2026年5月15日金曜日
マルセル・コンシュ著『形而上学』のご案内
2026年5月12日火曜日
Oh! Carol が流れてくる
今日、Youtubeからニール・セダカ(1939–2026)の Oh! Carol が流れてきた
快晴の下、気分が浮き立つように感じた
子供の頃によく聞いていたのではないかと思う
大人になってからコンサートに行った記憶も蘇ってきた
当時も何かの切っ掛けで昔の記憶が刺激されたのかもしれない
調べたところ、1999年オーチャードホールであった
セダカさんが今年86歳で亡くなっていたことは知らなかった
この機会にいろいろなバージョンを聞き比べることにした
それにしても最近はAIの進出が著しい
2026年5月11日月曜日
夏のサイファイカフェ/フォーラムのお知らせ
◉ 第24回サイファイカフェSHE
2026年5月9日土曜日
中学・高校時代の空気を思い出す
2026年5月6日水曜日
『ダモクレスの剣』が蘇る
The Sword of Damocles (1812) Richard Westall (1765–1836)
本日もボエティウス(480–524)の『哲学の慰め』から始めている
今日の部分では、わたしのテーマでもある「真の幸福」(beatitudo)について、哲学の女神が語っている
最高の幸福とは、それを獲得すれば、他には何も必要としない善、完全な状態であるという
そうではないのにそうだと思って追及する人がいる
その例が検討される
例えば、物が充足している状態、尊敬に値するものが手に入った状態、権力を手に入れるか、権力者とつながりを持った状態、その他に、名誉、快楽、貴族の身分、世間の人気、妻や子、身体の強壮などが出てくる
その上で、そのいずれもが最高の幸福(ベアティテュード)にはなりえないことが明かされる
この中に、過去の記憶を刺激する記述が出てきた
このやうにして王たちにとっては、必ずや [幸福より] 不幸の割合が多くなる。自らの地位の危険を体験した或る暴君は、王威にまつはる恐怖を、頭上にぶらさがつてゐる剱の恐怖になぞらへた。かくの如く、身を嚙むような不安を追い拂ひも得ず、又恐怖の刺を退けも得ないやうなものが、何の勢力であろう。(畠中尚志訳)
この件を読んだとき、このエピソードについて記事を書いたことを思い出したのだ
調べたところ、2番目のブログにその記事はあった
タイトルはそのものずばりの「« Epée de Damoclès » ダモクレスの剣」で、2009年9月27日のものであった
このような形で過去が蘇ってくるのは、いつも嬉しいものである
このエピソードの詳細は、上記リンクに当たっていただければ幸いである
その記事にあった「翳りゆく部屋」を聞きながら17年前を味わい直すことにした
2026年5月5日火曜日
サイファイ研究所ISHEの意義: Grokの見方
2026年5月4日月曜日
『哲学の慰め』から始める
2026年5月2日土曜日
ボエティウスの『哲学の慰め』を思い出す
mors hominum foelix (人の死は幸いである)
ということで、今日はボエティウスの書を久しぶりに読み直すところから一日を始めることにした
苦境に立たされた時に、その状態をどのように解釈するのか
そこで重要になるのが、感情に圧倒された濁った目で見るのではなく、哲学が教える理性に支えられた澄んだ目で見ることであると、哲学の女神? が教え諭す
その教えを理解できるようになって久しいが、有用性ということを敢えて出すとすれば、このあたりが哲学の根本的な有用性と言ってよいのではないだろうか
この基本を確認した後、新たなテーマについて考えを羽ばたかせていた
2026年5月1日金曜日
年の三分の一を終えて
2026年4月30日木曜日
「果てしない時間」から見る連休
2026年4月24日金曜日
マルセル・コンシュ『形而上学』の初校見直し終える
このところ、マルセル・コンシュの『形而上学』の初校の見直しに当たっていた
想像以上に時間がかかったが、本日すべてを終えて知泉書館の編集者に送ったところである
何度も読み返していると、その都度理解が深まっていることが分かる
アドーが言う読み方をしていると、確かに著者の声が立ち上がってくる
それ以前にはなかった認識に至るのを体感するのは、やはり楽しくもあり、満ち足りたものをもたらしてくれる
いつものことだが、それでも行き届かないところがある
しばらく時間をおいて、再び見直すことになるだろう
取り敢えず、今抱えているいくつかの焦点をオーガナイズしながら、新しいテーマを探索する方向に進むことができそうである
束の間の解放感を感じている
2026年4月14日火曜日
海辺のカフェでひと休み
2026年4月11日土曜日
第16回サイファイカフェSHE札幌、盛会のうちに終わる
2026年4月6日月曜日
どちらも最終盤
今週末に春のカフェ/フォーラムシリーズ最後になる第16回サイファイカフェSHE札幌が開催される
この1週間、何か新しい視点が得られないか考えることになる
それと並行しなければならないのがマルセル・コンシュによる『形而上学』の翻訳である
こちらもこの1~2週間が最終盤ということになりそうだ
どのようなことになるのかまだ見えていないが、納得のいくところまでやりたいものである
今日の瞑想を眠っていた別ブログにアップした
ご参考までに
Mind Files for Philosophical Musings: わが生の形而上学化
2026年3月31日火曜日
超世俗的ということと形而上学の心
昨日の話題にあった「超世俗的」ということに関連した考察が、その後の記事で展開されていた
わたしにとって重要なことが2つ語られているので、以下に貼り付けておきたい
吉田秀和さんの姿勢と観察、あるいは中原中也(2017年11月1日)
1つは、空を仰ぎ、全世界を自分に呼び込むような姿勢で、その全体を捉えようとする心――これは形而上学の心と同じである
もう1つは、世の中で活躍している人たちとは違う別の世界があり、その世界を持っている人がいるということ――これはまさに「超世俗的」と重なっている
吉田秀和(1913–2012)さんは若いときにその世界を知りたいと思ったとある
この2つ、実は根のところでつながっている
再確認すべきことが、ひと昔前に記録されていたことになる
2026年3月30日月曜日
下村観山展でディオゲネスを観る
先日の学友との会食の後、これまでの記録を読み返してみた
そうしたところ、興味深いことが見つかった
プラトンによれば、そのものの本質は原初にあるという
真の原初ではないが、これから社会に出て歩み出す以前の学生時代は、一つの原初と捉えられないこともない
ひと昔前の会食で、友人の一人がわたしのことを「学生時代から『超世俗的』で、今も変わっていないからなぁ」というような形容をしていたという件があった
学友といつもの談笑、あるいは目の前の鏡(2017年10月30日)
「超世俗的」という言葉はわたしの辞書になかったので、それまでそうとは意識されていなかったようである
今、改めて振り返ってみると、わたしの本質に近いところのものが学生時代にすでに表れていたと読み取ることもできる
「超世俗的」と言えば、わたしの心の師になっているシノペのディオゲネス(c. 412–323 BCE)の本質そのものとも言えるだろう
そう言えば、最初のエッセイ集の表紙も素晴らしいディオゲネスであった
今、近代美術館で下村観山展が開かれている
下村観山(1873–1930)がディオゲネスを描いているという話を聞き、出かけることにした
会場はそれなりに混んでいた
多くのテーマがわたしの興味の外にあったので、それほど長居はしなかった
目的のディオゲネスの絵は2つあった
撮影が許されていたものが以下のディオゲネス
撮影不可だったのが以下の絵になる
©The Trustees of the British Museum
こちらは東洋の諦念のようなものを感じさせるのだが、、
外はすっかり春めいていた
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アパルトマンに戻り、最後に近代美術館を訪れたのはいつだったのか調べてみた
ぴったり13年前にフランス・ベーコン(1909–1992)を観に行ったのが最後であった
当時はフランスにいたので、春のカフェシリーズのために帰国した時期に当たる
「目撃せよ。体感せよ。記憶せよ。」 フランシス・ベーコン展にて(2013年3月29日)
2026年3月25日水曜日
春の学友との会食
2026年3月23日月曜日
サイファイカフェ/フォーラム春の東京シリーズのまとめ
1週間ほど前にサイファイカフェ/フォーラム東京シリーズが終わりました
このシリーズに参加された皆様に改めて感謝いたします
これらの会についてのまとめが終わりましたので、以下に貼り付けておきます
参照していただければ幸いです
マルセル・コンシュの哲学(3)『生きることと哲学すること』を読む ①
フィリップ・クリルスキー『免疫の科学論』を読む ①
『生き方としての哲学:より深い幸福へ』を語り合う
◉ 第16回サイファイフォーラムFPSS(2026年3月14日)
(1) 矢倉英隆:シリーズ「科学と哲学」⑩ ポパーのプラトン批判 (2)
(2) 竹田扇:デカルトの医学論――機械論に基づいた⼈体の統⼀的理解
(3) 白石裕隆:「文(ふみ)以前」を“詩"索する、地質・文学・遺跡紀行――川端康成「東海道」を端緒として
春のシリーズ最後の企画は、以下の予定です
日時:2026年4月11日(土)
会場:札幌エルプラザ 特別会議室
テーマ:『免疫から哲学としての科学へ』を読む(4)免疫を形而上学化する
この本を読む最後の会となります
興味をお持ちの方の参加をお待ちしております
なお、夏のシリーズは以下の2つで、プログラムは決まり次第お知らせいたします
◉ 第17回サイファイフォーラムFPSS――2026年7月11日(土)
◉ 第24回サイファイカフェSHE――2026年7月18日(土)
こちらの会もよろしくお願いいたします
2026年3月20日金曜日
7年ぶりのお店でディネ
2026年3月17日火曜日
昨日の詩が呼び覚ますもの
2026年3月16日月曜日
全的観想生活の驚くべき効果か?
2026年3月14日土曜日
第16回サイファイフォーラムFPSS、盛会のうちに終わる
2026年3月11日水曜日
第14回カフェフィロPAWL、無事に終わる
2026年3月6日金曜日
第23回サイファイカフェSHE、無事に終わる
2026年3月4日水曜日
第13回ベルクソンカフェ無事に終わる
今夜は第13回目となるベルクソンカフェを開催した
お忙しいところお集まりいただいた皆様に改めて感謝したい
今回は、マルセル・コンシュの Vivre et philosopher(『生きることと哲学すること』)という2011年の著作を読み、特に唯物論について考えることをテーマに据えた
本書はルシル・ラヴェッジというコロンビア大学パリ分校の哲学者の質問に答える形でまとめられている
同様の質問に1991年(20年前)にも答えているが、基本的なところは変わっていないという
ただ、序文でも指摘されているように、唯物論に対する考え方は変わったようである
そこで論じられていることは、以下のようなことであった
ものことの起源に精神を置く観念論、有神論、唯心論には反対するという意味で唯物論の陣営に属するが、正真正銘の唯物論者ではないと断っている
その理由として、
1)「人間は自然(ギリシア人が言う無限で永遠ですべてを包摂するピュシスの意味における)の一部である」とは言えるが、「人間は物質の一部である」とは言えない
2)すべての人間にとって根本的で普遍的な自然の経験はあるが、物質の経験はない
3)唯物論者に物質とは何かと問うと、それに答えるのは科学であるという答えが返ってくるが、その時、哲学は「科学の侍女」(ancilla scientiae)になっている
4)唯物論者は自由意志を否定しがちであるが、何らかの判断をする場合、その原因が基準であるとすれば、真なるものを基準とした判断はどうなるのだろうか――真理は原因ではないのである
5)唯物論者にとっての道徳は、社会学的、歴史的説明に属する事実であり、道徳の基礎がしっかりしていないと、各人の道徳が持ち出されることになる――コンシュにとっての道徳は人権の道徳ただ一つで、これは何人も従わなければならない――これが崩れると、独自の道徳を持ち出すナチや人種差別主義者が出現する
6)物質という概念は現実/実在の全体を支えるにはあまりにも貧しいが、自然という概念はそれができる――すべてを生み出す無限の自然は存在するすべての第一原因であり、それは取りも直さず生命である
以上のようなことを指摘して唯物論に疑問を投げかけている
これらの点を中心に、唯物論をどのように捉えるのかという問題が他の見方との比較を通して議論されていた
詳細は、専用サイトで紹介したい
訪問していただければ幸いである
なお、春のシリーズ第2弾は、金曜日のサイファイカフェSHEで、クリルスキー博士の『免疫の科学論』を読む予定である
興味をお持ちの方の参加をお待ちしております
2026年3月1日日曜日
Mind in Life を読む(8)志向性
これは何かをしようとする時に目的を持つというような意味合いではない
もちろん、それも志向性の一部ではあるのだが、、
「志向性」とは、それ自身を超えて指し示すという意識特有の現象に対する言葉である
語源的には、「弓を弾く」あるいは「標的を狙う」という意味のラテン語 intendere に由来する
狭義には、対象に向かうものとしての志向性を指すが、広義には、世界に開かれていること、あるいは他者であること=他者性(alterity)を意味する
いずれの場合も、意識が自己に閉じていることを否定している
「対象に向かう」における対象とは、元々は我々の前にあるものという意味である
自身を超えたところにあるものを意識することが、狭義の志向性で、対象となるものは身の回りにあるものでも、過去の出来事でも、未来のことでも、あるいは存在しないものについてでもよい
日常に感じる感情や感覚、気分のようなものは対象に向かう志向性とはなりえない
ただ、その感情や気分が世界に開かれている場合には――例えば共感など――広義の志向性に入るものがある
現象学において、志向的経験は心的行為(mental acts)と記述される
その行為は内省など内的に閉じているものではない
また、主体と対象とが分れているのではなく、関係性の中にある
志向性は、相関関係にある(correlational)――主体の行為と対象とを一体として捉えられる――と言われる
フッサール(1859-1938)の現象学では、対象に当たるものをノエマ(noema)、対象に向かう心的行為をノエシス(noesis)と呼ぶ
ここで、現象学が言う志向性と、心の哲学が言う「心的表象」(mental representation)の関係を見ておきたい
心的表象とは、意味の性質(内容、真理の条件など)を伴う心的構造(概念、思想、映像など)のことで、通常、認知の対象ではなく、それによって認知したり、世界における何かを認識するものを指す
両者の違いは以下の点でも見られる
現象学における志向性の経験は、内容を持った状態ではなく、方向性を持つ行為であること
現象学における re-presentation は、今は存在していないものを心的に呼び覚ますという心的行為に限られること
このように、現象学においては、感覚による受容を示す presentation と re-presentation は明確に区別される
2026年2月25日水曜日
旧研究所メンバーとの会食を愉しむ
今日は旧研究所のメンバーとの会食に出かけた
初めて顔を合わせてから長い人でもう30年以上も経過しているという
その間に皆さんいろいろなことがあったようである
もう還暦だという方が2名おられた
当時のお姿からは想像できない
残念ながら、物理的な時の流れは止められない
しかし、拙著『生き方としての哲学:より深い幸福へ――アドー、コンシュ、バディウと考える』でも指摘したように、時間の捉え方が変わると時は流れなくなるのである
それはそのまま幸福へとつながるのではないかというアイディアがわたしの幸福論の一部を構成している
まだ現役で大学などで仕事をしている方の話を聞きながら、大学はもはや「真理の探究の場」ではないのではないかという考えが浮かんでいた
現場では「真理の探究」などと言う言葉も浮いて響いている可能性さえあるのではないか
それより前に厳しい現実をいかに乗り切るのかという課題に頭が使われているようである
そうだとすれば、束縛のない自由な環境で仕事ができる在野の研究者の方が「真理の探究」には向いているのではないか
そんな気もしてくる
いずれにせよ、皆さんお元気で活躍されているようで何よりである
またの機会を楽しみに待つことにしたい
ところで、今日はうっかりして1時間早く着いてしまったので、何年か振りに思い出横丁で下地を作ってから会場に向かうというおまけ付きであった
それもまたよし
間違いは創造の母であった
2026年2月22日日曜日
Philosophy as a Way of Life: Toward a Deeper Happiness 刊行のお知らせ
We live in an age saturated with information, speed, and easy answers—yet many of us feel that something essential is slipping away. Philosophy as a Way of Life invites readers to rediscover philosophy not as an abstract discipline, but as a practice rooted in how we live, think, and change. Through engaging reflections on Pierre Hadot, Marcel Conche, and Alain Badiou, Hidetaka Yakura introduces the idea of a “Third Layer of Consciousness”: a space beyond daily routines and professional roles, where thinking slows down and deeper insight becomes possible. At a time when artificial intelligence increasingly guides our choices and shapes our attention, this book offers a timely reminder of what cannot be automated: reflection, dialogue, and the capacity to be transformed by experience. Arguing that real happiness lies neither in comfort nor consumption, Yakura shows that a meaningful life emerges from fidelity to one’s “lived convictions”—and to the moments that quietly, yet decisively, change who we are.





































