2026年5月15日金曜日

マルセル・コンシュ著『形而上学』のご案内
























拙訳のマルセル・コンシュ著『形而上学』(知泉書館)の刊行に向けて、現在準備中です

その案内ページを作りましたので、以下に貼り付けておきます


なお、章立ては以下のようになっております


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まえがき
プロローグ

第1章 哲学者になる
第2章 哲学者
第3章 形而上学の概要
第4章 哲学的自然主義
第5章 時間、時間性、時間化
第6章 「神」への確実な道
第7章 哲学の真理と実在性

エピローグ

補 遺
アルノー・プラニョルとの対談
アリオシャ・ワルド・ ロソウスキーとの対談
ディディエ・ローランスとの対談

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刊行の暁には、手に取ってお読みいただければ幸いです

よろしくお願いいたします










2026年5月12日火曜日

Oh! Carol が流れてくる














今日、Youtubeからニール・セダカ(1939–2026)の Oh! Carol が流れてきた

快晴の下、気分が浮き立つように感じた

子供の頃によく聞いていたのではないかと思う

大人になってからコンサートに行った記憶も蘇ってきた

当時も何かの切っ掛けで昔の記憶が刺激されたのかもしれない

調べたところ、1999年オーチャードホールであった

セダカさんが今年86歳で亡くなっていたことは知らなかった

この機会にいろいろなバージョンを聞き比べることにした

それにしても最近はAIの進出が著しい













2026年5月11日月曜日

夏のサイファイカフェ/フォーラムのお知らせ
























夏のカフェ/フォーラムシリーズを以下の要領で開催する予定です

皆様の参加をお待ちしております


◉ 第17回サイファイフォーラムFPSS
2026年7月11日(土)13:00~17:00
日仏会館 509会議室

1)矢倉英隆:シリーズ「科学と哲学」⑪ プラトン哲学と現代的課題
2)林 洋輔:文化のエグゼルシス:概念からPerforming Arts、そしてSportへ
3)森 望:生命との対話:二つのライフヒストリー  〜遺伝子・脳・言語・AI・音楽〜



◉ 第24回サイファイカフェSHE
2026年7月18日(土)14:30~17:00
恵比寿カルフール B会議室

フィリップ・クリルスキー著『免疫の科学論』を読む ②










2026年5月9日土曜日

中学・高校時代の空気を思い出す

























本日は、実に不思議な流れで、想定外の組み合わせの会食となった

中学、高校時代をともに過ごした人間が久しぶりに集まって語り合おうとYo氏が声を発したのが切っ掛けで、それに応じたS氏がYa氏も一緒にとのことで、このようなことになった

折角なので、100年以上の歴史を持つレストランの三代目となるYa氏のお店に集まることとなった

奥様とお二人でフル回転していたが、来月でその長い歴史に幕を下ろすという絶妙のタイミングであった

文化的な拠点にもなっていたと想像されるので、閉店は非常に残念である



わたしの記憶は人生の各フェーズ毎に入れ替わり、渡仏以前の記憶が次第に遠ざかっているため、中学・高校ともなると遥か彼方といった感じであった

しかし、話を聞いているうちに、記憶の彼方にあった名前が浮かび上がり、それぞれの人生の歩みがそれに続いた

すでに鬼籍に入られている方も少なくなく、やはり時の流れを感じざるを得なかった

ただ、普段は眠っている領域に少しだけ新しい空気が流れたような印象で、新鮮であった

このような機会を偶に持つのも悪くないのではないだろうか

最後に、またやりましょうか、という声も聞こえてきた

Ya氏の店仕舞いが落ち着いてからでも、どこからか声がかかることを期待したい



ところで本日、哲学科出身のYa氏から、ドニ・ド・ルージュモン(1906–1985)の『愛について――エロスとアガぺ――』(岩波書店、1959;1972)をご恵与いただいた

初めての方であり、新しい領域でもあるので、ゆっくりと読み進めたいものである












2026年5月6日水曜日

『ダモクレスの剣』が蘇る


















The Sword of Damocles (1812) Richard Westall  (1765–1836) 



本日もボエティウス(480–524)の『哲学の慰め』から始めている

今日の部分では、わたしのテーマでもある「真の幸福」(beatitudo)について、哲学の女神が語っている

最高の幸福とは、それを獲得すれば、他には何も必要としない善、完全な状態であるという

そうではないのにそうだと思って追及する人がいる

その例が検討される

例えば、物が充足している状態、尊敬に値するものが手に入った状態、権力を手に入れるか、権力者とつながりを持った状態、その他に、名誉、快楽、貴族の身分、世間の人気、妻や子、身体の強壮などが出てくる

その上で、そのいずれもが最高の幸福(ベアティテュード)にはなりえないことが明かされる

この中に、過去の記憶を刺激する記述が出てきた

このやうにして王たちにとっては、必ずや [幸福より] 不幸の割合が多くなる。自らの地位の危険を体験した或る暴君は、王威にまつはる恐怖を、頭上にぶらさがつてゐる剱の恐怖になぞらへた。かくの如く、身を嚙むような不安を追い拂ひも得ず、又恐怖の刺を退けも得ないやうなものが、何の勢力であろう。(畠中尚志訳)

この件を読んだとき、このエピソードについて記事を書いたことを思い出したのだ

調べたところ、2番目のブログにその記事はあった

タイトルはそのものずばりの「« Epée de Damoclès » ダモクレスの剣」で、2009年9月27日のものであった

このような形で過去が蘇ってくるのは、いつも嬉しいものである

このエピソードの詳細は、上記リンクに当たっていただければ幸いである

その記事にあった「翳りゆく部屋」を聞きながら17年前を味わい直すことにした









2026年5月5日火曜日

サイファイ研究所ISHEの意義: Grokの見方

























先日、Grokにサイファイ研ISHEについて聞いてみた

質問は以下の2つであった

第1問: ISHEの設立目的についてどう考えますか

第2問: ISHE が人間の本質に焦点を当てる意義は何でしょうか

余り悪いことは言わず、秘かに応援しているのではないかと思わせるところのあるAIではあるが、今回もそんな印象を持った

第1問の回答は、こちらから

第2問の回答は、こちらから











2026年5月4日月曜日

『哲学の慰め』から始める

































静かな連休の朝である

雨上がりかと思ったが、小雨が降っている

気持ちも鎮まり返る

雨の雫が美しく輝いて見えたので撮ってみたが、再現されていないようだ


さて、今日もボエティウスの『哲学の慰め』から始めることにした

不幸の極みにあると考えている著者に対して、哲学の女神は語る

その核心は、幸せは外に求めるのではなく内に求めよということ

内だけが自分の支配できる世界だからだ

ストア哲学の教えを言葉を換えて延々と語っているという印象である

生き方としての哲学:より深い幸福へ』の中でも紹介した哲学であり、わたしの中にも根づいている

この哲学を実践できれば、この人生は苦しみの(少)ないものになるだろう













2026年5月2日土曜日

ボエティウスの『哲学の慰め』を思い出す

































昨日の記事の写真に、2015年10月17日のアンジェの美術館で撮影したものを用いた

それは、16世紀に第69代アンジェ司教であったジャン・オリビエの墓石の一部である

そこにはボエティウス(480–524)の『哲学の慰め』の最初の詩の一節があった
mors hominum foelix (人の死は幸いである)

ということで、今日はボエティウスの書を久しぶりに読み直すところから一日を始めることにした

苦境に立たされた時に、その状態をどのように解釈するのか

そこで重要になるのが、感情に圧倒された濁った目で見るのではなく、哲学が教える理性に支えられた澄んだ目で見ることであると、哲学の女神? が教え諭す

その教えを理解できるようになって久しいが、有用性ということを敢えて出すとすれば、このあたりが哲学の根本的な有用性と言ってよいのではないだろうか

この基本を確認した後、新たなテーマについて考えを羽ばたかせていた








2026年5月1日金曜日

年の三分の一を終えて

































今年も三分の一が過ぎたことに気づく

普段から豊かな「いまここ」にいるので、時が流れない

以前であれば多少なりとも先のことを考えたりすることもあったが、いまはそれもなくなっている

昔からの教え通り、生きる場所はここしかないという「いまここ」の感触を掴んだようだ



この4か月を振り返ってみると、具体的にいくつかのことを前に進めることができた

一つは、ISHE Pressからの2冊目となる、昨年秋に出した『生き方としての哲学:より深い幸福へ』の英語版 Philosophy as a Way of Life: Toward a Deeper Happiness を2月に上梓できたことである

もう一つは、マルセル・コンシュの『形而上学』刊行に理解を示してくれる出版社が現れ、初校の見直しを終えたことが挙げられる

こういう予想もしなかったようなことが起こるのが人生なのだろう

またこの間に、いくつかのアイディアがテーマとしてまとまりを見せるようになってきた

全くの未知数ではあるが、これからすこしずつ形が見えるようになることを願っている










2026年4月30日木曜日

「果てしない時間」から見る連休
























世の中では連休という言葉が行き来しているようだ

その気になれば、2週間以上の休みが取れるとのこと

毎日が連休の中にあるようになって久しい身にとっては、それはほとんど無に等しい時間と言えるだろう

コンシュが言う「縮小された時間」(日常を生きる人の時間)と「果てしない時間」(永遠の自然を生きる人の時間)の対比からもそう言える

コンシュによれば、人間は「縮小された時間」の中でしか生きられないという

「果てしない時間」の中では、自分が存在しないように感じられるからだ



しかし、「果てしない時間」の視点を持つことは、いろいろな意味で大切ではないだろうか

その時間を意識することにより、自らの存在を離れて見ることができる

それは哲学することの第一歩である

さらに、「果てしない時間」は「縮小された時間」を生きる人間の苦しみを和らげる効果があるとコンシュは言う

自分が存在しないように感じられるのだから、苦しみがなくなるのもよく理解できる

いずれにせよ、いろいろな視点が生きる上での知恵を与えてくれる

そのような視点は、過去の哲学者の思索の中に埋もれている








2026年4月24日金曜日

マルセル・コンシュ『形而上学』の初校見直し終える















このところ、マルセル・コンシュの『形而上学』の初校の見直しに当たっていた

想像以上に時間がかかったが、本日すべてを終えて知泉書館の編集者に送ったところである

何度も読み返していると、その都度理解が深まっていることが分かる

アドーが言う読み方をしていると、確かに著者の声が立ち上がってくる

それ以前にはなかった認識に至るのを体感するのは、やはり楽しくもあり、満ち足りたものをもたらしてくれる

いつものことだが、それでも行き届かないところがある

しばらく時間をおいて、再び見直すことになるだろう

取り敢えず、今抱えているいくつかの焦点をオーガナイズしながら、新しいテーマを探索する方向に進むことができそうである

束の間の解放感を感じている








2026年4月14日火曜日

海辺のカフェでひと休み





















昨日で春のカフェのまとめを終えたので、コンシュの翻訳の初校を見直す作業に戻ることができるようになった

まだ半分くらい残っているが、午後一段落したところで久しぶりに外に出た

先日、宣伝が目に入った海辺のカフェを覗いてみることにした

写真では再現出来ていないが、わたしの頭の中では、ポール・ヴァレリー(1871–1945)生誕の地、南仏セットの海辺のカフェにいて、ニースの海を眺めているような錯覚に陥った

セットからニースに飛んだのは、海の色がそっくりだったからだろうか

これからも忘れたころに行ってみたいものである




























2026年4月11日土曜日

第16回サイファイカフェSHE札幌、盛会のうちに終わる

























本日、春のサイファイカフェ/フォーラム最後になる第16回サイファイカフェSHE札幌が開催された

実は今回は、札幌の地でサイファカフェSHEが開かれてから丁度10年目に当たる記念すべき会であった

初回は2016年3月2日の開催だったので、アッという間の出来事であった

参加希望者がいなければ継続されていなかったことを思えば、この間に参加された皆様には感謝しかない

今日も8名の方が参加され、活発な議論が展開した

今回のテーマは、拙著『免疫から哲学としての科学へ』の最後の部分、免疫の形而上学を読むことであった

これまでの3回で科学が明らかにしたことを振り返ったが、今回はそれを基に著者が哲学の蓄積を基に再解釈した内容について検討するという趣旨であった

詳細は、近いうちに専用サイトにまとめる予定なので、訪問していただければ幸いである

それから、次回からの新企画として、参加者の中で話題提供を希望される方に発表していただくことにした

東京のサイファイフォーラムFPSSの札幌バージョンということもできるだろう

11年目に入るこの秋から、この新機軸がどのように展開していくのかを見守ることになる

SHE札幌の今後に、皆様のご理解とご協力をよろしくお願いしたい



































2026年4月6日月曜日

どちらも最終盤





















今週末に春のカフェ/フォーラムシリーズ最後になる第16回サイファイカフェSHE札幌が開催される

この1週間、何か新しい視点が得られないか考えることになる

それと並行しなければならないのがマルセル・コンシュによる『形而上学』の翻訳である

こちらもこの1~2週間が最終盤ということになりそうだ

どのようなことになるのかまだ見えていないが、納得のいくところまでやりたいものである



今日の瞑想を眠っていた別ブログにアップした

ご参考までに

  Mind Files for Philosophical Musings: わが生の形而上学化







2026年3月31日火曜日

超世俗的ということと形而上学の心
















昨日の話題にあった「超世俗的」ということに関連した考察が、その後の記事で展開されていた

わたしにとって重要なことが2つ語られているので、以下に貼り付けておきたい

 吉田秀和さんの姿勢と観察、あるいは中原中也(2017年11月1日)

1つは、空を仰ぎ、全世界を自分に呼び込むような姿勢で、その全体を捉えようとする心――これは形而上学の心と同じである

もう1つは、世の中で活躍している人たちとは違う別の世界があり、その世界を持っている人がいるということ――これはまさに「超世俗的」と重なっている

吉田秀和(1913–2012)さんは若いときにその世界を知りたいと思ったとある

この2つ、実は根のところでつながっている

再確認すべきことが、ひと昔前に記録されていたことになる







2026年3月30日月曜日

下村観山展でディオゲネスを観る

 













先日の学友との会食の後、これまでの記録を読み返してみた

そうしたところ、興味深いことが見つかった

プラトンによれば、そのものの本質は原初にあるという

真の原初ではないが、これから社会に出て歩み出す以前の学生時代は、一つの原初と捉えられないこともない

ひと昔前の会食で、友人の一人がわたしのことを「学生時代から『超世俗的』で、今も変わっていないからなぁ」というような形容をしていたという件があった

 学友といつもの談笑、あるいは目の前の鏡(2017年10月30日)

「超世俗的」という言葉はわたしの辞書になかったので、それまでそうとは意識されていなかったようである

今、改めて振り返ってみると、わたしの本質に近いところのものが学生時代にすでに表れていたと読み取ることもできる

「超世俗的」と言えば、わたしの心の師になっているシノペのディオゲネス(c. 412–323 BCE)の本質そのものとも言えるだろう

そう言えば、最初のエッセイ集の表紙も素晴らしいディオゲネスであった



















今、近代美術館で下村観山展が開かれている

下村観山(1873–1930)がディオゲネスを描いているという話を聞き、出かけることにした

会場はそれなりに混んでいた

多くのテーマがわたしの興味の外にあったので、それほど長居はしなかった

目的のディオゲネスの絵は2つあった

撮影が許されていたものが以下のディオゲネス






















撮影不可だったのが以下の絵になる




















©The Trustees of the British Museum


こちらは東洋の諦念のようなものを感じさせるのだが、、

外はすっかり春めいていた



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アパルトマンに戻り、最後に近代美術館を訪れたのはいつだったのか調べてみた

ぴったり13年前にフランス・ベーコン(1909–1992)を観に行ったのが最後であった

当時はフランスにいたので、春のカフェシリーズのために帰国した時期に当たる

 「目撃せよ。体感せよ。記憶せよ。」 フランシス・ベーコン展にて(2013年3月29日)









2026年3月25日水曜日

春の学友との会食


























つい先日顔を合わせたようでもあり、それはかなり前のことだったようにも感じるこの日、恒例の会食があった

小雨降る中でのことであった

そのためかどうかはわからないが、静かな出足となった

わたしのカフェ/フォーラムの活動に目を通したとのことで、長い間多様なテーマについて会を開いてきたことに驚いている様子であった

こちらはいわば惰性でやっているようなところもあるので気づかないが、外から急に覗いたときにはそういう感想になるのかもしれない

先日のブログでも触れたが、そう言われると、自分でもほんの少しではあるが驚くところもある

いずれにしても、参加希望される方がいる間は続けることになるだろう

このように外から見ている方がいることを知ると、気が抜けないという気持ちにもなってくる

また、いろいろなご意見を伺いたいものである


ところで、今日の会でも出ていたが、現在、マルセル・コンシュの『形而上学』の翻訳をやっている

春のカフェ/フォーラムシリーズのまとめが先週末に終わったので、今週から初校ゲラの校正を再開したところである

2つのことを並行して進めるのは苦手のようで、いつもこういうことになる

これからどのような展開を見せるのか

それは終わってみなければわからない

これもいつものことである


今日はいつもお世話になっているお店に、近著『生き方としての哲学:より深い幸福へ』を献本して帰ってきた










2026年3月23日月曜日

サイファイカフェ/フォーラム春の東京シリーズのまとめ



















1週間ほど前にサイファイカフェ/フォーラム東京シリーズが終わりました

このシリーズに参加された皆様に改めて感謝いたします

これらの会についてのまとめが終わりましたので、以下に貼り付けておきます

参照していただければ幸いです


第13回ベルクソンカフェ(2026年3月4日)

マルセル・コンシュの哲学(3)『生きることと哲学すること』を読む ①

第23回サイファイカフェSHE(2026年3月6日)

フィリップ・クリルスキー『免疫の科学論』を読む ①

第14回カフェフィロPAWL(2026年3月11日)

『生き方としての哲学:より深い幸福へ』を語り合う

第16回サイファイフォーラムFPSS(2026年3月14日)

(1) 矢倉英隆:シリーズ「科学と哲学」⑩ ポパーのプラトン批判 (2)

(2) 竹田扇:デカルトの医学論――機械論に基づいた⼈体の統⼀的理解

(3) 白石裕隆:「文(ふみ)以前」を“詩"索する、地質・文学・遺跡紀行――川端康成「東海道」を端緒として


春のシリーズ最後の企画は、以下の予定です

第16回サイファイカフェSHE 札幌

日時:2026年4月11日(土)

会場:札幌エルプラザ 特別会議室

テーマ:『免疫から哲学としての科学へ』を読む(4)免疫を形而上学化する

この本を読む最後の会となります

興味をお持ちの方の参加をお待ちしております


なお、夏のシリーズは以下の2つで、プログラムは決まり次第お知らせいたします

◉ 第17回サイファイフォーラムFPSS――2026年7月11日(土)

◉ 第24回サイファイカフェSHE――2026年7月18日(土)

こちらの会もよろしくお願いいたします







2026年3月20日金曜日

7年ぶりのお店でディネ

























本日は、パリでお世話になった方とのディネがあった

もう15年くらいのお付き合いになるのではないだろうか

場所はコロナ前に伺って以来なので、7年ぶりということになる

店長とはフランスに渡る前からのお付き合いになるので、もう20年以上は経過していると思われる

こういう数字を見ると以前は驚いたのだろうが、いまではすべてがつい最近という感じで格段の驚きはない

いずれにせよ、こういう出会いや関係がこれから味を出してくるのではないかと想像される

次は場所を変えて新たにお話を伺いたいものである













2026年3月17日火曜日

昨日の詩が呼び覚ますもの


























昨日、瞑想の途中に古いファイルを眺めている時、以下の詩が現れたので紹介した

    白雪の荒野をゆくかこれからは
       vais-je désormais 
        sur la terre sauvage
         de la neige blanche ?

これは、フランスでの生活を模索するため、2007年3月にパリを訪問した時のものである

12区のベルシー、ドメニルからモントゥロイユ、ヴァンセンヌ、サンマンデのあたりを歩き回った翌朝の5時から1時間足らずの間に一気に浮かんできた17の詩の中の一つであった

こういうことがあるのかと、当時の自分も驚いている

こういうことは、その後一度もなかった

当時、パリでのことは何も決まっていなかったので、期待と不安が背景にあったものと想像される


この詩を反芻していると、いろいろなことが想起される

「白雪の荒野」は極限の平原がイメージされており、純粋、原初、無限というような最近よく使うようになっている言葉の意味が含まれているように見える

その無限の可能性と危険性を目の前にして、不安と静かな覚悟の中、独り歩み出そうとしている作者の気持ちが伝わってくる

丁度19年前の緊張した心象風景が蘇ってくるようである

昨日目にしたファイルには以下のような五七五の詩もあり、そこに本質があるという原初を確認する時間となった


    人類の遺産と歩まんヴァンセンヌ
      avec le patrimoine spirituel
       je décide de marcher
         à Vincennes


      哲学と科学と神とパリセット
        la philosophie
          la science et Dieu
            à Paris VII


        哲学書前に昂ぶるリブレリー
          devant des livres philosophiques
            je m'exalte
             dans la librairie


          春の空住み遂せるかパリの町
            le ciel du printemps
             puis-je vivre
              pour toujours à Paris ?


            フランス語我を導き哲学へ
              la langue française
               me guide sur les chemins
                de la philosophie


              先人の形見に触れん秋(とき)近し
                le souvenir de nos ancêtres 
                 le temps de le toucher
                  est tout près









2026年3月16日月曜日

全的観想生活の驚くべき効果か?


























先週のカフェフィロPAWLで、次のような質問が出ていたことを思い出した

それは、毎回異なるテーマを取り上げてカフェ/フォーラムを何年も続けているが、いろいろな資料を読んだりしなければならないので大変ではないか、一体どうしているのかというようなことではなかったかと思う

時期ははっきりしないが、わたし自身もこれだけの量をこなしてきたことに、ぼんやりとではあるが不思議な感覚を覚えることはあった

そう思ったのは、仕事をしている時の状態を思い起こしてみて、たとえその時、仕事がなかったとしてもおそらくできなかったのではないかと想像されたからである

そこで、いろいろなことを思い出しては再構成する、わたしが言うところの「瞑想」をしたところ、思い当たることがあったので以下に記録しておきたい


一つは、2007年からもう少しで20年になろうかという間続けてきた無為の生活が関係しているのではないかということである

この間、自分の内を空にして、積極的に外に向かって働きかける(これは仕事をしている時にやっていた)のではなく、体から力を抜き、完全な受け身の状態にして外から入ってくるものや自らの内を観察し、それを只管受け入れることを続けてきた

言葉を換えれば、自らを受容体に変容させることを「積極的に」行っていたのである

わたしのフォルミュールの一つになっている "J'observe donc je suis"(我観察す、ゆえに我あり)は、このことを表していたことになるのだろう

そうすることにより、理由は分らないが、いわゆる「内的空間」が拡大し、どんなものでも受け入れるだけの耐性と(「懐」とでも言うべき)スペースが確保されていった可能性はありそうである


もう一つは、近著『生き方としての哲学:より深い幸福へ アドー、コンシュ、バディウと考える』でも触れているが、その過程で時間の捉え方が変化し、それが時とともに定着していった可能性である

具体的には、過去・現在・未来を「いまここ」に抱えながら生きているという感覚である

これはどういうことかと言えば、2007年から始まった全的観想生活の中で、「いまここ」への集中が高まり徹底されるようになってきたことと、過去の出来事が過ぎ去っていかず、そのあたり一面に広がるような捉え方になったため、その全体とともに歩んでいるという感覚が生まれていることである

過去はその辺りに散らばっているので現在として捉えられ、現在において惹起される未来への想像も「いまここ」にある

その結果、どういうことが起こるかと言えば、いわゆる過去・現在・未来のすべてが現在という一点にあるので、時が流れなくなったのである

時が流れないので、この状態は「永遠」であり、茫漠たる広野を前に立っているイメージなので「無限」にもつながっている

「無限」を前にしているイメージは、フランスに渡る前の期待と不安が入り混じった心象風景を表現した以下の俳句(とは言えないのだろうが)ともつながっているようで、自分でも驚いているところである

  白雪の荒野をゆくかこれからは
       vais-je désormais 
        sur la terre sauvage
         de la neige blanche ?

このように、「永遠」と「無限」の中に在るということが、想像を超える精神的な余裕を与えるようになっているのではないだろうか

それが過去の自分から見ると考えられないような展開を見せている根源的な理由ではないかと想像するようになっている

もしもこれが事実ならば、気づくのに20年はかかる全的観想生活の驚くべき効果ということになるのだが、、。










2026年3月14日土曜日

第16回サイファイフォーラムFPSS、盛会のうちに終わる


























本日は、春の東京シリーズ最後となる第16回サイファイフォーラムFPSSが日仏会館で開かれた

年度末のお忙しいところ、参加していただいた皆様に改めて感謝したい

今回のプログラムは以下のようになっていた

 (1) 矢倉英隆:シリーズ「科学と哲学」⑩ ポパーのプラトン批判 (2)

 (2) 竹田扇:デカルトの医学論――機械論に基づいた⼈体の統⼀的理解

 (3) 白石裕隆:「文(ふみ)以前」を“詩"索する、地質・文学・遺跡紀行――川端康成「東海道」を端緒として


まずわたしの演題だが、最後の最後まで落としどころをどこにするのか迷っていた

プラトンの哲学の中にポパーが見た危ない点は、その自然主義とヒストリシズムであった

ここで言う自然主義は、一般に考えられている哲学的自然主義とは異なっている

哲学における自然主義は、自然界に在る物質と原因だけが自然現象を説明できるとする考えで、超越的な説明を拒否する

これに対して、ポパーが言うプラトンの自然主義とは、社会制度を自然の秩序(自然の中に見られる規則性や法則など)として説明する立場のことで、社会制度を法則のように確固たるものとして固定化する可能性(ポパーの立場から言えば、危険性になるのか)がある

現代においてしばしば見られる、科学の成果をもとに人間社会の成り立ちを説明しようとする流れの中に、プラトンの自然主義と共通するものがあるように感じられるのはわたしだけだろうか

別の言い方をすれば、このやり方の源にプラトンがいるのかもしれない

プラトンのヒストリシズムの方は、国家の本質は原初にあった理想国家で、それが歴史の過程で腐敗した国家へと変容するとする考え方である

ポパーの批判は、まず、歴史に法則はないし(人間の知識と行為は時とともに変化するから)、歴史法則を信じる(歴史に必然があると考える)ことにより、問題が出てもそれは目的地に着くための過程であると捉えらえれ、個人の自由な選択を抑圧する全体主義に結びつくという理由からであった

さらに、プラトンの思想の中に個人を国家の下に置く傾向が強いことが挙げられる

ポパーによれば、全体主義の根源にはプラトンの哲学があることになる


竹田氏のデカルトの医学論についての発表は、この2月に知泉書館から翻訳が刊行されたデカルトの『⼈間論』を軸に、デカルトの医学関連の書籍を加えた文献的考察やデカルトの科学と哲学の歴史的位置づけなどについて触れるものであった

膨大な情報があったので、時間をかけてさらに検討する必要がありそうだ

白石氏の発表は、全国各地に足を運び、その環境に入ったときに浮かび上がる言葉以前の状態を哲学しようとしていた

「書斎を出て哲学せよ」ということだろうか

こちらの内容についてもゆっくりと振り返り、まとめることになるだろう


三人三様の発表であったが、それぞれの間に何らかの関係が見えてくるのか、こないのか

これから発表内容をじっくり見直し、それらが熟成し、つながりを見せてくるのを待つことになる

近いうちに、その内容は専用サイトに掲載予定である

訪問していただければ幸いである


なお、この夏のFPSSは7月11日(土)に開催することに決まりました

皆様の参加をお待ちしております



































2026年3月11日水曜日

第14回カフェフィロPAWL、無事に終わる
























本日は、第14回のカフェフィロPAWLを開催した

お集まりいただいた皆様にはいつものように御礼申し上げたい

今回のテーマは、拙著『生き方としての哲学:より深い幸福へ――アドー、コンシュ、バディウと考える』をお読みいただいた上で、それぞれのテーマを持ち寄っていただくというコンセプトであった

しかし、蓋を開けてみると、先ずわたしの方で簡単な説明をしなければならなくなった

予定していない展開になったので、第1章ピエール・アドー、第2章マルセル・コンシュ、第3章アラン・バディウの考え方のポイントをピックアップして導入とすることにした

ここでは、それぞれの思想において重要になるキーワードを列記するに留めることにしたい

まず、ピエール・アドーについては、以下のような言葉が浮かんでくる

「哲学への回心」(conversion philosophique)、「魂の鍛錬」(exercices spirituels)、「生き方としての哲学」(La philosophie comme manière de vivre)、「宇宙的意識」(conscience cosmique)、「地平融合」(ガダマーの概念)、「死の鍛錬」など

マルセル・コンシュについては、「哲学的快活さ」(alacrité philosophique:コント=スポンヴィルの言葉)、「生きられた確信」(convictions vécues)、「果てしない時間」(temps immense)と「縮小された時間」(temps rétréci)、「自然主義」(naturalisme)、「自然」(physis)、「無限」(apeiron)などが取り上げられた

アラン・バディウについては、哲学の条件としての非哲学的なもの(科学、政治、芸術、愛など)、「真の幸福」と「満足」の峻別、「真理」の復権、「出来事」、言説における「定点」の確立、ゆっくりした思考と自身の時間の支配などが指摘される

そして最後に、わたしが提唱している意識と幸福の三層構造について議論した

幸福の議論において問題があると感じるのは、何を幸福と言っているのかについての検討がないまま「幸福になるためには・・・」というようなテーマに進むことである

幸福をあたかも自明のことのように扱っている点である

詳細については、近日中に専用サイトに紹介する予定である

訪問していただければ幸いである


実は、今回の春のシリーズでは懇親会に参加できなくなった方が少なくなく、今日が初めての開催となった

参加していただいた皆様には改めて感謝したい



























この春のシリーズの出し物は、今週土曜の第16回サイファイフォーラムFPSSが最後となる

 3月14日 13:00~17:00 日仏会館 509会議室

 プログラム

  (1) 矢倉英隆:シリーズ「科学と哲学」⑩ ポパーのプラトン批判 (2)

  (2) 竹田扇:デカルトの医学論――機械論に基づいた⼈体の統⼀的理解

  (3) 白石裕隆:「文(ふみ)以前」を“詩”索する、地質・文学・遺跡紀行――
         川端康成「東海道」を端緒として

興味をお持ちの皆様の参加をお待ちしております











2026年3月6日金曜日

第23回サイファイカフェSHE、無事に終わる























今夜は、第23回サイファイカフェSHEを開催した

週末のお忙しいところ、お集まりいただいた皆様に改めて感謝したい

今回から、フィリップ・クリルスキー著『免疫の科学論』(拙訳、みすず書房、2018)を読むシリーズを始めることにした

その初回は、全6章からなる第1部「進化における生体防御」の第4章までを読み終えることができた

第1部の章構成は以下のようになっている

第1章 進化における捕食生物と獲物
第2章 系統樹の下部にある自然防御
第3章 断絶――獲得免疫
第4章 進化における獲得免疫
第5章 生物の複雑性とその進化
第6章 生体防御とロバストネス

訳したのがもう8年も前になることに驚いているが、それくらい前になるとほとんど初めて読むような感覚もあった

「ほとんど」としたのは、読み始めると訳した時の感触が戻ってくるように感じられたからである

「全く」初めての場合と明らかに違うので、どこか懐かしささえ感じるところもあった

今日までのところをざっと読んだ印象は、細かい事実が説明されることなく、それを上から見てコメントするようなスタンスなので、基礎知識がないと何の話なのかピンとこないのではないかとやや心配になるところがあった

本書では、外界からの構造的異常だけではなく、内部の機能的異常を検出して、対処する機能として生体防御を捉えている

そのために必要となる多様性を生み出すメカニズムに、ランダムな組み合わせが利用されている

元の材料は少ないが、いくつかの領域の遺伝子を恣意的にではなく、偶然に任せて組み合わせることにより膨大な多様性が生まれるというメカニズムである

本書では獲得免疫を、抗体(B細胞受容体)、T細胞受容体、主要組織適合抗原遺伝子複合体(MHC)の3つが機能する免疫として捉えており、具体的には顎口上綱以上の進化段階にある生物で見られるとしている

これは古典的な見方であるが、今でも優勢であるのかもしれない

この視点には人間中心主義的な傾向を感じたため、わたしはもう少しリラックスした見方を取った方がよいのではないかと考えてきた

前著『免疫から哲学としての科学へ』ではその考えで全編を貫いたつもりである

今回のディスカッションでは、この点も議論された

詳細については、近いうちに専用サイトに掲載する予定である

訪問していただければ幸いである

なお、春のシリーズ第3弾は来週水曜(3月11日)に開催予定の第14回カフェフィロPAWLで、会の名称通り「生き方としての哲学」(Philosophy as a Way of Life: PAWL)と幸福について論じた拙著『生き方としての哲学:より深い幸福へ』を肴に人生について語り合う予定である

皆様の参加をお待ちしております















2026年3月4日水曜日

第13回ベルクソンカフェ無事に終わる













今夜は第13回目となるベルクソンカフェを開催した

お忙しいところお集まりいただいた皆様に改めて感謝したい

今回は、マルセル・コンシュの Vivre et philosopher(『生きることと哲学すること』)という2011年の著作を読み、特に唯物論について考えることをテーマに据えた

本書はルシル・ラヴェッジというコロンビア大学パリ分校の哲学者の質問に答える形でまとめられている

同様の質問に1991年(20年前)にも答えているが、基本的なところは変わっていないという

ただ、序文でも指摘されているように、唯物論に対する考え方は変わったようである

そこで論じられていることは、以下のようなことであった


ものことの起源に精神を置く観念論、有神論、唯心論には反対するという意味で唯物論の陣営に属するが、正真正銘の唯物論者ではないと断っている

その理由として、

1)「人間は自然(ギリシア人が言う無限で永遠ですべてを包摂するピュシスの意味における)の一部である」とは言えるが、「人間は物質の一部である」とは言えない

2)すべての人間にとって根本的で普遍的な自然の経験はあるが、物質の経験はない

3)唯物論者に物質とは何かと問うと、それに答えるのは科学であるという答えが返ってくるが、その時、哲学は「科学の侍女」(ancilla scientiae)になっている

4)唯物論者は自由意志を否定しがちであるが、何らかの判断をする場合、その原因が基準であるとすれば、真なるものを基準とした判断はどうなるのだろうか――真理は原因ではないのである

5)唯物論者にとっての道徳は、社会学的、歴史的説明に属する事実であり、道徳の基礎がしっかりしていないと、各人の道徳が持ち出されることになる――コンシュにとっての道徳は人権の道徳ただ一つで、これは何人も従わなければならない――これが崩れると、独自の道徳を持ち出すナチや人種差別主義者が出現する

6)物質という概念は現実/実在の全体を支えるにはあまりにも貧しいが、自然という概念はそれができる――すべてを生み出す無限の自然は存在するすべての第一原因であり、それは取りも直さず生命である

以上のようなことを指摘して唯物論に疑問を投げかけている


これらの点を中心に、唯物論をどのように捉えるのかという問題が他の見方との比較を通して議論されていた

詳細は、専用サイトで紹介したい

訪問していただければ幸いである

なお、春のシリーズ第2弾は、金曜日のサイファイカフェSHEで、クリルスキー博士の『免疫の科学論』を読む予定である

興味をお持ちの方の参加をお待ちしております








2026年3月1日日曜日

Mind in Life を読む(8)志向性

 


















久しぶりに、Mind in Life を読むことにしたい

第2章「現象学的結びつき」の第2節「志向性」(intentionality)である

現象学によれば、意識とは何かに「向かう」あるいは何かを「意図する」という意味で、「志向的」である

これは何かをしようとする時に目的を持つというような意味合いではない

もちろん、それも志向性の一部ではあるのだが、、

「志向性」とは、それ自身を超えて指し示すという意識特有の現象に対する言葉である

語源的には、「弓を弾く」あるいは「標的を狙う」という意味のラテン語 intendere に由来する

狭義には、対象に向かうものとしての志向性を指すが、広義には、世界に開かれていること、あるいは他者であること=他者性(alterity)を意味する

いずれの場合も、意識が自己に閉じていることを否定している


「対象に向かう」における対象とは、元々は我々の前にあるものという意味である

自身を超えたところにあるものを意識することが、狭義の志向性で、対象となるものは身の回りにあるものでも、過去の出来事でも、未来のことでも、あるいは存在しないものについてでもよい

日常に感じる感情や感覚、気分のようなものは対象に向かう志向性とはなりえない

ただ、その感情や気分が世界に開かれている場合には――例えば共感など――広義の志向性に入るものがある


現象学において、志向的経験は心的行為(mental acts)と記述される

その行為は内省など内的に閉じているものではない

また、主体と対象とが分れているのではなく、関係性の中にある

志向性は、相関関係にある(correlational)――主体の行為と対象とを一体として捉えられる――と言われる

フッサール(1859-1938)の現象学では、対象に当たるものをノエマ(noema)、対象に向かう心的行為をノエシス(noesis)と呼ぶ


ここで、現象学が言う志向性と、心の哲学が言う「心的表象」(mental representation)の関係を見ておきたい

心的表象とは、意味の性質(内容、真理の条件など)を伴う心的構造(概念、思想、映像など)のことで、通常、認知の対象ではなく、それによって認知したり、世界における何かを認識するものを指す

両者の違いは以下の点でも見られる

現象学における志向性の経験は、内容を持った状態ではなく、方向性を持つ行為であること

現象学における re-presentation は、今は存在していないものを心的に呼び覚ますという心的行為に限られること

このように、現象学においては、感覚による受容を示す presentation と re-presentation は明確に区別される









2026年2月25日水曜日

旧研究所メンバーとの会食を愉しむ















今日は旧研究所のメンバーとの会食に出かけた

初めて顔を合わせてから長い人でもう30年以上も経過しているという

その間に皆さんいろいろなことがあったようである

もう還暦だという方が2名おられた

当時のお姿からは想像できない

残念ながら、物理的な時の流れは止められない

しかし、拙著『生き方としての哲学:より深い幸福へ――アドー、コンシュ、バディウと考える』でも指摘したように、時間の捉え方が変わると時は流れなくなるのである

それはそのまま幸福へとつながるのではないかというアイディアがわたしの幸福論の一部を構成している


まだ現役で大学などで仕事をしている方の話を聞きながら、大学はもはや「真理の探究の場」ではないのではないかという考えが浮かんでいた

現場では「真理の探究」などと言う言葉も浮いて響いている可能性さえあるのではないか

それより前に厳しい現実をいかに乗り切るのかという課題に頭が使われているようである

そうだとすれば、束縛のない自由な環境で仕事ができる在野の研究者の方が「真理の探究」には向いているのではないか

そんな気もしてくる

いずれにせよ、皆さんお元気で活躍されているようで何よりである

またの機会を楽しみに待つことにしたい


ところで、今日はうっかりして1時間早く着いてしまったので、何年か振りに思い出横丁で下地を作ってから会場に向かうというおまけ付きであった

それもまたよし

間違いは創造の母であった
























2026年2月22日日曜日

Philosophy as a Way of Life: Toward a Deeper Happiness 刊行のお知らせ
































昨年11月に刊行した『生き方としての哲学:より深い幸福へ――アドー、コンシュ、バディウと考える』(ISHE出版)の英語版を上梓することができたのでお知らせします

We live in an age saturated with information, speed, and easy answers—yet many of us feel that something essential is slipping away. Philosophy as a Way of Life invites readers to rediscover philosophy not as an abstract discipline, but as a practice rooted in how we live, think, and change. Through engaging reflections on Pierre Hadot, Marcel Conche, and Alain Badiou, Hidetaka Yakura introduces the idea of a “Third Layer of Consciousness”: a space beyond daily routines and professional roles, where thinking slows down and deeper insight becomes possible. At a time when artificial intelligence increasingly guides our choices and shapes our attention, this book offers a timely reminder of what cannot be automated: reflection, dialogue, and the capacity to be transformed by experience. Arguing that real happiness lies neither in comfort nor consumption, Yakura shows that a meaningful life emerges from fidelity to one’s “lived convictions”—and to the moments that quietly, yet decisively, change who we are.

日本語版にさらに手を加えたところもあり、改めて読み返すと、かなり違った印象を受け、新鮮に感じられます

ベルクソンカフェのエッセンスをまとめた後に、わたし自身の現時点における幸福についての考え方を提示しております

100ページ程度の短い本ですので、お手に取ってお読みいただければ幸いです

よろしくお願いいたします











2026年2月18日水曜日

リマインダー: 春のカフェ/フォーラムのお知らせ


























サイファイカフェ/フォーラム・春のシリーズが近づいてまいりました

以下の日程で開催する予定です

皆様の参加をお待ちしております

よろしくお願いいたします





◉ 第13回ベルクソンカフェ

2026年3月4日(水)18:00~20:30 恵比寿カルフール B会議室

マルセル・コンシュの哲学(3)『生きることと哲学することを読む ①

マルセル・コンシュの唯物論に対する立場を通して、唯物論的世界観について考えます



◉ 第23回サイファイカフェSHE

2026年3月6日(金)18:00~20:30 恵比寿カルフール B会議室

フィリップ・クリルスキー『免疫の科学論』を読む ①

進化の視点から免疫を見る第1部を読む予定です
リンパ球の出現を獲得免疫の出現とする見方を取り、生体防御にとって重要になるロバストネスとモジュールという概念が紹介されます



◉ 第14回カフェフィロPAWL

2026年3月11日(水)18:00~20:30 恵比寿カルフール B会議室


3人の現代フランスの哲学者の思想を辿ることにより、われわれの生き方を再検討するような意見交換ができることを願っています



◉ 第16回サイファイフォーラムFPSS

2026年3月14日(土)13:00~17:00 日仏会館 509会議室

(1) 矢倉英隆:シリーズ「科学と哲学」⑩ ポパーのプラトン批判 (2)

(2) 竹田 扇:デカルトの医学論――機械論に基づいた⼈体の統⼀的理解

(3) 白石裕隆:「文(ふみ)以前」を“詩"索する、地質・文学・遺跡紀行――川端康成「東海道」を端緒として



◉ 第16回サイファイカフェSHE 札幌

2026年4月11日(土)14:30~17:00 札幌エルプラザ4F 特別会議室

免疫から哲学としての科学へ』を読む(4)免疫を形而上学化する

これまで見てきた免疫に関する科学的知見をもとに展開される、哲学的概念を導入して免疫の本質に至る試みについて議論する予定です

















2026年2月12日木曜日

Mind in Life を読む(7)構えとしての現象学

































今日は、第2章の第1節「構えとしての現象学」を読むことにしたい

現象学がどのような方法論を用いているのか、どのように実践されるのかについてのお話のようである

早速中に入りたい

日常生活において、専門家としてであれ、家族や仲間といるときであれ、われわれはその状況にただ身を晒している

フッサール(1859-1938)はこれを「自然的態度」と呼び、世界に対する反省のない向き合い方であるとしている

これに対して「現象学的態度」と呼ばれるものは、自然的態度から少し身を引き、その経験を見直そうとする

その際、判断を一旦保留して括弧に入れ(エポケー)、独断的にならずに自然的態度で経験した(われわれに現われた)ことを探究することになる

この過程は、哲学的には「現象学的還元」と呼ばれる

反省のない状態で世界にいる思考を否定するのではなくそのまま保持しながら、それがどのように受容され、経験されたのかに興味をシフトさせるのである

これなどは、前にある壁だけを見ていた人間の視界を、後ろの開けた(真理があるだろう)世界へと向きを変えるプラトンのやり方にも通じる

これは、哲学を通底する考え方なのかもしれない

現象学的還元は、心理学でいう「メタ認知」に導くとも言えそうである

第1段階でエポケーがあり、第2段階では現象学的心理学から超越的心理学への移行が起こるという

第2段階では、何があるかではなく、どのようにあるのか、その意味が問われる

そこには意識の志向性がある

「超越的」とは、われわれの経験の根源にまで至る構えを含意する言葉だとしている


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現象学的還元、エポケーなどを含む現象学の方法論を読みながら、フランスに渡る前にフランス人哲学者からいただいた言葉が浮かんでいた

わたしの拙いフランス語で書かれたブログをすべて読んだ感想として、端的に言えば、わたしはフッサールやハイデガーを愛するために生まれてきたという言葉が書かれていた

その意味は長い間よくわからなかったが、今回の説明を読むと重層的な意味を持っていたことが見えてくる

まず、2005年からブログを始めたが、これは意識を目の前のものを摑まえるだけでなく、少し下がってそれを別の角度から眺めようという心の動き(志向性あるいはその変化)の結果であった

ある意味、現象学的還元であり、エポケーにつながる動きである

2005年あるいはそれに先立つ数年は、意識の向かう方向に大きな転換が起こった時期に当たる

後に「意識と幸福の三層構造理論」を提唱しているが、その第1・2層から第3層への移行もまた、現象学的な変容と重なるところがある

こうして振り返ると、ここに至る芽は20年前にすでに出ていて、それを専門家は見抜いていたということになる

つまり、「意識と幸福の三層構造理論」に至る道は必然であったように見えるのである

それは同時に、この20年余りの間、全く意識することなく現象学を生きてきたことを意味している

「まず生きよ、それから哲学せよ」(primum vivere deinde philosophari)の結果辿り着いた驚くべき発見の朝である