2026年7月1日水曜日

今年も後半に入る


























今年も半分が経過したことになる

今年の前半は、コンシュの『形而上学』の翻訳を軸に回っていたようだ

この2か月は、二校の校正に追われていた

いろいろ手を加えたので、改めて見直してみないとどのような形になっているのか分からない

今は三校を待っている状態である


7月に入り、夏のカフェ/フォーラムが迫ってきた

◉ 2026年7月11日(土)13:00~17:00
 日仏会館 509会議室
 (1) 矢倉英隆:シリーズ「科学と哲学」⑪ プラトン哲学と現代的課題
 (2) 林洋輔:文化のエグゼルシス:概念からPerforming Arts、そしてSportへ
 (3) 森望:生命との対話:二つのライフヒストリー 〜遺伝子・脳・言語・AI・音楽〜

◉ 2026年7月18日(土)14:30~17:00
 恵比寿カルフール B会議室
 フィリップ・クリルスキー『免疫の科学論』を読む ②

丁度、まとめの最終段階に入ってきたところである

当初思い描いていた構図とかなり違うものになりそうだ

自分に引き寄せた内容になっているので、新しいバージョンの方が力があるように感じられる

その日まで手を加えることになるだろう


さて、二校を終えたあたりから、新しいところに向かう具体的な動きが出てきた

実際にプロジェなるものとして当たり始めている

先は全く見えないが、それはいつものことである

また苦しみながら歩むことになるのだろう



今日の写真は、その昔見ていたパリの何気ない眺めとした












2026年6月29日月曜日

詩人の歩みを始める




























1週間前にコンシュ『形而上学』の二校を終えた

その直後、無性に詩の世界に入りたくなったのには驚いた

哲学は詩に近いと言われるが、どこまでも論理が背後にある

そこから解放されたように思ったのだろうか

翌日、最初の学生時代に読んだリルケ(1875-1926)の散文に手が伸びた

詩人が感情を抑えることなく自由に語る世界を味わう

ただ、その欲求は数日のうちに消えてしまった


その後には新たなプロジェの息吹を感じている

まだ全体構想が見えない状態である

これは歩きながら構造を作っていくことになるのだろうか

それが出来上がるまでどうなるか分からないものを作っている

この感覚は哲学の世界に入り、考えをまとめる作業を始めてからわたしの中に常にあるものだ

コンシュも、それが芸術家、詩人の仕事だと言っている

いずれにせよ、新たな詩人の歩みを始めたところである












2026年6月23日火曜日

「翻訳することは理解すること」再び




























前回の記事で、「翻訳した後でなければ理解できない」という言葉を引いた

そして、翻訳には途轍もない労力を要すると続けた

さらにそこから、翻訳からは離れたいという方向に進んだ

しかし、別のところに向かうこともできたことに気づく

それは、一人の人間の考えを理解するには、途方もない労力を要するということだ

そう考えると、外国人の考えを理解しようとしたなら、翻訳という労力を払わなければならないことになる

これは、理解すること自体がそんなに容易なことではないことを意味している

改めて、そのことに思いが至る

もとを辿れば、ジョージ・スタイナー(1929–2020)の「翻訳することは、理解することである」あたりに行き着くのだろうか

これは以前にも指摘したことだが、この状況は日本語でも同じではないだろうか

理解するために、そこにある言葉をなぞるだけでは不十分で、それを言い換えたり、そこから広がる世界を思い描いたりする「翻訳」が必要になるということである

そうしながら、アドー(1922–2010)が言う「文章が自ら語り出すのを待つこと」なのだろう












2026年6月21日日曜日

マルセル・コンシュ『形而上学』の二校を終える



























フランス語の翻訳を始めたのは今から10年ほど前になる

著者から依頼された免疫学に関する本であった

この本は2年後の2018年にみすず書房から刊行された

その流れで、翌年には微生物学の翻訳も出した

この過程で翻訳についていろいろ考えた

その記録は翻訳ブログとして残っている


その昔、「外国語の本は翻訳した後でなければ理解できない」というような話をどこかで読んだ記憶がある

当時はピンと来なかったが、この間それがよくわかるようになった

そして、翻訳という作業が途轍もない労力を要することも身に染みた

ということもあり、翻訳はもうやらないとどこかで思っていた節がある

それではなぜ、日本では無名の、しかも分野違いと言ってもよい本の翻訳を始めたのか

いろいろな理由が考えられる

一つには、2006年にフランス語で初めて語りかけてきた哲学者の著作だったこと

二つには、科学とは対極にあると思い、哲学に入る前から気になっていた形而上学について理解を深めたいという願望もあった

三つには、最初に出会ったときから、世の中の喧騒には目もくれず、静かに、深く、厳密に考えている姿に感じるものがあったことが挙げられる

そこに、今日の世界に必要なものがあると直観したのだろう


今回の過程を振り返れば、2024年11月から翻訳に着手したが、このような哲学者を受け入れる素地が日本にあるのか、はなはだ疑問であった

昨年1年は出版社を探すことに費やされた

予想通り、前向きに考えてくれるところは皆無であった

しかし、今年に入り、考えましょうと言ってくれる出版社が現れた

知泉書館さんである

1月に面談してから動き始め、二校に至っているというのが現在地である


今回の本は日本で初めて紹介されるコンシュの著作になる

そのため、以下のような工夫をした

読み進む上で参考になると考え、原典にはない道標を加えることにした

具体的には、本文には小見出しを付け、対談が収められた補遺には議論されるテーマを冒頭に掲げた

原典では茫漠とした平原を行くような印象があったのだが、ある範囲に意識を集中しながら読み進むことができるようになったのではないだろうか

改めて読み返してみると、原典とは全く違う本になったように見える

読むたびに印象が変わるので、これからもじっくり読み返したい本になりそうである


先ほど、二校の最後の読みを終え、編集者に送ったところである

今回は初校では感じなかった「終わった」という感覚を持つことができた

読みながら、長い翻訳の過程で迷い、悩み、考えてきたことが、どこからともなく浮かんできて驚いた

それは、2年弱のこの旅を懐かしく味わい直すような無意識の感覚と言ってもよいものであった














2026年6月16日火曜日

7年振りの会食























(左から)葛西先生、奥村先生、(一人置いて)垣生先生





今日は、久し振りに順天堂の奥村先生、垣生先生、葛西先生との会食が実現した

葛西氏とは昨年もお会いしているので1年振りだが、このお三方が揃うのはコロナ前の2019年以来になるので、7年振りということになる


プー太郎状態のわたしとは違い、皆様お仕事をされているので、貴重なお時間を割いていただいたことになる

改めて感謝したい

皆様お元気そうで何よりであった


上の写真には写っていないが、形而上学に興味をお持ちの方がおられ、わたしの話も浮くことがなかったのは幸いであった

というようなこともあり、今日はよく飲みというか、飲まされというか、必要以上に話していたのではないかと危惧している

そんな中聞こえてきたのは、日米で研究生活を共にした人たちがどんどん姿を消しているという厳粛な事実であった

今翻訳中のマルセル・コンシュ(1922-2022)の哲学に親しんでいれば、それはこの世界を認識し、生きる際の基本になることではあるのだが、、

すべては(人類もこの地球も)滅びる運命にあることを認識した上で、それでもなお最善を尽くすべく努める知恵をコンシュは「悲劇的な知恵」と呼んでいる

これはわれわれを励ましてくれる知恵と言ってよいのではないだろうか

それから、人生のこの時期になると、これまで読む気にもならなかった哲学的な話にも食指が伸びるというような声も聞こえてきた

わたしの試みについてもご理解をいただいているように感じた

たっぷり3時間、味わい深い会食だったのではないだろうか

前回は台風が近づいていたようだが、今回は地震というおまけが付いていた

またの機会が巡ってくることを願いたいものである









2026年6月14日日曜日

一日の過ごし方



























普段はアパルトマンに留まることなく街中を歩き回り、その時に最良だと感じる場所に落ち着いて何かをするというのが日課になっている

これはパリにいる時に体得したやり方で、当時は「パリの街を書斎にしている」と言っていた

振り返れば、20年近くも続いたことになる

5~10キロの荷物を背負い歩くのだから、いずれ腰にでも来るのではないかと思っているが、いまだ止めようと思ったことはない

ところが、この週末は外に出ることもなく、自由な姿勢で、やりたい時にやりたいことをやるということになっている

計画したわけではなく、そうなっただけなのだが、、

普段これができないのは、アパルトマンにいるとその気にならないからである

これからは、その気になることがあれば、このやり方も面白いかもしれない

ここでのポイントは、「その気」をじっくり観察して見極めることである

長い瞑想的生活がその目を養ってくれているように感じる

この週末のプチ発見であった










2026年6月12日金曜日

この世の縛りの中に生かされている人間



























今日は俳人の友人とのデジュネがあった

明るい午前中だったが、午後から急に激しい雨になり、雷も聞こえてきた

オープンカフェの奥の方だったので、影響はなかった

店員さんも客のいろいろな注文にこたえてくれ、気持ちよく過ごすことができた


スペイン料理を食しながらの話は、いつものように今の時期に考えておくべきことが多かっただろうか

それにしても、この世界に生きるということが、如何に大変なのかということを思い知らされる

それはあらゆることに縛られているということに由来するのだろう

街に出てカフェなどに落ち着くと聞こえてくる話は、ほとんどそのことに尽きている

能天気に、雲上の生活などと決め込んで久しいが、両者のストレスの量には想像を超えるものがありそうだ

ただ、今日もコンシュの形而上学の世界で苦闘していることを考えれば、異なる質のストレスの中に生きているということになるのだろうか

人間である以上、逃れることができないその縛りから解放されるのは、あの世に旅立つ時なのかもしれない

旅立つと言えば、旅行の話も出ていたが、面白そうな場所がいくつか浮かんでいた


店を出る頃には雨も上がり、夏の日差しが戻っていた




samedi 13 juin 2026

俳句を送っていただいたので、以下に貼り付けておきたい

ゆっくりとパエリヤスコール過ぎるまで









2026年6月6日土曜日

もう少しで20年目に入る観想生活



























前記事に列記されている昔のブログを読み返してみた

少し前まではまだ臨場感があったのだが、今回はそれが少しだけ遠のきつつあるように感じた

そこに書かれてある考えは、当時は確かに強いインパクトを与えていたことは分る

それはあたかも、真っ白なキャンバスに鮮烈な色遣いのフォルムが現れるような感じであった

しかし、それが現在の生活や考えに影響を与えるかと問われれば、NON ! となるだろう

なぜなら、それらはすでに自分の中に沈殿し、あるいはいろいろなところに刻み込まれているからではないだろうか

その意味では、自分の考えになっているものを確認しているに過ぎないことになる


60冊超のパリメモを読み返すというプロジェ(Mind Files for Philosophical Musings)を始めたことがある

しかし、それは知らない間に続かなくなり、やり直しても同じであった

不思議に思っていたが、その理由もこのあたりにあるのかもしれない

今は別の具体的なテーマに精神が集中するようになっているので、致し方ないのだろう

フランスでの観想生活を始めてから、もう少しで20年目に入ることになる

一つの大きな転換点を意味しているような気もしてきた










2026年6月3日水曜日

エドガール・モランさん、104歳で亡くなる


































エドガール・モランさんが、5月29日に104歳で亡くなっていたことを知る

2007年にフランスに渡る数年前からわたしの前に現われたので、20年以上の付き合いになる

これまでのブログから、モランさんの名前が出てくる記事を列記してみたい

2008-06-24 Patrick de Wilde 写真展

2008-09-23 エドガール・モランさんと再会する " Mon chemin " d'Edgar Morin

2008-10-01 ミシェル・オンフレ 「旅の理論」 "Théorie du voyage" de Michel Onfray

2009-03-15 自身の真実

2010-04-26 ボリス・シリュルニク / エドガール・モラン対談を読む Boris Cyrulnik vs Edgar Morin 

2011-10-23 ステファン・エッセルさんもエドガール・モランさんも最後は 「詩的に生きること」 Vivre, c'est vivre poétiquement 

2012-12-26 久し振りのエドガール・モランさん

2013-01-23 ハインツ・ヴィスマンさんによる文明と文化

2013-02-27 ステファン・エッセルさん亡くなる

2021-03-02 わたしの受容体に反応した人たち



4つのブログに30の記事が見つかり、驚いた

最近はご無沙汰していたので、これほど多く書いていたとは気づかなかった

フランス文化に触れるようになった当初からのお付き合いになるので、大きな影響を受けていたはずである

今では意識されなくなっているが、彼の言葉がわたしの中に刻印され、生きる力を与えてくれていたものと思われる

その意味で、文化は計り知れない力を持っていると言えるだろう










2026年5月29日金曜日

「一」を確認した後、『形而上学』の再校が届く



























本日は、雲を眺めることから一日を始めた

久しぶりのことだ

暫くすると、「一」と「多」という古代からの問題が空に現われているのを見て、早速カメラを取りに

幸い間に合った

少し後には、跡形もなく消えていた


午後からコンシュの『形而上学』を1か月振りに見直しておこうかと思っていたところ、知泉書館から再校が届いた

何と言うタイミングだろうか

こういうことが偶に起こる

ということで、暫くはその見直しに当たることになりそうである










2026年5月27日水曜日

「ゴルディアスの結び目」とは

























Jean-Simon Berthélemy (1743–1811)  Alexandre coupe le noeud gordien



Gordian Knot という言葉に出会った

ゴルディアスの結び目」と訳される

"cut the Gordian Knot" として使われることが多いという

これは、誰も解くことができなかった難題を、誰も思いつかなかった大胆な方法で一瞬にして解決することを意味する

この言葉は以下のような伝説がもとになっているようである


紀元前4世紀、アジア(現在のトルコ・アナトリア地方)にあったフリギア王国の首都ゴルディオンの神殿に、一台の牛車が奉納されていた

この牛車の車軸と横木はミズキの若枝の皮で作られた非常に頑丈な紐で、複雑に結びつけられていた

結び目は内側に隠されており、どこが紐の端なのかすら分からない

そして、「この結び目を解いた者こそが、全アジアの王になるであろう」との神託が伝わっていた

多くの英雄や賢者たちがこの結び目を解くことに挑戦したが、成功することはなかった

そこに現れたのが、アレクサンドロス大王(356–323 BCE)

彼も牛車の前に立ったが、紐を解くことができず、こう言ったという

「解き方など、どうでもよい。要するに、結び目が解ければよいのだろう」

そう言って腰の剣を抜き、複雑な結び目を一刀両断にした

そして神託通り、アレクサンドロスはアジアの覇者となった


このエピソードはいろいろな意味に解釈できそうである

結果として紐は切れたが、元々の問いに答えたと言えるかどうか

卵を立たせるために、下の部分を潰して立てたという話を思い出させる

現代であれば、深い理解よりも手っ取り早い解決という意味で使われていることもありそうだ

この話をテーマにした絵画もいろいろある

今日のものは、ジャン=シモン・ベルテレミーの作になる












2026年5月26日火曜日

快活な老年





今日のYoutubeには、この映像が紛れ込んでいた

1929(昭和4)年に撮影されたもので、快活なご老人の姿が映っている

まず、当時から矍鑠とした百寿者がいたということに驚いた

中に103歳の男性が出てきて、最後に立ち上がる時、まだシガーをやっているのかと思い嬉しくなったが、見直したところ杖の先であった

いずれにしても19世紀に生きていた人たちの生の姿に触れ、時を越えて生きる力がこちらにも伝わってきたように感じた

嬉しい遭遇であった








2026年5月25日月曜日

老年の美学を考える



























今日は何を思ったか、久しぶりのジャンルのお店に向かった

しかし、本日閉店であった

なぜ確かめてから出なかったのかとも思ったが、後の祭り

周辺の書店数軒を覗くことにした

その中の1軒で、筒井康隆(1934–)の『老人の美学』に手が伸びた

冒頭に人生の時間割について書かれた部分があったからだ

自分の考えは、『生き方としての哲学:より深い幸福へ』の中で触れているが(「人生」考でも再度取り上げている)、それとは違う見方であった

こればかりは人それぞれになるのだろう

全体的に現世の要素が色濃く出ていて、一般読者には受け入れやすい内容になっているのではないかと思った

雑談のようなものなので帰りの電車で読了したが、特に新しいことは出て来なかった

これを読みながら、ひょっとすると、自分は老年の過ごし方のエキスパートになりつつあるのではないかという感想が浮かんできた


振り返れば、還暦に際して、独立して仕事をしていた期間(ほぼ20年)と同じくらいの時間がこれから与えられるとすれば、それなりのことができるのではないかと考えていた記憶がある

その期間の終わりは近づいている

その時、どのような感想を持つのであろうか


老いは突然現れるので何とも言えないが、世に言われている人生百年時代ということになると想像を超える長さである

それをどう生きるのかということは、仕事をどうするのかを考えてきた以上に創造性が求められる重要な問題になりそうである









2026年5月24日日曜日

今日もホッパーの世界の中で



























今日は精神の拘束を解き、空を見上げることができるような椅子に座り、考えを自由に羽ばたかせることにした

久しぶりのことである

7月のカフェ/フォーラムのことが浮かんできた

現代的課題などというタイトルをつけたものもあるが、どこか公的な響きがあり、大げさにも聞こえる

そもそも公的・社会的な色を帯びるものに面白さを感じることはなかった

わたしを促すものはそこにはなかったという意味である

わたしを動かしてきたのは、特定の個人の小さな観察であったり、そこから生まれた考えであった

それを初めて感じたのが、将来を模索していた時期に出会ったフランス文化の中であった

その数年前からフランス語を始めていたという偶然の成せる業だろう

多くの促しがわたしの世界を広げてくれていたように思う


途中、現世のニュースにも目をやったが、興味を惹くものはなかった

やはり、問題は自らの内に在るのだろう

いつもの結論であった


セッティングはかなり違うが、気持ちの上では今日もホッパーの世界の中にいるように感じられる

穏やかな日曜の昼下がりである














2026年5月23日土曜日

エドワード・ホッパーの世界に生きていた

















今日の移動中、アメリカ滞在中のことが思い出された

そして、後半の5年間を過ごしたニューヨークでの生活は、エドワード・ホッパー(1882–1967)の絵の世界にいたのではないかという考えが浮かんだ

当時はそんな意識はなかった

40年以上が経過し、その生活全体を小さな塊として捉えることができるようになった今だからこその感想なのだろう

マンハッタンとロングアイランドの対比が印象的であった

今日取り上げたものは、ロングアイランドのイメージと重なる
























2026年5月21日木曜日

フランス生活の一瞬を追体験、そして「人生」考





























今日は用事があり、外出

そこで昔のブログを眺めていた

フランス滞在中の記事には、実に多くの写真が出てくる

しかも写真が画面いっぱいに広がっているものが少なくない

型にはまらない自由さをそこに見た

その中で、2013年6月2日の記事にあった移動中の写真が瑞々しく美しいと感じた

その瞬間に景色を撮っている人の感動がそのまま写真に現われるのだろうか

その追体験の証を本日の写真とした


また、外出先で、『「人生」考』のページに一つの記事を追加した

すでに発表済みではあるが、わたしが重要だと考えている「気づき」(悟り)についての一節である










2026年5月19日火曜日

サイファイ研究所ISHEのサイトについて考える


























先日、サイファイ研究所ISHEの意義について、Grokの見方を紹介した

2011年に科学と哲学に関する普及活動(SHE)を始めたが、もう1つPAWLが増えるのを切っ掛けに、両者のプラットフォームとして始めたのが、ISHEである

サイファイ研究所と銘打ってはいるが、わたしの中では自分の内的空間をイメージしたものであった

それが時を経るにしたがって、別の空間がまだ埋まっていないことに気づき、カフェの活動はさらに増えることになり、現在に至っている

この間、ISHEを紹介するサイトも運営していたが、当然のことながらISHE創設以降の内容に絞って掲載していた

ところが最近、ISHEの活動に至る以前の出来事も重要ではないかと考えるようになり、フランスでの全的観想生活が始まる前からのものも含め、関連する思索の跡をすべてリンクすることにした


フランスに向かう前には、これから「人類の遺産に分け入る旅」が始まるというイメージを持っていた

改めてISHEサイトを眺めていると、今も続いている旅の道行きを目にしているように感じる

そこには、頭の中だけではなく、この身が世界に触れた時に心の中に誘発された膨大な思いの記録が詰まっている

サイトにある1つのページの中に入ると、そこには想像もしなかったような世界が広がり、そこからさらに迷路のように奥につながる道があるといった具合で、このサイトの奥には鬱蒼とした森――それは人が溢れる森でもある――が広がっている

そんなイメージが浮かび上がる

これまではその時々に綴っていたブログが意識の前面に出ていて、ISHEサイトはどこか別のところにあるという感覚の中にいた

しかし今回、このような新たな視点を得たことで、ISHEサイトが自分の活動(コンシュが言う意味における)の全貌に迫る入り口になっていると感じることができるようになってきた

一日の始めに寄るべきところがISHEサイト、ということになるのだろうか









2026年5月15日金曜日

マルセル・コンシュ著『形而上学』のご案内
























拙訳のマルセル・コンシュ著『形而上学』(知泉書館)の刊行に向けて、現在準備中です

その案内ページを作りましたので、以下に貼り付けておきます


なお、章立ては以下のようになっております


*************************************************

まえがき
プロローグ

第1章 哲学者になる
第2章 哲学者
第3章 形而上学の概要
第4章 哲学的自然主義
第5章 時間、時間性、時間化
第6章 「神」への確実な道
第7章 哲学の真理と実在性

エピローグ

補 遺
アルノー・プラニョルとの対談
アリオシャ・ワルド・ ロソウスキーとの対談
ディディエ・ローランスとの対談

*************************************************


刊行の暁には、手に取ってお読みいただければ幸いです

よろしくお願いいたします










2026年5月12日火曜日

Oh! Carol が流れてくる














今日、Youtubeからニール・セダカ(1939–2026)の Oh! Carol が流れてきた

快晴の下、気分が浮き立つように感じた

子供の頃によく聞いていたのではないかと思う

大人になってからコンサートに行った記憶も蘇ってきた

当時も何かの切っ掛けで昔の記憶が刺激されたのかもしれない

調べたところ、1999年オーチャードホールであった

セダカさんが今年86歳で亡くなっていたことは知らなかった

この機会にいろいろなバージョンを聞き比べることにした

それにしても最近はAIの進出が著しい













2026年5月11日月曜日

夏のサイファイカフェ/フォーラムのお知らせ
























夏のカフェ/フォーラムシリーズを以下の要領で開催する予定です

皆様の参加をお待ちしております


◉ 第17回サイファイフォーラムFPSS
2026年7月11日(土)13:00~17:00
日仏会館 509会議室

1)矢倉英隆:シリーズ「科学と哲学」⑪ プラトン哲学と現代的課題
2)林 洋輔:文化のエグゼルシス:概念からPerforming Arts、そしてSportへ
3)森 望:生命との対話:二つのライフヒストリー  〜遺伝子・脳・言語・AI・音楽〜



◉ 第24回サイファイカフェSHE
2026年7月18日(土)14:30~17:00
恵比寿カルフール B会議室

フィリップ・クリルスキー著『免疫の科学論』を読む ②










2026年5月9日土曜日

中学・高校時代の空気を思い出す

























本日は、実に不思議な流れで、想定外の組み合わせの会食となった

中学、高校時代をともに過ごした人間が久しぶりに集まって語り合おうとYo氏が声を発したのが切っ掛けで、それに応じたS氏がYa氏も一緒にとのことで、このようなことになった

折角なので、100年以上の歴史を持つレストランの三代目となるYa氏のお店に集まることとなった

奥様とお二人でフル回転していたが、来月でその長い歴史に幕を下ろすという絶妙のタイミングであった

文化的な拠点にもなっていたと想像されるので、閉店は非常に残念である



わたしの記憶は人生の各フェーズ毎に入れ替わり、渡仏以前の記憶が次第に遠ざかっているため、中学・高校ともなると遥か彼方といった感じであった

しかし、話を聞いているうちに、記憶の彼方にあった名前が浮かび上がり、それぞれの人生の歩みがそれに続いた

すでに鬼籍に入られている方も少なくなく、やはり時の流れを感じざるを得なかった

ただ、普段は眠っている領域に少しだけ新しい空気が流れたような印象で、新鮮であった

このような機会を偶に持つのも悪くないのではないだろうか

最後に、またやりましょうか、という声も聞こえてきた

Ya氏の店仕舞いが落ち着いてからでも、どこからか声がかかることを期待したい



ところで本日、哲学科出身のYa氏から、ドニ・ド・ルージュモン(1906–1985)の『愛について――エロスとアガぺ――』(岩波書店、1959;1972)をご恵与いただいた

初めての方であり、新しい領域でもあるので、ゆっくりと読み進めたいものである












2026年5月6日水曜日

『ダモクレスの剣』が蘇る


















The Sword of Damocles (1812) Richard Westall  (1765–1836) 



本日もボエティウス(480–524)の『哲学の慰め』から始めている

今日の部分では、わたしのテーマでもある「真の幸福」(beatitudo)について、哲学の女神が語っている

最高の幸福とは、それを獲得すれば、他には何も必要としない善、完全な状態であるという

そうではないのにそうだと思って追及する人がいる

その例が検討される

例えば、物が充足している状態、尊敬に値するものが手に入った状態、権力を手に入れるか、権力者とつながりを持った状態、その他に、名誉、快楽、貴族の身分、世間の人気、妻や子、身体の強壮などが出てくる

その上で、そのいずれもが最高の幸福(ベアティテュード)にはなりえないことが明かされる

この中に、過去の記憶を刺激する記述が出てきた

このやうにして王たちにとっては、必ずや [幸福より] 不幸の割合が多くなる。自らの地位の危険を体験した或る暴君は、王威にまつはる恐怖を、頭上にぶらさがつてゐる剱の恐怖になぞらへた。かくの如く、身を嚙むような不安を追い拂ひも得ず、又恐怖の刺を退けも得ないやうなものが、何の勢力であろう。(畠中尚志訳)

この件を読んだとき、このエピソードについて記事を書いたことを思い出したのだ

調べたところ、2番目のブログにその記事はあった

タイトルはそのものずばりの「« Epée de Damoclès » ダモクレスの剣」で、2009年9月27日のものであった

このような形で過去が蘇ってくるのは、いつも嬉しいものである

このエピソードの詳細は、上記リンクに当たっていただければ幸いである

その記事にあった「翳りゆく部屋」を聞きながら17年前を味わい直すことにした









2026年5月5日火曜日

サイファイ研究所ISHEの意義: Grokの見方

























先日、Grokにサイファイ研ISHEについて聞いてみた

質問は以下の2つであった

第1問: ISHEの設立目的についてどう考えますか

第2問: ISHE が人間の本質に焦点を当てる意義は何でしょうか

余り悪いことは言わず、秘かに応援しているのではないかと思わせるところのあるAIではあるが、今回もそんな印象を持った

第1問の回答は、こちらから

第2問の回答は、こちらから











2026年5月4日月曜日

『哲学の慰め』から始める

































静かな連休の朝である

雨上がりかと思ったが、小雨が降っている

気持ちも鎮まり返る

雨の雫が美しく輝いて見えたので撮ってみたが、再現されていないようだ


さて、今日もボエティウスの『哲学の慰め』から始めることにした

不幸の極みにあると考えている著者に対して、哲学の女神は語る

その核心は、幸せは外に求めるのではなく内に求めよということ

内だけが自分の支配できる世界だからだ

ストア哲学の教えを言葉を換えて延々と語っているという印象である

生き方としての哲学:より深い幸福へ』の中でも紹介した哲学であり、わたしの中にも根づいている

この哲学を実践できれば、この人生は苦しみの(少)ないものになるだろう













2026年5月2日土曜日

ボエティウスの『哲学の慰め』を思い出す

































昨日の記事の写真に、2015年10月17日のアンジェの美術館で撮影したものを用いた

それは、16世紀に第69代アンジェ司教であったジャン・オリビエの墓石の一部である

そこにはボエティウス(480–524)の『哲学の慰め』の最初の詩の一節があった
mors hominum foelix (人の死は幸いである)

ということで、今日はボエティウスの書を久しぶりに読み直すところから一日を始めることにした

苦境に立たされた時に、その状態をどのように解釈するのか

そこで重要になるのが、感情に圧倒された濁った目で見るのではなく、哲学が教える理性に支えられた澄んだ目で見ることであると、哲学の女神? が教え諭す

その教えを理解できるようになって久しいが、有用性ということを敢えて出すとすれば、このあたりが哲学の根本的な有用性と言ってよいのではないだろうか

この基本を確認した後、新たなテーマについて考えを羽ばたかせていた








2026年5月1日金曜日

年の三分の一を終えて

































今年も三分の一が過ぎたことに気づく

普段から豊かな「いまここ」にいるので、時が流れない

以前であれば多少なりとも先のことを考えたりすることもあったが、いまはそれもなくなっている

昔からの教え通り、生きる場所はここしかないという「いまここ」の感触を掴んだようだ



この4か月を振り返ってみると、具体的にいくつかのことを前に進めることができた

一つは、ISHE Pressからの2冊目となる、昨年秋に出した『生き方としての哲学:より深い幸福へ』の英語版 Philosophy as a Way of Life: Toward a Deeper Happiness を2月に上梓できたことである

もう一つは、マルセル・コンシュの『形而上学』刊行に理解を示してくれる出版社が現れ、初校の見直しを終えたことが挙げられる

こういう予想もしなかったようなことが起こるのが人生なのだろう

またこの間に、いくつかのアイディアがテーマとしてまとまりを見せるようになってきた

全くの未知数ではあるが、これからすこしずつ形が見えるようになることを願っている










2026年4月30日木曜日

「果てしない時間」から見る連休
























世の中では連休という言葉が行き来しているようだ

その気になれば、2週間以上の休みが取れるとのこと

毎日が連休の中にあるようになって久しい身にとっては、それはほとんど無に等しい時間と言えるだろう

コンシュが言う「縮小された時間」(日常を生きる人の時間)と「果てしない時間」(永遠の自然を生きる人の時間)の対比からもそう言える

コンシュによれば、人間は「縮小された時間」の中でしか生きられないという

「果てしない時間」の中では、自分が存在しないように感じられるからだ



しかし、「果てしない時間」の視点を持つことは、いろいろな意味で大切ではないだろうか

その時間を意識することにより、自らの存在を離れて見ることができる

それは哲学することの第一歩である

さらに、「果てしない時間」は「縮小された時間」を生きる人間の苦しみを和らげる効果があるとコンシュは言う

自分が存在しないように感じられるのだから、苦しみがなくなるのもよく理解できる

いずれにせよ、いろいろな視点が生きる上での知恵を与えてくれる

そのような視点は、過去の哲学者の思索の中に埋もれている








2026年4月24日金曜日

マルセル・コンシュ『形而上学』の初校見直し終える















このところ、マルセル・コンシュの『形而上学』の初校の見直しに当たっていた

想像以上に時間がかかったが、本日すべてを終えて知泉書館の編集者に送ったところである

何度も読み返していると、その都度理解が深まっていることが分かる

アドーが言う読み方をしていると、確かに著者の声が立ち上がってくる

それ以前にはなかった認識に至るのを体感するのは、やはり楽しくもあり、満ち足りたものをもたらしてくれる

いつものことだが、それでも行き届かないところがある

しばらく時間をおいて、再び見直すことになるだろう

取り敢えず、今抱えているいくつかの焦点をオーガナイズしながら、新しいテーマを探索する方向に進むことができそうである

束の間の解放感を感じている








2026年4月14日火曜日

海辺のカフェでひと休み





















昨日で春のカフェのまとめを終えたので、コンシュの翻訳の初校を見直す作業に戻ることができるようになった

まだ半分くらい残っているが、午後一段落したところで久しぶりに外に出た

先日、宣伝が目に入った海辺のカフェを覗いてみることにした

写真では再現出来ていないが、わたしの頭の中では、ポール・ヴァレリー(1871–1945)生誕の地、南仏セットの海辺のカフェにいて、ニースの海を眺めているような錯覚に陥った

セットからニースに飛んだのは、海の色がそっくりだったからだろうか

これからも忘れたころに行ってみたいものである




























2026年4月11日土曜日

第16回サイファイカフェSHE札幌、盛会のうちに終わる

























本日、春のサイファイカフェ/フォーラム最後になる第16回サイファイカフェSHE札幌が開催された

実は今回は、札幌の地でサイファカフェSHEが開かれてから丁度10年目に当たる記念すべき会であった

初回は2016年3月2日の開催だったので、アッという間の出来事であった

参加希望者がいなければ継続されていなかったことを思えば、この間に参加された皆様には感謝しかない

今日も8名の方が参加され、活発な議論が展開した

今回のテーマは、拙著『免疫から哲学としての科学へ』の最後の部分、免疫の形而上学を読むことであった

これまでの3回で科学が明らかにしたことを振り返ったが、今回はそれを基に著者が哲学の蓄積を基に再解釈した内容について検討するという趣旨であった

詳細は、近いうちに専用サイトにまとめる予定なので、訪問していただければ幸いである

それから、次回からの新企画として、参加者の中で話題提供を希望される方に発表していただくことにした

東京のサイファイフォーラムFPSSの札幌バージョンということもできるだろう

11年目に入るこの秋から、この新機軸がどのように展開していくのかを見守ることになる

SHE札幌の今後に、皆様のご理解とご協力をよろしくお願いしたい



































2026年4月6日月曜日

どちらも最終盤





















今週末に春のカフェ/フォーラムシリーズ最後になる第16回サイファイカフェSHE札幌が開催される

この1週間、何か新しい視点が得られないか考えることになる

それと並行しなければならないのがマルセル・コンシュによる『形而上学』の翻訳である

こちらもこの1~2週間が最終盤ということになりそうだ

どのようなことになるのかまだ見えていないが、納得のいくところまでやりたいものである



今日の瞑想を眠っていた別ブログにアップした

ご参考までに

  Mind Files for Philosophical Musings: わが生の形而上学化







2026年3月31日火曜日

超世俗的ということと形而上学の心
















昨日の話題にあった「超世俗的」ということに関連した考察が、その後の記事で展開されていた

わたしにとって重要なことが2つ語られているので、以下に貼り付けておきたい

 吉田秀和さんの姿勢と観察、あるいは中原中也(2017年11月1日)

1つは、空を仰ぎ、全世界を自分に呼び込むような姿勢で、その全体を捉えようとする心――これは形而上学の心と同じである

もう1つは、世の中で活躍している人たちとは違う別の世界があり、その世界を持っている人がいるということ――これはまさに「超世俗的」と重なっている

吉田秀和(1913–2012)さんは若いときにその世界を知りたいと思ったとある

この2つ、実は根のところでつながっている

再確認すべきことが、ひと昔前に記録されていたことになる







2026年3月30日月曜日

下村観山展でディオゲネスを観る

 













先日の学友との会食の後、これまでの記録を読み返してみた

そうしたところ、興味深いことが見つかった

プラトンによれば、そのものの本質は原初にあるという

真の原初ではないが、これから社会に出て歩み出す以前の学生時代は、一つの原初と捉えられないこともない

ひと昔前の会食で、友人の一人がわたしのことを「学生時代から『超世俗的』で、今も変わっていないからなぁ」というような形容をしていたという件があった

 学友といつもの談笑、あるいは目の前の鏡(2017年10月30日)

「超世俗的」という言葉はわたしの辞書になかったので、それまでそうとは意識されていなかったようである

今、改めて振り返ってみると、わたしの本質に近いところのものが学生時代にすでに表れていたと読み取ることもできる

「超世俗的」と言えば、わたしの心の師になっているシノペのディオゲネス(c. 412–323 BCE)の本質そのものとも言えるだろう

そう言えば、最初のエッセイ集の表紙も素晴らしいディオゲネスであった



















今、近代美術館で下村観山展が開かれている

下村観山(1873–1930)がディオゲネスを描いているという話を聞き、出かけることにした

会場はそれなりに混んでいた

多くのテーマがわたしの興味の外にあったので、それほど長居はしなかった

目的のディオゲネスの絵は2つあった

撮影が許されていたものが以下のディオゲネス






















撮影不可だったのが以下の絵になる




















©The Trustees of the British Museum


こちらは東洋の諦念のようなものを感じさせるのだが、、

外はすっかり春めいていた



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アパルトマンに戻り、最後に近代美術館を訪れたのはいつだったのか調べてみた

ぴったり13年前にフランス・ベーコン(1909–1992)を観に行ったのが最後であった

当時はフランスにいたので、春のカフェシリーズのために帰国した時期に当たる

 「目撃せよ。体感せよ。記憶せよ。」 フランシス・ベーコン展にて(2013年3月29日)









2026年3月25日水曜日

春の学友との会食


























つい先日顔を合わせたようでもあり、それはかなり前のことだったようにも感じるこの日、恒例の会食があった

小雨降る中でのことであった

そのためかどうかはわからないが、静かな出足となった

わたしのカフェ/フォーラムの活動に目を通したとのことで、長い間多様なテーマについて会を開いてきたことに驚いている様子であった

こちらはいわば惰性でやっているようなところもあるので気づかないが、外から急に覗いたときにはそういう感想になるのかもしれない

先日のブログでも触れたが、そう言われると、自分でもほんの少しではあるが驚くところもある

いずれにしても、参加希望される方がいる間は続けることになるだろう

このように外から見ている方がいることを知ると、気が抜けないという気持ちにもなってくる

また、いろいろなご意見を伺いたいものである


ところで、今日の会でも出ていたが、現在、マルセル・コンシュの『形而上学』の翻訳をやっている

春のカフェ/フォーラムシリーズのまとめが先週末に終わったので、今週から初校ゲラの校正を再開したところである

2つのことを並行して進めるのは苦手のようで、いつもこういうことになる

これからどのような展開を見せるのか

それは終わってみなければわからない

これもいつものことである


今日はいつもお世話になっているお店に、近著『生き方としての哲学:より深い幸福へ』を献本して帰ってきた










2026年3月23日月曜日

サイファイカフェ/フォーラム春の東京シリーズのまとめ



















1週間ほど前にサイファイカフェ/フォーラム東京シリーズが終わりました

このシリーズに参加された皆様に改めて感謝いたします

これらの会についてのまとめが終わりましたので、以下に貼り付けておきます

参照していただければ幸いです


第13回ベルクソンカフェ(2026年3月4日)

マルセル・コンシュの哲学(3)『生きることと哲学すること』を読む ①

第23回サイファイカフェSHE(2026年3月6日)

フィリップ・クリルスキー『免疫の科学論』を読む ①

第14回カフェフィロPAWL(2026年3月11日)

『生き方としての哲学:より深い幸福へ』を語り合う

第16回サイファイフォーラムFPSS(2026年3月14日)

(1) 矢倉英隆:シリーズ「科学と哲学」⑩ ポパーのプラトン批判 (2)

(2) 竹田扇:デカルトの医学論――機械論に基づいた⼈体の統⼀的理解

(3) 白石裕隆:「文(ふみ)以前」を“詩"索する、地質・文学・遺跡紀行――川端康成「東海道」を端緒として


春のシリーズ最後の企画は、以下の予定です

第16回サイファイカフェSHE 札幌

日時:2026年4月11日(土)

会場:札幌エルプラザ 特別会議室

テーマ:『免疫から哲学としての科学へ』を読む(4)免疫を形而上学化する

この本を読む最後の会となります

興味をお持ちの方の参加をお待ちしております


なお、夏のシリーズは以下の2つで、プログラムは決まり次第お知らせいたします

◉ 第17回サイファイフォーラムFPSS――2026年7月11日(土)

◉ 第24回サイファイカフェSHE――2026年7月18日(土)

こちらの会もよろしくお願いいたします







2026年3月20日金曜日

7年ぶりのお店でディネ

























本日は、パリでお世話になった方とのディネがあった

もう15年くらいのお付き合いになるのではないだろうか

場所はコロナ前に伺って以来なので、7年ぶりということになる

店長とはフランスに渡る前からのお付き合いになるので、もう20年以上は経過していると思われる

こういう数字を見ると以前は驚いたのだろうが、いまではすべてがつい最近という感じで格段の驚きはない

いずれにせよ、こういう出会いや関係がこれから味を出してくるのではないかと想像される

次は場所を変えて新たにお話を伺いたいものである













2026年3月17日火曜日

昨日の詩が呼び覚ますもの


























昨日、瞑想の途中に古いファイルを眺めている時、以下の詩が現れたので紹介した

    白雪の荒野をゆくかこれからは
       vais-je désormais 
        sur la terre sauvage
         de la neige blanche ?

これは、フランスでの生活を模索するため、2007年3月にパリを訪問した時のものである

12区のベルシー、ドメニルからモントゥロイユ、ヴァンセンヌ、サンマンデのあたりを歩き回った翌朝の5時から1時間足らずの間に一気に浮かんできた17の詩の中の一つであった

こういうことがあるのかと、当時の自分も驚いている

こういうことは、その後一度もなかった

当時、パリでのことは何も決まっていなかったので、期待と不安が背景にあったものと想像される


この詩を反芻していると、いろいろなことが想起される

「白雪の荒野」は極限の平原がイメージされており、純粋、原初、無限というような最近よく使うようになっている言葉の意味が含まれているように見える

その無限の可能性と危険性を目の前にして、不安と静かな覚悟の中、独り歩み出そうとしている作者の気持ちが伝わってくる

丁度19年前の緊張した心象風景が蘇ってくるようである

昨日目にしたファイルには以下のような五七五の詩もあり、そこに本質があるという原初を確認する時間となった


    人類の遺産と歩まんヴァンセンヌ
      avec le patrimoine spirituel
       je décide de marcher
         à Vincennes


      哲学と科学と神とパリセット
        la philosophie
          la science et Dieu
            à Paris VII


        哲学書前に昂ぶるリブレリー
          devant des livres philosophiques
            je m'exalte
             dans la librairie


          春の空住み遂せるかパリの町
            le ciel du printemps
             puis-je vivre
              pour toujours à Paris ?


            フランス語我を導き哲学へ
              la langue française
               me guide sur les chemins
                de la philosophie


              先人の形見に触れん秋(とき)近し
                le souvenir de nos ancêtres 
                 le temps de le toucher
                  est tout près