ラベル ジョージ・バークリー の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル ジョージ・バークリー の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2026年1月13日火曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(28)
































本日は、3-3-2「バークリーにおける自然の質的経験」を読みたい

バークリー(1685-1753)の説ほど科学的客観性のドグマを激しく攻撃するものはないだろう

ジョン・ロック(1632-1704)の概念に、存在するそのものが持つ客観的な性質(延長や運動など)を示す第一性質と、感覚が作用する主観的な性質である第二性質がある

この第一性質と第二性質を同一だとすれば、物理的世界の骨組みはすべて抽象的観念に還元されることになる

この場合、自然を分析・操作する上では何の問題も生じないが、自然の中に実在的な根拠がなくなる

バークリー自身、この立場が招くであろう批判を自覚していた

彼の『人知原理論』(1710)には、こう書かれてある
第一に、先の原理に従えば、自然の中に実在する実体的なすべてのものは世界から追放され、 その場に諸観念の架空の体系が建っている、と言って人は私に反論するであろう。存在するすべての事物は、ただ知性の中にだけ存在する。すなわち、それらはたんに想像的なものにすぎない。太陽や月や星は一体何になるのか? 家、河、山、木、石をどう考えるのか、それどころか、われわれ自身の身体そのものをどう考えたらよいのか?
先の原理は、諸事物が絶えず無化され、ついで再び創造されるということを含意していると反論するであろう。感官の対象は、人がそれを知覚するときにのみ存在する。それゆえ木は庭にあり、椅子はサロンにあるが、それは誰かがそれらを知覚するためにそこにいるときなのである。私は眼を閉じる、すると部屋の中のすべての家具は無に帰化する。それらを蘇らせるためには私が眼を開けるだけで十分である。

バークリーによれば、私が眼を閉じるとき、諸事物は引き続き存在することができるが、それは別の知性の内になければならない

これは、フッサール(1859-1938)の言う思考するモナドの「相互主観性」の立場から理解可能になるだろう

すなわち、他者を自分と同じように世界を経験する主体(モナド)として認め、わたしというモナドが知覚を止めても、他のモナドからなる共同体が世界を経験、維持していると考えるからである


バークリーは、「自然物は存在する」と言う

この自然物とは物理的な存在ではなく、神という至高の知性によって、一貫性のあるルール(自然法則)に従って提示される観念の集まりのことである

彼はこう言っている
あらゆる結果を直接に、命令一下、つまり意志の働きによって生み出すのが精神であれば、すべての技巧的なものは無用になる。観念に属する諸器官は、いかなる能力も活動性も所有しておらず、それらに割り当てられる結果と必然的に結びついてはいない。例えば、懐中時計の歯車装置を細工する時計工にそれが見られるのだが、そういうことはすべて、針を差し向け針に時を告げさせるのが至上の知性であると言ってしまえば空しくなる。空しい細工師は、なぜそれをも問題にしないのだろう。
ここで「観念に属する諸器官」と言っているのは、物理的なものではなく、経験から生まれた観念の集合のことで、それが機能したとしてもそこで現われるものとはつながっていない

彼はこうも言っている
諸観念の結合は、原因と結果の関係でなく、徴表や記号と意味された事物との関係だけを含意している。私が見る火は、近づけば被る苦痛の原因ではない。その火は、私にその苦痛を予告する徴表なのである。同じように私が聞く騒音は、これこれの運動の結果とか、周囲の諸物体の衝撃の結果ではない。それはそういうものの徴表なのである。

物理学者に対するバークリーの挑戦はここで終わる

 

意識が自然の質的・感覚的現前と交流すると、眼は世界に開かれる

思考はもはや空間を測ったり、質量や力に専念したりしなくなり、説明を要しない一連の意味作用全体を背負うことになる

自然はもはや感覚を生産する機械や動いている物体を収める容器ではなくなる

自然はそれが交流する精神に対して、本能的に利用するすべを知っている記号の読解のための手段をその都度与えながら、精神を教育する以外に運命を持っていないのである













2026年1月10日土曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(26)

































客観性、有効性、先行性などにおいて優位性を示す科学は、裁断と抽象という方法を用いなければならない

これは「知性」の作用によるが、科学はこの性質ゆえに哲学的直観にその優位性を明け渡すことになる

哲学的直観は、個別性、主観性を超えて自然の全体に広がる

なぜなら、意識は自己を外化することを止める時、自分自身に向き合うことになり、そうすることにより自分を超えた多くのものとの接触が始まるからだという

ベルクソン(1859-1941)はこう言っている
世界を満たしている物質と生命は我々の内でも同じである。すべての事物に働きかける諸力を、我々は自身の内に感じ、つくられるものとみずからつくるものとの内的本質がいかなるものであろうとも、我々は現にその諸力である。


こうして、主観性と客観性の道の他に、第三の道が現れる 

その道は、客観性の姿が内省によって間接化された時、すでにシェリング(1775-1854)がやったような形で開けているのである

これはどういう意味だろうか

外から観察して裁断する科学でも、内から主観的な世界を見るのでもなく、われわれの中にある世界を形成する力そのものを経験すること

客観的な世界をわれわれの生の経験として捉えなおすことが内省による間接化で、シェリングの「自然は目に見える精神である」という認識につながり、それが第三の道になるということなのだろうか


ベルクソンによれば、世界についての科学的研究は、文章についての文法的研究に相当しているという

バークリー(1685-1753)は科学者を「自然の文法家」と呼んでいるので、ベルクソンとの親近性がある

一方、哲学的直観についてベルクソンは、文学的霊感に譬えることができるとしている

哲学的行為は、単語と構文の複雑さを通して叙述の単純さを把握するのに似て、出来事と事物との縺れに与えられる包括的な意味の把握になる

ベルクソンにおいて、直観を科学によって運ばれる素材と結びつけるものとされる「精神的共感」に関しては、留保が必要である

直観はしばしば客観的認識の所与に反することがある

科学的断定に対して、直観は「不可能だ!」と囁く

そう言えるということは、ここで言われる自然の哲学が主観主義ではないという証左である

ここのところはどう理解すればよいのだろうか

ベルクソンの直観は、対象の内側に入り込み、対象が持つ言葉にできない生きた秩序と一体になる(対象の声を聴く)作業である

その上で、科学が出してくる断定に対してNONと言う

それは、個人的な好みや意見から出てくるのではなく、自然との直接的な接触を経験したという確かな手応えから生まれている

そのため主観主義とは言えないと結論することになるのだろうか


第三の道としての自然の哲学をこのように解釈すると、科学の形而上学化(MOS)と重なるところが多く、MOSをさらに深化させるためには直観という方法についてもう少し真剣に考察すべきではないかという思いが湧いてくる











2026年1月4日日曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(23)
































新しい年を迎え、年を越してしまったアンバシェを読み始めることにしたい

今日は 3-2-2「自然の哲学と観念論の精神の違い」のつづきから

「自然の体系が同時にわれわれの精神の体系でもある」と考えたシェリング(1775-1854)の哲学を掘り下げるためには、2つの考え方を理解する必要があるという


1つは、すべての近代の哲学は観念論に捧げられていることである

彼はフィヒテ(1762-1814)を通してカント(1724-1804)の超越論的観念論へ、さらにカントを超えてデカルト(1596-1650)とバークリー(1685-1753)の唯心論に結びつく

シェリングはこう言っている
認識者を存在から分離することはほとんど不可能であるから、この企てはむしろ不可避的に認識者自身以外のすべてのものに存在を拒むことになり・・・至る所認識者、精神的なものしか存在せず、精神的でないすべてのものは精神の表象の内にしか存在しないと断言することになる。・・・それはまた、デカルトのすぐ後でマルブランシュ(1638-1715)が、それからやや遅れて、神と物質的身体の表象が生み出すときの有限な精神との外には何も存在しないとしたバークリーが到達した結論である。

これをどのように解釈すればよいのだろうか

近代における、特にデカルト以降の認識論において、認識する主体と認識される客体が分けられるようになる

認識と存在が分離されることになるが、そこで確実なのは認識する側にあるとされる

しかし、そのような分離はできないとシェリングは考えているようである

認識主体は存在しており、認識される側の存在が怪しくなる

外界に存在するものは、精神の中に表象されるものとしてしか存在できなくなる

その結果、実際にマルブランシュは、我々が知覚するのはものそのものではなく、神のうちにある観念として認識すると考えた

またバークリーは、esse est percipi (存在するとは、知覚されることである)という有名な言葉にもあるように、存在するのは神と有限な精神とそこにおける表象だけで、物質的自然は存在しないと考えることになる

しかしシェリングは、この考えに満足していたわけではない


そこで、もう1つの考えを検討する必要が出てくる

彼は、認識主体に先行するものとして自然を見ており、アリストテレス(384-322 BC)の実在論に向かうのである

シェリングは、アリストテレス同様、全体と部分ができる組織化の場合には概念(一つにまとめる原理のようなもの)が存在すると考える

しかし、概念が自然の組織化と縁を切らないままそこに住みついていることをアリストテレスは見ていないとして批判する

これはどういうことだろうか

アリストテレスは、自然物において全体が部分に先行し、目的論的に組織化されているという概念構造は認めていた

しかし、その概念は知性による認識によって把握されるもので、自然が自ら生み出すものとは考えなかった

シェリングは、自然というものは自らが組織化し、概念へと向かう自己生成の特徴を捉えていた

換言すれば、自然が最初から概念を宿しているのではなく、自らが組織化によって概念になっていくと考えたのである

自然と精神とが結びついてくる

したがって、超越的存在から与えられた作品として考察するやいなや、自然の観念はことごとく破壊されることになる










2025年12月30日火曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(22)
































一昨日に続く第3章、第1節では、数学的物理学に対するジョージ・バークリー(1685-1753)とヘーゲル(1770-1831)の批判について分析される

そして、第2節では「自然の哲学は反形而上学的思想である」ことが論じられる

形而上学的知は、アプリオリで超越的な知であることを願い、経験の宇宙と諸科学から解き放たれた知を願う

これは自然の哲学とは相容れない性質である

自然の哲学の精神は、形而上学的哲学や観念論的哲学、さらに主観主義的哲学の精神とも混同されてはならないのである


まず、第3章、第2節、第1項で論じられる「自然の哲学の精神と形而上学の精神の違い」について確認しておこう

その証人として、バークリーを出してくる

感覚的世界を蔑むところがあるプラトン的形而上学とは異なり、バークリーはこう語っている
私は自分の感覚を信じ、諸事物を見出すように放置しておくだけの単純な、ごくありふれたタイプの人間です。私の意見を率直に申し上げれば、実在的事物というのは私が感覚によって見、触れ、知覚する事物そのものです。
自然の呈示は物理学的世界の呈示とも形而上学的宇宙の呈示とも同一ではない

したがって、物理学と形而上学から取り残された場所を占めることができるのが、自然の哲学である


次に、3-2-2では「自然の哲学と観念論の精神の違い」が論じられ、証人としてシェリング(1775-1854)が登場する

自然の哲学は、感覚と経験の世界と結びついている

シェリングによれば、「あらゆる哲学は観念論であり、またそれにとどまる」という

自然の哲学は観念論であるという批判に応じることができるだろうか

超越論的哲学のような観念論的体系と自然の哲学との間には、全く精神の共通性がないとアンバシェは言う

シェリングから見れば、後のフッサール(1859-1938)がそうであったように、初め人間は世界の現前に独占された「自然的」と言われる状態で生きている

そして、外部世界に自己を対立させるとき初めて、人間は哲学へ向けて第一歩を踏み出す

ただ、内省の出現によって起こる外部世界との乖離は、人間を非活動的にするので、内省を手段に留め、目的にしてはならないとする

この点において、シェリングの思想は精神の哲学よりは自然の哲学に向かっているのが見える

自然を精神の支配下に置くのではなく、その逆になっているように見えるからである

彼は「自然の体系が同時に我々の精神の体系でもある」ような哲学を目指した

(この項つづく)









2025年12月27日土曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(20)
































今日から第3章「近代における自然の哲学の諸特徴」に入る

近代の科学者が「自然哲学」という言葉を聞くと困惑を覚えるが、同様のことはこの領域の哲学者にも見られるという

ただし、ドイツロマン主義者だけはその内容を熟知していたようである

例えば、シェリング(1775-1854)は、この学問に多くの試論を書いている

ショーペンハウアー(1788-1860)の『意志と表象としての世界』もまた、生きようとする意志の宇宙的経験があらゆるものことの源泉として現れるという意味において、自然の哲学を構成している

ヘーゲル(1770-1831)においては、『哲学的諸学のエンチクロペディー』の中で、論理学と精神哲学の間に自然哲学が並んでいる

さらに、ライプニッツ(1646-1716)も科学者の機械論に立ち向かう自然哲学を書いているので、自然の哲学者の一人になる

彼はこう書いている
私は現代人に理ありとすることにかけてはいささかもやぶさかではないが、私の見るかぎり、彼らはあまりにも遠くへ改革をおしすすめたために、自然の尊厳について十分に偉大な観念をもたなかった」

ジョージ・バークリー(1685-1753)も、数学者と物理学者の抽象的な合理主義に対して敵意を隠さず、 知覚の感覚的・直観的所与を自然の本当の言葉を生むべきものと解釈している

ベルクソン(1859-1941)は、当時けなされていた「自然の哲学」の代わりに「形而上学」という言葉を使っているが、本当の方向性は「自然の哲学」にあったとされている

これらの学説が近代の自然の哲学を構成するものとして、その特徴を探究するのが本章の目的のようである