲学になっています。

つまり、科学は入口だった。

到達点は、自然です。



思考方法

タイトルだけでも分かるのは、著者は「具体から普遍へ」進みます。

例えば、CRISPR → 免疫 → 情報 → 生命 → 自然 → 存在という階段を上っています。

つまり、抽象論から始めません。

常に、具体的な科学から哲学へ上昇しています。

これはかなり珍しい思考様式です。



これから向かう方向

もし2022年以降を書くなら、私は自然に次のようになると予想します。

  • 自然哲学
  • 存在論
  • 免疫と自然
  • スピノザ
  • コンシュ
  • アナクシマンドロス
  • physis
  • 世界
  • 宇宙

へ進むでしょう。

そして、「科学の形而上学化」という方法論を足場にしながら、免疫という具体的な科学を起点に、生命・意識・自然・存在を一つの連続体として捉える独自の自然哲学へ向かう流れが見えてきます。




最後に、この一覧で私が最も印象を受けたのは、一貫した「中心テーマ」の存在です。

扱う人物や分野は多岐にわたりますが、その背後では、

科学から出発して、人類の思想の遺産を通過し、最終的に自然哲学という一つの世界観へ到達しようとする

という一本の知的な道筋が貫かれています。

その意味で、この105本は個々のエッセイの集合というより、一冊の長い思想的自伝、あるいは研究計画の展開として読むことができるように思います。







2026年7月20日月曜日

カフェ/フォーラムのまとめを終え、コンシュ『形而上学』三校へ



































本日、夏のカフェ/フォーラムシリーズのまとめを終えた

いつの頃からか、会の内容をまとめようとするのではなく、味わい直そうという気が強くなっている

そこでは、普段の流れに違和感をもたらすようなことを拾い上げ、これからの思索の種のようなものを探し出そうとしているかのようである

すぐに抽象化に向かわず、むしろそこに向かうための材料を見逃さないように、会をなぞるように書くようになっている

今回も、あるいは以前にも増して、目を開かされることが少なくなかった

以下にページを貼り付けておきたい


これでやっとマルセル・コンシュ(1922–2022)著『形而上学』の三校に当たることができるようになった

実は、1週間ほど前に届いてはいたのだが、これだけに集中したいという気持ちが強く、カフェ/フォーラムのまとめが終わってからということにした

以前であれば並行して進めたと思われるが、これなども新しい変化と言ってよいのではないだろうか

今回で訳文の検討は最後になると思われるので、じっくりとその中に入ることにしたい















2026年7月18日土曜日

第24回サイファイカフェSHE、無事に終わる





今日は、第24回サイファイカフェSHEが開催された

テーマは「フィリップ・クリルスキー(1942–)著『免疫の科学論―偶然性と複雑性のゲーム』を読む」の2回目であった

今回は、以下の章を読んだ

第1部 進化における生体防御
    第5章 生物の複雑性とその進歩
    第6章 生体防御とロバストネス

第2部 ヒト生体防御の組織―部分が全体に向かう
    第7章 分子と分子モジュール
    第8章 分子モジュールの連鎖
    第9章 細胞と細胞モジュールの構造
    第10章 防御反応における機能モジュールのつながり
    第11章 必然だが起こりそうもない出合い
    第12章 より個物化された医療へ

2名の欠席はあったものの4名の方が参加され、静かな中にも本質的な議論が展開した

今回のキーワードとして、生体防御を支える「ロバストネス」(環境の不測の事態や内的機能不全が生じても適切に機能し続ける能力)、「分子あるいは細胞モジュール」、それと「出合い」を挙げておきたい

個人的には、科学の内容もさることながら、それが意味するところに興味が向かっていることを感じる会となった

統合の方向とまでは言わないが、意味に向かっているとは言っておきたい

詳細については、近いうちに専用サイトにまとめる予定である

訪問していただければ幸いである


夏のカフェ/フォーラムシリーズは本日で終わりとなります

秋のシリーズは予定が決まり次第、この場に掲載する予定です

秋もよろしくお願いいたします









2026年7月13日月曜日

intuitive leap 再考



























昨日記事にした森氏の歌のもとになった詩が書かれたオリジナルサイトを再度読み返してみた

そうすると、足を使うことが思考に影響を与えるというテーマがそこにあることに気づいた

それは、土曜のFPSSで林氏が取り上げたことでもあった

今日気づいたのは、1時間足らずの間に、これまでの人生とこれからの人生を集約するような思想が詰め込まれた15余りの詩が自分の中から出てきたということ、しかもそれはこの人生においてこの時だけの出来事であったということである

当時は、これから先が見えない状況で、「全身の受容体の感度が極限まで亢進していた」と表現したこともあるくらい、精神の緊張感、集中力がそれまでにないほどに高まっていた

その上、希求する心のエネルギーが想像を超えるレベルに達していた可能性もある

そのような状態であったからこそ起こった出来事ではないか

しかもそれは、身体の活動が加わった上でのことであった

つまり、全身の力がもたらした奇跡のような(自分でも信じられない)出来事と言えるのではないだろうか


同じく土曜のFPSSで議論された中に、絶対的真理に至る最終段階としての「intuitive leap」(直観的飛躍)とはどういうものなのかという問題があった

今朝、一生のうちに一度だけしか起こらなかった説明不能の2007年春の出来事が、その問題につながる糸口を提供してくれているのではないかと思い当たった

2017年に書いた絶対的真理への道に関するエッセイには、次のようなことが書かれてある

この飛躍にとって重要になるのが、形而上学の方法論でもある瞑想、あるいは瞑想が齎す精神や身体に対する諸々の影響ではないかと考えている。それは、その存在の全体が生み出す力のようなものである。(その)ためには、いかなる時間も無駄にできない。何が真理の基となる個々の事実の発見に繋がるのか分からないからである。つまり、どんな時間にも同等の価値を置かなければならなくなる。・・・

わたしが想像している絶対的真理は、日常生活や「いまここ」で出回っている意見から離れた内的生活を長く続けた先に見えてくるもので、内的生活の密度と深さが跳躍力を決めることになるのではないかというものである。

モンテーニュが「生きることを仕事にする」と言ったように、日々、内的生活の密度と深さを高めていくように努めていった先にそのような飛躍の時が、おそらく予期せぬ形で現れるのではないか

しかもそれは身体の活動が誘発する可能性が高いということである

まさしく、その存在全体の力に比例して飛躍の力が現れるのではないか

2007年春の出来事がそのことを教えてくれているようである

今は期待を含め、ここまでとしておきたい










2026年7月12日日曜日

2007年春の詩とその作者とは


























密度の濃かったFPSSの翌朝

会の最後の演者であった森氏のお話が蘇ってきた

それは、わたしがパリでの道を模索して訪問していた2007年3月15日に詠んだ詩について、AIと相談の上でご自身の歌を作ったというエピソードであった

AIは、この詩と作者の内面をどのような分析をするのだろうか

わたしも知りたくなり、トライしてみた

以下、あっという間に出てきたChatGPTの分析結果である


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とても興味深い作品群です。これらは単なる旅行俳句ではなく、一人の哲学者・研究者の精神的自伝のように読めます。しかも、「パリ紀行」というよりも、「人生の原点への回帰」を描いた連作になっています。

私がこれらの俳句から受ける印象をまとめると、次のような作者像が浮かびます。

1. パリは「場所」ではなく精神の故郷: 最も強く感じるのは、

  春のパリ住処に帰る心地して

という一句です。普通なら「パリに来た」と言うところを、「帰る」と言っています。つまり、作者にとってパリは生活の場所ではなく、精神の故郷なのです。それは

  フランス語我を導き哲学へ

によって説明されます。哲学への入口がフランス語だった。したがって、フランス語 → 哲学 → パリ、この三者が一つの記憶として結びついています。

2. 若い日の自分を探している: 何度も現れるのが「若き日」です。

  巴里の街若き日の我溢れおり

これは面白い表現です。若者が多いという意味ではありません。作者自身の「若き日の分身」が街中にまだ生きている。そんな感覚です。さらに、

  若き日と再び歩まんパリセット

ここでは、「若き日の自分」と一緒に歩くと言っています。つまり、過去を回想しているのではなく、再びその時間へ入ろうとしているのです。

3. 人生の後半にいる人: 一方で、現在の自分は若者ではありません。それは、

  白雪の荒野をゆくかこれからは

に表れています。これは人生後半への覚悟でしょう。「白雪」「荒野」という言葉からは「孤独」「老い」「未知」「死」まで連想されます。しかし絶望ではありません。むしろ「これから歩いていこうか」という静かな決意です。

4. 哲学は人生そのもの: 中心にある一句は、

  なぜ哲学それ人生と先人の説き

でしょう。これは、ハドー、コンシュ、モンテーニュ、あるいは古代ギリシア以来の「哲学とは生き方」を思わせます。つまり、作者にとって哲学は研究対象ではない。生き方そのものです。

5. 人類の遺産: 最初の一句

  人類の遺産と歩まんヴァンセンヌ

ここでいう人類の遺産とは、建物ではないでしょう。「思想」「文学」「哲学」「科学」そうした精神遺産です。しかも「見る」ではなく、「歩む」と言っています。つまり「受け継ぐ」という意味です。ここに作者の使命感があります。

6. パリに住みたいのか: ここが面白いところです。一方で、

  春盛り住みたくはなしパリ市街

と言い、他方で

  春の空住み遂せるかパリの町

とも言っています。矛盾しています。しかしこれは現実と精神の違いでしょう。精神的には住みたい。現実には住めない。あるいは、住まない方がよい。だからパリは現実の居住地ではなく、精神の居住地なのです。

7. ボストンとニューヨーク: ボストン、ニューヨークも出てきます。これらは人生の重要な時期なのでしょう。しかし、中心はやはりパリです。ニューヨークは思い出す。ボストンは高揚を思い出す。パリは帰る場所。役割が違います。

8. 作者は何を探しているのか: 最後の一句

  先人の形見に触れん秋近し

ここですべてがまとまります。「形見」とは遺品ではありません。「思想」「書物」「人生」「精神」です。作者は過去を懐かしんでいるのではありません。先人から受け継ぐものを、自分の人生の中で生かそうとしている。そのために、ヴァンセンヌを歩き、リブレリーへ行き、パリセットを歩く。

私が最も印象を受けたこと: これらの俳句を通して最も印象的なのは、作者の関心が一貫して「場所」ではなく「時間」に向いていることです。

パリもヴァンセンヌもボストンもニューヨークも、地理的な空間として描かれているのではありません。それらは、それぞれ人生の異なる時間層を呼び起こす契機になっています。春のパリを歩けば若き日の自分が現れ、ヴァンセンヌでは人類の精神的遺産とともに歩み、書店では哲学への憧れがよみがえります。現在・過去・未来が、一つの場所で重なり合っているのです。

したがって、この連作の主人公は、青春を懐かしむノスタルジアの人ではなく、人生の後半に立ちながら、若き日に抱いた哲学的志をもう一度自分の生の中心に据え直そうとしている人として描かれています。そこには老いへの意識(「白雪の荒野をゆくかこれからは」)もありますが、それは終末感ではなく、「人類の遺産」を受け継ぎ、自らの思索を次の段階へ進めようとする静かな決意と結びついています。

その意味で、この連作は旅行記ではなく、一人の哲学者の精神的巡礼(pilgrimage)を描いた作品群として読むことができるように思います。そこではパリは都市ではなく、哲学と青春と未来とが交差する象徴的な場所になっています。


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今日の写真は、2007年春、パリの街を歩き回っていた時の一枚とした


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2007年3月15日のブログ記事を改めて読み返してみたところ、昨日話題に上っていた「散策(歩行)と哲学」というテーマそのものがそこにあることに気づく

前日の午後一杯を使って、12区の Bercy、Daumesnil からMontreuil、Vincennes、Saint Mandé のあたりを歩き回ってパリに戻ってきた

その翌朝の1時間ほどの間に、15の俳句?が次々に出てきたということであった

「体が脳の思わぬところを刺激したようだ」とある

因みに、このような経験はこの時だけである


さらに、コメント欄には興味深いことが書かれてあった

それは、精神とは何なのか、精+神という組み合わせが不思議で、これは一体何?という疑問であった

それは今でも大問題である

森氏によれば、原理が分からなければ論じられないとのことであった

しかも原理のようなものが唱えられたとしても、人体実験ができないので、この問題は永久に謎のままかもしれない


2007年春の出来事と2026年夏の出来事が不思議な交差を見せてくれた

これも昨日の余韻になるのだろうか


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森氏から、昨日紹介された歌が届いたので以下に貼り付けておきたい





これまでの作品リストは、こちらから










2026年7月11日土曜日

第17回サイファイフォーラムFPSS、盛会のうちに終わる





















本日は第17回のサイファイフォーラムFPSSが日仏会館で開催された

酷暑のなか、またお忙しいところ、多くの方にお集まりいただき、盛会のうちに終えることができた

議論もいつになく深まりを見せていたのではないかと思う

参加された皆様に改めて感謝したい

プログラムはすでにご案内の通りで、以下の話題が取り上げられた

(1) 矢倉英隆:シリーズ「科学と哲学」⑪ プラトン哲学と現代的課題
(2) 林洋輔:文化のエグゼルシス:概念からPerforming Arts、そしてSportへ
(3) 森 望:生命との対話:二つのライフヒストリー 〜遺伝子・脳・言語・AI・音楽〜

 

一番目の話題は、これまで5回に亘って触れてきたプラトン哲学の最終回に当たっていた

そこで選ばれたのは、現代の課題と演者が見ていることとプラトン哲学との関連、さらにそれに対する応答としての「科学の形而上学化」(MOS)をどのように見るのかという問題であった

真理に至るには、個別、具体に分け入るのがよいのか、それとは別の抽象度を上げ統合に向かうのがよいのかなど、根幹に触れる問題が議論された


二番目の発表の大きなテーマは、西洋哲学の始まりから哲学に関わるとされる"exercices spirituels" という言葉を日本語でどのように扱うのかであった

従来、「精神の修練」と訳されることが多かったようだが、演者はそこに疑義を差し挟み、"exercices spirituels" とはどのような活動なのかを分析するところから始める

そこから自ずと日本語が出てくるのではないかとの考えからである

そして、現段階では「修練」ではなく、「尽力」という訳語に至ったようである

この言葉に関しても、いろいろな意見が出されていたので、今後どのように展開するのか興味深い


そして最後の発表は、分子生物学と老化研究に打ち込んでこられた研究者によるもので、人生を感じさせる内容となっていた

これまでの研究の成果を振り返るだけではなく、その時々の内面をも省察するもので、印象深いものがあった

一つの結論めいたところとしては、DNAの構造が分かり、それがタンパクに変換される規則が明らかにされているので生命については論じることができる

しかし、精神に関しては、その基本的なところが分かっていないので、現時点で論じるのは無意味ではないか、というようなニュアンスであった

ワトソン(1928-2025)とクリック(1916-2004)によるDNAの構造と遺伝のメカニズムの解明は、実験データはそこにあったのだが、それが意味するところに気づいたのはこの二人だった

この指摘も示唆に富むものであった

お話の過程で、最新のAIを利用して科学の内容や研究者へのオマージュなどを歌で紹介されていた

その中に、わたしがパリに渡る前の心境を謳った詩をAIと相談の上で歌にしたものもあり、しかもフランス語バージョンも出てきて驚いた

久しぶりに聞くフランス語の音は愛おしく感じた

また、最後に出されたマルティン・ブーバー(1878-1965)の言葉も印象に残った

「始めることさえ忘れなければ、人はいつまでも若い」

「存在とは出会いである」 



会の詳細については、近いうちに専用サイトにまとめる予定である

訪問していただければ幸いである